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2011年01月31日

神社(弐)


【 画像 堺SIM内 大神稲荷 】

祭祀対象
祭祀対象は主に神道の神であり、日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物や伝説昔話の人物や、陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれています。
神社の名称
神社の名称の名付けられ方にはいくつか種類がある。もっとも一般的なのは地名である。鹿島神宮・八坂神社・春日神社・宗像神社・日枝神社などはいずれもそうです。
「~坐神社」というのもあります。また祭神名を冠するものも多い。稲荷神社・住吉神社・八幡神社・天満宮・丹生都比売神社などが挙げられます。ほかに奉斎する氏族の名前を冠するもの(倭文神社)や祭神に関連する語句を冠するもの(平安神宮・八重垣神社)、神社の種別を表すもの(招魂社・祖霊社)・祭神の座数によるもの(六所宮・四柱神社)などがあります。また由来のよく分からない神社名も少なくありません(浅間神社)。稲荷神社や八幡宮など全国に広く分布するものは、それらの社名にさらに地名を冠することが多い(伏見稲荷大社・函館八幡宮)。
天満宮は音読みで、八幡宮や浅間神社は音読みと訓読みの場合があるが、音読みで社号を読むのは仏教の影響です。天満宮はそのもととなった天満天神の祭神名自体が仏教の影響を受けているため、漢語の社名となっています。八幡宮と浅間神社はいずれも元来は「やわた」「あさま」と訓読みしたものでありました、神仏習合のもと仏教の影響で、音読みが定着することとなりました。
社号
神社の中でも、規模の大きい神社は大社や神宮と呼ばれ、有名な神を祭神とする場合が多い。
大社は江戸時代までは杵築大社(現出雲大社)・熊野大社(いずれも島根県)の二社が名乗っていたが、明治時代から1945年(昭和20年)までは大社を名乗る神社は出雲大社が唯一でありました。戦後は旧官幣大社・国幣大社・官幣中社の神社の一部26社が大社を名乗っています。なお、天皇や皇室祖先神を祭神とする神社を神宮と呼ぶことが多く、皇室につながる人物(皇族)を祭神とする神社を宮と呼ぶことが多い。
【 神社wikiより 】

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)神社

2011年01月30日

今宵 22:30開催

◆◇◆◇ みるきー舞姫 睦月 公演のお知らせ ◆◇◆◇

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋
【 舞姫奉納舞 】
みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。


1.日時 1月30日(日) 22:30~23:10予定
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 
3.演 目
 (1) 璃音 単独舞 
 (2) 凛  単独舞
 (3) 弐人舞(とろろ&舞矢)
 (4) 弐人舞(とろろ&舞矢)
 (5) 参人舞(雫&麗良&花菜)
 (6) 芙蓉 単独舞
 (7) 集合舞(とろろ、璃音、凛、雫、芙蓉、麗良、花菜、舞矢)

     奉納舞はこれで終了ですが2月公演の触りを行います。
 (8)2月公演予告『制服』から舞をひとつピックアップ
※ 詳細は、みるきー舞姫ブログ又は、MilkyhouseSIM舞姫御殿の案内板をご参照ください。


◆◇◆◇ 昨年開催イベント動画 ◆◇◆◇
2010年8月 舞姫夏祭 - 座天舞 - 和楽器奏舞 『凛』 【Image】より
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:44Comments(0)みるきー舞姫

2011年01月30日

今夜22:30開催

◆◇◆◇ みるきー舞姫 睦月 公演のお知らせ ◆◇◆◇

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋
【 舞姫奉納舞 】
みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。


1.日時 1月30日(日) 22:30~23:10  
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 

※ 詳細は、みるきー舞姫ブログ又は、MilkyhouseSIM舞姫御殿の案内板をご参照ください。


◆◇◆◇ 昨年開催イベント動画 ◆◇◆◇
2010年8月 舞姫夏祭 - 熾天舞 - 【Image】より
  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)みるきー舞姫

2011年01月29日

みるきー舞姫

◆◇◆◇ みるきー舞姫 睦月 公演のお知らせ ◆◇◆◇

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋
【 舞姫奉納舞 】
みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。

1.日時 1月30日(日) 22:30~23:10  
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 

