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2011年04月30日

こいのぼり

こいのぼり(鯉幟)とは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。皐幟(さつきのぼり)とも言う。現在はグレゴリオ暦(新暦)5月5日まで飾られ、夏の季語として用いられる。飾られる季節も変わり、イメージは「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となった。


中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。
本来は真鯉(黒い鯉)のみで、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになったが、昭和時代からは家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となった。ただし、過渡的に黒と青だけという組み合わせも見られた。また、真鯉に赤い裸の男の子がしがみついている柄のものがあるが、これは金太郎とみられ金太郎が自分より大きい鯉を捕まえた伝説をもとにしているとみられる。
最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もある。暖色の子鯉の増加はそういった需要に応えてのことのようである。
さおの先に回転球やかご玉、その下に矢車を付け、五色もしくは鯉などを描いた吹流しを一番上に、以下真鯉、緋鯉、等を大きさの順に並べて揚げるのが一般的。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、こいのぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、形状は魚を模した吹流し形である。
そもそも、こいのぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であった。
端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。
一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。
さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。  


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2011年04月29日

端午

旧暦では午の月は5月にあたり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったという。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいう。

日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。
鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している(こいのぼりの項)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)こいのぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。
端午の日にはちまきや柏餅(かしわもち)を食べる風習もある。ちまきを食べるのは、中国戦国時代の楚の詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)にちまきを投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月28日

行灯

行灯、行燈(あんどん)は照明器具の一つ。持ち運ぶもの、室内に置くもの、壁に掛けるものなど様々な種類がある。もともとは持ち運ぶものだったため「行灯」の字が当てられ、これを唐音読みして「あんどん」となった。携行用は後に提灯に取って代わられた為、据付型が主流となった。

一般的に普及したのは江戸時代である。それまでは火皿が覆われていなかった。竹、木、金属などで作られた枠に和紙を貼り、風で光源の炎が消えないように作られている。光源は主に灯明(とうみょう)で中央に火皿をのせる台がある。石もしくは陶製の皿に油を入れ、木綿などの灯心に点火して使用する。蝋燭を使用するものもあったが当時は高価であったため、主に菜種油などが使用された。庶民はさらに安価だが、燃やすと煙と異臭を放つ鰯油(魚油)などを使っていた(化け猫が行灯の油をなめるという伝説は猫が脂肪分を効率よく摂取するためにこれらをよく舐めていたことに由来すると考えられている)。さらに下層では「暗くなったら寝る」という有様だった。
照明器具とはいっても現在のものとは比較にならないほど暗いもので、電球の50分の1程度といわれている。

置行灯(おきあんどん)
最も一般的な室内型。多くは縦長の箱型をしており、内部には灯明をおく台、上部には持ち運び用の取っ手が付いている。下部に引き出しなどを備えたものもあり、灯心、蝋燭などを収納した。小型のものは雪洞(ぼんぼり・せっとう)とも呼ばれる。
掛行灯(かけあんどん)
店の軒先などに掛け、屋号や商品名を書いて看板としたもの。夜間も店を開けている飲食店などに多かった。
遠州行灯(えんしゅうあんどん)
置行灯の一種。円筒形をしているが完全に囲わず、一部が空いている。ここから点火・消火の操作を行ったり、行灯自体を回して光量の調節ができる。一説には小堀遠州の発明による名称とも。
有明行灯(ありあけあんどん)
小型の行灯で、就寝時、枕元に置いて使用する。こうしておかないと用を足しに立ったり何か突発的な事態が発生した時に即応できない。窓が付いており、光量を調節できるものが多かった。名前は「夜が明けて有明の月が出てもまだ点いている」ことから。 【行灯wiki】


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月27日

提灯

提灯(ちょうちん)は、照明器具の一つ。内部に明かりを灯し、紙などの風防を通して周囲を照らします。

「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。いわば昔の懐中電灯で、中に蝋燭を点して持ち歩いたが、現在では祭礼の際を除くと、日常の場でこのように使われることはほとんどない。近年は、竹ひごや紙の代わりにプラスチックのシートを使い、蝋燭の代わりに電球を使って、主に祭りなどのイベントや看板として使用されることが多い。

提灯について書かれた最も古い文書は、1085年(応徳2年)に書かれた『朝野群載』、絵画は1536年(天文5年)の『日蓮聖人註画讃(巻第五)』とされている。当時の提灯も折りたたみ可能な構造であったが、張輪は付いていなかった。
江戸時代以前は、上流階級において宗教的な祭礼や儀式に使われた。江戸時代以降は蝋燭が普及したため、庶民も照明器具として使うようになった。

