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2010年12月14日

大奥〜華の乱〜

大奥〜華の乱〜

主なキャスト
安子(綱吉側室、牧野成貞の娘):内山理名
徳川綱吉(第5代将軍):谷原章介
お伝(綱吉側室):小池栄子
常盤井の局(右衛門佐)(信子付上臈御年寄のちの大奥総取締):高岡早紀
柳沢吉保(綱吉側用人):北村一輝
大典侍(綱吉側室):中山忍
染子(吉保側室):貫地谷しほり
音羽(桂昌院付中臈)
桂昌院(家光側室、綱吉生母):江波杏子
信子(綱吉正室):藤原紀香
「見るは天国、入るは地獄。」

大奥の最盛期でもある元禄期を扱ったこともあり、前作「第一章」の時代(三代将軍徳川家光と春日局の時代)からあまり月日が流れていないのにもかかわらず、前々作以上に女性同士のドロドロした修羅場や駆け引きが随所にちりばめられ、好評を博した。
実在はしたものの、大奥に入ったという史料のない牧野安(安子は役名で、安が正しい)を主役に置き、側用人柳沢吉保が将軍綱吉を恨んで殺意を抱いていたとするなど、史実から離れたさまざまな脚色が行われた。また、当時の俗説(徳川綱吉の死から幾ばくも経たぬうちに正室信子も後を追うように死んだため、「実は信子は綱吉と無理心中を謀ったのではないか」という説、柳沢吉保の子・吉里が綱吉の落胤とする疑惑)の取り込みもなされている。
【大奥〜華の乱〜wiki】

万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内

「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬

↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月13日

徳川将軍家御台所


徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川将軍家の御台所について扱う。御台所とは大臣や将軍の妻に対して用いられる敬称で、江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。
御台所の立場
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、徳川幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)於江(於江与)を迎えた二代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、天皇家、宮家、公家(摂家)から迎えるのが慣例となっていた。十一代徳川家斉御台所・寔子と十三代徳川家定御台所・敬子は島津家出身であるが、両人とも輿入れに先立って近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に将軍家正室としての格式が求められたためになされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった二代秀忠御台所の於江が三代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは天皇家、宮家、公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされる。御台所は大奥の女主人であったにも関わらず、大抵の場合、実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。しかし、六代家宣の時代に改革がなされて、御年寄や側室の住居は「長局向」だけに留められた。更に側室の位置づけがあくまでも臣下とされるようになり、御台所は側室の産んだ子の嫡母の待遇を受けるようになるなど、御台所の扱いは大きく改善されていった。生母に対しても、将軍家内での順位は生母が最も低いため、御台所の権威を生母が揺るがす事はなかった。
夫たる将軍が亡くなった場合は落飾して西丸へと移り、将軍の菩提を弔い余生を過ごす事となっていた。それでも時代によっては、「大御台所」として多大な影響力を保持し続けた例もある。ちなみに正室によっては、立場上の問題や大奥入りしなかったために御台所と呼称されなかった者もいる。
大奥での生活
御台所の住まう場所は、大奥「御殿向き」の北西にある「松御殿」ないし「新御殿」と呼ばれる場所だった。居間に当たるのは「御上段」・「御下段」・「御休息」で、「御切形の間」が寝所に当たる。日常生活において、御台所が手を動かす事と言えば食事の時くらいで、その他の厠、爪切り、お召し替えなどでは全て女中たちが代わりに手を動かしてくれた。一回の食事のためにいつも十人前が用意され、その内二人前はお毒見役のための毒見用である。毒見を通過した御膳の内、御台所が実際に食べるのはわずかに二人前(どの料理にも二箸しか手をつけず、もう一人前がおかわりの分だった)であり、残りの六人前は食事当番の女中が食べた。お召し替えは一日に五回。入浴、朝食前の「お朝召し」、総触れ(毎朝行なわれる将軍への謁見)前の「総触れ召し」、「お昼召し」、「お夕方召し」、「お寝召し」とがあった。
【徳川将軍家御台所wiki】

万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内

日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという平安期からの説があります。
その師走の来週の日曜日21:40より【万華鏡みるきー舞姫 合同公演】が開催されます。


「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬

↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月07日

大奥-御鈴廊下

御鈴廊下「 将軍様のおな~り~ 」ですね。


MilkyHouse
大奥衣装 ”梅開早春” 