※ 詳細は、みるきー舞姫ブログ又は、MilkyhouseSIM舞姫御殿の案内板をご参照ください。


◆◇◆◇ 昨年開催イベント動画 ◆◇◆◇
2010年10月公演 MilkyMAIHIME 「 MOD竹取物語 」
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:35Comments(0)みるきー舞姫

2011年01月28日

奉納舞

◆◇◆◇ みるきー舞姫 睦月 公演のお知らせ ◆◇◆◇


※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋
【 舞姫奉納舞 】
みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。

1.日時 1月30日(日) 22:30~23:10  
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 

※ 詳細は、みるきー舞姫ブログ又は、MilkyhouseSIM舞姫御殿の案内板をご参照ください。


◆◇◆◇ 昨年開催イベント動画 ◆◇◆◇
2010年11月公演 MilkyMAIHIME 「 不夜城 」イメージ


  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)みるきー舞姫

2011年01月27日

神社(壱)


【 画像 堺SIM内 大神稲荷 】
神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会や寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。元来は沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿を建てるのみの神社(参考:大神神社、石上神宮、宗像大社)、全く社殿が無い神社(那智大社の飛瀧神社など)がある。神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからと言われる。また常設されるようになった過程に仏教寺院の影響もあるとされる。
 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷


|||||||||  みるきー舞姫 睦月 公演 の お 知 ら せ |||||||||

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋

【 舞姫奉納舞 】

みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。
1.日時 1月30日(日曜) 22:30~23:10 
 
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 
※ 詳細は、みるきー舞姫ブログをご参照ください。

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)神社

2011年01月26日

因幡の白兎

「因幡の白兎」 :白うさぎと大黒様で知られる大国主の命のお話です。


昔々、隠岐の島に住む1匹の白兎が、ある姫神に会いたいと思い因幡の国へ行きたいと考えていました。しかし、隠岐の島と幡の間は海でとても自力では渡れません。
そこで白兎はワニザメをだまして向こう岸に渡ろうと考え、『ワニザメさん、君たちの仲間と僕たちの仲間とどちらが多いか比べてみようよ』と提案し、ワニザメを因幡の国まで並べさせ、その上をピョンピョンと渡っていきました。 
そしてもう少しで向こう岸に着こうというとき、あまりの嬉しさについ、『君たちはだまされたのさ』と言ってしまいました。それに怒ったワニザメは、白兎の体中の毛をむしり取り、あっという間に丸裸にしてしまいました。
丸裸にされた白兎がその痛みで砂浜で泣いていると、そこに大国主命の兄神様が大勢通りかかり(大国主命の兄神達は、隣の因幡の国に八上姫という美しい姫がいるという噂を聞きつけ、自分のお嫁さんにしようと、因幡の国に向かっている途中でした)、面白半分に『海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の頂上で寝ていれば治る』と言いました。白兎が言われたとおりにしてみると、海水が乾くにつれて体の皮が風に吹き裂かれてしまい、ますますひどくなってしまいました。
あまりの痛さに白兎が泣いていると、兄神達の全ての荷物を担がされて大きな袋を背負った大国主命が、兄神達からずいぶんと遅れて通りかかり、白兎に理由を尋ねました。そして、『河口に行って真水で体を洗い、蒲の穂をつけなさい』と言いました。
白兎がその通りにすると、やがて毛が元通りになりました。たいそう喜んだ白兎は『八上姫は兄神ではなく、あなたを選ぶでしょう。あのような意地悪な神様は、八上姫をお嫁にもらうことは出来ません』と言い残し、自らが伝令の神となって、兄神達の到着より前に、この事実を八神姫に伝えたのでした。
これを知らない兄神達は、先を競って姫に結婚を申し込みましたが、姫はそっけなく対応し、『私はあなた方ではなく、大国主命の元へ嫁ぎます』と言い、兄神達を追い返したのでした。
大国主命は優しさも兼ね備えており、そんなところも女性の心をしっかりと掴むのかもしれません。

※白兎は八上姫(やがみひめ)と大国主命との縁を見事に取り持ち、鳥取県で『白兎神社』の御祭神となっています。
※大国主命 : 八岐の大蛇を退治した須佐之男命の子供といわれています。


|||||||||  みるきー舞姫 睦月 公演 の お 知 ら せ |||||||||

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋

【 舞姫奉納舞 】

みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。
1.日時 1月30日(日曜) 22:30~23:10 
 
