
2011年02月28日
三月

日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力です。
異名
かげつ(花月)、きしゅん(季春)、くれのはる(晩春)、けんしんづき(建辰月)、さくらづき(桜月)、さはなさきつき(早花咲月)、さんげつ(蚕月)、しゅくげつ(宿月)、とうげつ(桃月)、はなみづき(花見月)、はるをしみつき(春惜月)、ばんしゅん(晩春)、ひいなつき(雛月)、やよい(弥生)、ゆめみづき(夢見月)
日本では年度替り(主に会計年度や学年)の時期として有名である。月を通して卒業式や送別会が行われ、出会いと別れの時期でもある。また、春休みに該当する当月末には、人事異動が行われたり、多くの学校・会社・官公庁などが引越しや移行作業、新生活の始まりなどで忙しくなる。
ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。
3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。
誕生石 - アクアマリン、ブラッドストーン、コーラル(珊瑚)
星座 - 魚座(3月20日頃まで)、牡羊座(3月21日(春分)頃から)
誕生花 - サクラ、スイートピー、チューリップ

【 Stabat Mater (聖母哀傷) 】動画
● キャプチャソフト : Fraps3 / HD youtube動画
● 撮影時期 : 2010年7月
● 撮影場所 : Neptune Tokyo
2011年02月27日
雛祭りライブ
今宵、Milky house本店にて” Haruno Watanabeさん "のライブがあります。

【 雛祭りライブ 】
日時 2月27日(日) 23:00~24:00
LM場所 舞姫御殿

Milky house本店


撮影時期:2010年5月
場所:MilkyHouse
音楽:Yaz Rockett

【 雛祭りライブ 】
日時 2月27日(日) 23:00~24:00
LM場所 舞姫御殿

Milky house本店


撮影時期:2010年5月
場所:MilkyHouse
音楽:Yaz Rockett
2011年02月26日
100M+制服+舞姫
みるきー舞姫 如月公演告知

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月26日
100M+移動舞台?
みるきー舞姫 如月公演告知

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月25日
100M+移動舞台
みるきー舞姫 如月公演告知

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月24日
100M
みるきー舞姫 如月公演告知

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land

今月の舞台 : 移動観客席は高低差100mの移動 【 5階建舞台 】
【 みるきー舞姫ブログよりの抜粋ご案内 】
1.公開日時 2月26日(土) 22:30~23:45 ※開門22:00
2.場所 LM
※ 到着しますと目の前にテレポータがありますのでスカイ特設会場へTPしてください。

3.テーマ わたしのバレンタイン~❤
みるきー舞姫の如月公演は本拠地舞姫御殿の特設スカイ会場からいつもとかなり違う趣向でお送りします。
バレンタインデーの少女の一日を表現。
朝8時から夜22時まで2時間刻みでバレンタインをオムニバス式に演じます。
ぱじゃまとか学生服とか日頃みなれない衣装。
舞台は前代未聞の超縦型100m。客席自動移動式の5階建てです。
舞姫はやっぱり和風じゃなきゃっていわせない><
かなりかわいく仕上げってきてますのでお楽しみに。
【 注意事項 】
客席は各場面毎に20mづつ下降していきます。
席へお座りにならなくっても大事にはいたりませんができれば座布団にお座りになってみていだだければと思います。
テレポーターは1番目の演目のときの客席へ案内しますので定刻すぎにご来場の場合は、なんと客席の屋根に落ちてきます。落ち着いて屋根中央部をみていただくと穴があります。
屋根へ到着した場合は、この穴より客席へお願いします。
※ 詳細は、こちらをごらん下さい。
【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月23日
雛祭り(2)
「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。

雛人形の種類
親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす。
官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し
(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である
(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)
随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある。
仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である。
配置
内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
飾り方
御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
御殿の内の一室を拝しての飾り方
屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
雛人形の種類
親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす。
官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し
(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である
(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)
随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある。
仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である。
配置
内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
飾り方
御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
御殿の内の一室を拝しての飾り方
屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年02月22日
雛祭り(1)
和暦(太陰太陽暦)の3月の節句である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし一部では引き続き旧暦4月3日に祝うか、新暦3月3日に祝う(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。旧暦では桃の花が咲く季節になるため「桃の節句」となった。

