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2011年12月04日

上杉謙信

「毘沙門天の化身」、「越後の龍」などのカッコイイ異名を持ち、義侠に富んだ数々の逸話を残しつつ、戦国時代の最強武将としても名高い稀代の名将「上杉謙信」。「越後(現在の新潟県)」の上杉家は、そんな上杉謙信が治めた国です。


元々の上杉家は、かなり複雑で紛らわしい家柄です。
上杉家は室町時代の名家ではありましたが、実は 上杉謙信 の 「上杉家」 は元々は 「長尾家」 という家柄で、この 長尾家 は 上杉家 よりも下であり、それほどの家柄ではありませんでした。しかし、本流の 上杉家 が戦国時代に没落して行ったため、上杉謙信の 長尾家 が、その家を継ぐ事になります。ですが、この時代の越後の周辺には他にも同じ 「上杉家」 「長尾家」 という名前の勢力が複数存在していたため、どれがどれやら紛らわしい事この上ないです。まあ、「上杉謙信の上杉家」 以外の勢力は 「信長の野望 Online」 には登場しませんし、戦国大名としてもマイナーですけどね。
さて、上記で述べたように、元々は上杉家は 「長尾家」 という名前で、上杉謙信 も元は「長尾景虎」という名前でした。しかし彼は実は長男ではなく、長尾家を継ぐような立場ではなかったので、幼い頃はお寺に奉公に出されていました。そこで景虎は、禅や仏の修行を7年も続け、そのまま僧侶になる予定だったのですが・・・。
元々越後では内乱が発生し続けており、長尾家の殿様だった景虎の兄はそれを鎮圧することが出来ず、配下にも謀反(反乱)を起こされまくっていたため、景虎(謙信)はお寺から引っ張り出されます。そして景虎は初陣で大活躍、さらにその後も反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、そのまま兄は隠居して、景虎は代わりの当主に推薦されて「長尾家」の家督を相続する事になります。



景虎(謙信)には元々戦争の才能があったらしく、その後も続いた国内の反乱を次々と鎮圧、越後を平定した頃にはその名は周辺諸国にとどろいていました。
そんな頃、隣の「信濃(長野県の辺り)」から 「村上義清」 という人が尋ねてきます。話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて~」 と言います。信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。しかし・・・ 元々景虎は僧侶になるはずだった人。相次ぐ反乱と家臣の対立、それを鎮圧する戦いの繰り返し、そして 武田家 など近隣諸国との戦いに嫌気が差したのか・・・。
突然、「もー大将やめる!!」 と言い出してムリヤリ出家しようとし、仏教の総本山 「高野山」 に1人で行ってしまい、長尾家は大パニックに!結局この騒ぎは家臣たちが協力し、「もう反乱しません」とかの約束状を書いたりして景虎を押し止め、なんとか収束しましたが・・・これには、長年お寺で仏の修行をしていた景虎の、心の葛藤が見え隠れします。
ただ、この一件以降、長尾家内での反乱はなりを潜めたと言われています。



一方、武田家との戦いも続き、ついに 1561 年、武田家と上杉家が激しくぶつかった 「第4回 川中島の戦い」 が起ります。
両軍が正面からぶつかり、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちも行われたと言う戦国時代でも最も有名な大規模合戦です。
この戦いの模様は 「武田家」 のページで詳しく書いていますので、そちらを見てください。
加えて、領内では 「一向一揆」 という僧侶と農民の結託した一揆も起るようになり、これの鎮圧にも謙信は奔走します。
この頃の上杉家は外も内も敵だらけ、謙信はまさに四六時中戦っているような状態で、それが謙信の戦国最強伝説にも繋がりました。しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。
しかし 1573 年、武田信玄 が病没すると、謙信は西へ向かって進軍し始めます。
これは武田家の脅威が無くなったと同時に、織田信長 と対立を始めた 室町幕府の将軍 の足利義昭 から、京都へ進軍(上洛)するようにとの要請があったためだと言われています。
途中、越中(富山県周辺)の 「神保家」 や、織田家に従属していた能登半島の 「畠山家」 などを撃破すると、さらに西に向かって進み、織田信長 が支配していた 「加賀」 に迫ります。
ここで上杉軍は、織田軍の本隊と 「手取川」 で激突しますが、これは 上杉謙信 の強さを物語る一番の戦いだったと言えます。
景虎の出家騒ぎから3年後の 1559 年、長尾家 の上の家柄の 「上杉家」 から、景虎は 「関東管領」 という関東を統治する役職を譲り受ける事になります。「関東管領」 は関東地方一帯を統治する役職ですが、当時の関東は 「北条家」 に制圧されており、元々関東管領を持っていた 「山内上杉家」 も何とか関東を奪還しようと北条家と戦っていましたが、全くかないませんでした。そこでその(山内)上杉家は 長尾景虎 の勇名を聞いて、彼にこの職を譲る事を決意します。
これを拝領した景虎は同時に 「上杉家」 の家名も譲られ、こうして 「長尾家」 は 「上杉家」 となり、景虎も後に名前を 「上杉輝虎」、さらに 「上杉謙信」 に改めました。そして、「関東管領」 の名の通りに関東を支配するべく、上杉家 は 北条家 に幾度も進攻を繰り返すことになります。