竹ひごを多数組み合わせて筒状に組み、その周囲に障子紙を張って、中に蝋燭を立てられるようにしてある。
中国のものは、布を貼ることが多い。蝋燭に火を点すと明かりが障子を通し外を照らす。夜にこれを持ちながら歩くと道中の明かり取りになる。手に持たず、家の前にかけておくと外灯にもなる。外に貼った紙には折り目がつけられており、使用しない時は上下方向に折りたたむことができる。周りに障子紙が貼られているので、風で火が消えることはほとんどないが、上下に穴が空いて空気を通るようにしているため酸素不足で火が消えることもない。殆どには上下に曲げわっぱと呼ばれる木製またはプラスチックの皿と蛇腹状の紙で作成されている。【提灯wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月26日

漆器

漆器(しっき)は、木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。


漆はウルシノキ等から採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。ウルシノキから樹液をとることを「漆掻き」「漆を掻く」という。現在では、国産の漆の生産量はごく僅かで、大半を中国から輸入している。
製造工程は漆の精製から素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)の加工、下地工程、塗り工程などに大きく分けられるが、細かな工程を挙げると30から40もあり複雑である。工程の違いにより、漆塗にもさまざまな種類がある。漆の工芸品は中国、インドシナなど東アジアで広く見られる。
当時英語で、磁器をchinaと呼ぶのに対して漆器をjapanと呼んだことからも判るように、欧米では日本の特産品と考えられていた。 漆器という区分けより漆塗のものの範疇として中国や欧米で捉えられている。
製品として完成後は、木地や下地の状態が分かりづらいので購入の際には注意したい。 名のある店舗でも廉価な製品は輸入品であったり、簡略化した技法で製作されている場合がある。 また、値段を高く設定し高級品だと思わせる商法も僅かだが健在である。制作した職人や作家の名前が分かるものが望ましい。 良いものであれば修理して何年も使えるので無闇に廃棄しないよう心掛けたい。

紀元前13世紀の棺桶の塗料として用いられているものが中国発見されている。 中国の殷(いん)(3600~3000年前)の遺跡から漆器の一部が発掘されていたので、漆器は中国が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9000年前の縄文時代前期の漆器が見つかり、また漆木のDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認された。このことから、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いている。日本では垣ノ島B遺跡の出土品に次いで約6000年前の朱塗りの櫛(鳥浜遺跡)も発掘されている。現在、中国で最古の物は長江河口にある河姆渡遺跡から発掘された約7000年前の漆椀である。(日本で縄文時代に作られていた漆器は朱のみ。黒の漆器は弥生時代以降)
 【漆器wikii】


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)和文化

2011年04月25日

箸は、材質や形状などに様々なバリエーションがあるが、同じ長さの2本の棒状のものが1組になっている点はほぼ全ての箸に共通している。多くの場合、模様や装飾の類も左右対称または合わせて一つの模様になるよう2本に同じ物が施されている。
また、箸には通常「先」がある。基本的に棒のどちらか一端のみが食べ物に接触することが前提となっている。これは棒の一端が細くなっていること、装飾などがないこと、などによって見分けられる。

日本において、食事に用いられる箸の典型は、短い木に漆・合成樹脂を塗ったもので、塗り箸と呼ばれる。漆を塗り重ねた箸には独特の光沢があり慶事などに用いられる。一方、木目の美しさを出すために表面に漆などによる塗りを施さない箸もある。日本の箸は、片方のみ、先が細くなっているものが多い(例外として、祝箸は両端ともに端に向かって細くなっている。また、塗りを施していない箸には木目の美しさを強調するために後端を片面に向かって鋭角に切り落とす「天削げ」と呼ばれる加工を施したものがあり、近年では塗り箸にも装飾のために天削げの加工を施したものがある)。日本の箸の先が細くなっているのは、骨付きの魚を食べる際、骨と身をより分けやすくするためである。日本の箸は、塗り箸など木製が古来から主流であり、次いで竹製が使われる。現代では子供用や一部の食堂などでプラスチック製もよく使われる。塗り箸の主なものに、若狭塗と輪島塗があり、その他に津軽塗、会津塗、秀衡塗、江戸塗、鎌倉塗、村上堆朱塗、木曾塗、飛騨春慶塗、籃胎塗などがある。この他にも種々の民芸箸、創作箸があり、日本各地の神社仏閣でも夫婦箸や長寿箸といった各種の授与箸が配布されている。

古い時代の箸が発見されにくいのは、木や竹でできた箸は腐りやすく、また単なる木切れか箸かの区別もしにくいためと考えられる。最古例としては、殷墟(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)からの青銅製の長さ26cm、太さ1.1~1.3cmの箸6本の出土が報告されているが、食事用ではなく菜箸のような調理器具であったとされる。

日本では、弥生時代末期の遺跡から1本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、食べ物を口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる。三国志巻30魏書30東夷伝にある魏志倭人伝によるいわゆる邪馬台国においては「食飲用籩豆手食」と手で飲食しているとあり箸の使用は記述されていない。2本で1膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に仏教とともに百済から伝来してからとも言われるが、朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された小野妹子一行が持ち帰った箸と匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる。