雛祭りの歴史
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
※雛祭りが祝日でない理由※
江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】

雛祭りの歴史
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
※雛祭りが祝日でない理由※
江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年02月21日
歌舞伎(3)

歌舞伎に由来する語
黒衣
表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」は共に誤用が定着した慣用で、正しい表記は「黒衣」読みは「くろご」。黒装束に黒頭巾を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
黒幕(くろまく)
歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主・金主(投資者)・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。そもそも黒という色に悪の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、当時はむしろ御公議の「幕府」「幕閣」や大相撲の「幕内」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、様子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には実情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の黒幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
二枚目(にまいめ)・三枚目(さんまいめ)
一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のある役を務める立役の看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を務める役者を「二枚目」、面白おかしい役を務める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
幕切れ(まくぎれ)・大詰(おおづめ)
それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、江戸歌舞伎の一番目の最後の幕を大詰と言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
千両役者(せんりょうやくしゃ)
名優と呼ばれる歌舞伎役者の収入は1000両を超えたことから、転じて素晴らしく活躍した人の意味。女形では初代芳澤あやめが正徳年間(1711年 - 1715年)に、立役では二代目市川團十郎が享保6年(1721年)に、初の年給1000両を得たという。
十八番(おはこ、じゅうはちばん)
市川家が得意演目の歌舞伎十八番の台本を桐の箱に入れて保管したことが語源となっている。【歌舞伎wiki】
撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年02月20日
歌舞伎(2)
江戸時代の歌舞伎
江戸時代の歌舞伎は日の出から日没まで上演した。これは当時の芝居小屋では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になってガス灯が使われるようになってからのことである)。朝方から夕刻までやっている歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。歌舞伎は必然的に、一日の中で時代物を好む客も世話物を好む客も、どんな客をも楽しませるような形態に進化していった。歌舞伎ではひとつの演目であっても時代物と世話物が幕間をはさんで交互に現れるといった、複雑な物語の展開を見せるものが少なくないのはこのためである。しかし江戸時代も後期になると、このようにひとつの演目だけを通して上演すること(通し狂言)は稀となり、一日の中で二つ以上の演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること(見取り狂言)が一般化した。これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。かつては昭和のはじめまで演目を並べるときには「一番目」(時代物)、「中幕(なかまく)」(多くは所作事)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが現在では行われていない。
明治以降の歌舞伎
明治になっても相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、日本国外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ち・お家騒動・心中立などといった「前近代的」なもの(と当時は認識された)が多く、しかも盗賊・侠客・悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといったケレン(外連)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。
確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物と世話物、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の曾我五郎(鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定も、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「お家芸」という口伝がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。文明開化を謳歌する明治という時代は、こうした者たちの意見が問答無用で通った時代だった。
このような批判を受けて、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が起こった。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見とも重なり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したこともこの時代に特筆すべきことといえる。

撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 座天舞 - 】
江戸時代の歌舞伎は日の出から日没まで上演した。これは当時の芝居小屋では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になってガス灯が使われるようになってからのことである)。朝方から夕刻までやっている歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。歌舞伎は必然的に、一日の中で時代物を好む客も世話物を好む客も、どんな客をも楽しませるような形態に進化していった。歌舞伎ではひとつの演目であっても時代物と世話物が幕間をはさんで交互に現れるといった、複雑な物語の展開を見せるものが少なくないのはこのためである。しかし江戸時代も後期になると、このようにひとつの演目だけを通して上演すること(通し狂言)は稀となり、一日の中で二つ以上の演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること(見取り狂言)が一般化した。これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。かつては昭和のはじめまで演目を並べるときには「一番目」(時代物)、「中幕(なかまく)」(多くは所作事)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが現在では行われていない。
明治以降の歌舞伎
明治になっても相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、日本国外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ち・お家騒動・心中立などといった「前近代的」なもの(と当時は認識された)が多く、しかも盗賊・侠客・悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといったケレン(外連)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。
確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物と世話物、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の曾我五郎(鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定も、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「お家芸」という口伝がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。文明開化を謳歌する明治という時代は、こうした者たちの意見が問答無用で通った時代だった。
このような批判を受けて、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が起こった。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見とも重なり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したこともこの時代に特筆すべきことといえる。

撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 座天舞 - 】
2011年02月19日
歌舞伎(1)

歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。
江戸時代の歌舞伎
江戸時代の歌舞伎は成立の過程から(1) 歌舞伎踊りと、(2) 歌舞伎劇に分けられるともいう。
(1) 歌舞伎踊りは若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎は曲芸なども見せていたといわれる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある。
(2) 歌舞伎劇は自然に現代に見られるような舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたこともその一因となった。つまり幕府は舞踊主体の公演は売色などを伴い、風紀上望ましくないと考えていたのである。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。
※ 歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれ、出演者を「歌舞伎役者」と呼ぶ。歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)と区分され身分上差別されたが、反面各地への通行に便宜を与えられた。武士階級の者は江戸幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止した。
歌舞伎の舞台は本来能舞台をもとにした構造であったが、時代が下ると客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道が付き、舞台の幅を広げ、観客の座る場にも屋根を設けて舞台とひとまとまりの建物にするなど、能舞台からは離れた形に発展していった。また能では用いられない引き幕によって場面を区切るという演出は、話の筋に時の流れを自然に導入して複雑な劇の展開を可能にし、花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、またセリ(迫り)によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図るなど高度な演劇へと進化した。【 歌舞伎wiki 】

撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 織天舞 - 】
2011年02月18日
伝統芸能

伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているのではない。
伝統芸能の分類
歌
和歌 長歌 短歌 旋頭歌 片歌 連歌 俳諧 俳句 連句 琉歌
日本舞踊
神楽 田楽 雅楽 舞楽 猿楽 白拍子 延年 曲舞 上方舞 大黒舞/恵比寿舞 纏舞 念仏踊り 盆踊り 歌舞伎舞踊
演劇
能楽 狂言 歌舞伎 人形浄瑠璃
音曲
雅楽
謡物 歌舞 管弦 舞楽
邦楽
箏曲 胡弓楽 尺八楽 三味線楽 地歌
浄瑠璃節
義太夫節 豊後節(廃絶) 常磐津節 富本節(廃絶) 清元節 新内節 河東節 宮園節
唄
地歌 長唄 荻江節 歌沢 端唄 小唄 都々逸 詩吟 民謡 島唄(奄美民謡) アイヌ民謡
演芸
講談(講釈) 落語 浪花節(浪曲) 奇術 萬歳 俄 梯子乗り 女道楽 太神楽 紙切り 曲ゴマ 写し絵
琉球芸能
組踊 端踊 御座楽 琉球民謡
工芸
彫金 漆器 陶芸 織物
芸道
茶道 香道 武芸 書道 華道
【 伝統芸能wiki 】
撮影時期:2008年12月~2009年1月 祈り【 前編 】
セカンドライフ内舞台動画
2011年02月17日
舞台

舞台(ぶたい)とは、演劇やダンス、伝統芸能や演芸など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、舞台芸術に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。
ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。
舞台の「起源」と古代の舞台
人類史のどの段階で初めて舞台が現れたかは、はっきりとは分かっていない。西洋の場合、記録に残る最も古い舞台は、古代ギリシャ演劇の野外劇場である。これはすり鉢型の地形を利用した巨大構造物で、舞台は底の部分につくられた。観客は見下ろすような位置から舞台全体を見ることができた。この様式は古代ローマにも引き継がれ、その様式を踏襲した楕円形の劇場建造物なども生み出された。その代表的なものにはコロッセウム等がある。
日本においては、舞楽のための舞台が、一定の様式を持った舞台としては最古のものである。舞楽は雅楽の伴奏で舞う舞踊、舞踊音楽で、奈良時代に中国大陸や朝鮮半島、ヴェトナムなどから渡来、また平安時代には日本でも作られたもので、貴族の嗜み、娯楽、舞踊芸術として、また伝承が断絶してしまった伎楽と共に仏教の法会などで演じられた。舞楽の舞台は約4.5間四方の欄干(高欄、こうらん)が付いたもので、南北両側に演者が上り下りするための階段が設けられている。舞楽が演じられる際には、その中にさらに3間四方の敷舞台が置かれた。
舞楽以前にも様式を持った舞台が存在した可能性も否めない。少なくとも、岩などの自然の地形を利用した舞台と、そこで演じられる民俗芸能的なものは、確実に存在したと思われる。
史実ではないが、古事記や日本書紀などで語られる日本神話には、天岩戸のエピソードのなかに、舞台らしきものの記述が見られる。天岩戸に籠もったアマテラスを引き出すために、アメノウズメノミコトは半裸になりながら、伏せた器の上で踊った。この時の伏せた器は、踏み叩くことによって音を出す打楽器であると共に、舞台としての役割を果たしている。
農村舞台
農村舞台(のうそんぶたい)とは神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を上演することを目的に日本の農村に設けられた舞台。
【 舞台wiki 】
撮影時期:2008年12月~2009年2月 祈り【 後編 】
セカンドライフ内舞台動画
2011年02月16日
日本庭園(偕楽園)
偕楽園(かいらくえん)
日本・茨城県水戸市にある日本庭園です。