「手取川の戦い」 は、上杉軍と織田軍がその名の通り 「手取川」 という川の近くで戦ったものですが、織田軍がその場所にさしかかった頃、上杉軍はまだかなり東の方を進んでいました。両者の距離は、両軍がそのまま進んでも遭遇するのに数日かかるぐらいの距離です。しかしその日の夜・・・
謙信は陣を張っている場所に、いつもより多めに「かがり火」を炊かせて、さもそこに部隊が駐留しているように見せかけると、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田の陣へ向かって夜通しかけて向かっていきました!一方の織田軍は、まだ上杉軍に会うまで距離があるため、まさか攻撃を受けるとは思っておらず備えもしていませんでした。そのうえ、作戦を巡って織田家の重臣 柴田勝家 と 羽柴秀吉 が大ゲンカ! 秀吉は軍勢と共に勝手に帰ってしまい、戦闘態勢がまるで整っていません。そこに長距離を駆け抜けてきた 上杉謙信 の騎馬精鋭部隊が夜襲をかけます!
突然の事に織田軍は大混乱!先陣にいた織田軍の部隊はあっという間に壊滅!
しかも当時、雨が降り続いていて手取川が増水していたため、負けた織田軍は撤退が困難な状況に陥り、追撃も受けまくって大被害を被ってしまいます。勇将で知られる 「柴田勝家」 の部隊が何とか軍をまとめて反撃しようとしますが、すでに気勢を制されており、ボコボコにされて壊滅。織田信長も残存の兵をまとめて対抗しようとしますが、その頃には騎馬以外の上杉軍の兵士達も到着しており、そのまま圧倒されて軍は崩壊。信長は近衛兵数十騎と共に戦場からの脱出を計りますが、上杉軍に追撃され、何とか美濃まで逃げ帰った時、近衛兵は数人だけになっており、自身も傷を負っていたと言います。



こうして、織田家 を窮地に立たせた 上杉謙信 でしたが・・・これが 謙信 の最後の勇名と、戦いになりました。
一度越後に戻り、改めて軍勢をまとめていた謙信がトイレに行ったとき、突然 謙信 は脳卒中で倒れてしまいます。 そのまま、謙信が帰ってくることはありませんでした。享年 48 才。

上杉謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」 と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また 北条氏康 も、「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます。生涯 妻を持たず、敵からも賞賛され、自らを仏法の守護神 「毘沙門天」 と称した謙信は、やはり武士と言うより、僧侶に近かったのかもしれません。
  


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2011年11月28日

石田三成

石田三成が活躍した安土桃山時代は、日本の歴史の中で、織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代です。 天下人、豊臣秀吉とのかかわりが大きい人物でもあります。


秀吉との出会い
1560年、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生を受けます。幼名は佐吉と言いました。石田村はそれ以前、石田郷と言い、石田の郷名を苗字としていた土豪だったと推測されます。豊臣秀吉が羽柴秀吉と名乗って織田信長に仕え、1,574年にお生み長浜城の城主となった頃から秀吉の小姓として仕えていました。信長の命令で、秀吉が総司令官として中国征伐に赴いたときにも従軍しました。1,582年に本能寺の変が起こり、織田信長が自刃すると、秀吉は次の天下人として台頭しますが、三成も側近として、徐々に台頭していきます。賤ヶ岳の戦いに従軍したときには、柴田勝家の動向を探る偵察行動と、先駆け集として一番槍の功名を上げています。小牧・長久手の戦いを経て、近江国蒲生郡の検地奉行を務めました。