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 
※ 詳細は、みるきー舞姫ブログをご参照ください。


 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:40Comments(0)神話

2011年01月25日

巫(ふ、かんなぎ)は、巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指す。女性は「巫」、男性の場合は「覡」、「祝」と云った。「神和(かんな)ぎ」の意。(wikiより)

昨年来よりタイトル【巫女】【巫女舞】【天鈿女命(アメノウズメ)】と綴ってきましたが、今回は、その【巫(ふ、かんなぎ)】についてです。
【巫】

自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物を指すことが通例です。古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であった。祭政不分の社会であれば、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持ちました。

「かんなぎ」と言う場合は、特に日本の巫を指す。現在、神職の一般呼称である「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ職のことでありました。日本においては古来より巫の多くは女性であり、巫女(みこ、ふじょ)という呼称で呼ばれることが一般的です。ただし、古代初期の日本においては巫女と同一の役目を担う「巫覡、男巫、巫子」も少なからず存在していました。また、現代において巫女という場合、単に神道における神職を補佐する女性の職の人々を指す言葉として使われることが多いです。
青森県などには「イタコ」・「イチコ」などの名称の職もあります。日本本土と異なる歴史背景を持つ沖縄県周辺では、ユタ・ノロ(祝女)という古代日本の巫と同じ能力・権能で定義される神職が、琉球王国時代以前から現代まで存続しています。このことから、古代日本の信仰形態が残っていると指摘する民俗学者は多いです。
「かんなぎ」の語源については、神意を招請する意の「神招ぎ(かみまねぎ)」という語からであるとか、「神和(かむなぎ)」という語からであるなどといわれているが、どちらもはっきりとした裏づけはとれてはいません。

巫は一般には、次のような存在と受け止められています。

神や精霊など、神界・霊界・自然界の超物理的な存在と交流する力または立場を持っています。この交流を交信ともいいます。
祈祷などの手段で己の意識を神懸かりの状態(トランス状態の一種とも言われている)に置き、交信する対象の存在に明け渡すことで、対象の言葉(託宣、神託)を知ったり人々に伝えたりすることができます(伝えることを役割とする)。



※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋

|||||||||  みるきー舞姫 睦月 公演 の お 知 ら せ |||||||||

【 舞姫奉納舞 】

みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。

1.日時 1月30日(日曜) 22:30~23:10 
 
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 
※ 詳細は、みるきー舞姫ブログをご参照ください。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:53Comments(0)和文化

2011年01月24日

神楽(かぐら)

神楽(かぐら)は、神道の神事において神に奉納するために奏される歌舞です。神社の祭礼などで見ることができ、まれに寺院で行うところもあります。

 画像:Milky_MAIHIME 巫女壮束 】

「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的です。神座とは「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が集まった人々の穢れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられています。古事記および日本書紀においては、岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞ったという神話が神楽の起源であるとされます。アメノウズメの子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びであったとも考えられています。
神楽は、宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽(さとかぐら)に分けられます。里神楽は民俗芸能研究の第一人者である本田安次(1906-2001)がさらに大きく巫女神楽・出雲流神楽・伊勢流神楽・獅子神楽に分類した。これらの流れを汲んだ神楽が各地に存在します。しかし、この分類では不都合なことも生じてきており、近年里神楽の分類方法の見直しも考えられている。近代に作られた神楽もあり、その中には多くの神社で行われているものもあります。

巫女神楽
巫女が舞う神楽。神がかりのために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。前者の特徴は順・逆に回って舞うことなどで、その古態を残すところもありますが、現在では後者がほとんどです。鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を持って舞います。

※ 以下みるきー舞姫ブログより抜粋

|||||||||  みるきー舞姫 睦月 公演 の お 知 ら せ |||||||||

【 舞姫奉納舞 】

みるきー舞姫の2011年公演は睦月公演『奉納舞』で始動します。
今回は本拠地を離れMonarchシムの 海上神社での公演となります。
単独舞3つ、2人舞2つ、3人舞1つ、集合舞1つの計7演目をお送りします。
舞姫巫女たちの奉納舞をお楽しみください。