箸は通常、他の食器と共に食卓の上におかれる。
「箸置き」と呼ばれる箸の先をもたせかけるための小物の上に置くこともあり、レストランなどではナプキンの上に置く場合もある。箸袋もこの一種とみなすことができる。外食チェーン店などでは箸立てや大型の箸箱がテーブルに置かれることもある。
食事中は利き手に持つ。1本を鉛筆を持つ要領で持ち(親指・人差指・中指で抓んだ状態)、もう1本を中指と薬指の間に挟む(主に親指の付け根と薬指の先の2点で固定する)と、伝統的で正しいとされている箸の持ち方になる。親指・人差指・中指で持っている方を動かし、薬指で支えている方は動かさない。
伝統的で正しいとされている持ち方をした場合、2本が2 - 3cmの隙間を隔てたまま平行に出来、掌側の箸同士は常に間隔が空いた状態となる。また、2本を大きく開かない限りは接触しない。伝統的で正しいとされている持ち方が出来ているかどうかは、鶏の卵を掴み、垂直に持ち上げられるかどうかや、鶉の卵大のものを掴んだ際、2本が平行に近い形となっているかでも概ね判断できる。
なお、箸を使う国の中で、箸のみを使って食事をする作法が確立されているのは日本だけといわれる。和食では椀に直接口をつけて汁を飲むことが許容されているため汁物を箸だけで食べるが、中華料理では汁物を食べる際にレンゲを使用し、韓国料理ではごはんには匙を、おかず等副菜をつまんだり麺類を食べたりする時に箸を使うのが一般的である。【箸wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


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● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月24日

和傘

和傘が主に紙(油紙…防水加工した和紙)や竹を材料とします。

540~570年の時代に、当時の先進国が存在した中国大陸から朝鮮半島西岸勢力の百済を経由して伝来した輸入品目であり、導入当初から「唐傘(からかさ)」と呼称されたとの説が一般的であるが、日本において独自に開閉式に改良されたものを、唐繰傘(唐繰は絡繰と同義語)と呼称したことから略して「唐傘」と呼称されるようになったともされる。
和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使用した。
和傘には番傘(ばんがさ)、蛇の目傘(じゃのめがさ)、端折傘(つまおれがさ)などの種類があり、この内、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどのバリエーションも見られる。

日本の日傘をもつフランスの舞台女優サラ・ベルナール (1844年-1923年)
洋傘の骨が数本程度に対して、和傘の場合サイズにもよるが数十本の骨が用いられる。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているためである。窄めた際に和紙の部分が自動的に内側に畳み込まれる性質を持つ。
和傘は防水性には大変優れているが、耐久性に優れているとは言えず、また自然素材を多用した結果、洋傘に比べて重いという欠点がある。そのため、上向きに展開するには重量が過大で、過度な力がろくろや骨にかかることを避けるよう、展開の際には一般的に下向きに展開し、その後上に向ける。洋傘のように逆さに傘を立てて保管すると雨水が頭頂部に溜まり、浸水により破損する危険があるため、天井や軒先からつるす様に保管する必要がある。和紙を多用するため、虫食い、湿気による侵食、多雨時の防水性にも問題が生じる。また、長期で利用すると素材の特性で色が移り変わる。雨傘の場合、長期使用しないと防水用の油がくっつき、展開に手間取る場合がある。

東洋では、傘はまず、魔除などの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、その後、古墳時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済王)から貢物として日本に献上され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。

元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。
しかし、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。【傘wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


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● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月23日

足袋

足袋(たび)とは日本固有の伝統的な衣類で、足に履く一種の下着である。木綿の布でできたものが一般的。日本の伝統的な履物である草履・下駄・雪駄などを履く際に用いるため、親指と人差し指の部分で袋が2つに分かれている(叉割れ)。

文献上は11世紀ごろに「足袋」の記載が見られるが現在の足袋と同様の物であるかは不明で、発音も「たび」と呼ばれていたのかは分からない。明確な起源は分かっていないが、平安時代の貴族が履いていた下沓(しとうず)と呼ばれる靴下か、当時の猟師が履いていたとされる皮製の靴下が源流であると考えられている。初期の足袋は足首部分に紐が縫い付けてあり、紐を結ぶことで脱げ落ちないように留めていた。
明暦3年(1657年)に起きた振袖火事によって皮が品不足となり高騰したことから、木綿製のものが急速に普及していったと言われている。木綿製足袋の普及と同時に、紐止め式からボタン止め式へと足袋を留める方式も変化していった。現在の足袋は「こはぜ」(甲馳、牙籤、甲鉤、骨板)と呼ばれる金属製の金具(ホック)を「受け糸」(または掛け糸)と呼ばれる糸のループに引っ掛けて留めるようになっているが、この方式は江戸後期から明治前期にかけて普及したものである。