豊臣政権のもとで
1585年、秀吉が関白になると、従五位下治部少輔に叙任されます。秀吉から、その年末には近江水口4万石の城主に封じられます。翌年、知恵も勇気も兼ね備えていると名高かった名将。島左近を自分が持っている4万石の半分、2万石で召抱えました。誰が説得しても召抱えられなかった左近を、自領の半分も与えたとの事実に秀吉は驚き、また賞賛しました。そして左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋の羽織を与えました。同じ年、三成は越後から秀吉に臣従を誓うために上洛してきた上杉景勝のことも斡旋しています。また、秀吉から堺奉行に任命されています。
1587年、兵糧や武器を運ぶ運送役として急襲征伐に参陣します。九州征伐後は博多奉行となり、博多復興に関わりました。1,588年には九州の島津義久の秀吉との謁見を斡旋します。


秀吉の死後
1598年に秀吉がこの世を去ると、嫡男の豊臣秀頼が後を継ぎました。関東250万石の大老・徳川家康が次の天下人を狙い、徐々に台頭してきます。権力を奪いとろうとする家康は、石田三成と対立関係にある加藤清正、福島正則、黒田長政らと豊臣氏に無断で縁戚関係を結んで行きます。三成は、こうした家康の無断婚姻を『秀吉が生前の文禄4年に制定した無許可縁組禁止の法に違反する』として、前田利家らと相談し、家康に罪を問いただす使者を派遣します。世は豊臣政権でしたので、孤立する不利を悟り、家康は和睦するために利家・三成と誓紙を交わしました。しかし、家康と互角の勢力を持っていた前田利家が病死すると、その直後、石田三成と敵対関係にあった加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明らが石田三成の大坂屋敷を襲います。しかし、事前に佐竹義宣の助けで大坂から逃れていて、伏見城内に三成はいました。前田利家がなくなり、石田三成がこもりがちになってからは、家康の好き勝手ぶりは再び活発になり、一度白紙にしていた無断婚姻や、秀吉が残した命令で、禁止されていた所領配分などもおかまいなしに実施しました。


関が原の戦い
1600年、石田三成は徳川家康を排除するために、上杉景勝、直江兼続らと挙兵の計画を立てます。その後、上杉勢が家康に叛旗を翻し、家康は諸大名を従え、会津征伐に向いました。これを東西から挟み撃ちにして攻撃するチャンスとして石田三成は挙兵を決意します。家康に従って会津征伐に向うに四国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を、近江愛知川に関所を設置して阻止し、強引に西軍に与せました。7月13日、石田三成は大坂城内に、諸大名の妻子を人質として入れるための軍勢を送り込みますが、加藤清正の妻ら、一部には脱出されてしまいます。細川忠興の正室・細川ガラシャを人質に取ろうとしましたが激しく拒絶され、キリシタンであったガラシャは、自害は大罪で天国に行くことができないため、家老の小笠原秀清に胸を突かせて屋敷に火を放つという壮絶な最期を遂げ、人質作戦は失敗に終わりました。

  


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2011年11月27日

伊達政宗

伊達政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。



伊達政宗・独眼竜政宗と言えば、いかにも強そうな感じの名前で印象に残りやすいし、誰もが聞いたことがあるだろう有名人ですが、実際の所どう凄かったのかが一番わかりにくい人ではないかと思います。 その一番の理由はやはり、登場が遅かったからでしょう。 織田信長が桶狭間に今川義元を破った時、政宗はまだ生まれてもおらず、秀吉が天下統一を果たした時で政宗23歳と、時期的に生まれが遅かったために、戦国の有名武将達と渡り合って名勝負を歴史に残すといったことが殆どないので、今一つ業績のようなものがはっきりしないからでは無いかと思います。それ故、才がありながらも生まれが遅かったために活躍できなかったということで、「遅生まれの英雄」といった呼ばれ方をすることが多いみたいです。



東北の英雄
では政宗が何をした人なのか一言でいうと、“奥羽(東北地方)平定”を果たした人です。
奥羽も群雄割拠の様相を呈していましたが、父輝宗の代では伊達家は米沢一国の領主に過ぎなかった所を、政宗が17歳で家督を継いでからは、相馬・畠山・芦名・佐竹といった東北の有力勢力を次々と打ち破り、若干23歳にして奥羽をほぼ掌握したという、武力で言えば戦国時代きっての英傑と言っても過言ではありません。また、政宗は5歳の時疱瘡にかかり右目を失っていたために、人々は政宗のことを「独眼竜」と言って畏れ称えました。

秀吉の目もごまかした策士
1590年、既に天下の大半を手中に収めていた豊臣秀吉が、関東は小田原城に居する北条氏を征伐するために20万もの大軍を率いて来襲しており、その際、東北の諸大名に対しても秀吉に対する臣従の証しとして挨拶に来いと言ってきました。
政宗としては、まだまだ領土拡大の野望は尽きておらず、しかも北条氏と同盟も結んでいたため、どうすべきか進退に悩みました。しかしさすがに、20万の大軍には勝てないと判断し、秀吉に対する臣従の意味も含めて小田原攻めに参陣することにしましたが、タイミング悪く伊達家のお家騒動も重なり、小田原参陣に一ヶ月も遅参するという失態を犯してしまいました。

