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2018年12月29日






舞は、謡や囃子といった音楽的要素とともに、総合的な楽劇である能の、大本になるものです。舞という言葉は、能の、個々に現れるからだの動きを表現するだけではなく、懐の深い意味をもっています。



Japonicaより

能の世界では「能を踊る」、「能の踊り」といった言い方はしません。能はあくまでも舞うものです。「踊る」「踊り」の場合は、リズムに乗って飛んだり跳ねたり、手足を躍動させる動作が主体で、「舞う」「舞い」の場合は、摺り足で舞台上を移動する動作が主体になると紹介されています。
昔から、そのように区別され呼びならわされてきましたが、その境界はいつの時代も曖昧ではあったようです。能にも、拍子を踏んだり、飛び返ったりするような型もあります。しかしそれらを含めて、能の世界では古来「舞う」を使用しているのです。
※the 能.comより


  


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2012年03月31日

二人静

桜にちなむ能演目 二人静


現の人間に霊がとり憑く能は多いが、死者に憑かれて、その死者の物語を語る女と、死霊そのものとが現れて二人が同じ衣装で、影が形に添うように同じ舞を舞うと云う数少ない形をとる能で、その物語は、吉野の勝手明神(奈良県吉野町:頼朝勢に追われ義経と別れた静御前が捕らえられ、この社殿の前で別れの舞を舞ったとの伝説がある)は、毎年正月7日の神事に、ふもとの菜摘川から若菜を摘んできて神前に供える風習がありました。
例によって神職が、菜摘女に若菜を摘みにやらすと、一人の女が現れて、“吉野に帰るなら伝えて下さい。
私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って欲しい”と頼みました。
そして“あなたのお名前は”と尋ねられると、何も答えないで、跡形もなく消えてしまいます。
そんな不思議な体験をした菜摘女は、そのことを神職に話しているうちに、その女の顔つきが変わり、言葉つきも変わってきたので、神職は“いかなる人が憑いているのか名を名乗りなさい”と云うと、“静である”と名乗りました。
静御前の霊が菜摘女に憑いたことが分かり“それでは、ねんごろに弔うから舞いを見せて欲しい”と女に頼むと、女は果って静が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝物蔵から取り出し、女がその衣裳をつけて、舞を舞おうとすると、いつの間にか静の霊も現われ、一人の女が二人となり、義経が頼朝勢を逃れて吉野の山を奥へ奥へとふみ分けて行ったありさまを語り、頼朝の前で不本意ながら舞った白拍子の舞を舞うのです。

※ 参考 : 白拍子
売春婦であり、芸能の民であり、神女であり、時代の象徴でもあった彼女たち――現代の言葉でそれを表すとすれば「アイドル」という言葉が最もふさわしい。源平合戦期、その白拍子の中で頂点であったのが静御前である。

中森明菜 二人静


1991年の唯一の中森明菜の作品が「二人静 ~天河伝説殺人事件~」である。
無情なる人の世で翻弄される静御前、しかしそれでも絶えなかった一途な情愛。その思いは、最愛の者にうち捨てられても、あるいは敵対する時の最高権力者の前であっても、けっして怯むことはなかった。
静御前の苛烈な愛の歴史を、スキャンダルに身を揉まれる現代の歌姫・中森明菜の肉体に憑依(お)ろした。であるからこの歌の題は「二人静」なのである。
「二人静」とは、中森明菜と静御前という現代と過去のふたりの哀しい歌姫の相舞である。 その相舞は、エロスとタナトスが、愛と憎しみが、背中合わせに寄りそい、そこにある感情は渾然として、なにものであるとも言葉にしがたい。 ただ、精神の激しい高揚と、白々した気迫が、あるのみである。
※中森明菜 「二人静」 激しく哀しい歌姫の相舞 より



【 二人静  ( 舞姫伝) 】動画
2012年3月 ・4月 MilkyMAIHIME公演
大江戸あやかし舞姫伝より


※ 参考
フタリシズカ(二人静) センリョウ科センリョウ属
草丈:30~60cm / 花径:3mm
山野の林下に生える多年草です。茎の先に数本の穂状花序を出し、小さな白い花をつけます。花弁はなく、3 個の雄しべが丸く子房を取り巻いています。和名は静御前とその亡霊の舞姿にたとえたものといいます。