江戸城に大奥が作られたのは1607年(慶長12年)。2代目の将軍、秀忠の時代。そして、1618年(元和4年)1月1日、秀忠は「大奥法度」という法律を作って、表の世界と大奥を完全に分離させ、その体制は江戸城開城まで続いた。

江戸城本丸(現在は皇居東御苑の一部)は、「表」「中奥」「大奥」という3つの区画に分かれていた。幕府のお役所、つまり現代の省庁が集まる「霞ヶ関」に相当したのが「表」、「中奥」は今で言う首相官邸、将軍の執務室兼居間だった。御台所や側室、女中たちが住んでいたのが「大奥」。

 大奥だけは独立した建物で、「御鈴廊下」によって中奥とつながっていた。この廊下を通って大奥へ行くことができた男性は、もちろん将軍ただ一人。「御鈴廊下」という名前は、鈴のついた紐がその廊下に渡されていたことに由来する。将軍がこの廊下を通って大奥へ渡るとき、中奥側からその紐を引いて鈴を鳴らし、大奥に合図を送った。


公演のご案内


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月06日

智泉院事件

江戸城大奥は、正徳四年(1714)絵島・生島事件で有名ですが。同じようなスキャンダルが他に三件あるんです。 谷中の延命院事件(八つぁん六年二月・谷中延命院)。下総中山の智泉院事件。それに、雑司が谷鼠山の感応寺事件です。 大奥は本来、表と奥が一体であったのですが元和四年(1618)春日局が大奥法度を定めて、男子禁制にしたのです。

【 MilkyHouse 大奥衣装 ”梅開早春” より】
(智泉院事件)
下総中山法華経寺の子院に智泉院が在ります。日蓮宗の住持日啓は子沢山の生臭坊主でしたが、その子供にお美代という美貌の持ち主が居たのです。智泉院の檀家に将軍家斉のお小姓中野清茂が居ました。清茂はお美代を養女として大奥に入れて、家斉に智泉院を将軍家の祈祷所にと、夜の寝物語にねだらせて見たら。鼻の下を長くした家斉は「ああ、よかろう」の二つ返事で承知したのです。
これからが事件の始まりです。将軍家の祈祷所となると、奥女中が江戸城から智泉院の参詣に通うようになった。通ううちに坊主の中には特別に有り難い祈祷をする破戒僧もいて、加持祈祷の名の下にお女中と通じ、大奥にも出入りして、奥女中を夢中にさせたのでした。あまりにも酷い状態になってきたので放ってもおけず、天保五年(1834)五月寺社奉行に新任した阿部伊勢守正弘に摘発を命じたのです。就任直後の正弘が智泉院に踏み込んで、日啓と坊主たちを召し捕って調べると、事件の重大さが判明してきた。阿部正弘は谷中延命院の場合と同じように大奥に関する罪状には手をつけず、日啓とその身内だけを女犯のかどで処断した。日啓は遠島、倅の日尚は日本橋に三日間晒された。智泉院持ちの八幡神社を取り潰して領地を没収し、噂の的であった雑司が谷の感応寺も取り壊して、領地を没収した。大奥に傷はなかったが、正弘の裁決に怖気づいた大奥の浮気の虫を封じる効果はあった。


●公演のご案内



場所江戸吉原SIM
●日時 12月19日) 
デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫) 21:40~22:00
万華鏡 22:00~23:00 
みるきー舞姫 23:00~24:00
●場所  
http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
●演目
デモンストレーションみるきー舞姫 21:40~22:00  花魁道中   
第一幕 万華鏡 22:00~23:00  『 将 軍 』
第二幕 みるきー舞姫 23:00~24:00  
  


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2010年12月02日

大奥-瀧山

瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 明治9年(1876年)1月14日)は江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪。


文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。その後、才覚が認められて将軍付御年寄に任じられた。14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立。家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した。13代将軍・家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去した。
10月24日(11月29日)に14代・家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。実成院はかなりの派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れる事なく騒いでいた。瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。
これまで慶応4年(1868年)の江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをしたと言われてきたがこれより前の慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった後、御年寄職を辞したとする説もある
江戸城開城後は自分に仕えていた局の生家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。明治9年(1876年)、72歳で没。  
タグ :瀧山大奥