秀吉の怒りは火を見るより明らかなので、このままでは伊達家は危ないと判断した政宗は、秀吉との謁見の際、白装束(死に装束)で見えると言う策に出ました。白装束=死の覚悟を決めている、という肝の据わった政宗の行動に対し、先手を打たれた秀吉はむしろその政宗の性根に感心し、処遇は一部領土の取り上げのみに収まりました。こうした、相手の性格を見抜き、それに応じた策を講じることが出来るのも政宗の賢かった点です。他にも、一揆扇動が発覚しそうになった時、見破られた際に備えて二種類の花押を前以って用意していたなど、小細工にも長けていた(?)ようです。



柔軟な発想
伊達政宗の軍で有名なのが、「鉄砲騎馬隊」です。織田信長が鉄砲を巧みに活用したことにヒントを得て、強力な騎馬隊に鉄砲をミックスした政宗独自の戦法です。騎馬隊各員に鉄砲を持たせ、戦闘の際にはまずその鉄砲で敵部隊を撹乱させ、敵の陣形が乱れたところをそのまま疾風の如く襲いかかるという斬新なもので、強力な部隊として大変怖れられたそうです。
また、イエズス会の宣教師が仙台にやってきた時には布教を許し、南蛮貿易にも目をつけて1613年には支倉常長をスペインやローマに派遣するなど、日本人にありがちな古い思想にとらわれない柔軟なマインドを持っていたことがわかります。

伊達者
今でも使われる“伊達者”という言葉。
  “~はダテじゃない”
  “ダテに~していない”
  “ダテ○○”
など、わかりやすく言うと“カッコつけ”な意味で用いられる“伊達”ですが、その由来は伊達政宗から来ています。 その理由はとにかく、伊達軍といえば信じられないくらい派手で目立つ格好をしていたからだそうです。特に有名なのは朝鮮出兵の時で、京都に現れた伊達軍は、紺の旗に金の日の丸、漆黒の具足に金の日の丸、馬鎧は虎柄・豹柄に孔雀の羽、陣笠は1mもある三角帽子で全て金色。太刀や陣羽織も金色、水玉模様もあったとか無かったとか・・・
想像しただけでも、もはや悪趣味とも思えるような相当派手な格好です。こうしたところから、京都の人々は“伊達軍の男=伊達男=ええカッコしい”となり、それが、ええカッコ、カッコだけ、という意味で“伊達~”という言葉になったそうです。



  


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2011年11月26日

真田幸村

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を追いつめた。江戸期以降、講談や小説などで、真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。


現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは見つかっていない。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しい。

関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。
東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の大軍勢を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数精鋭である真田隊にてこずった徳川秀忠軍は落城攻略を諦めて去ったが、結果として関ヶ原での決戦に間に合わなかった。秀忠軍が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度打って出て夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。
三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった。


大坂城に入城
慶長19年(1614年)、「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという。

大坂冬の陣
慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられず終わる。しかし大坂城に籠城する策と決定すると、真っ先に信繁は大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃を与えて初めてその武名を天下に知らしめる事となる。(真田丸の戦い)。しかし、この真田丸を造る際、大坂方の大野治長を始めとする他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している 。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。



大坂夏の陣
慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。

ただし道明寺の戦いでは先行した後藤基次隊が真田隊の援軍が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては当日の濃霧であるなど諸説ある。またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。そのため後藤基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、所定の時間に付く事ができず、合流した信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰め、退却の指揮をとったという。

豊臣方は後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみと直訴したが、豊臣側近衆や母の淀殿に阻まれ秀頼の出陣はならず。豊臣氏の滅亡が濃厚となる最中、信繁は毛利勝永と共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させ、これを迂回させた明石全登の軽騎兵団に横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が独自の判断で射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。そして信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」とつぶやき[10] 、真っ正面から家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、左翼から攻める毛利隊、明石隊らも奮闘し家康本陣に肉薄した。



まず真田隊は越前松平家の松平忠直隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首を授けた。享年49。
信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。しかしその後、大坂では信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われているが、さらに噂では薩摩国の島津家領内に逃隠れし墓もあると言われている。実際に、信繁の子孫と伝えられる真江田家も残されている。
【 真田幸村wiki 】



  