  


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2011年09月01日

能面

能面(のうめん)は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面である。伎楽面や舞楽の仮面などの影響を受けている。


鬼神・老人・男・女・霊の5種類に大別される。小面は若い女性を象る。その他多くの能面がある。特に鬼面の一つである般若(はんにゃ)、真蛇(しんじゃ)は有名である。役者の芸と能面作家の腕によって、一つの面から深く様々な表情を見せることができ、仮面劇としての能を今日までも支えている。女面、少年面、青年面は一部を除いて何れも白塗りの厚化粧、引眉で、お歯黒を付けており、これらは何れも、能が成立した時代の習慣を残したものである。なお、『翁』の面は特徴的で、他の能面と異なり、眼が全てくり抜いてあるぼうぼう眉(綿や毛が植えてある)面が口の部分で上下で切り離してあり、後ろのところで結んである(顎が動く) 古式でおおらかな面である。



能面は木(桧が多い)を彫り、彩色して製作するが、この工程を「面を打つ」という。また、顔に付けることを「面を掛ける」という。この場合「面(おもて)」と読み、「能」がつくと「能面(のうめん)」と読む。近年は和紙製の張子面も登場している。なお現在能(亡霊ではなく現在進行形として演じられる形式の能)の成年男性役には能面を用いないで演じられる。しかし役者が顔の表情を作って表現することは禁じられている。この能役者の素顔を「直面(ひためん)」と呼び、その名のとおり自分の素顔を能面と見立てて演ずる。能のワキはすべて現在成年男性であるために直面で演じられている。



【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 黒桜の間その1 動画 】第五話


   


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2011年08月31日

能(のう)

能(のう)は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種。重要無形文化財かつユネスコ無形文化遺産である「能楽」の一分野であり、江戸時代以前には猿楽の能と呼ばれていたものである。


能とは元々能芸・芸能の意をもつ語であって、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となり、明治維新後禄を失ったことにより他の多くの芸能は絶え、猿楽を能楽と呼称することが一般的となった。
その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている。現在は日本における代表的な伝統芸能として遇され、歌舞伎に並んで国際的に高い知名度を誇る。

能は、俳優(「シテ(仕手)」)の歌舞を中心に、ツレやワキ、アイ狂言を配役として、伴奏である地謡(じうたい)や囃子(はやし)などを伴って構成された音楽劇・仮面劇である。舞と謡を担当し、実際に演技を行うのがシテ方、ワキ方および狂言方であり、伴奏音楽を担当するのが囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)である。能は、仕手方が中心となって行われることが多く、ワキ方、囃子方、狂言方を総称した呼び方の「三役」に、シテ方より役目の依頼をかけることが多い。



能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措や佇まいのように、「ただ美しく柔和なる体」を、つまり、「平安朝的な優美さを持つことで、女性的な美しさをいう。」ことを「幽玄」としている。「あはれ」と「艶」との調和した静寂美と優雅美が合致して寂びて見える優美が能楽の「幽玄」といえる。

型の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)、これを円滑に行うためには膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要がある。すなわちこれが「構え」である。また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。 能舞台は音がよく反響するように作られており、演者が足で舞台を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。
【 能WIKIより 】

【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 白蛇の間 動画 NEW 】


● 次回開催日  2011年9月11日(日)22:00  


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2011年02月21日

歌舞伎(3)


歌舞伎に由来する語
黒衣
表には出ないものの、なくてはならない存在。縁の下の力持ち。ただし「黒子」「くろこ」は共に誤用が定着した慣用で、正しい表記は「黒衣」読みは「くろご」。黒装束に黒頭巾を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
黒幕(くろまく)
歌舞伎の黒幕は通常夜を表すために用いるが、人形浄瑠璃の黒幕は舞台を操る者をその陰に隠すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主・金主(投資者)・芝居茶屋などのことを「黒幕」と呼ぶようになった。そもそも黒という色に悪の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、当時はむしろ御公議の「幕府」「幕閣」や大相撲の「幕内」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、様子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には実情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の黒幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
二枚目(にまいめ)・三枚目(さんまいめ)
一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫禄のある役を務める立役の看板役者を「一枚目」、美男で人気が高い若衆役を務める役者を「二枚目」、面白おかしい役を務める道外方を「三枚目」に掲げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として残っている。
幕切れ(まくぎれ)・大詰(おおづめ)
それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、江戸歌舞伎の一番目の最後の幕を大詰と言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレースも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
千両役者(せんりょうやくしゃ)
名優と呼ばれる歌舞伎役者の収入は1000両を超えたことから、転じて素晴らしく活躍した人の意味。女形では初代芳澤あやめが正徳年間(1711年 - 1715年)に、立役では二代目市川團十郎が享保6年(1721年)に、初の年給1000両を得たという。
十八番(おはこ、じゅうはちばん)
市川家が得意演目の歌舞伎十八番の台本を桐の箱に入れて保管したことが語源となっている。【歌舞伎wiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
  