100種3000本のウメ(梅)が植えられている。園内にはウメの異名「好文木」に由来する「好文亭」がある。
1841年(天保12年)7月、水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園が開始され、翌年に開園した。 斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き、弘道館で文武修行する藩士の休養の場とすると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいとして「偕楽園」と名づけた。その名の精神により当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。この精神を引き継ぎ、日本三名園では唯一、入園無料である(ただし、前述の「好文亭」を利用する場合は有料)。
1922年3月8日に「常磐公園」の名で国の史跡および名勝に指定された。管理団体は茨城県である。1945年に好文亭は水戸空襲で焼失し、1958年復元されたが、1969年に落雷で再度焼失し、1972年に復元された。
陰陽の世界
偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれている。表門から園内に入り、「一の木戸」と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。
好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑「偕楽園記の碑」があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。
撮影時期:2008年8月
場所:kenroku 他
日本・茨城県水戸市にある日本庭園です。

100種3000本のウメ(梅)が植えられている。園内にはウメの異名「好文木」に由来する「好文亭」がある。
1841年(天保12年)7月、水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園が開始され、翌年に開園した。 斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き、弘道館で文武修行する藩士の休養の場とすると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいとして「偕楽園」と名づけた。その名の精神により当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。この精神を引き継ぎ、日本三名園では唯一、入園無料である(ただし、前述の「好文亭」を利用する場合は有料)。
1922年3月8日に「常磐公園」の名で国の史跡および名勝に指定された。管理団体は茨城県である。1945年に好文亭は水戸空襲で焼失し、1958年復元されたが、1969年に落雷で再度焼失し、1972年に復元された。
陰陽の世界
偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれている。表門から園内に入り、「一の木戸」と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。
好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑「偕楽園記の碑」があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。
撮影時期:2008年8月
場所:kenroku 他

2011年02月15日
日本庭園(後楽園)
後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。
現在、後楽園から旭川を隔てて南にある岡山城は1597年(慶長2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものである。この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えたのである。これにより、城と城下町の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになる。
1687年(貞享4年)12月に着工し(鍬始め)、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木工事にとりかかり、次々と園内の建造物や植栽が完成していった。藩主・綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、工事開始4年後の1691年(元禄4年)には、完成したばかりの延養亭で綱政が永忠ら工事に携わっている家臣の労をねぎらって園内で宴を催していることからも、この時点で綱政が満足できる出来栄えになっていたとみられる。途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)に一応の完成をみる。
なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになった。
御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていった。また、当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、1771年(明和8年)に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していった。
御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待していた。御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録がある。また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていた。【後楽園wiki】
撮影時期:2008年8月
場所:kenroku 他

2011年02月14日
日本庭園(兼六園)