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2011年11月20日

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。


織田家に仕える前
美濃で斎藤道三と斎藤義竜が争ったとき、明智光秀は道三側につき、明智城を攻め落とされ、美濃を退去することになった。この戦いは道三が破れて、美濃一国は義竜が支配することになった。美濃を逐われた光秀は、隣国尾張の織田信長を頼らず、上京して、将軍足利義輝に仕えた。しかし、義輝は、永禄八(1565)年五月十九日、三好義継を擁する松永久秀と三好三人衆の軍勢に攻められ殺害された。
この後、光秀は越前の朝倉家に仕えることになるが、これは後に義輝の弟・義秋(後の十五代将軍義昭)が細川藤孝や一色藤長らを伴って朝倉家を頼って越前に逃れてくることと関係しているのかもしれない。
細川藤孝は、義昭を擁立して幕府を再興するため、朝倉家の軍事力で京都を三好家から奪回しようと画策するが、朝倉家当主の義景は現状の維持以上に望みがなく、上洛を実行するほどの覇気がなかった。光秀は、藤孝に尾張・美濃両国を支配し大大名となった織田信長を頼るようにすすめる。光秀は、美濃の信長のもとへ行き義昭と信長の橋渡し役をした。これは信長室の濃姫と光秀が従兄弟で、光秀は、この縁で信長と面識があったからだ。

幕府再興

朝倉家を辞した光秀は信長に仕えることになる。もちろん義昭近臣の立場のままである。信長は義昭を美濃へ招くと、美濃の隣国武田、尾張の隣国徳川、北近江の浅井と同盟して北伊勢・尾張・美濃の軍勢数万をもって上洛の途についた。信長は、南近江で抵抗した六角承禎を甲賀へ追い、義昭を奉じて入京して畿内の反攻勢力を駆逐した。義昭は、永禄十(1568)年十月十八日、征夷大将軍に補任された。
信長は、十月二十六日に京都から軍勢を伴って岐阜へ帰還するため出発した。このため阿波に逃れていた三好三人衆が京都へ攻め込み義昭を本圀寺に包囲した。光秀は義昭を守護して防戦にあたり、畿内の織田軍が援軍に加わり三好勢を退けた。再び上洛した信長は、義昭のために二条御所を造営した。
このころ光秀は、丹羽長秀・中川重政・木下秀吉らと共に京畿の政務を担当する京都奉行に任命された。
義昭は幕府が再興された以上、諸大名は私戦をやめて将軍の権威の元に秩序を回復するべきだと考えたが、信長は織田家による天下の武力統一を目指し両者の対立関係が始まった。



<一国一城の主>

信長は越前の朝倉討伐のため越前に出陣したが、江北の浅井長政が離反し織田軍の背後から迫った。これを知った信長は、京都へ撤退することを決める。光秀は秀吉・池田勝正と共に殿軍として活躍した。
この後、信長と浅井・朝倉との戦いが続き、元亀元(1570)年九月ごろから反織田勢力が決起して信長は窮地に陥った。信長は、危機的状況を勅命講和で切り抜け比叡山の焼き討ちを行った。宇佐山城代に任じられていた光秀は、この作戦の中心的部隊として準備から焼き討ち実行を任された。この手柄から、光秀は近江志賀郡の支配を命じられる。光秀は、志賀郡の支配にあたり坂本城を築く。光秀は、一国一城の主となったが他の織田家の諸将に先んじての破格の待遇だった。
志賀郡を与えられたといっても、志賀郡全てが織田家の領地というわけではなく、没落した比叡山領や一向一揆の勢力などがあり実力による切り取りが認められたことを意味していた。
光秀は、比叡山領の接収を行い堅田の水軍の掌握に成功し、浅井・一向一揆の勢力を退けて志賀郡全域の支配を確立した。志賀郡は約五万石である。

<義昭追放>
信長に敵対した武田信玄が陣没した後、朝倉義景と浅井長政が滅び、また将軍義昭も信長によって京都から追放された。このため幕府衆が光秀の家臣団に組み込まれた。
信長は、浅井の旧領北近江三郡(伊香郡・東浅井郡・坂田郡)約十二万石を秀吉に与えた。
天正三(1575)年五月、信長は長篠設楽ヶ原で武田勝頼を破って、東方の脅威を除き、西国の経略にとりかかった。光秀は、京都奉行から外され丹波経略を命じられた。
同年七月、信長は朝廷に家臣の改姓任官を要求した。このため武井夕庵が二位法印に、松井友閑が宮内卿法印に、光秀が惟任(これとう)日向守に、塙(ばん)直政が原田備中守に、丹羽長秀が惟住(これずみ)に、秀吉が筑前守に、簗田広正が別次(べつき)右近大夫に、それぞれ改姓あるいは任官した。
同年八月、信長は一向一揆が支配する越前へ攻め込んだ。光秀と秀吉は敦賀から出港し、光秀軍は杉津浦から、秀吉軍は河野浦から上陸し府中へ進軍し龍門寺城を攻め落とした。さらに、光秀軍と秀吉軍が先鋒となって加賀へ攻め込み江沼・能美の二郡を占領した。