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2010年12月01日

大奥-浄光院

浄光院
鷹司 信子(たかつかさ のぶこ、慶安4年(1651年) - 宝永6年2月7日(1709年3月17日))は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の正室。左大臣従一位鷹司教平の娘。母は冷泉為満女(鷹司家譜)。兄に関白鷹司房輔、妹に霊元天皇中宮鷹司房子(新上西門院)がいる。また、6代将軍徳川家宣の御台所近衛熙子とは再従姉妹の関係である。


寛文4年(1664年)、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉と結婚。延宝8年(1680年)、綱吉の将軍就任により江戸城大奥に入る。
綱吉生母・桂昌院とは不仲であったとされ、綱吉との夫婦仲についても、2人の間に子女は産まれなかったことなどから、不和であったとする説があるが詳細は不詳(ただし、歴代徳川幕府将軍で正室との間に子女を儲けた例の方が少ない点は留意する必要がある)。また、綱吉側室・於伝之方が世嗣・徳松生母として権勢をふるった事も快く思っていなかった。そのため、綱吉の寵愛を於伝之方から離すため、新上西門院を通じて宮中で最も学問に秀でているとの呼び声が高い典侍・常盤井を、御台所付上臈御年寄として大奥へ招聘。更に大奥女中総支配を命ぜられた常盤井改め右衛門佐が、大典侍や新典侍らを側室として京から呼び寄せ、公家派として於伝之方に対抗したとされる。
宝永6年(1709年)、夫・綱吉の死から一月も経たないうちに死去。享年59。墓所は東京都台東区の寛永寺。そのあまりに急な死に、実は綱吉は信子と御台所付御年寄・伊豆局の手によって殺害され、信子はその後自害したという俗説(『日光邯鄲枕』)も残っているが、信憑性に乏しい。  
タグ :浄光院大奥


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2010年11月30日

大奥-右衛門佐局

右衛門佐局(えもんのすけのつぼね、うえもんのすけのつぼね、慶安3年(1650年)- 宝永3年2月11日(1706年3月25日)は、江戸時代前期の大奥女中。単に右衛門佐とも。公家・水無瀬氏信の娘。


五代将軍徳川綱吉の時代、霊元天皇の後宮で常盤井の局という名で仕えており、宮中随一の才媛と呼ばれていた。貞享二年には、綱吉とお伝の方の間にできた鶴姫付上臈として紀州家に入る。その後、江戸城本丸大奥へ入った。または、御台所鷹司信子の姉で中宮の鷹司房子の推薦で、信子付上臈御年寄として大奥入りした、とされる。

江戸城大奥に入ってから名前を右衛門佐と改め、将軍付上臈御年寄として、大奥の総取締を行ったと考えられている。その後は大典侍、新典侍といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れた。

1706年、57歳で死去。墓所は東京都新宿区の月桂寺にある。
【右衛門佐局wikiより】

「大奥~華の乱~」では、高岡早紀さんが演じ印象深いです。
  


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2010年11月29日

大奥-絵島

絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、絵島生島事件の中心人物である。

三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。
家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄の立場にあった。

 絵島生島事件 】
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。
当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。
評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。
この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。  
タグ :大奥絵島


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2010年11月28日

大奥-月光院

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)、叙任時の名に輝子(てるこ)がある。

父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲、母は和田治左衛門の娘。
初め京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に四代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられた。そして宝永元年(1704年)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。
やがて喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の12月には五代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城の西の丸に入ることになり、正室近衛熙子や喜世らの側室も西の丸に同行した。
宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。同年7月、喜世は男児(家宣の四男)を出産。鍋松と名付けられた。後の家継である。喜世も左京の局と呼ばれるようになった。この時、家宣には大五郎(家宣の三男)という側室の須免が産んだ子がいたが、宝永7年(1710年)に大五郎が3歳で急逝。その2年後の正徳2年(1712年)10月に家宣が死去し、喜世は落飾して「月光院」となった。翌正徳3年(1713年)、家継に将軍宣下。月光院は従三位の位を賜った。
大奥で月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との間に生まれたなどとも言われるが、いずれも俗説で信憑性は低い。
正徳4年(1714年)、月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた絵島生島事件が発生した。
享保元年(1716年)、家継は風邪をこじらせて死去した。月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせたためとも言われる。その後の八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、九代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたともいわれる。
そして宝暦元年(1751年)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。
埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、血液型はA型で、四肢骨から推定した身長は144.4センチメートルである。この鑑定によって、当時としては目元がかなりぱっちりとしていたこともわかっている。



