織田信長

hidesun(英寸)

2011年11月19日 20:05


織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名



織田信長の幼少期
1534年尾張国(現在の愛知県)に産まれた織田信長は 幼児期から青年期にかけ奇矯な行動が多く「うつけ者」(ばか者)と 人々に噂されていた。身分にこだわらず、平民とも遊んだとされている。

織田信長の台頭
1560年駿河(現在の静岡県)などを 支配する今川義元を桶狭間の戦いで破りしだいにその頭角をあらわしていく。
織田信長は隣の三河の松平元康(のちの徳川家康)と手を組み、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に墨俣(すのまた)の地に城を建てさせ、2国に接している美濃に攻め入った。
これにより1567年美濃を制圧し1568年足利義昭を奉じ、京都へ上り全国統一に乗り出した。
これを機に天下布武を宣言し、琵琶湖湖畔の安土に安土城を築き、楽市・楽座令をだし市座の特権を廃止した。
城下ではだれでも税を払わなくても商売ができるようになった。また、流通の妨げとなっていた各地の関所を撤廃。このように織田信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた。

それがうつけ者と言われる所以だったのだろうか。



長篠の戦い
当時、最強と言われていた甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を織田信長は3000丁もの鉄砲と西洋のよろいで迎え撃った。これを長篠の戦いという。このように織田信長は西洋から来る新しいもの・珍しいものを進んで取り入れたことでも知られている。

革新的
織田信長は権威や常識にとらわれず、新しい試みを次々と試した。家柄などにとらわれず、農民などでも有能な人材を家臣として使った。羽柴藤吉郎(のちの豊臣秀吉)もその中の1人である。また、明智光秀はもと足利義昭に仕えていた家臣であった。
政策も今までのものを打破するようなものが多く、天下布武 ・仏教弾圧 ・楽市令などがその例である。

南蛮貿易
新しいものに興味のあった織田信長は南蛮貿易を盛んに行った。ワインを楽しんだという話もある。時には南蛮人が連れてきた黒人の肌が本当に黒いのか確かめるために体を洗わせたという話もある。長篠の戦いでは貿易によって手に入れた鉄砲と西洋の鎧を有効に利用し勝利している。



織田信長の仏教弾圧
当時、僧侶の横暴がひどく、一向一揆が盛んに起こっていた。宗教に対し否定的だったわけではなかったが織田信長の仏教に対する弾圧はすさまじく、比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えをもとに、武装し抵抗する一向一揆を徹底的に抑えた。
顕如(本願寺第11世)率いる石川本願寺とは11年もの間、戦い、退去させ全山を焼き尽くした。また、仏教勢力に対抗させるためキリスト教を優遇した。
しかし、その一方では安土城の天守閣の天井や壁画には儒教・仏教・道教をテーマにした絵画が描かれていた。さらに、延暦寺や浄土真宗の活動は禁止していなかった。このことより、宗教を否定するのではなく天下布武政策 のひとつとして 政教分離を図り、武家に権力を持たせようとしたものであると考えられている。



織田信長と本能寺の変
1582年6月、中国の毛利氏を打つ準備をしているさなか、織田信長の家臣である明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で織田信長が自害した。あと一歩のところで天下統一を達成できなかった。
諸説はあるが一般的な解釈として明智光秀が 重職に登用されない不満を主君へ抱き、織田信長が小姓らのみで本能寺へ滞在している事を知っていた明智光秀が豊臣秀吉援護のために集結された1万3000 人の兵士を連れ襲い織田信長を自害に追い込んだ。秀吉援護に集められた兵士を前にし「敵は本能寺にあり」と宣言したことも有名なくだり。
なぜ明智光秀が主君織田信長に反旗を翻したのか?その理由は明らかになっていないが、一般的には信長による虐めが原因との説がある。また、仏教弾圧など、急進的な日本社会の改革に対する反動とも言われている。その真相は明らかでない。

明智光秀は美濃(岐阜県)の守護だった土岐氏の一族と、言われている。本能寺の変の数日前の連歌会で「時は今、天が下しる 五月(さつき)かな」と詠んだ。これは「時」に「土岐をかけ」、土岐氏である自分が天下をとることを決意したものとされている。なお、明智光秀は本能寺の変のわずか11日後、豊臣秀吉によって返り討ちされている。



織田信長の名言

死のうは一定、 しのび草には何をしよぞ、 一定かたりをこすよの
尾張に住む、天沢(てんたく)という天台宗の高僧が、武田信玄と面会した時の事。天沢は信玄に信長の趣味を聞かれ、舞と小唄と答えました。更にそれはどのようなものかと聞かれ、この小唄を答えたそうです。ちなみに信玄は天沢に信長の真似をさせてうたわせたといいます。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
幸若舞の「敦盛」の一節です。「桶狭間の戦い」の出陣前に舞ったと『信長公記』にあります。また、上記の天沢と信玄のエピソードでも出てきています(舞の方)。
「 人間界の五十年は天界では一昼夜程の長さでしかなく、まさに夢や幻のようだ。この世に生まれ、滅びぬものなどいない。 」

戦国