<丹波経略>
丹波の地侍は、信長が義昭を奉じて上洛した後は信長に属していた。しかし、信長が義昭と不和になり、信長が義昭を京都から追放してからは織田家から離反して敵対するようになっていた。このうち船井郡と桑田郡は細川藤孝が与えられており織田勢力圏である。 天正三(1575)年十一月、光秀は丹波に出陣し有力国人領主・赤井(荻野)直正を攻めた。赤井直正は、猛将松永甚助(松永久秀の弟)を討ち取ったほどの名将である。
光秀は、但馬の竹田城から丹波に入り直正の立て篭もる黒井城を攻めた(図参照)。この時、氷上郡八上城の波多野秀治など大部分の丹波の国衆が光秀に味方して従軍していたが、波多野秀治が寝返ったため光秀は破れて坂本城へ退却した。光秀は丹波経略を引き続き任されたが、畿内の石山本願寺や松永久秀攻めなどにも従軍し、丹波に全力を傾けることはできなかった。天正五(1577)年十月十六日、光秀は細川藤孝・忠興父子と一緒に丹波に出陣し、亀山城の攻撃を開始し、これを降伏させた。さらに多紀郡の諸城を攻めた。光秀は亀山城を丹波経略の拠点とするため普請をはじめた。
天正六(1578)年三月、光秀は多紀郡八上城の波多野秀治の攻撃を開始した。光秀は、要害八上城を包囲して兵糧攻めの体制を整え、摂津や播磨の援軍を勤めながら攻囲を続行した。
光秀は摂津の荒木村重が謀反したため、これの説得を行った後、天正七(1579)年六月に調略を用いて波多野秀治・秀尚を場外に呼び出し捕らえて安土へ送った。
同年八月、光秀は黒井城を陥落させ(赤井直正は既に死亡していた)丹波一国の制圧に成功した。信長は数国(播磨・但馬・備前など)を切り取った秀吉よりも光秀の働きの方を高く評価した。それだけ丹波攻めが困難と考えられていた。



<近畿管領>
細川藤孝は、船井郡と桑田郡から丹後一国に転封され丹波一国二十九万石は光秀に与えられた。光秀は、近江五万石とあわせて三十四万石の大名になった。
天正八(1580)年正月、秀吉が播磨の三木城を陥落させ、同年閏三月石山本願寺と講和し織田家は畿内周辺の征圧に成功した。信長は重臣筆頭の佐久間信盛父子を追放し、その与力を光秀の傘下に組み込んだ。このとき光秀の与力になったのは、摂津の池田恒興・中川清秀・高山右近、大和の筒井順慶、丹後の細川藤孝・一色義有ら畿内周辺の武将達である。
光秀は織田軍団の近畿軍管区長官兼近衛師団長で、CIA長官を兼務するほどの地位を手に入れた。京都近郊を支配し、親衛隊として信長親征に従軍し、畿内の諜報活動を行い、公家との交渉も行う重要な役目である。
 光秀は、天正九(1581)年二月二十八日に行われた京都馬揃え(軍事パレード)の総括指揮者の役目を果たした。この馬揃えは譲位を拒む正親町天皇に対する信長の威圧である。
天正十(1582)年正月、南信濃の木曽義昌が武田勝頼を裏切って織田家に降伏してきた。信長は、嫡男信忠を総大将に任じ、美濃・尾張の兵を伊那口から、家康を駿河口から、北条氏政を関東口から攻め込ませた。信忠は、破竹の勢いで進軍し、三月二日に勝頼の弟仁科盛信を岩殿山城に攻めて殺した。勝頼の召集に応じるものは少なく、勝頼は新府城での防戦は無理とみて、小山田信茂を頼って落ち延びることにした。だが小山田信茂は勝頼を見捨て、勝頼は自害し武田家は滅亡した。
このころ信長は親衛隊である光秀軍団を率いて安土を出陣し甲斐へ向かった。この軍団は、出陣時期からみて合戦が目的ではなく武田を滅ぼした後の信長の関東見物の護衛にあたるためのものであり、太政大臣の近衛前久も同行していた。甲斐に入った信長は、論功行賞を行い駿河へ向けて出発した。このとき信長は、同行を求める近衛前久に馬上から暴言を吐いた。やむなく前久は信濃経由で京都へ帰った。
天正十(1582)年四月十二日、駿河に入った信長は、遠江・三河を見物し尾張・岐阜を経て安土へ帰還した。朝廷は安土に勧修寺晴豊を派遣し、信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官するよう求めた。信長は明確な返答をしなかった。
五月十五日、徳川家康と穴山梅雪が安土へ御礼言上にやってきた。武田家を裏切った梅雪は本領安堵され、家康は駿河を与えられていた。光秀は二人の接待役を命じられていた。
この日、織田家中国方面軍の秀吉から信長に援軍の要請が入った。信長は武田攻め同様、自ら後詰めとして出陣することを決め、親衛隊である光秀軍団の準備のため光秀を接待役から外した。光秀は、五月十七日には接待役の務めを終え、近江坂本城へ戻り出陣の準備を始めた。