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2011年02月20日

歌舞伎(2)

江戸時代の歌舞伎
江戸時代の歌舞伎は日の出から日没まで上演した。これは当時の芝居小屋では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になってガス灯が使われるようになってからのことである)。朝方から夕刻までやっている歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。歌舞伎は必然的に、一日の中で時代物を好む客も世話物を好む客も、どんな客をも楽しませるような形態に進化していった。歌舞伎ではひとつの演目であっても時代物と世話物が幕間をはさんで交互に現れるといった、複雑な物語の展開を見せるものが少なくないのはこのためである。しかし江戸時代も後期になると、このようにひとつの演目だけを通して上演すること(通し狂言)は稀となり、一日の中で二つ以上の演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること(見取り狂言)が一般化した。これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。かつては昭和のはじめまで演目を並べるときには「一番目」(時代物)、「中幕(なかまく)」(多くは所作事)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが現在では行われていない。
明治以降の歌舞伎
明治になっても相変わらず歌舞伎の人気は高かったが、日本国外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ち・お家騒動・心中立などといった「前近代的」なもの(と当時は認識された)が多く、しかも盗賊・侠客・悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといったケレン(外連)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。
確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。また仮に「通し狂言」を上演したとしても、そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物と世話物、荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野をくまなく網羅するという決まり事があるため、例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ武士の曾我五郎(鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定も、洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。そしてそもそも作者と役者の双方が演出家の役割を兼ね、さらに「お家芸」という口伝がものをいう歌舞伎は、脚本家・演出家・俳優の役割が明確に分担されている西洋演劇を見慣れた者たちには混沌と混乱にしか見えなかった。文明開化を謳歌する明治という時代は、こうした者たちの意見が問答無用で通った時代だった。
このような批判を受けて、演劇改良運動と呼ばれる歌舞伎様式の改良運動が起こった。これは明治政府の文明国の上流、中流階級が観劇するにふさわしい演劇の成立を目指す目論見とも重なり、政治家を巻き込んだ運動となった。この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立したこともこの時代に特筆すべきことといえる。



撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 座天舞 - 】
  


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2011年02月19日

歌舞伎(1)



歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。

江戸時代の歌舞伎
江戸時代の歌舞伎は成立の過程から(1) 歌舞伎踊りと、(2) 歌舞伎劇に分けられるともいう。
(1) 歌舞伎踊りは若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎は曲芸なども見せていたといわれる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある。
(2) 歌舞伎劇は自然に現代に見られるような舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたこともその一因となった。つまり幕府は舞踊主体の公演は売色などを伴い、風紀上望ましくないと考えていたのである。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。
※ 歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれ、出演者を「歌舞伎役者」と呼ぶ。歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)と区分され身分上差別されたが、反面各地への通行に便宜を与えられた。武士階級の者は江戸幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止した。

歌舞伎の舞台は本来能舞台をもとにした構造であったが、時代が下ると客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道が付き、舞台の幅を広げ、観客の座る場にも屋根を設けて舞台とひとまとまりの建物にするなど、能舞台からは離れた形に発展していった。また能では用いられない引き幕によって場面を区切るという演出は、話の筋に時の流れを自然に導入して複雑な劇の展開を可能にし、花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、またセリ(迫り)によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図るなど高度な演劇へと進化した。【 歌舞伎wiki 】



撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 織天舞 - 】





  