1.日時 1月30日(日曜) 22:30~23:10 
 
2.場所
  このLMで桟橋前に到着します。会場は桟橋を渡った海上神社となります。 
※ 詳細は、みるきー舞姫ブログをご参照ください。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:34Comments(0)和文化

2011年01月23日

桜 (弐)


【 画像 MilkyHouse_SIM 】
日本の桜
日本で桜は最も一般的な花で、最も愛されている花である。サクラの花は往々にして葉が出そろう前に花が咲きそろいます。この「何もないところに花が咲く」という状態に、古来生命力の強さを感じたものと思われます。
日本最古の史書である『古事記』『日本書紀』にも桜に関する記述があり、日本最古の歌集である『万葉集』にも桜を詠んだ歌があります。平安時代に国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まっていきました。
江戸時代までには「花は桜木、人は武士」という言葉が成立しており、それまでに「花」=「桜」のイメージは日本で定着しました。また、桜の名所も次々と整備された。園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることが出来るようになりました。江戸末期までには300を超える品種が存在するようになりました。また、江戸末期にはソメイヨシノが開発され、明治になって以降さらに多くの場所に桜が植えられていきました。このころには全ての階層の人々にとって花といえば桜となっていました。
春を象徴する花として日本人にはなじみが深く、初春に一斉に開花する特徴があり春を告げる役割を果たす。俳句の季語になっているほか、桜の開花予報、開花速報は春を告げる合図となっています。また、入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられています。桜が咲いている季節がまさに春である。日本全土で全ての種類の桜が全て散り終わると晩春の季節となり、初夏がやってきます。

桜は春の象徴、花の代名詞として和歌、俳句をはじめ文学全般において非常に良く使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。
伝統文化的作品では桜を人に見立てた西行桜などがあります。江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って次の句を詠みました。
【 さまざまの 事おもひ出す 桜哉 – 松尾芭蕉 】
音楽においては江戸時代の箏曲や、地歌をはじめとする三味線音楽に多く取り上げられています。一般に「日本古謡」とされる『さくらさくら』も、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものです。明治時代以降では滝廉太郎の歌曲『花』などが有名である。長唄『元禄花見踊』も明治以降の作であるがよく知られています。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:35Comments(0)草・木・花

2011年01月22日

桜 (壱)


【Milky House_SIM画像】

サクラ(桜、櫻)はバラ科サクラ属サクラ亜属に分類される木であり、落葉広葉樹である。春に白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせ、日本人に古くから親しまれています。
文化にも深くかかわっています。昔は緑が生え、稲作を始める時期に咲くため暦代わりに使われていました。平安時代以降は桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。和歌や俳句などでも良く取り上げられる題材であり、室町時代に成立した能の西行桜では桜が人を引き付けることが書かれています。現在でも多くの創作で取り上げられている。花を見ながら行われる宴会は花見として知られています。また、百円硬貨の表には桜がデザインされています。


「サクラ」の名称の由来は、一説に「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたものとされ、元来は花の密生する植物全体を指したと言われています。また他説として、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だからサクラであるとも考えられています。富士の頂から、花の種をまいて花を咲かせたとされる、「コノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)」の「さくや」をとって「桜」になった、とも言われています。(サクラwiiki)