皮足袋
足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。布製の足袋が登場するにいたって皮足袋は姿を消し、現在ではごく特殊な場合を除いて見かけることはないが狂言の舞台で用いる黄色い足袋(狂言足袋)は皮製の足袋の外見を真似て考案されたものである。
白足袋
白足袋は主として改まった服装の際や慶弔等の行事ごとの際に用いられる。殊に儀式用・正装用というわけではないが、黒足袋・色足袋が平服にしか合わせられないのに対し、白足袋は平服から礼服まで広汎に着用することができる点に特色がある。特に茶人や僧侶、能楽師、歌舞伎役者、芸人などはほとんどの場合白足袋をはいており、こうした人々を総称して「白足袋」と称するならいがある。
能舞台、所作板、弓道場などは白足袋着用でなければあがれないことが多く、土俵上でも白足袋以外の着用は認められない。これらの例からもわかるように白足袋は清浄を示す象徴であり、ほかの足袋とは性格の異ったものとして扱われている。
黒足袋
男性が平服の際にのみ用いる。一説には白足袋のように汚れが目立たず経済的であるところから考案されたとも言い、江戸時代には勤番武士が多く黒繻子の足袋を履いていたことから、こうしたことを理由として黒足袋を嫌う人も多い。なお弔事に黒足袋を用いるとするのは俗説もしくは明治時代以降のきわめて特殊な慣習であって、本来慶弔にかかわらず正装の際には白足袋しか用いることはできない。
からす足袋と呼ばれる紺木綿黒底足袋などは表生地/底生地に紺や黒の生地を使用し舞台の黒子が動いたときに白い部分が目立たないようなものも有る。
色足袋・柄足袋
白黒以外の色や柄ものの足袋。女性が通常使用するもの。男性の場合、昔はごく一部の伊達者のみが使用していたが、現代では女性同様に着物の柄に合わせて選ぶことも珍しくない。【足袋wiki】

●フクスケ (福助足袋)

創業者の辻本福松が、1882年(明治15年)に大阪・堺で足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業させる。しかし丸に福を入れただけの商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに挿絵化、1900年に「福助印堺足袋」として商標登録をおこなう。またその間の1895年には足袋用のミシンを開発し、足袋の大量生産化を成功させる。


【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


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2011年04月20日

下駄

呼び名の成立は戦国時代と推測され、下は地面を意味し、駄は履物を意味する。それ以前は「アシダ」と呼称された。

日本には緒を用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や樹皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、緒が踵まで覆い足から離れないように踵の後ろで結ぶ草鞋(わらじ)の3つがある。下駄は中国及び朝鮮半島にもあるが、日本語の下駄にあたる言葉はなく、木靴まで含めて木履という。

台の下に付けるのが歯で、通常は前後2個だが、1個のもの、3個のものもある。一つの木から台と歯を作るものを、連歯下駄(俗称くりぬき)、別に作った歯を台に取り付けるのを差し歯下駄という。歯が一本の「一本歯下駄(高下駄)」は、天狗や修験者が履くイメージが強い。そのため、山での修行に使うとも言われる。「舟形」あるいは「右近」と呼ばれる、歯が無いものもある。 歯の材は樫、欅、朴(ほお)など。特に朴は樹種の中では高硬度で歩行時の摩耗が比較的少なく、下駄の寿命が長く、重宝された。『朴歯の下駄』という題名の小説や、バンカラ学生が履くのは朴歯の下駄、という時代もあった。
台には3つの穴を穿つ。前に1つ、後ろに左右並んで2つ。これを眼という。後ろの眼の位置は地域によって異なり、関東では歯の前、関西では歯の後ろが一般的である。
眼に通す紐を、緒または鼻緒という。鼻緒はもと、緒の先端部の足指がかかるところを意味したが、今では緒の全体を指すようになった。緒の材質は様々で、古くは麻、棕櫚、稲藁、竹の皮、蔓、革などを用い、多くの場合これを布で覆って仕上げた。色とりどりの鼻緒があることから「花緒」とも書く。

基本的に和服で履くが、正装ではなく、普段着の和服と組み合わせることが多い。浴衣の際は素足に下駄が基本である。また、洋装に下駄を履く場合もある。男子学生がファッションとして崩れた洋服(学生服)などに下駄を履いていることをバンカラと呼ぶ。現代の日本では、和服が着られる機会が少ないのと同様に、一般的には履かれることは少なくなった。