<本能寺の変>
五月二十六日、光秀は丹波亀山城に入り、二十七日に愛宕山の愛宕大権現へ参詣し、参篭を行い、おみくじを二度三度ひいた。
二十八日、愛宕大権現五坊の一つ、威徳院西坊で出陣連歌を興行した。連歌は光秀、連歌師里村紹巴を含め九人で行われた。発句は光秀で
ときは今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)かな
この句の「しる」を「治る」と解釈すると、「治る」は「治天の君」と言うように天皇家に許される用法で、光秀は朝廷のために信長を討ったと考えることもできる。光秀は後醍醐天皇に応じて丹波で幕府を裏切り京都へ攻め込んだ足利尊氏と同じ経路で京都へ進軍し信長が宿泊する本能寺を包囲した。
信長を本能寺で殺した光秀は、次いで信長嫡子信忠を攻めて自害させた。光秀は、この後羽柴秀吉に山崎の合戦で破れて落ち延びる途中、土民の手にかかり致命傷を負い自害した。
  


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2011年11月19日

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名



織田信長の幼少期
1534年尾張国(現在の愛知県)に産まれた織田信長は 幼児期から青年期にかけ奇矯な行動が多く「うつけ者」(ばか者)と 人々に噂されていた。身分にこだわらず、平民とも遊んだとされている。

織田信長の台頭
1560年駿河(現在の静岡県)などを 支配する今川義元を桶狭間の戦いで破りしだいにその頭角をあらわしていく。
織田信長は隣の三河の松平元康(のちの徳川家康)と手を組み、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に墨俣(すのまた)の地に城を建てさせ、2国に接している美濃に攻め入った。
これにより1567年美濃を制圧し1568年足利義昭を奉じ、京都へ上り全国統一に乗り出した。
これを機に天下布武を宣言し、琵琶湖湖畔の安土に安土城を築き、楽市・楽座令をだし市座の特権を廃止した。
城下ではだれでも税を払わなくても商売ができるようになった。また、流通の妨げとなっていた各地の関所を撤廃。このように織田信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた。

それがうつけ者と言われる所以だったのだろうか。



長篠の戦い
当時、最強と言われていた甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を織田信長は3000丁もの鉄砲と西洋のよろいで迎え撃った。これを長篠の戦いという。このように織田信長は西洋から来る新しいもの・珍しいものを進んで取り入れたことでも知られている。

革新的
織田信長は権威や常識にとらわれず、新しい試みを次々と試した。家柄などにとらわれず、農民などでも有能な人材を家臣として使った。羽柴藤吉郎(のちの豊臣秀吉)もその中の1人である。また、明智光秀はもと足利義昭に仕えていた家臣であった。
政策も今までのものを打破するようなものが多く、天下布武 ・仏教弾圧 ・楽市令などがその例である。

南蛮貿易
新しいものに興味のあった織田信長は南蛮貿易を盛んに行った。ワインを楽しんだという話もある。時には南蛮人が連れてきた黒人の肌が本当に黒いのか確かめるために体を洗わせたという話もある。長篠の戦いでは貿易によって手に入れた鉄砲と西洋の鎧を有効に利用し勝利している。



織田信長の仏教弾圧
当時、僧侶の横暴がひどく、一向一揆が盛んに起こっていた。宗教に対し否定的だったわけではなかったが織田信長の仏教に対する弾圧はすさまじく、比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えをもとに、武装し抵抗する一向一揆を徹底的に抑えた。
顕如(本願寺第11世)率いる石川本願寺とは11年もの間、戦い、退去させ全山を焼き尽くした。また、仏教勢力に対抗させるためキリスト教を優遇した。
しかし、その一方では安土城の天守閣の天井や壁画には儒教・仏教・道教をテーマにした絵画が描かれていた。さらに、延暦寺や浄土真宗の活動は禁止していなかった。このことより、宗教を否定するのではなく天下布武政策 のひとつとして 政教分離を図り、武家に権力を持たせようとしたものであると考えられている。



