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2012年03月12日

遊郭

遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。成立は安土桃山時代にさかのぼる。


別称として、花街(はなまち、かがい)、廓(くるわ)、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、傾城町(けいせいまち)などがある。「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、その地の支配者が治安を守り風紀を統制することが目的だった。



古代から女性による接客は存在した。神社の巫女による官人の接待がその起源である。江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。



権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。



江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。
夕霧太夫のいる大坂の新町遊廓、吉野太夫のいる京都の島原遊廓、高尾太夫のいる江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
鎖国の時代になると、寛永16年(1639年)ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生した。井原西鶴は『日本永代蔵』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。この丸山を三大遊廓に数える書もあるほどで、南蛮貿易で潤った当時の華やかさがうかがえる。



江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。
江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。



明治5年(1872年)、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった。東大の近くにあった根津遊廓が深川の洲崎に移転したのはその例である。
明治33年の娼妓取締規則は、 庁府県令に貸座敷に関する取締規則を制定させた。その規則によって、貸座敷営業の許される地域が指定され、また娼妓の居住地と貸座敷の許される地域が一致させられたことにより、娼妓はこの指定地外に居住することができなくなった。この指定された公娼街をかつては「遊廓」と呼んだ。
第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続した。昭和32年(1956年)、売春防止法が成立し、昭和34年末の同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。



【 舞姫伝イメージ 】

大江戸あやかし舞姫伝
場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※当日舞台の舞楽曲ではなく、舞姫伝イメージ利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(0)花魁

2010年11月16日

花魁(4)



MilkyHouse

江戸吉原 花魁道中

太夫(たゆう)
三枚歯の高下駄を履き、独特の外八文字の歩き方を披露します。(京都では内八文字)
かつら・衣装等合わせると30kgにも及ぶ重量のものを身につけるため、美貌だけでなく、精神力や忍耐強さ、足腰の強さ等体力面も要求されます。

禿(かむろ)
将来の「おいらん(太夫)」の候補生として、「おいらん」や「新造」の身の周りの雑用や行儀作法の見習いをする少女のことで、たばこ盆とキセル入れを抱えています。

振袖新造(ふりそでしんぞう)
「かむろ」から成長し、独り立ちする前のおいらん付の見習のことです。
おいらん(太夫)の身の回りの世話などをします。「振袖新造になるものは格の高い花魁になる将来が約束されたものである。」と言われています。

番頭新造(ばんとうしんぞう)
全てを取り仕切り、マネージャー的な役割を担うのが番頭新造です。
かむろ・振袖新造のお姉さん的な役割です。
他の新造と衣装も違い、振袖新造の一番後ろに付きます。
(歌舞伎などでは、[羽衣新造 はごろもしんぞう] とも呼びます。)

手古舞・おんな木遣り(てこまい おんなきやり)
「江戸中期頃、芸者が山車を先導するため、男性風の扮装で登場したのが始まり。」と言われています。

持ち物は、右手に金棒(上に鉄製の輪が4~6個付く鉄製の棒)、左手に自分の名前が書かれた提灯を持ち、本来は木遣りを歌いながら行進する。

男衆(おとこしゅう)付き人

<strong>金棒引き・露払い(かなぼうひき・つゆはらい)
行列の先頭を金棒を突き鳴らしながら歩きます。

提灯持ち(ちょうちんもち)
太夫の名前が入った大きな箱提灯を持っています。

肩貸しの男衆(かたかしのおとこしゅう)
おいらん(太夫)が外八文字で歩く際に、無くてはならない存在の男衆です。
側に付いて警護の役割もします。

傘持の男衆(かさもちのおとこしゅう)
大きな傘を太夫の後ろから差し掛けています。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

みるきー舞姫11月公演告知

女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )

日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
場所
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
お願い
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
演 目
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞[大正バージョン]


みるきー舞姫10月公演 【 MOD竹取物語 】動画
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:22Comments(0)花魁

2010年11月15日

花魁(3)