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2011年02月18日

伝統芸能


伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているのではない。

伝統芸能の分類

和歌 長歌 短歌 旋頭歌 片歌 連歌 俳諧 俳句 連句 琉歌
日本舞踊
神楽 田楽 雅楽 舞楽 猿楽 白拍子 延年 曲舞 上方舞 大黒舞/恵比寿舞 纏舞 念仏踊り 盆踊り 歌舞伎舞踊
演劇
能楽 狂言 歌舞伎 人形浄瑠璃 
音曲
雅楽 
謡物  歌舞 管弦 舞楽 
邦楽 
箏曲 胡弓楽 尺八楽 三味線楽 地歌
浄瑠璃
義太夫節 豊後節(廃絶) 常磐津節 富本節(廃絶) 清元節 新内節 河東節 宮園節

地歌 長唄 荻江節 歌沢 端唄 小唄 都々逸 詩吟 民謡 島唄(奄美民謡) アイヌ民謡
演芸
講談(講釈) 落語 浪花節(浪曲) 奇術 萬歳 俄 梯子乗り 女道楽 太神楽 紙切り 曲ゴマ 写し絵
琉球芸能
組踊 端踊 御座楽 琉球民謡
工芸
彫金 漆器 陶芸 織物
芸道
茶道 香道 武芸 書道 華道
【 伝統芸能wiki 】

撮影時期:2008年12月~2009年1月 祈り【 前編 】
セカンドライフ内舞台動画

  


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2011年02月17日

舞台


舞台(ぶたい)とは、演劇やダンス、伝統芸能や演芸など、舞台芸術の表現者が作品を演じるための、一定の空間。転じて、舞台芸術に属する作品のジャンルを指し「舞台」と呼ぶこともある。また、演壇などの、舞台に類似する機能をもった一定の空間や機構を指し、舞台と呼ぶことがある。
ここから派生して、特定の人物や集団が盛んに活動を展開する場を指し、抽象的な意味において、舞台と呼ぶこともある。

舞台の「起源」と古代の舞台
人類史のどの段階で初めて舞台が現れたかは、はっきりとは分かっていない。西洋の場合、記録に残る最も古い舞台は、古代ギリシャ演劇の野外劇場である。これはすり鉢型の地形を利用した巨大構造物で、舞台は底の部分につくられた。観客は見下ろすような位置から舞台全体を見ることができた。この様式は古代ローマにも引き継がれ、その様式を踏襲した楕円形の劇場建造物なども生み出された。その代表的なものにはコロッセウム等がある。
日本においては、舞楽のための舞台が、一定の様式を持った舞台としては最古のものである。舞楽は雅楽の伴奏で舞う舞踊、舞踊音楽で、奈良時代に中国大陸や朝鮮半島、ヴェトナムなどから渡来、また平安時代には日本でも作られたもので、貴族の嗜み、娯楽、舞踊芸術として、また伝承が断絶してしまった伎楽と共に仏教の法会などで演じられた。舞楽の舞台は約4.5間四方の欄干(高欄、こうらん)が付いたもので、南北両側に演者が上り下りするための階段が設けられている。舞楽が演じられる際には、その中にさらに3間四方の敷舞台が置かれた。
舞楽以前にも様式を持った舞台が存在した可能性も否めない。少なくとも、岩などの自然の地形を利用した舞台と、そこで演じられる民俗芸能的なものは、確実に存在したと思われる。
史実ではないが、古事記や日本書紀などで語られる日本神話には、天岩戸のエピソードのなかに、舞台らしきものの記述が見られる。天岩戸に籠もったアマテラスを引き出すために、アメノウズメノミコトは半裸になりながら、伏せた器の上で踊った。この時の伏せた器は、踏み叩くことによって音を出す打楽器であると共に、舞台としての役割を果たしている。

農村舞台
農村舞台(のうそんぶたい)とは神社の祭礼等で歌舞伎・人形浄瑠璃等を上演することを目的に日本の農村に設けられた舞台。
【 舞台wiki 】

撮影時期:2008年12月~2009年2月 祈り【 後編 】
セカンドライフ内舞台動画

  


