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2017年12月27日

納めの不動

12月28日

年の最後の縁日を「納めの不動」といい、1年のご利益お礼と感謝の気持ちを込めて参拝します。
 

「不動明王」は、密教特有の尊格である明王のひとつで、密教の根本尊「大日如来の化身」、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであるとされ、「お不動さん」と呼ばれ親しまれています。
 
「明王:みょうおう」は、密教における仏の称号のひとつ。密教における最高尊大日如来の命を受け、宗教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏を指します。また、全ての明王は大日如来が仏教に帰依しない民衆を、力づくでも帰依させるため、自ら変化した仏であるとも伝わります。
 
明王は人間界と仏の世界の間にある天界の「火生三昧:かしょうざんまい」と呼ばれる炎の世界に住み、民衆を教えに導きながら、人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう炎で焼き尽くすと言われます。
 
憤怒の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿で表現されます。


 
憤怒の相は単なる怒りを表現したものではなく、仏法に従わない者を教化し、仏敵を退散させる働きを持ちます。煩悩をかかえ、もっとも救いがたい衆生をも、力ずくで救うため憤怒の姿をしているのです。
 
一般に炎の神力を以て祈願を行う「護摩法要」の本尊には明王が据えられます。


SL内 大神稲荷神社 場所



本殿 : 御祭神と眷属

  


Posted by hidesun(英寸) at 18:41Comments(0)神話和の暦歴史

2017年01月01日

年籠り






年籠り
昔々、日本では、村や家の長が大晦日の晩から元旦の朝にかけて氏神様の社に籠って、降りてこられる年神様をお迎えし祈願するという習慣がありました。
それを「年籠り(としこもり)」といいました。平安時代には、すでにこの言葉が見られます。
やがて時代が下ると、「年籠り」は、大晦日の晩に詣でる「除夜詣」と元旦の朝に詣でる「元旦詣」とに分かれます。

その「元旦詣」が、現在の「初詣」の原形といわれます。

大神稲荷神社 (太陽) 
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House02/40/217/24

結月神社   (月)  
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House02/245/140/23

2017 初春着物市 開催中です。

期間 2016/12/15 ~ 2017/1/15
場所 MILKY HOUSE SIM
LM http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/27/47/22


  


Posted by hidesun(英寸) at 16:20Comments(0)ご挨拶歴史大神稲荷神社(SL)

2012年12月08日

天空の城/竹田城

兵庫県朝来市にある竹田城跡。日本百名城の1つで天守閣などがない石垣のみの状態ながら城マニアの方々からもかなり評価の高い城跡です。標高は353.7m。マチュピチュは標高2400mなので比べものにはならないのですが、この雲海(朝霧)の上にそびえ立つ感じはまさに「天空の城」



縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもち日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。



室町時代
築城に関しては、不明な点が多い。江戸末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年-1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのもののをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし1431年(永享3年)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。
この時期、但馬国守護山名氏と播磨国守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441年)6月、征夷大将軍足利義教が重臣赤松満祐によって暗殺される。嘉吉の乱である。同年8月室町幕府より追討令を受けた山名宗全軍は、丹波国より生野から播磨国に入国し、同年9月城山城にいる赤松満祐を滅ぼした。同年10月には山名宗全は播磨国守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後1443年(嘉吉3年)赤松教政が、1444年(文安元年)赤松満政が、1455年(康正元年)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃、逃亡している。当時の竹田城は播磨国と但馬国の国境を守る拠点で、播磨国を平定するための出撃の拠点ともなっていた。



戦国時代
応仁の乱が起こると細川氏と山名氏で争いとなった。応仁2年(1468年)3月、細川軍であった内藤軍が夜久野から但馬国に侵攻しようとしていた。竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。その後も細川氏や赤松氏の脅威は去ることは無かった。山名軍は赤松氏の播磨国を占領したりしたが、1488年(長享2年)頃には敗戦を続け山名誠豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。1522年(大永2年)に山名誠豊が、赤松氏がいる播磨国へ攻め込んだがこの時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。



安土桃山時代
尼子氏と山名氏は同盟関係であった。毛利氏は、大友氏との交戦状態あり、その間隙をついて出雲国奪還を目指す尼子氏に背後を突かれた。これに対して毛利氏は織田信長に尼子氏の後援となっていた山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼した。これに応じた織田信長は永禄12年(1569年)8月1日木下秀吉(豊臣秀吉)軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として織田信長に献納して但馬国への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。
吉川元春ら毛利軍は、1573年(天正元年)出雲国、伯耆国、因幡国に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬国に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575年)5月山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月竹田城を占領すると、山名祐豊は織田信長に救援を求め明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。