”The Times” Milky House Collection
開催日時 :11/28(日) 22:00(日本時間)より 
日本の和を重んじた衣装の数々とその演出に酔いしれて頂きたいと思います。
会場:MK TOKYO SIM

Milky House本店はこちらです。
    


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2010年11月27日

大奥-天英院

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日)[1] - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の皇女・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。


延宝元年(1679年)、徳川綱豊(後の6代将軍・家宣)に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意な物であり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に水戸徳川光圀の養子徳川綱條との縁談話があったが、基熙はこれを断っている。ただし、基熙の伯母泰姫は徳川光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である。しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。このため結婚前に、熙子は近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女となって嫁した。但し、この養女縁組は幕府側から見ると幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と平松時量以外には秘密であった。このため熙子の扱いは近衛家の娘のままであった。
綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。その事で彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、御台所として江戸城大奥に入った。これにより、当時朝廷において閑職にあった父・基熙は将軍の岳父となり、1709年(宝永6年)には江戸時代最初の太政大臣に就任するなど権勢を振るった。このため、霊元法皇は基熙を呪詛する願文を上御霊神社に納め、皇室の影響力を高めるために皇女八十宮吉子内親王を家継の御台所にしようと奔走するようになる。
ところが、甲府時代とは異なり、大奥に入ると夫婦生活は一変し、憂鬱な生活を送っていたといわれている。さらにお喜世の方が側室に迎えられた事によって、さらに疎遠になった。
正徳2年(1712年)に夫・家宣は病により没し、熙子も剃髪して院号を天英院と号する。お喜世の方が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り、一位様と呼ばれた。
将軍家継の生母・月光院(お喜世の方)とは不仲であったといわれ、御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代門閥層と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったとされている。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている。
家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、その後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。
寛保元年(1741年)、76歳で没。戒名は「天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀」。
日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。

Milky House Collection
開催日時 :11/28(日) 22:00(日本時間)より 
今回は海外でななく日本での開催となります。
日本の和を重んじた衣装の数々とその演出に酔いしれて頂きたいと思います。
※ 詳細は後日。
Milky House本店はこちらです。
    


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2010年11月26日

大奥-瑞春院

瑞春院(ずいしゅんいん、万治元年2月1日(1658年3月4日) - 元文3年6月9日(1738年7月25日))は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の側室。通称、伝・三ノ丸様・御袋様。
父は下級武士(黒鍬(10俵一人扶持)とも、中間頭(80俵)とも)の小谷正元(小谷権兵衛)で、のちに堀田正元(堀田将監)と名乗る。兄の権太郎は天和2年(1682年)2月に賭博の喧嘩で小山田弥一郎(小山田弥市)に殺された。


綱吉が館林藩主であった寛文10年(1670年)、桂昌院御付の侍女として白山御殿にあがり牧野成貞の推挙で御中臈となる。綱吉の寵愛が厚く、延宝5年3月7日(1677年4月8日)19歳のときに白山邸で鶴姫を、延宝7年(1679年)21歳のときに神田邸で徳松を産んだ。綱吉の子を産んだ女性は瑞春院だけである。
同じく出自の低い綱吉生母・桂昌院とともに、正室鷹司信子を筆頭とした公家出身の側室たち(大典侍、新典侍、右衛門佐局)とは対立関係にあったという説もあるが確証はない。また、悪女として語られることの多い伝だが、実は自己主張の弱い、大人しい女性であったという話もある。
ただ、兄を殺した小山田弥一郎は、賭博からの喧嘩の罪ではなく、将軍世子の外伯父殺害を罪とされ、獄門磔となっている。彼を捕らえる時も、親・主君殺しでもない限り行われない人相書きまで全国に配られたという。これらは将軍の威を借りて天下の法度を動かしたとも考えられ、必ずしも大人しいだけの女性とは言い切れない部分もある。
徳松を幼くして亡くした後は、鶴姫の婿である紀伊藩主徳川綱教を将軍にしようとする動きもあったが、鶴姫・綱教ともに早世した。綱吉の死後は落飾して瑞春院と名乗り、二之丸に移る。1738年、81歳で死去。墓所は芝増上寺。


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2010年11月25日

大奥-桂昌院

桂昌院


桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代の女性。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。名は玉。『徳川実紀』に拠れば、父は北小路太郎兵衛宗正。母は鍋田氏の娘。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。

