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2011年09月30日

富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮である。富士山を神体山としている。


富士信仰の中心地である。浅間大社の略称が多くで用いられ、大宮浅間とも呼ばれる。大同元年(806年)建立で、東海地方で最古の社である。現在は浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とし、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀する。元々の祭神は富士山の神霊「浅間大神」であるが、いつの時代からか、神話に登場する木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになり江戸時代に定着した。現在でも一般的な認識では浅間大神と木花之佐久夜毘売命は明確に区別されてはおらずほぼ習合した状態である。



『富士本宮浅間社記』によると、806年(大同元年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座したという。この地に遷座することとなった理由については、富士山の湧水からなる湧玉池が湧く地を神聖な地として考えたためと言われている。またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきた[2]。それが現在も行われる御田植祭である。 以降、朝廷の崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、また、駿河国一宮として崇敬された。駿河国国府の近くに当社より勧請を受けて「浅間神社」が創建され、それを「新宮」と呼ぶ。



源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では毎年流鏑馬祭りが行われている。武将からも崇敬を受け、源頼朝・豊臣秀吉が社領を寄進、北条義時・足利尊氏・足利持氏が社殿を造営、武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行っている。徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営し、1609年には、富士山頂の土地を寄進している。その後も歴代の将軍が祈祷料・修理料の寄進を行った。
室町時代に始まった富士信仰は江戸時代に盛んとなり、多くの人が富士山に登るようになったが、当社はその表口として賑った。


朱塗りの社殿は1604年(慶長9年)徳川家康によって造営された。その後、寛永や安政の大地震などで崩壊した建物もあり、当時の建物で現存するのは本殿・拝殿・楼門のみである。
本殿
桁行5間、梁間4間、寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式で、「浅間造」と称される。屋根は檜皮葺である。
幣殿・拝殿
拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。  


Posted by hidesun(英寸) at 19:25Comments(0)富士山本宮浅間大社