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2011年01月07日

巫女舞


巫女装束・服(非売品)MilkyHouse

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。前者(「神がかり系」)においては古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多い。
『古事記』・『日本書紀』において天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)はいずれも巫女舞であったと推定されている。『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する。
巫子舞、御子舞、神子舞などとも書き、巫女神楽(かぐら)ともいう。もと神に仕える巫女が神がかりして託宣するために舞をまった。巫女舞はこうした神がかりの舞が洗練され様式化されたもので、のちには社頭における鈴を振りながらの祈祷(きとう)の奉納舞にもなった。また湯立(ゆだて)をつかさどったのも多くは巫女で、湯立に伴う湯清めの舞をまった。古代には記紀にみえる天岩屋戸(あめのいわやど)の天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして俳優(わざおぎ)したのや、『古語拾遺』に「さる女君(めのきみ)ノ氏ハ神楽ノ事ニ供ヘ」とある神楽も、ともに巫女舞であったと考えられる。
一方、中世に法者(ほうしゃ)や修験(しゅげん)者と連携した巫女は法者の誦(よ)む祭文につれて巫女が神がかりし、死霊鎮めの舞をまった。

巫女舞の基本は、鈴、榊(さかき)、笹(ささ)、幣(みてぐら)、扇などを採物(とりもの)として回って回り返す旋回運動にあるが、全国各地の巫女舞には美しくまうだけの形式的な舞が多い。託宣の形を残すものには、秋田県の保呂羽(ほろは)山の霜月(しもつき)神楽の神子舞や岩手県宮古市の黒森神社の神子舞と湯立託宣などがあり、神がかり風な舞は島根県の隠岐(おき)神楽の巫女舞に残っている。巫女舞をはやす楽器は、笛、太鼓、銅子(どうばつし)の所が多く、琴や笏拍子(しゃくびょうし)などがつく所もあり、神歌(かみうた)も歌われる。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】


 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月07日

天鈿女命(アメノウズメ)

アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神です。(wikiより)

「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説や、「髻華(ウズ)」を結った女性(巫女の装束)の意とする『稜威道別』(イツノチワキ)説、折口信夫が『若水の話』で出した、「マナを指すヲチの音便で、魂をヲチふらせる意」説などがある。
笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出した物としてあげた(『狂笑の論理』)、天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである。カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。

神話での記述
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】


 撮影場所:大神稲荷  


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2010年10月03日

雅楽

雅楽」という言葉は、俗楽に対する「雅正の楽」という意味をもっており、大宝令
(701)で創設された雅楽寮(うたまいのつかさ)で所管された外来の音楽と舞を
指しています。
現在、雅楽という言葉は狭義ではこれら外来の音楽と舞(管絃・舞楽)のみを指
す場合が多いのですが、正式には日本古来の音楽や舞(国風歌舞)や平安時
代に新しく作られた歌曲(催馬楽・朗詠)を含めた総称を「雅楽」と呼びます。

現在、日本に住み、その音を耳にするの機会は、お正月・結婚式くらいかな?
笙(しょう)や和琴が奏でる旋律は、心に安らぎを感じられると共に眠気を誘いま
す(笑)

※ SL内雅楽・打物(打楽器) / みるきー舞姫


※ みるきー舞姫 【舞姫夏祭】 
   座天舞和楽器奏舞 『凛』 / 動画 2010年8月


※ 座天舞の座天とは
   座天使(ざてんし、ソロネ・スローンズ(Thrones)、またはオファニム
   (Ofanim)天使の九階級の中で、上から三番目の霊的存在に与えられた
   名称
   座天使:「車輪」「多くの目を持つ者」

雅楽に使われる楽器

管楽器(吹物) : 笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)・他
絃楽器(弾物) : 楽琵琶(がくびわ)・楽箏(がくそう)・和琴(わごん)
打楽器(打物) : 太鼓(たいこ)・鞨鼓(かっこ)・鉦鼓(しょうこ)・他

雅楽wikiより

楽器のみの演奏を管絃と言い、主として屋内で演奏され、舞を伴う演奏を舞楽
と言い、主として屋外で演奏する。
曲には序(じょ)・破(は)・急(きゅう)があり、西洋音楽で言う第一楽章、第二楽
章、第三楽章を言う。
序は一番ゆったりした流れで、自由な緩急で旋律を演奏する。
破はゆったりした流れだが、拍子が決められていて一小節を八拍として演奏する。
急はさっくりした流れとなり、拍子は一小節を四拍として演奏する。
多くの場合、破のみあるいは急のみの演奏となる。序・破・急を通しで演奏するこ
とを「一具」と呼ぶ。  


Posted by hidesun(英寸) at 19:12Comments(0)伝統芸能