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:35Comments(0)草・木・花

2011年01月21日

卑弥呼


【画像 大神: 女王ヒミコ】
魏志倭人伝には、卑弥呼は鬼道に通じていて歳はとっているが結婚はせず独身で、弟が居てまつりごと(政治)を助けていると書かれています。
鬼道とは現在の占いの事だと言われていて、幼い時からまじないや占いの力があり、それが良く当たっていたので“神と話ができる”と崇められていたのです。
10歳頃には洪水など起きていない所で洪水になると予言し、数日後に本当に洪水になり事前に避難していた人々が助かり、卑弥呼は神童だと騒がれたのです。
そして、卑弥呼が女王になってからの姿を見た者は少なく、卑弥呼が神のお告げを聞き、それを弟が人々へと伝えていたのです。
法律を定めたり、中国へ使者を送ったり、まつりごとを実際に行っていたのは弟だとも言われています。
卑弥呼は宮殿の奥に住み、宮殿の周りは武器を持った兵が守り、1000人もの召使いがいたと言われています。
そして、この時代には天気予報なども無いので大雨や台風なども予言できた卑弥呼はとても大事にされ、予言通り収穫の秋に水田で大豊作となった時には1番に卑弥呼の元へ米が届けられ、神への感謝の儀式も行っていたのです。
それから、卑弥呼の弟の他に難升米(なしめ)と呼ばれる男性が卑弥呼を助け、活躍します。
難升米は魏にも派遣され重要な役割を果たしています。
難升米達が魏へ行った時は、魏王から卑弥呼へ「親魏倭王」の称号と金印など多くの宝を贈られた事で、魏の力を借りて邪馬台国をまとめていく事を卑弥呼は考えていたのです。
その後243年にも再び魏へと使者を送った時、魏王に隣国の狗奴国との戦いが始まった事を知らせます。
そして245年に魏王は励ましと応援の黄色い旗を贈りますが1年が過ぎても届かなかったのです。
それは、旗の使いが争いに巻き込まれて前に進めず、黄色い旗が邪馬台国へと届けられた時、人々は勇気付けられましたが戦いは収まらず、卑弥呼は亡くなってしまうのです。

卑弥呼=天照大神説
1.卑弥呼には、弟がいたことになっている。/ 天照大御神にも、須佐之男の命、月読の命という弟がいる。
2.『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述がしばしばみられる。高木神は天照大御神といっしょに、しばしば、命令を下したりなどしている。 魏志倭人伝の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、高木神と が符合するように思える。
3.天照大御神と、須佐之男の命の争いは、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼との戦争ににている。
4.卑弥呼の没後、大きな塚がつくられ、男王がたったが国中が服さず、戦いがおこなわれ、宗女台与がたって国中がおさまったという話は、天照大御神が、天の岩戸に隠れ、ふたたびあらわれたという話と符合する。
5.魏志倭人伝には、人が死ぬと、他人は、歌舞飲酒につく、とある。 これは、天の岩戸のまえで、天の宇受売の命が、歌舞をし、諸神が、「歓喜び、笑い遊んだ」のと一致する。
卑弥呼=天照大御神とすると、それぞれ、邪馬台国と高天が原を統治していたので「 邪馬台国 = 高天の原 」といえることになる。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 22:07Comments(0)神話

2011年01月20日

イザナギのみそぎ


【 画像 身曾岐神社・・・祭神 : 天照大神・天徳知徳乍身曾岐自在神 】

ようやく黄泉の国から戻ることができたイザナギは、イザナミに会いにいったことをとても後悔(こうかい)していました。
 「黄泉の国で、私の体は大変けがれてしまった。きれいに洗い清めなければ」
こういうと、イザナギは“筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎがはら)”に出かけ、そこで“みそぎ”をすることに決めました。
まず、持ち物や身につけていた衣服を脱ぎ捨てました。するとそれらの物からたくさんの神さまが生まれました。
つえから生まれた神さま。帯から生まれた神さま。小物を入れる袋から生まれた神さま。衣から生まれた神さまなどです。
裸になったイザナギは、チャポン…チャポンときれいな水の中へと入っていくと、中に潜(もぐ)って体を洗いはじめました。
するとどうでしょう。今度もたくさんの神さまが生まれたのです。
イザナギの体からでた汚れから生まれた神さま。水底で体をすすいだときに生まれた神さま。水中で体をすすいだときに生まれた神さま。水面で体をすすいだときに生まれた神さまなどです。
そして、体がすっかりきれいになったイザナギが、最後に顔を洗ったときのことです。
左の目を洗うとアマテラス。右の目を洗うとツクヨミ。そして鼻を洗うとスサノオが生まれました。
イザナギは、みそぎの最後に生まれた三人の神さまの誕生をとても喜び、アマテラスには高天原(たかまがはら)を、ツクヨミには夜を、スサノオには海を、それぞれ治めるよう告げたのでした。
※ みそぎ(禊) 
神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離(みずごり)と呼ばれる。
※ 現代におけるみそぎ(禊 )
神事の前に於ける行として、一般参拝者が手水で清めることも禊の一種である。
川や海、滝に入る禊を行う者もある。神社関係者などの研修会等で行われる他、寒中に精神鍛錬の意味合いをもって、神社が主催し、氏子らを集めて行う事もある。
武道修行者が、寒稽古の一環として行うこともある。また稽古の前に冷水を浴びてから稽古を行う武道家もいる。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)神話