木製であるため、歩くと特徴的な音がする。「カラコロ」あるいは「カランコロン」と表現されることが多い。そのため、祭りや花火の日に浴衣姿で歩く場合や、温泉街の街歩きなどでは雰囲気を出す音であっても、現代の町中では騒音と受け取られることも多く、(床が傷むことも含め)「下駄お断り」の場所も少なからずある。この対策として、歯にゴムを貼った下駄も販売されている。【下駄wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


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2011年04月19日


日本の江戸時代以前には、髷(まげ)の形を崩さないよう、頭ではなく首を木製の小さな台に乗せる(箱枕)のが、枕として一般的であった。
枕は、ほとんど全ての文化で用いられており、頻繁に出土品として発見され、古代エジプトの墳墓からも発見されている。1924年に南アフリカでアウストラロピテクスの頭蓋骨の下に人為的に砕かれた石が敷かれていたのが発見されたが、祭司的な意味で敷かれたのか、それとも実際に使われていたのか定かではない。
染色と裁縫の技術の進歩に伴い、枕は重要な工芸品になり、まず中国で丹念に刺繍された枕が広まり、中世ヨーロッパでも広く貴重品として売買された。貧しい人の間では、粗い布を縫い合わせたものに藁を詰めたものが広く用いられていたが、地域により骨や木、時には石が枕に用いられた。産業革命以後は、安価に大量生産された布を使い、様々な枕が作られるようになり、現在にいたる。
枕は、そのまま用いずに薄い布(木綿やポリエステルなど)でできた枕カバーで包んで使われることが多い。枕カバーは定期的に洗い、清潔に保つ必要がある。それでも埃やゴミを溜め込んでしまうため、定期的に天日か陰干しを行い、乾燥、消毒させることが必要である。
枕は長く使用していると、ダニが発生することが多い。ダニはアレルギーを引き起こす場合がある。これは特にアトピーや喘息を持つ人の場合には深刻な問題である。アレルギーの原因としてダニの糞・死骸などが主なアレルゲンであり、除去方法として枕に掃除機をかけ、洗濯機で丸洗いが効果的とされている。このような問題を防止するため、最近では、防ダニ加工や、抗菌加工が施されたアレルギー対策枕も販売されている。アレルギー対策枕は、詰め物にポリエステル、布にポリプロピレンなどが使われる。
「人間は、もともと反射的・力学的に体にとって楽な姿勢をとろうとするもので、枕も、人間が体を健康に保つツールとし必然的に発生したもの」という。最近では、ただ頭だけを支えるだけではなく、首の形を整えて頭を支えるものと言われている。また首や頭の形状は、体型、年齢、性差などで千差万別であるし、マットレスや敷き布団との相性もあり、誰にでも合う万能枕はなかなかお目にかかれない。

語源: 様々な文化で枕は、生や死と密接に結び付けられている。日本語のまくらは、たまくら、つまり魂の倉が語源であるとする説がある。また英語では一般的に"pillow"と綴られるが、最近では"baby"と綴ることが多い。 【枕wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


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● 撮影月 : 2010年11月  


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2011年04月18日

畳の板状の芯材をの畳床(たたみどこ)、その表面を覆うイグサを編み込んで出来た敷物状のものを畳表(たたみおもて)、畳の縁に付けられる帯状のものを畳縁(たたみべり)という。

畳には縦横比が2:1になっている長方形の一畳サイズと、これを横半分にした正方形の半畳サイズの2種類がある(以下の記述は特に断らない限り一畳サイズに関するもの)。大きさは3尺×6尺(910mm×1820mm)のものが基本となるが、部屋の寸法に合わせて注文生産される場合が一般的なのでサイズは一定していない。一般的な規格としては、京間(本間)、中京間(三六間)、江戸間(関東間、田舎間、五八間)、団地間(公団サイズ、五六間)の四種類が有名である。この他にも地域ごとに様々な規格が存在する

畳は、世界に類がない日本固有の文化である。 現代の畳に近づくのは平安時代に入ってからであり、厚みが加わるとともに大きさの規格化が進められている。延喜式では、階級により大きさや縁の色が定められている。平安時代までは板床に敷くクッションの一種の様な感覚で使われていたが、室町時代に入ると、書院造の登場によって部屋全体に畳が敷かれる様式があらわれ、茶道の拡大に伴い、正座と共に普及していった。江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見なされるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られた。
最近は生活の洋風化に伴い畳を敷き詰めるのではなく、平安時代のようにクッションとして1枚から数枚程度板間に置く、という形が復活しつつある。

畳のサイズに違いが出たのは、もともと一間(いっけん)という、年貢米を明確にするための検地における寸法の違いの影響が大きい。秀吉の時代(太閤検地)には、これが6尺3寸であったが、江戸時代には6尺として、事実上の増税となった。当時は、この一間の検地竿(間竿)を基準にして建物を造ったと考えられ、殆どの造作物がこの竿の長さを一つの単位とすることになる。これによって、畳もおおよその平均が出来、○○間といわれるサイズが多くなった。なお、江戸時代に6尺と短くされた背景には、面積あたりの米の収穫量が高まったことがあるとも言われている。
【畳wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