兼六園(石川県金沢市)
後楽園(岡山県岡山市北区)
偕楽園(茨城県水戸市)
三つの日本庭園は、それぞれ雪月花を鑑賞する代表的な大名庭園として、日本三名園あるいは日本三大庭園と呼ばれる。
兼六園(けんろくえん)
江戸時代
加賀藩の庭園として造られたことに端を発する。延宝4年(1676年)に5代藩主前田綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭(れんちてい)」と呼んだのが始まりとされている。これは、蓮池門(れんちもん)を入った辺りであり、現在7つある門の中で正門とされている。当時は、金沢城の外郭として城に属していた。
13代藩主前田斉泰が現在のものにほぼ近い形にしたとされる。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃である。
名称は宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』の中で、中国洛陽の名園「湖園」を謳った「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」に倣い、文政5年に白河楽翁公(松平定信)によって命名された。とくに、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩として情緒を添える。霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、兼六園を代表する景観となっている。
園内の噴水は、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。これより高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。そのため、水が噴き上がる最高点は、ちょうど霞が池の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。
11代藩主前田治脩が翠滝、夕顔亭を、12代藩主前田斉広が竹沢御殿を建設した。13代藩主前田斉泰は竹沢御殿を取り壊し、天保8年(1837年)霞ヶ池を掘り広げて増庭させ、栄螺山を築いた。
園の東南側には、13代藩主前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた成巽閣が現存する。なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。
明治以降
長らく殿様の私庭として非公開であったが、1871年から日時を限っての公開が始まり、1874年5月7日から正式に一般公開された。1876年には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。
同年、園内の山崎山麓にあった異人館と成巽閣を利用して、常設としては国内初の博物館である金沢勧業博物館が開かれた。同館は1909年に廃止されるが、その間1879年に図書館が、1887年に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。また、1880年には西南戦争の戦没者を祀る明治紀念之標が建てられた。
こうして明治以降に構造物が付加されたことが、1922年名勝に指定されたものの、特別名勝に指定されない一因となっていたが、その後の上記施設の移転などの整理と整備により、1985年特別名勝に指定された。
開園以来、無料で24時間開放されていたが、深夜何者かによって徽軫灯籠が破壊されるなどの事態が発生した(当時のものは別のところに保管されている。現在の灯籠(灯篭)は新造された物)ことや維持、保存費用の捻出の為に1976年から後楽園や栗林公園に倣って有料とし(お盆休みなどには無料開放されることもある)、時間を限って公開されるようになった。
【兼六園wiki】
撮影時期:2008年8月
場所:kenroku 他

2011年02月13日
日本庭園(1)
日本庭園(にほんていえん)とは、日本の伝統的な庭園であり、和風庭園(わふうていえん)ともいいます。

庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。また枯山水と称される、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。庭園のことを山水といったのもそのためである。室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。
日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタファーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタファー発生装置を作り上げたためだと述べている。作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタファーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。このようなメタファーを用いたのは、それが表現するものを不特定多数の人に伝える浄土式や神仙などのような古来の思想を含んだ庭には表現すべきモデルとしての、斎庭などの儀式の庭はその場の神や同調者とが、禅寺の庭も景を修行のひとつである思想を持つ人々が共有する景が必要であるからとされる。
■ 庭園様式 ■
寝殿造り庭園:しんでんづくりていえん(平安時代)
代表的な例:神泉苑、嵯峨大覚寺
中国から渡来した唐制(とうせい)による建築様式で、左右均斉(左右の程よい安定感やつり合いがとれている)のつくり方。寝殿は南に面し、池泉があり、左に泉殿(いずみどの)、右に釣殿(つりどの)が両翼をなして地面にのり出す。湧水(ゆうすい)、遣水(やりみず)を特徴とする。
浄土式庭園:じょうどしきていえん(平安時代)
代表的な例:平等院、浄瑠璃寺、毛越寺
不安な社会状勢の影響で仏教上の浄土思想が普及した時代に、人々が極楽浄土に住生を願うようになったことから、浄土曼荼羅絵を庭園構図に写 したもの。
枯山水:かれさんすい(鎌倉・室町・戦国時代)
代表的な例:大仙院、竜安寺
景石を組んで滝を表現し、白砂を敷いて水を表現する。
書院式庭園:しょいんしきていえん(安土桃山時代)
代表的な例:醍醐寺三宝院庭園、西本願寺大書院庭園
書院建築にふさわしい庭、通常の庭。巨大な庭石と色彩豊かな色石とを多く使用している。
茶庭:ちゃにわ(安土・桃山時代)
茶室に通る路を本位としてつくられた庭とその施設細部のこと。配植(植物の配置)、配石(石の配置)、工作など、すべて茶会での流儀に則して規定されている。露地(ろじ)とも言われる。
廻遊式庭園:かいゆうしきていえん(江戸時代)
代表的な例:桂離宮、岡山後楽園、水戸偕楽園、金沢兼六園、熊本成趣園
書院庭園の様式と茶庭の様式を合流し、池庭と石庭が渾然一体となった庭。地割(じわり―庭園設計による配置)は池・島・山をつくり所々に茶庭を配し、いくつかの露地の連続として園路、橋などにより連絡される。部分的に異なった自然風景を描き出すことを旨とする。
大名庭:だいみょうにわ(江戸時代)
諸大名が江戸や各地の城下町につくらせた庭の様式。平坦で広大な庭園の構図は各地の名勝地の風景を縮景として取り入れ、おもに園路から鑑賞する。
撮影時期:2010年5月
場所:MilkyHouse
音楽:Yaz Rockett

庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。また枯山水と称される、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。庭園のことを山水といったのもそのためである。室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。
日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタファーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタファー発生装置を作り上げたためだと述べている。作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタファーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。このようなメタファーを用いたのは、それが表現するものを不特定多数の人に伝える浄土式や神仙などのような古来の思想を含んだ庭には表現すべきモデルとしての、斎庭などの儀式の庭はその場の神や同調者とが、禅寺の庭も景を修行のひとつである思想を持つ人々が共有する景が必要であるからとされる。
■ 庭園様式 ■
寝殿造り庭園:しんでんづくりていえん(平安時代)
代表的な例:神泉苑、嵯峨大覚寺
中国から渡来した唐制(とうせい)による建築様式で、左右均斉(左右の程よい安定感やつり合いがとれている)のつくり方。寝殿は南に面し、池泉があり、左に泉殿(いずみどの)、右に釣殿(つりどの)が両翼をなして地面にのり出す。湧水(ゆうすい)、遣水(やりみず)を特徴とする。
浄土式庭園:じょうどしきていえん(平安時代)
代表的な例:平等院、浄瑠璃寺、毛越寺
不安な社会状勢の影響で仏教上の浄土思想が普及した時代に、人々が極楽浄土に住生を願うようになったことから、浄土曼荼羅絵を庭園構図に写 したもの。
枯山水:かれさんすい(鎌倉・室町・戦国時代)
代表的な例:大仙院、竜安寺
景石を組んで滝を表現し、白砂を敷いて水を表現する。
書院式庭園:しょいんしきていえん(安土桃山時代)
代表的な例:醍醐寺三宝院庭園、西本願寺大書院庭園
書院建築にふさわしい庭、通常の庭。巨大な庭石と色彩豊かな色石とを多く使用している。
茶庭:ちゃにわ(安土・桃山時代)
茶室に通る路を本位としてつくられた庭とその施設細部のこと。配植(植物の配置)、配石(石の配置)、工作など、すべて茶会での流儀に則して規定されている。露地(ろじ)とも言われる。
廻遊式庭園:かいゆうしきていえん(江戸時代)
代表的な例:桂離宮、岡山後楽園、水戸偕楽園、金沢兼六園、熊本成趣園
書院庭園の様式と茶庭の様式を合流し、池庭と石庭が渾然一体となった庭。地割(じわり―庭園設計による配置)は池・島・山をつくり所々に茶庭を配し、いくつかの露地の連続として園路、橋などにより連絡される。部分的に異なった自然風景を描き出すことを旨とする。
大名庭:だいみょうにわ(江戸時代)
諸大名が江戸や各地の城下町につくらせた庭の様式。平坦で広大な庭園の構図は各地の名勝地の風景を縮景として取り入れ、おもに園路から鑑賞する。
撮影時期:2010年5月
場所:MilkyHouse
音楽:Yaz Rockett

タグ :日本庭園MIlkyhouse
2011年02月12日
茶室

草庵風茶室
草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の結界とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。
利休以前
足利義政が東山に建てた(慈照寺)東求堂には四畳半の部屋があり、茶室の元祖と言われることがある。また、村田珠光が市中の草庵として四畳半の茶室を造った。
千利休の茶室
茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ、にじり口をあけた二畳の茶室を造った。なお、二畳と言うアイデアが秀吉のものなのか、利休のものなのかについては諸説ある。
茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。
にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。
利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。
【千利休(せんのりきゅう せんりきゅう】
大永2年(1522年)-天正19年2月28日(1591年4月21日))は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。茶聖とも称せられる。