織田信長と本能寺の変
1582年6月、中国の毛利氏を打つ準備をしているさなか、織田信長の家臣である明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で織田信長が自害した。あと一歩のところで天下統一を達成できなかった。
諸説はあるが一般的な解釈として明智光秀が 重職に登用されない不満を主君へ抱き、織田信長が小姓らのみで本能寺へ滞在している事を知っていた明智光秀が豊臣秀吉援護のために集結された1万3000 人の兵士を連れ襲い織田信長を自害に追い込んだ。秀吉援護に集められた兵士を前にし「敵は本能寺にあり」と宣言したことも有名なくだり。
なぜ明智光秀が主君織田信長に反旗を翻したのか?その理由は明らかになっていないが、一般的には信長による虐めが原因との説がある。また、仏教弾圧など、急進的な日本社会の改革に対する反動とも言われている。その真相は明らかでない。

明智光秀は美濃(岐阜県)の守護だった土岐氏の一族と、言われている。本能寺の変の数日前の連歌会で「時は今、天が下しる 五月(さつき)かな」と詠んだ。これは「時」に「土岐をかけ」、土岐氏である自分が天下をとることを決意したものとされている。なお、明智光秀は本能寺の変のわずか11日後、豊臣秀吉によって返り討ちされている。



織田信長の名言

死のうは一定、 しのび草には何をしよぞ、 一定かたりをこすよの
尾張に住む、天沢(てんたく)という天台宗の高僧が、武田信玄と面会した時の事。天沢は信玄に信長の趣味を聞かれ、舞と小唄と答えました。更にそれはどのようなものかと聞かれ、この小唄を答えたそうです。ちなみに信玄は天沢に信長の真似をさせてうたわせたといいます。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
幸若舞の「敦盛」の一節です。「桶狭間の戦い」の出陣前に舞ったと『信長公記』にあります。また、上記の天沢と信玄のエピソードでも出てきています(舞の方)。
「 人間界の五十年は天界では一昼夜程の長さでしかなく、まさに夢や幻のようだ。この世に生まれ、滅びぬものなどいない。 」

  


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2011年11月17日

お市

お市の方(おいちのかた、天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日(1583年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。

【 戦国バサラ画像より 】

織田信長の妹。戦国随一の美女と謳われました。永禄10年(1567年)に浅井長政に嫁ぐ。長政との夫婦仲はすこぶる良く、周囲から羨まれるほどのおしどり夫婦であったといいます。二人の間には茶々(淀殿)、初、江の三人の娘と、万福丸、万寿丸という二人の息子が生まれました。

兄の信長が朝倉義景を攻めると、朝倉家と古い同盟関係にあった浅井家当主長政は、織田家と朝倉家どちらにつくかで非常な苦悩に置かれました。
結局古い同盟を優先して義理立てし、織田信長との同盟を破棄し、朝倉側についた。信長は長政を高く評価していたらしく、幾度も降伏勧告をしたが、長政は聞き入れず、居城の小谷城で自害しました。享年29歳。(1573年9月1日)
お市は夫と運命を共にするつもりであったようだが、長政に諫められ、娘3人とともに信長に保護されることとなった。因みにこのとき長男の万福丸を木下秀吉(後の豊臣秀吉)に惨殺されたため、お市は生涯秀吉を恨み、許さなかったといいます。



その後、信長の庇護の下ですごしていたが、信長が本能寺の変で亡くなり、羽柴秀吉の斡旋で柴田勝家と再婚しました。
柴田勝家が秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、越前北ノ庄城内は秀吉軍に包囲された。秀吉はお市をことのほか気に入っており、このときも再三にわたって投降を勧告したものの、お市は夫勝家と運命を共にすることを選びました。享年37歳。
落城の際、お市は三人の娘に(浅井の血を絶やしてはならぬ)と諭したといいます。



戦国随一の美女と謳われた母、お市の方の気質と美貌を受け継いだ長政の娘達はいずれも戦国乱世の中で数奇な運命をたどることとなります。浅井家の血は崇源院(江、江与または小督とも)によって徳川幕府264年の礎となり、現在に至るまで受け継がれています。
茶々(淀殿)・・・・・ 豊臣秀吉正室
初(常高院)・・・・・ 京極高次正室
江(崇源院)・・・・・ 徳川秀忠正室

  


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