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● 撮影月 : 2010年11月  


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2011年04月17日

絵巻物

絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。

【 大神画像より 】

最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。
平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。
物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。
鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵巻』・『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される。

源氏物語絵巻


信貴山縁起


伴大納言絵巻


鳥獣人物戯画


【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


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● 撮影月 : 2010年11月  


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2011年04月15日


瓦が葺かれた屋根を「瓦葺(かわらぶき)」、「瓦葺屋根」、「甍(いらか)」とも言う。日本の甍は天辺が水平なものが多い。瓦を屋根に施工することを瓦を葺くといい、その施工に携わる業者を瓦葺き職人と呼ぶことがある。
粘土瓦以外に、別の材料を用いて造られた瓦型をした建材も「瓦」に瓦の材料名を冠したものを名称として用い、歴史的にも石瓦や銅瓦等と付けられ用いられている。現在でも、セメントや金属などの材料も使われ、通常の粘土瓦が使用できない寒さの厳しい地域や個人の好み等によって粘土瓦の代わりに葺かれることがある。

初めて瓦が登場するのはおよそ2800年前の中国とされる。日本にはおよそ1420年前の西暦588年、百済から仏教と共に伝来。飛鳥寺で初めて使用されたとされる。仕様は平瓦を並べ、そのジョイント上に丸瓦を並べた現在でも使われている本瓦葺きとほぼ同じである。飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみである。現存日本最古の瓦は飛鳥時代のもので、元興寺の極楽坊本堂と禅室に葺かれている瓦とされる。
7世紀末に建設された藤原京では、大極殿などの宮殿は瓦葺きで建てられていることが考古学的に確認されていることから、初めて寺院以外で瓦が使用されたとみられている。この頃の瓦窯遺構としては宗吉瓦窯(現在の香川県三豊市三野町吉津)の17号窯がある。しかし、地方においては、8世紀中頃以前は瓦葺きは寺院に限られると見てよい。
奈良時代、平安時代にはいると、瓦は寺院、宮殿の他、官衙にも用いられるようになる。特に、地方でも国府や国分寺といった国家権力を象徴する建物にも用いられるようになる。しかし、絵画史料から、貴族の邸宅は桧皮葺で、瓦は公的な建物にしか用いなかったことがわかる。各地には瓦屋(がおく)と呼ばれる瓦を生産、供給する役所が設けられ、決められた寺院や役所に瓦を納品していた。
中世になると、再び、寺院以外の天皇や将軍の御所の屋根も桧皮で葺かれることが多くなる。

伏見城の金箔瓦
近世に入ると、瓦は、それまでは仮設建物が多かった城郭の建築物へも用いられるようになる。特に、安土桃山時代には鯱瓦や鬼瓦、軒瓦に金箔を施したもの(金箔瓦)もあった。江戸時代前後には屋根の軽量化を図るために銅や鉛の金属で作られた瓦(金属瓦)も用いられ始めた。また、延宝4年(1674年)に瓦職人西村半兵衛が丸瓦を必要としない桟瓦を開発したと言われている。これにより、瓦を用いる量が減り、瓦を用いるための建物強度のハードルが低くなった。さらに、太平の世の課題として火事対策が幕府や藩の急務となり、耐火建築用品として瓦の使用が奨励され、一般にも普及することになった。
ただし、日本海側の積雪地帯を中心とする寒冷地では、粘土瓦は内部の水分が凍結して破損、剥落することが多く、屋根の積雪への対策もあり、瓦葺きはあまり普及しなかった。これは現代でもみられる現象で、北日本の家屋では金属板葺き(瓦棒・平板(一文字など)など)、スレート葺きなどが多い。
近代、明治時代には、洋瓦の開発や輸入が行われ始め、また、桟瓦を改良した引掛桟瓦が開発された。1926年以降、引掛桟瓦は当時の内務省の奨励により瓦葺きに用いる標準的なものとして現在も用いられている。【瓦wiki】

【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

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● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land  


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2011年04月14日

障子

障子(しょうじ)は、日本家屋における扉、窓に用いる建具の一つで、明かりを通すように木枠に紙張り(主に和紙、今では「化繊入り紙」もある)になっているものは明障子(あかりしょうじ)ともいいます。

扉を閉じたまま採光できるという機能により広く使われるようになった。ガラスやカーテンが普及するようになって使用は減ったものの、ガラス併用の障子なども作られ消滅することはなかった。一部がガラスになっていて障子部分が開け閉めできるものを雪見障子という。

明障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光という矛盾した機能を併せもつ明障子の発明は、画期的なことであった。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。