2011年01月19日

黄泉の国


【みそぎ池】
御池(みいけ)とも呼ばれ、イザナキノミコトが黄泉(よみ)の国のけがれを清めるため、禊(みそ)ぎを行った所と伝えられています。

イザナミを追って、イザナギは、地の底へ。イザナミを失ったイザナキは、あきらめきれずに、ただ会いたい一心でイザナミのいる“黄泉(よみ)の国”へと出かけていきました。
 「イザナミ…イザナミ、私のイザナミはどこにいる?」
イザナギはいっしょうけんめいにイザナミをさがしました。 そして、イザナミをようやく見つけると、こう言いました。
 「いとしいイザナミよ。まだ国づくりは終わっていません。さあ、一緒に帰りましょう」
すると、イザナミは答えました。
 「私は、黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、帰ることができなくなってしまいました。でも、あなたが、こうしてわざわざ迎(むか)えにきてくれたので、この国の神に相談してみます。その間、決して私の姿を見ないでください」
イザナギは長い時間イザナミが出てくるのを待っていました。 しかし、いくら待っても出てきません。イザナギはとうとうがまんできずにイザナミのいる御殿(ごてん)に入り、中をのぞいてしまいました。
そこでイザナキが見たものは…あまりにも変わり果てたイザナミの姿でした。
顔や体中にウジ虫がはいまわり、体のあちこちには、それはそれは恐(おそ)ろしい姿をした化け物たちがうごめいていたのです。 すっかり恐ろしくなったイザナギは、いちもくさんに逃げ出しました。
 「こらあ~!イザナギ。逃げるのかあ!私にに恥(はじ)をかかせおって!」
イザナギがうしろを振り返ると、体のあちこちからウジ虫をぶら下げたイザナミがこわい顔で追ってくるではありませんか。
いよいよこわくなったイザナキは、必死に逃げました。そして黄泉の国の出口にようやくたどり着くと、近くにあった大きな岩で道をふさぎました。その岩をはさんで、イザナミに
 「離婚をしよう。」いいます。すると、イザナミが、
 「愛しいあなたが、このようなことをされるのならば、わたしは一日にあなたの国の人間たちを千人殺してあげましょう。」
というと、イザナギは、
 「愛しい女神よ。あなたがそうするなら、わたしは、一日に千五百の産屋(うぶや=出産のために建てる家)を建てましょう。」
といいました。
このことから、人間は一日に千人が死に、千五百人が生まれてくるのです。

※坂をふさいだ大きな岩は、ヨミドノオオカミ(黄泉戸大神=黄泉の入り口にある大神)と申します。そして、いわゆる「黄泉比良坂」は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか=島根県八束群東出雲町揖屋)という坂です。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月18日

イザナミと火の神


【国産み神話の主人公であるイザナギ命とイザナミ命をお祀りしていると言う 淡路国一之宮の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう) 】

イザナギとイザナミはたくさんの島をつくりはじめました。アワジの島、ツクシの島、イキの島、サドの島などです。
次に、イザナミはたくさんの神さまを生みはじめました。
家や土地の神さま、海の神さま、風や木や山や野の神さま、船の神さま、食べ物の神さまが次々に生まれ、最後に火の神さまが生まれました。

火の神さまの名前は軻遇突智(迦具土神:カグツチ)。

しかし、炎に包まれて生まれてきた火の神を生んだことでイザナミは大やけどを負ってしまい、そのことが原因でとうとう死んでしまいました。
「たった一人の子のために、いとしい人を失ってしまった」
大好きなイザナミが死んでしまったイザナキは悲しみ、大声で泣き続けました。
そうしているうちに、イザナギの心の中にカグツチへの怒(いか)りと憎(にく)しみがフツフツとわきあがってきました。
そして、とうとう腰にさげていた“十握の剣(とつかのつるぎ)”でカグツチを三つに切ってしまったのです。
イザナミを失い我が子さえも殺してしまったイザナギ。その悲しみはいつまでもやむことはありませんでした。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月17日