竹田城の戦い
織田氏と毛利氏の間も次第に対決色が明確になり、織田信長は播磨国に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、黒田孝高が迎え入れ姫路城に入城し、それから一カ月で播磨国の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴秀吉軍は二手に分かれて、本隊は上月城を攻城、羽柴秀長隊は三千兵を率いて但馬国に進軍した。羽柴秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説している。一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており羽柴秀長隊の第一目標になった。同年11月羽柴秀長隊は真弓峠から但馬国に侵攻、まずは岩州城を攻城し次いで竹田城を攻城した。

天空の城  竹田城跡





大神稲荷神社 
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/3
  


Posted by hidesun(英寸) at 17:51Comments(0)歴史

2012年11月11日

偽典阿波秘帖

オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神)は、日本神話に登場する神です。
『古事記』においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れます。
その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述があります。阿波国の名前が大宜都比売とされていることについては、阿波を穀物の「粟」に掛けただけの後附けともされますが、逆に穀物神の大宜都比売が祀られていた国であるからアワの国と呼ばれるようになったとする説もあります。



【 偽典阿波秘帖 】は、徳島独自の信仰と云われている社日碑から始まり、記紀神話に登場する、その大宣都比売を絡め、日本の社禝を探る展開を­想定しています。

















atubamboo さんの作品↓

偽典阿波秘帖  -Secret History of the Awa:Apocrypha-



JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/3  


Posted by hidesun(英寸) at 20:40Comments(0)歴史

2012年11月10日

屋島の闘い(平家物語)

文治元年(1185)屋島で行われた源平の合戦。一ノ谷の戦いに敗れて屋島に逃れた平氏は、この戦いで源義経らに再び敗れ、海上を長門の壇ノ浦に逃れた・・・。



一ノ谷で敗れた平家は四国の屋島に逃げました。義経は単独で150騎の兵を率いて暴風雨の中、普通3日はかかる行程を6時間で阿波の勝浦に渡りました。義経はわざと5~6騎ずつの群で出現させたので、平家方は大軍勢と錯覚しました。慌てて船に乗り込み沖めがけて逃げ出しました。



義経が法皇の院宣を受けて平家討伐に来たと名乗りを上げると海と陸との戦闘が始まりました。




この戦いで佐藤三郎兵衛嗣信は、義経の矢面に立ちその盾となって倒れました。死の間際、嗣信は「奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、屋島の磯で主君の身代わりになって討たれたと末代まで語られてこそ武士の名誉」と義経に語り、死にました。義経ははらはらと落涙し、手厚く弔わせると自分の愛馬を布施に出しました。




これを見た他の家来たちは、義経のためなら命など惜しくないと感激して泣きました。夕方、平家方から日の丸の扇を掲げた一艘の船が渚によってきました。弓で射よということだろう。乗っている女官が手招きをしました。






義経は弓矢の名手・那須与一宗高(なすのよいちむねたか)に扇を射るように命じました。

「南無八幡大菩薩、願わくばあの扇を射させよ」





与一は見事大役を果たしました。

義経は戦闘中うっかり弓を落とし、それを必死で拾おうと味方をハラハラさせました。理由は、源氏の大将の弓矢がこの程度の弓矢かと笑われたくなかったからです。チビで力の弱いことを隠そうと必死だったようです。ともあれ義経あってこそのこの合戦、梶原景時が主力の大船団とともに屋島に着いたときには、平家は逃げ去った後でした。

atubamboo さんの作品 ↓
告知:屋島の闘い(12年度版 平家物語) Battle of Yashima (The Tale of the Heike)


  


Posted by hidesun(英寸) at 19:35Comments(0)歴史

2011年09月29日

平安時代

平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。



平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。



王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。
【 平安時代wiki 】


【 Milkyhouse 2010秋 動画 】  


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2011年09月28日

壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦いは、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。



【背景】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。



源家側
総大将:陸:源範頼、海:源義経
船数:800艘(吾妻鏡説)・3000艘(平家物語説)
参加武将:梶原景時、熊野別当湛増、河野通信
平家側 総大将:平宗盛
船数:500艘(吾妻鏡説)・1000艘(平家物語説)
参加武将:平知盛・平経盛・平教盛・平教経・平資盛・平有盛・平行盛・平時忠・平清宗・藤原景清



『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とあり、平家物語にも同様の記述がある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。愚虜をもってして捜し奉る。」と記されており、一般的には三種の神器のうち天叢雲剣は壇ノ浦の戦いで一度失われていると考えられている。
【 壇ノ浦の戦いwikiより 】  


Posted by hidesun(英寸) at 21:01Comments(0)歴史

2011年09月27日

屋島の戦い

屋島の戦いは、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。



「 Youtubeで有名な平家物語:屋島の闘い The Tale of the Heike: Battle of Yashima動画 」

【 背景 】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。
寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。しかし、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。
後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国獲得した。同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。



【 扇の的と弓流し 】
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

  