現在のような薄紙を貼った明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。

その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。
隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂では、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。
『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。
平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描かれている。この時代の明障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。

明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。【障子wikii】


【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

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2011年04月13日

源氏物語とふすま


『源氏物語』の中に「開きたる障子をいま少しおし開けて、こなたの障子は引きたて給いて」とあり、また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。
『源氏物語』は、引き違いの襖障子をありふれた情景として描いている。この頃になると貴族や上流階級の邸宅には襖がかなり普及していたと判断できる。
『源氏物語』が書かれてから凡そ100年のちの 藤原隆能(ふじわらのたかよし)の描いた『源氏物語絵巻』は、濃い色彩を塗り重ねていく、つくり絵の独特の優美な日本最古の絵巻物語である。人物は下ぶくれの顔に細い横線を引いて目とし、鼻を鉤かぎ状に描く「引目鉤鼻」の手法で描かれ、家屋は屋根や天井を省略した吹抜け屋台となっている。この絵巻物によってで室内の様子がよく判り、衝立、几帳、簾、蔀、屏風など建具の使用状や、襖障子に大和絵が描かれているのが分かる。

「宿木」の巻では、清涼殿朝餉の間には大和絵の襖障子と、銀地に流水飛鳥の図を描いた副障子(可動式の壁として使用した、嵌め込み式の襖障子の一種)が描かれている。「東屋」の巻では、浮舟の住まう三条の小家の縁側には、遣戸が見える。
室内の間仕切りに襖障子が使用されているが、姫君の座している側にはかならず几帳が置かれ、個性を演出する織物が使用されていて、部屋をさらに細分化して使用するための重要な隔ての役割を演出している。華麗な室内意匠は実に王朝絵巻にふさわしい。外回りの隔てには、明かり取りに簾や格子も多く見受けられるが、要所には舞良戸が使用されている。
帝やその他位高き男性の側には、屏風が描かれている。それぞれの建具にそれぞれの役割とインテリアとしての意匠や象徴的意味が込められているようだ。この時代の襖障子は、板戸用の骨太い組子桟に、絹裂地(きれじ)張りであった。開閉の為、引き手として太い総(ふさ)や、戸締まり用の懸金(かけがね)が付けられていた。そして多くは絵師による絵付けが施されていた。当時の一間は3mであり、2枚引違いにすると現在の建具の倍近い巾があった。しかも大工道具が未発達で台鉋もない時代で、骨太い組子しか作れなかった為、今日から考えると実に武骨で大変重い建具であったと思われる。

現存最古の襖は、建久8年(1197年)に建立されたと伝えられる、高野山金剛峯寺不動堂の内陣と外陣の境にたてられている襖である。ただ上張りも下張りも張り替えられており、当時のものは襖の骨組みだけである。ヤリ鉋で仕上げられた組子骨は太く、見付け3cm見込み2cmの桧造りで、縦骨が4本、横骨が7本組まれている。しかも現在の組子と同じ縦横の骨を交互に組付ける地獄組で、大変手のこんだ作り方であるという。

狩野永徳は、時代の変革に柔軟に対応して、時の権力者に巧みに取り入り、これらの障壁画のほとんどを狩野永徳とその一門で描いている。ついでながら、狩野派一門は江戸時代徳川将軍家の画工の長として、勢力を維持し続け、画才の他に鋭い政治感覚も合わせて持ち合わせていた。俵屋宗達や尾形光琳などが、狩野派の絵画技法を継承発展させて、金碧障壁画は日本美術に実に大きな影響を与えた。

※金碧障壁画※
書院造のひとつの特色に、華麗な金碧障壁画がある。金碧障壁画は、金箔地に群青・緑青・白緑そして朱や濃墨などを用いた、濃彩色の障壁画(襖や貼り付け壁、屏風などに描かれた絵)で、狩野永徳によって新しい画法が創造された。書院造の障壁画として、有名な二条城の二の丸殿舍や西本願寺の対面所がある。正面床の間の、貼り付壁や付け書院、違棚の小襖や間仕切りとしての襖、長押の上の壁面などをすべて構成要素として利用した、雄大で華麗なパノラマ金碧障壁画が描かれている。 【襖wiki】


【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

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2011年04月12日

襖(ふすま)は、和室の仕切りに使う建具のひとつ。木製の枠組みの両面に紙または布を張ったもの。「襖障子」(ふすましょうじ)または「唐紙障子」(からかみしょうじ)と呼ばれることもある。単に「唐紙」と呼ばれることもある。

障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾(ふすま)障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた。

「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が正しいとされている。ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦(ぜんきん) は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことである。寝殿造で多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり)などの縁取にも使用されている。几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていた。帳は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情を作っていた。

「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用された。襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられる。この衝立てを改良して、框かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図った。この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われる。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていた。「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りであった。このため「襖障子」と称された。のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていく。
一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようである。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案された。今日の障子である。【襖wiki】