MilkyHouse

【花魁】映画には「さくらん」があります。
--- あらすじ ---
真っ赤な金魚たちが宙を泳ぐ。大門をくぐると、そこは華やかな吉原遊郭。
桜が満開の中、遊郭<玉菊屋>に連れてこられた8歳の少女は、きよ葉と名付けられた。
口が悪く、誰にもなつこうとしないきよ葉の面倒をみることになったのは、気位が高く、絶世の美しさと知性を兼ね備えた完璧な高級花魁・粧ひ。女だらけの世界に嫌気がさし、きよ葉は脱走を図るがあえなく失敗。厳しい折檻を受けても逃げ出すことをやめようとしないきよ葉。だが、自分から「吉原一の花魁になってやる」と言ってしまう。その気にさせたのは粧ひだった。きよ葉に、相手に自分が思った通りの言動をとらせる「手練手管」(てれんでくだ)を見せ付けたのであった。そして、粧ひは金持ちの旦那に身請けされ、全ての遊女が最も夢み、羨望するかたちで吉原を出て行く。それは吉原の門を出て、遊女が生きられる、唯一の方法。別れの日にきよ葉は粧ひから、彼女が身につけていたかんざしを受け継ぐ。
やがて、17歳になったきよ葉は「十年に一度の天女」と楼主が誉めるほどの女に成長し、店に立つ。きよ葉のはじめての客「突き出し」の相手は玉菊屋一の上客であり、花魁・高尾の馴染であったご隠居。鼻っ柱の強さと美貌が気をひき、一躍江戸中の注目の的となる。
そんな、きよ葉も初めて恋に落ちる。うぶな青年・惣次郎がきよ葉目当てに玉菊屋を訪れ彼女を求めたとき、きよ葉はどうしようもなく恋に落ちた。惣次郎の前では弱さも本音も全て曝け出し、ただひたすら彼といられることをこの上もなく幸せに感じていた。遊女は偽りの愛を売る世界に生きるもの。しかし、惣次郎と過ごす時間だけはきよ葉にとっては本物だったのだ。
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さくらん】用語
足抜け…廓(くるわ)から逃亡すること。捕まると酷い仕置きを受け、命を落とすこともあった。
ありんす言葉…吉原の遊女が使っていた言葉。地方出身の遊女が多いことから、なまりを隠すために使われていたという。
大門(おおもん)…吉原の出入り口は大門だけである。明け六つ(午前六時)に開かれ、夜四つ(午後十時)には閉じられていたが、深夜の出入りは横の木戸から行われていた。
お茶をひく…客が付かず、売れ残っていることを言う。
女衒(ぜげん)…遊女屋への身売りの仲介をする周旋業者を呼ぶ。
外八文字(そとはちもんじ)…花魁道中の花魁の歩き方。
惣仕舞(そうじまい)…客が一軒の遊女屋を買い占めて遊ぶこと。
突き出し…新造がはじめて客をとり、一本立ちをするお披露目の日。
手練手管(てれんてくだ)…客の自尊心をくすぐったり焼き餅を焼かせたり、巧みな手法で客の心を虜にする手口。
馴染み…客が通って三会目、花魁に気に入られると見合い・結納・結婚という擬似夫婦関係が成り立ったとして馴染みになれる。馴染みと認められて初めて床入りが許された。
年季…江戸時代に定められた10年間の雇用期間。吉原の遊女も表向きは10年間の年季奉公で、この10年間は「苦界」(くがい)と詠われた。禿時代の奉公はこの10年間には入らない。
裸寝(はだかね)…何も身に着けず、丸裸で情事におよぶこと。遊女は客と床入りする時も襦袢の帯を解くことは無く、それを「張り」(プライド)としていた。
張見世(はりみせ)…花魁以外の遊女が、見世に並んで顔見せをする。見世には籬(まがき)と呼ばれる格子があり、どんな籬をつけているかで見世のランクが分かれていた。玉菊屋はもちろん最高峰。
引っ込み禿(ひっこみかむろ)…禿の中でも上流遊女として将来性が見込まれるエリートとして英才教育(琴や俳諧、接客方など)で育てられる禿。
間夫(まぶ)…遊女が本当に思いを寄せる男。
身請け(みうけ)…馴染み客が多額の身代金を払って、遊女を引き取ること。千両(7500万円)もの大金を必要とすることもあった。身請けは遊女にとって最大の夢であるが、望まない身請け話もあり、事実上遊女に選択権は無かった。
三ッ布団(みつぶとん)…敷き布団を3枚重ねたもの。遊女の格によって敷布団の枚数が違った。呼び出し、昼三、座敷持ち以上の遊女しか三ッ布団は敷けなかった。
名代(みょうだい)…姉女郎が忙しい時などは、妹分の新造が代理として座敷に出る。客は名代に手を付けられないが、馴染みの遊女と同額の場代を取られた。

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みるきー舞姫11月公演告知

女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )

日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
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特設会場
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お願い
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
演 目
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Posted by hidesun(英寸) at 21:45Comments(0)花魁

2010年11月14日

花魁(2)


MilkyHouse

遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた(吉原細見に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある)。時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、花魁に相当するのは、おおむね次の遊女である。

太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。
格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。
座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。
呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。
なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。

花魁を揚げるには様々なしきたりが存在していた。
花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。
座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
初会(つまり一回目)、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
裏(つまり二回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
三回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、三回目でようやく床入れ出来るようになった(なお、この初会から三会目のしきたりは、存在を疑問視する意見もある)。
馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされる。他の花魁に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。客は金を支払って詫びを入れたという。
花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。「花魁wikiより」

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日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
場所
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
お願い
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
演 目
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
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Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)花魁

2010年11月13日

花魁(1)


Milkyhouseより

花魁wiki」
花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。 18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある]。
江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。

吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658)の吉原細見によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶669人、次女郎1004人がいた。
江戸時代後期の安永4年(1775)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている。
花魁は、吉原の遊郭で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。
花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。

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女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )

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