伊耶那岐命と伊耶那美命


伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト:イザナギノミコトの妻)

昔むかし、この世界で最初に天に現れましたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)という神様でした。次に、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)という神様が出現なさいました。この三柱(みはしら。※神様の数は、「柱」で数えます。)の神様は、そのお姿を地上には、直接現しませんでした。
その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。これらの五柱の神様は、コトアマツカミ(別天つ神)といって、それぞれ独身(ひとりみ)で現れた天の神様たちです。
その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。

ある時、天の神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトに「この海の中にふわふわと漂っている国をしっかりと固めて完成させてほしい。」とおっしゃって、天にあるりっぱな矛(ほこ)をお授けになられました。
そこで、イザナギノミコトとイザナミノミコトは、天からつながっている浮桟橋(うきさんばし)までやって来て、矛を降ろして、下界の海水をゴロゴロと掻き回してから、引き上げてみました。その時に、矛の先からしたたる海水が重なってできたのがオノゴロ島(大阪湾内の島)です。イザナギノミコトとイザナミノミコトは、その島に天から降り立って、天の神聖な大きな柱をお立てになり、その柱を中心として大きな御殿を作られました。そして、イザナギノミコトは、妻のイザナミノミコトにお尋ねになりました。

「あなたの身体はどのようになっていますか?」
「私の身体は、すっかり美しく出来上がっていますが、一カ所だけ出来きれていないところがあります。」
とイザナミノミコトがお答えになられると、
「ほう、私の身体もよく出来上がっているが、一カ所だけ出来き過ぎたところがあります。では、私のからだの出来すぎたところをあなたの身体の出来きれないところに刺して、塞いで、この国を生みたいと思うのだが、どうだろうか?」
「それがよろしいでしょう。」
とイザナミノミコトもおっしゃいましたので、イザナギノミコトは、
「では、私とあなたはこの天の御柱(あめのみはしら)を回って出会い、男女の交わりをいたしましょう。私は、右から回るので、あなたは、左から回ってみてください。」と約束されてから、お回りになったときに、妻が先に「まあ、本当にすてきな男性ですね。」
とおしゃって、その次に夫が、
「やあ、本当に美しい女性ですね。」
とおっしゃいました。それぞれが言い終わった後に、イザナギノミコトは、
「どうも女が先に言うのはしっくりとこない。」
とおっしゃいましたが、ともかく暗い場所で子をお生みになりました。しかし、この子はとても醜くい子であったので、葦の船に乗せて流してしまわれました。次に淡島(あわしま。四国の阿波地方=現在の徳島県を指す)をお生みになりましたが、これも子どもとはみなされませんでした。

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 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月16日

三種の神器


【画像:大神稲荷 拝殿内】

三種の神器とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。
八咫鏡(やたのかがみ)
記紀神話では、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出した。そして再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも称され、記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。

電化製品の三種の神器(さんしゅのじんぎ)
戦後日本において、新時代の生活必需品として宣伝された3種類の耐久消費財である。
1950年代後半
1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された
1960年代半ば
カラーテレビ(Color television)・クーラー(Cooler)・自動車(Car)の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。
2003年(平成15年)頃
急速に普及し始めたデジタル家電のデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビをデジタル三種の神器と呼ぶことが多い。
「三種神器wiki」

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月15日

木花咲耶姫

コノハナノサクヤビメは、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、又は単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。

【大神より: サクヤ姫とアマテラス】
コノハナノサクヤビメは木の花(桜の花)が咲くように美しい女性の意味である。カムアタツヒメの「阿多」は薩摩国阿多郡阿多郷(現在の鹿児島県南さつま市金峰町周辺)のことであるとされている。つまり阿多隼人の出身であり、その首領の娘という意味をもつ。
信仰
富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。
火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」譲られた。祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。
ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしている。また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされている。また富士山本宮浅間大社では、コノハナノサクヤビメにちなんて、桜の木をご神木としている。
さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田の茂穂をもって、今日の甘酒とされる天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話があることから、オオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)、コノハナノサクヤビメはサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされる。
浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市など)に、酒解子神として梅宮大社(京都府右京区)に、また、伊都国の中心、福岡県前原市三雲に姉の磐長姫(イワナガヒメ)とともに細石神社(さざれいし神社)にも祀られている。
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 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月14日