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2011年04月10日

言霊

言霊(ことだま)とは、日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のことです。言魂とも書きます。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のことです。その法則についての学問を言霊学といいます。

声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。

「ことだま」とは、前述のように、「ことば」に込められた「珠」や「魂」の事。
本来、善良なものとして使用される。 邪悪な事象に関しては、「ことかえ」の儀式にて転換・変換し、善良なるものへと移行させる。 きちんと正しい心を持って正確に使用する事によって、「ことだま」が自然発動的に存在する全てを生かし、「ことかえ」が行われ、より善良で高度な精神性がもたらされ維持される。天孫降臨以来、受け継がれている日本古来の伝統である。
【言霊wiki】


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Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)神話

2011年04月09日


祓(はらえ/はらい)とは、神道上において犯した天津罪・国津罪などの罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術のこと。なお、祓の神事を行うことを修祓(しゅばつ、しゅうほつ)という。

神前において祈り、祓詞を奏したり、財物などを祓物として拠出させることで、その罪や穢れを購わせた。律令国家成立以後は、大祓が国家儀式として行われるようになった。
俗に、神前で行われる祈祷のことを、災厄除けの祈祷(本来の意味の「祓」)以外のものも含めて「お祓い」という。また、神社が頒布する災厄除けの神札も「お祓い」と呼ばれる。
「お祓い」の効果については統計学的に効果が確認されていない。1986年に北海道大学教養部において、厄年の人を対象にお払いを受けた人と、受けなかった人をグループ分けし、本人とその家族の死亡率の統計調査が行なわれた。その結果、統計学的差異は見られず「お払いには意味がない」という結論となった。
かつて、伊勢神宮の御師が全国を廻って伊勢神宮の神札を配っていたが、それを入れる箱のことを「お祓い箱」と呼んでいた。新しい神札が配られると古い神札は不要になることから、「お祓」を「お払い」にかけて、不要なものを捨てる(人を解雇する)ことを「お祓い箱(お払い箱)」という。

禊祓(みそぎはらい)祝 詞

高天(たかまの)原(はら)に神留(かむづま)ります 神漏岐(かむろぎ)・神漏美命(かむろみのみこと)以(もちて)皇御祖神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと) 筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に 禊祓(みそぎはらい)給(たま)う時(とき)に生(あ)れませる祓戸(はらいど)の大神達(おおかみたち) 諸々(もろもろ)の禍事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を 祓(はら)い給(たま)い清(きよ)め給(たま)えと白(まお)す事(こと)の由(よし)
を 天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)・八百万(やおよろず)の神等共(かみたち)ともに聞(き)こし食(め)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まお)す



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2011年04月08日


禊(みそぎ)とは、2つの意味がある。

1.神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離(みずごり)と呼ばれる。
2.禊祓(みそぎはらえ)の略。俳句や短歌などでは、夏の季語に用いられる。

地域によっては、一定の年齢に達した児童は通過儀礼としての禊をする事によって初めて“一人前”と認められる場合がある。
服装は白装束が原則だが、男子は褌で行う場合もある。褌の場合、白の越中褌が原則だが白の六尺褌の場合もある。

各地の裸祭りの中には、通過儀礼としての禊が祭り化されたものも多い。禊型の裸祭りでは真冬に氷水を浴びたり川や海に入る場合が多いが、この変形として温泉の湯、泥、甘酒、赤飯、等を掛け合うものもある。御輿等を担ぎながら水を浴びたり川や海に入る場合も多いが、これも禊の一種と考えられる。

神事の前に於ける行として、一般参拝者が手水で清めることも禊の一種である。一方で川や海、滝に入る禊を行う者もある。神社関係者などの研修会等で行われる他、寒中に精神鍛錬の意味合いをもって、神社が主催し、氏子らを集めて行う事もある。武道修行者が上記の機会等に、寒稽古の一環として行うこともある。また稽古の前に冷水を浴びてから稽古を行う武道家もいる。 【禊wiki】


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2011年04月07日

灌仏会

灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われる。
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づく。降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)の別名もある。

北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。 現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たす。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する。宗派に関係なくどの寺院でも行う。

甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもする。なお、「花まつり」の名称は明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の4月8日が、関東地方以西で丁度桜が満開になる頃である事から浄土宗で採用された呼称で、それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。お寺が経営している幼稚園や保育園では、こちらの名称の方がよく知られている。子どもたちにとっては、甘茶をいただく日。又、稚児行列を出す寺も多い。仏教系の学校でも行う場合が多い。
失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現するが、一説によるとこれは灌仏会に因むとされる。すなわち、江戸の鍛冶職人の隠語として、あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」→「四月八日だ」→釈迦の誕生日、というつながりで成立したとされる。【灌仏会wiki】


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