Japan Graffiti sakai1574 その5

hidesun(英寸)

2011年05月06日 21:32



撮影場所 堺SIM

● 西側海岸 新町遊郭 雪乃屋さん周辺


【 Japan Graffiti sakai1574の時代背景 】
戦国時代の武将は大半がこの下克上によって大名となったりしたりした、まさに波乱万丈の時代であります。またその反面戦国時代は日本のルネッサンスともいわれています。
それは中世的貧困と因習の中に沈潜していた日本が諸侯の戦やキリスト教の伝来などを通じて活発に動きはじめたのもこの時期であります。

1543年、種子島に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人が鉄砲を所持していた。これを購入した種子島時尭は、研究を重ねついにその複製に成功する。 この結果、戦場では鉄砲という新兵器の火器がまたたく間に導入され、天下統一の戦いを大きく左右することとなります。
またザビエルが、キリスト教宣教師として初めて日本の土を踏んだのは、1549年8月15日のことでした。
鉄砲が伝えられてから、わずか6年後のことであります。彼の2年あまりの日本滞在の間に、ザビエルは薩摩(鹿児島県)、平戸(長崎県)、周防山口(山口県)、堺(大阪府)、京都、豊後(大分県)を訪れ、各地で活発な布教活動を行いました。
鉄砲伝来に続く、ザビエル来日とキリスト教の伝来は、日本人の信仰のみならず生活文化や芸術の分野において無視できない大きな影響を与えました。また極東への宣教師たちの派遣は、西欧の国々にも、それまでとは異なった新たな文化の出会いをもたらしました。
鉄砲伝来から僅か数十年(戦国末期から朝鮮出兵前後)で、日本は世界有数の鉄砲保有国(おそらく当時では世界一)となりました。  また同時に戦国時代から安土桃山時代と続く16世紀は日本民族が自ら持てる力が最大限に発揮できた時代でもあり西洋のルネッサンスに勝るとも劣らない能楽や茶道、華道など華やかな芸術の開花もあり、また同時に一向一揆(浄土真宗の信者が中心となって起こした一揆で15世紀の半ばに始まり各地の戦国大名を苦しめた。)やキリスト教の普及などによる精神の解放と民族的活力が高まった時代でありました。

ヨーロッパ諸国が大航海時代にあってアフリカや新大陸を求めてその勢力を拡大し資源の収奪や異文明の破壊などが頻繁に起こっていた時代にあって、日本が独立を保って来られたたのは様々な要因があります。一説によると当時のイエズス会の宣教師が本国に日本の事情について報告していた日記に記されている内容には、日本での鉄砲普及に見る技術力の高さ、それをさらに一斉射撃など戦術にすぐに応用していく知恵が驚嘆すべき事実として記録されていたそうです。 この鉄砲製造にみられる熟練度の高さや製造能力は他国に見られない日本人の特性であり、さすがの宣教師もこの時点で日本を征服するには困難との認識をもっていたのでしょう。

またこの時期には尾張長島や北陸各地で起こった一向一揆は浄土真宗の護法により僧侶が先頭に立って行われた聖戦でありました。その後1571年の比叡山の焼き討ち、1575年に石山本願寺(現在の大阪城本丸跡)との最終攻防戦へと続きました。 また一向一揆は信長が利用しようとしたキリスト教の普及を阻止した一種の宗教戦争でもありました。もし明智光秀が信長を撃たなかったら,信長は1569年にフロイスと謁見して京都在住を許すなど、キリスト教を是認していましたので、その後のキリスト教の普及が日本の文化様式や習俗を変えてさらに西欧の侵略者による植民地化が促進され、極端な話ですが、今ごろは日本人の名前もペテロやカルロスなどになり日本語も消えていたかも知れません。

幸いその後天下を取った秀吉は、その宗教のもつ危険性を認識しており、「バテレン禁止令」を出しました。後の徳川政権もこの政策を引き継ぎました。今風に言えば専守防衛政策であり、外へは出ないで、国内の平和を守るという選択です。そして、諸外国との交易も完全に閉ざしてしまうのではなく、長崎の出島でオランダ、中国に限定した交易を許し、鎖国政策を進めました。

● 両替屋さんの右側竹林の小道


● よろず屋金ちゃんお店入り口



【 Milky House新作 「夜会」 】

 MilkyHouse 本店 

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 座天舞 (和楽器奏舞) 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月