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2010年11月09日

大正浪漫

大正ロマン(たいしょうロマン、しばしば「大正浪漫」とも表記される)とは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉である。なお「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされる。

ROMANSIM

19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受け、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮にかぶせて、このように呼ばれるようになった。

大正時代は、明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも、国内外が激動の時代であった。特に日本では明治維新を経て開国し、二度の戦勝(日清・日露)による好景気も得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
文明開化を経て封建主義や鎖国の影響も影を潜め、欧米から近代文化がどっと流入する。農村村落の風景は変わらないものの、明治の45年間をかけて、徐々に町や都市の基盤が形作られた時期である。録音や活動写真、そして印刷技術などの発達による新しいメディアの出現もあり、文化・情報の伝播がいっそう促進された時代でもある。「大正デモクラシー」、つまり民本主義が台頭(民衆と女性の地位向上)し、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。かつてはそれぞれ孤立していた地方農村にも、鉄道の発達や自動車の出現による人々の移動や物資の流通増加に伴い、このような都市の状況がいち早く伝わるようになった。( 大正ロマンwikiより )

MILKYHOUSE
  


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2010年11月08日

文明開化

源氏物語14帖まで綴りましたが、一時休憩です。15帖以降は後程。
さて、時間を一気に進ませてみます。


ROMAN(大正浪漫)SIM

日本の開国-それは、世界史的にもめずらしい強烈な文化的ショックとしてとらえることができる。二百五十年にわたる鎖国のあと突如として、日本のまえには「世界」があらわれてきたのだ。それは、暗黒からいきなり白昼の光線のなかにとび出したようなものだった、といってもよい。日本にとって、「世界」は、まぶしかった。
「世界」からの使者として、「西洋人」がやってきた。かれらは、めずらしい風俗や、製品や、習慣を日本にもってきた。もちろん、桃山時代に日本人は、すでに「西洋人」を見たことがあった。そのころ、「西洋人」に教えられたいくつもの文物を、鎖国期間中ももちつづけ、日本的に洗練させたりもしてきた。たとえば-てんぷら、かるた。
しかし、「西洋人」がこんなに堂々と日本の首府の周辺にあらわれた、というのは、はじめての経験であった。しかも、かれらのもってきたすべてのものは、かつての日本人が知っていた南蛮の文物とはくらべものにならないほど精巧で、おどろくべき性能をもっていた。かつて織田信長は、南蛮渡来の鉄砲をいち早く採用し、それによって長篠の合戦に大勝利をおさめ、そこから天下統一への第一歩をふみ出したのであったが、いま、日本人のまえには、蒸気でうごく巨大な軍艦や、汽車や、電気や、その他もろもろの機械類があった。それは、桃山期における鉄砲があたえたショックの数十倍のショックであったというべきであろう。
日本人は、直観的に、そして無条件に、「西洋」のほうが日本よりすぐれている、という事実をみとめた。すくなくとも、その力において、日本は西洋にかなわない、という事実をみとめた。なすべきことはただひとつ。「西洋」のもっているものを、一刻も早く日本がもつことである。そのためには、大至急に「西洋」のすべてを学ばなければならない。
明治政府は、その発足と同時に、世界史に類例のない、閣僚の「半舷上陸」をおこなった。すなわち岩倉具視以下百人あまりの重要人物が、明治四年から二年間にわたって欧米視察の旅行に出かけたのである。三条実美らが日本にとどまる留守部隊だが、日本の政治の半分は、新政府発足とともに、日本をはなれてしまったのだ。「西洋」を、かけ足で日本にとりこむための大英断というべきであろう。
 視察旅行の収穫は大きかった。「西洋」の途方もない偉大さがわかってきた。とにかく、「西洋」のもっているすべてのものを、とりこむべきだ、という方針が立てられ、政治組織も軍隊も経済組織も、おどろくべきスピードで、西洋式に切りかえられていった。欧化時代のはじまりである。
その欧化時代の極点をよきにつけあしきにつけ、象徴するのは、鹿鳴館であろう。鹿鳴館は明治十六年に完成した二階建の煉瓦の建物、その場所は、ちょうど現在の帝国ホテルから二百メートルほど田村町に寄ったところであった。

鹿鳴館は、日本の新上流社会と、欧米外交官などの利用する社交クラブであった。そしてそこに出入りする日本人は、その服装・作法など、ことごとく西洋に倣うのであった。つい十数年まえまでは、刀を差し、ちょんまげを結っていた明治の元勲が鹿鳴館では西洋式の礼服を身につけ、洋酒をすすり、ダンスをした。外国人と交際しなければならない、というので、外国語の会話練習もさかんになった。
鹿鳴館完成の翌年、すなわち明治十七年には、ヤンソンという人物がダンス教師となり、日本の貴顕淑女にダンスを教えた。有名な鹿鳴館の仮装舞踏会がおこなわれたのは明治二十年のことであった。
  


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