◆ 2011年1月30日(日)公開【 奉納舞 】動画 ◆
巫女装束(巫女服)を身にまとうみるきー舞姫による集団舞は、優雅で迫力のある舞となっています。
【 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月11日
茶道(平安~江戸初期)
茶道(さどう、ちゃどう)とは、湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為。またそれを基本とした様式と芸道

茶道の歴史
初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。
茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。
鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。
室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。
わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。
江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎、裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた。【茶道wiki】

◆ 2011年1月30日(日)公開【 奉納舞 】動画 ◆
巫女装束(巫女服)を身にまとうみるきー舞姫による集団舞は、優雅で迫力のある舞となっています。
【 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land

茶道の歴史
初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。
茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。
鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。
室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。
わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。
江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎、裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた。【茶道wiki】

◆ 2011年1月30日(日)公開【 奉納舞 】動画 ◆
巫女装束(巫女服)を身にまとうみるきー舞姫による集団舞は、優雅で迫力のある舞となっています。
【 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land
2011年02月10日
掛軸

掛軸の歴史
中国の北宋時代に掛物として掛軸が用いられていた。「掛けて拝する」事に用いられ、礼拝用の意味合いが強くあったと思われる。桐箱に入れると持ち運びに容易である事と、比較的複数生産が可能であったため、掛軸は仏教の仏画用にまず普及を始めた。
日本では、すでに飛鳥時代に掛軸が仏画として入ってきているが、鎌倉時代後期に禅宗の影響による水墨画の流行から掛軸も流行していった。この流行により、掛軸は「掛けて拝する」仏教仏画の世界から、花鳥風月の水墨画など独立した芸術品をさらによく見せる補完品として発達していった。
室町時代以降、「茶の湯」の席で座敷の「床の間」にも水墨画の掛軸が多く見られるようになった。千利休が掛軸の重要性を言葉にするようになると、茶を愛する人達により掛軸が爆発的に流行するようになった。来客者、季節、昼夜の時間を考慮して掛軸を取り替える習慣が生まれた。来賓時、その場面の格式などを掛軸で表現することが重要視される考え方が生まれた。真の(さらに真、行、草)、行の(さらに真、行、草)、草の(さらに行、草)などである。
江戸時代に明朝式表具が日本へ入り、文人画には文人表装などで掛軸が華やいでいった。それと同時に、表具の技術技巧が著しく発展を遂げた。また、大和錦・絵錦唐織など複雑な文様の織物が好まれ、西陣など織物産地で次々生まれていった。18世紀には、江戸を中心とする狩野派とは別軸で京都画壇が栄えた。日本画も楽しむという価値観を持った人達に支持され、掛軸もそれにつれ、芸術価値を高めていった。肉筆浮世絵で花開いた。
明治・大正期は日本画の隆盛により、掛軸もさらに大きく飛躍していった。昭和に入ると、戦争により、大きく絵画を愛でる時代背景ではなくなり、掛軸の需要も激減した。戦後、日本画の掛軸離れが著しくなっていったことと、生活の洋風化により「床の間」離れが目立ち、掛軸の愛好者数は今も大変に少ない状況が続いている。
掛物の種類
仏画、肉筆浮世絵、山水画、花鳥画、墨蹟、古筆、色紙、短冊、画賛、手紙である「消息」、巻物を切り取った一部である「断簡」などが表装され、掛軸となる。連作となる複数の書画を同じ表装で仕立てたものを「対幅」(ついふく)と呼ぶ。対幅には柿栗図や竜虎図といった双幅、観音・猿・鶴などを描いた三幅対、四季を描いた四幅対、12ヶ月を描いた十二幅対などがある。以上を床の間に掛けるものという意味で、「床掛け」ともいう。
「床掛け」以外の掛軸には、仏壇の中に掛ける掛軸がある。宗派の御本尊や脇侍、名号本尊のものや法名軸がある。
【掛軸wikiより】

◆ 2011年1月30日(日)公開【 奉納舞 】動画 ◆
巫女装束(巫女服)を身にまとうみるきー舞姫による集団舞は、優雅で迫力のある舞となっています。
【 奉納舞 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land