八塩折之酒

八塩折之酒(やしおりのさけ)

【大神より】

スサノオがヤマタノオロチを退治する際に用いた酒。 『古事記』や『日本書紀』の中で最初に現われる酒がこの八塩折之酒です。
高天原での暴虐がたたり、中つ国へと追放されたスサノオであったが、そこでアシナヅチとテシナヅチ、そして娘のクシナダと出会う。元々クシナダには7人の姉がいたが、毎年一人づつヤマタノオロチに食われてしまい、もうじきクシナダも食われてしまうのだという。スサノオはクシナダを妻にするのと引き換えにヤマタノオロチを倒すことを約束する。
テシナヅチとアシナヅチに非常に強い酒を造らせ、それを8つの瓶に入れクシナダを櫛に変えてスサノオはヤマタノオロチを待つ。クシナダを食いにきたヤマタノオロチは、良い香りのする酒に誘われてそれぞれの瓶に首をつっこんで飲み始めた。しかしいかにヤマタノオロチと言えど八塩折之酒の威力には勝てず、たちまちのうちに酔っ払ってしまう。
そこを狙ってスサノオはアマノハハキリにてオロチの首を撥ね、尾を引き裂いて退治したのであった。

原材料は、少なくとも米ではなく木の実などを用いた酒であるらしい。八塩折とは「さまざまな木の実で何度も繰り返す」という意味であるため、おそらくは醸造を幾度も幾度も繰り返した酒で仕込んだ酒なのだろうといわれている。ちなみに、日本で一番最初に米を用いた酒はコノハサクヤヒメが造った天甜酒だといわれている。コノハサクヤヒメが噛んで唾液と塗した米を醗酵させた口噛み酒であるとの事。

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 撮影場所:大神稲荷  


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2011年01月13日

玉藻前

玉藻前(たまものまえ。玉藻の前、玉藻御前と紹介されることもある)は平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた白面金毛九尾の狐が化けた架空の絶世の美女。鳥羽上皇が院政を行った1129年から1156年の間に活躍したといわれ、20歳前後の若い女性(少女とも)でありながら、大変な博識と美貌の持ち主であり、天下一の美女とも、国一番の賢女とも謳われた。また、化生の前(けしょうのまえ)とも云われ、その正体は白面金毛九尾の狐ではなく、二尾の狐であったとも云われている。

【 ぬらりひょんの孫 羽衣狐より 】
伝承
最初は藻女(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。18歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前(たまものまえ)と名乗る。その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなった。
しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、天皇家お抱えの医者にも原因が分からなかった。しかし陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)がその病が玉藻前による事が判明し、正体を暴露された玉藻前は、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗ましていた。
その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、8万余りの軍勢を那須野へと派遣した。
那須野で、既に白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する。
対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた。
だが九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたと言われている。南北朝時代、会津・元現寺を開いた玄翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる。
玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)である。
摂関家などの名門出身でもない彼女が皇后にまで成り上がって、自分の子や猶子を帝位につけるよう画策して、中宮待賢門院(藤原璋子)を失脚させ、崇徳上皇や藤原忠実・頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているとも言われる(ただし、美福門院が実際にどの程度まで皇位継承に関与していたかについては諸説ある)。
江戸時代に入ると、玉藻前は酒呑童子、崇徳上皇(崇徳の大天狗)と並んで日本三大悪妖怪と言われ、歌舞伎や多くの小説・漫画・雑誌・文庫などに、主に悪役として多く登場することとなった。そして震旦(中国)の悪女、妲己と褒姒を結びつけることで、妖怪玉藻前は「三国伝来白面金毛九尾の狐」として昇華され、世界的な大妖怪というイメージが定着した。
玉藻前、九尾の狐を単なる国や王朝を破壊しようとした悪役ではなく、孤独を恐れ、愛情に溺れ、運命に弄ばれた悲劇のヒロインとする見方もある。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】


 撮影場所:大神稲荷  


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