京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』に拠れば、父は関白・二条光平の家司である北小路太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部には二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。道祐は幕府につかえた儒者の林羅山の弟子であり、元禄四年に死去したことからわかるようにまさに同時代資料である。しかも現存の写本は公家の難波宗建が類纂した系統であることからわかるように古くから評価が高い本である。ゆえにこの記事も極めて信ぴょう性が高い。『鸚鵡籠中記』には、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また『御当代記』には、畳屋の娘という説が記されている。死後やや経ってからの『元正間記』には、大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。
寛永16年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。
慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。
実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら藩主として立身出世を果たしている。墓所は東京都港区の増上寺。また、京都府京都市西京区の善峯寺にも桂昌院の碑がある。
【桂昌院wukiより】
  


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2010年11月24日

大奥-春日局

大奥の有名な女性

春日局 - 徳川家光の乳母

春日局(かすが の つぼね、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤 福(さいとう ふく)。
父は美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。

実家の斎藤家は美濃守護代を代々務めた武家の名門だった。春日局は、その当時父の所領のあった丹波(現・兵庫県及び京都府)の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、斎藤利三は家臣として丹波国内に光秀から領地を与えられていた。
その後父は主君光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し帰城後に坂本城下の近江堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉家の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家を勝利に導いた功労者である。後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(家光)の乳母に正式に任命される。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫正成の戦功が評価されたといわれている。
家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、秀忠・江与夫妻が竹千代の実弟・国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年(1615年)、駿府にいた大御所・徳川家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。この直訴はその時は失敗し、後に家康が江戸城を訪れたときにその江与の溺愛ぶりを見て考え直した、という説もある。

寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(春日局は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家の娘として参内する資格を得、同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の称号、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。
よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
【春日局wikiより】

  


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2010年11月23日

大奥(2)

大奥女性の身分と立場


御台所

大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍徳川家斉御台所・広大院と13代将軍徳川家定御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、近衛家に養女となった上で輿入れしたため形式的には例外はない。

江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表した事で、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、約100年もの間、御台所不在の期間が続き、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが、大奥を主宰した。

側室

将軍の側室は基本的に将軍付の中臈から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれた。
寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる。さらに我が子が世子となり、やがて将軍ともなれば、落飾した側室でも将軍生母として尼御台(あまみだい、落飾した御台所)をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。
しかし側室や将軍生母の力は時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上(おかみ、将軍)の最近親として礼遇された。その他の側室は二丸御殿や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。

大奥女中

大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。
女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。
【大奥wikiより】






  


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2010年11月22日

大奥(1)



大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所

江戸時代、徳川の天下の中で室町時代に築城された江戸城は「将軍様のお城」として増改築を繰り返されてきました。
特に三代将軍家光の時までは大規模な増築がされ、総坪数は222,182坪、そのうち本丸の建坪は10,978坪になります。

江戸城本丸は南から北へ、「表」「中奥」「大奥」の三つの部分から成っていました。
「表」は、広大な白洲に謁見が行われる大広間があり、大名や役人が執務する多くの座敷が廊下でつながっていて、政治の中心となる所です。
「中奥」は、将軍の官邸で、将軍が自ら政務を行なったり、普段生活している場所です。
休息の間、台所、能舞台などもありました。
そして「大奥」。将軍の正室をはじめとする各女性たちが住む場所で、将軍の私邸です。
本丸の北半分の敷地を占め、中奥とは銅塀で遮断され、御鈴廊下と呼ばれる廊下のみでつながっていました。
出入り口は御錠口(おじょうぐち)のみで、将軍が大奥に入るときは、係が太いひもにつるした鈴を鳴らすので「御鈴口(おすずぐち)」とも呼ばれました。
御錠口は午前6時ごろに開き、午後6時頃に閉られ、それ以外の通行は禁じられていました。
原則として将軍以外の男は入れませんでしたが、将軍の親戚の御三家・御三卿、御台所・側室の譜代大名の親戚、老中、御留守居役、大奥付の医者や僧侶は立ち入ることができたそうです。

二代目将軍 秀忠の時代である1618年(元和4年)1月1日に「大奥法度」という法律が作られてから以後は表の世界とは完全に分離され、その体勢は江戸城開城まで続きました。




※2011年11月みるきー舞姫「不夜城」公演も無事に終了しました。お越し頂いた皆様方、有難うございました。


  


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