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2011年08月31日

能(のう)

能(のう)は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種。重要無形文化財かつユネスコ無形文化遺産である「能楽」の一分野であり、江戸時代以前には猿楽の能と呼ばれていたものである。


能とは元々能芸・芸能の意をもつ語であって、猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになるとともにほとんど猿楽の能の略称となり、明治維新後禄を失ったことにより他の多くの芸能は絶え、猿楽を能楽と呼称することが一般的となった。
その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている。現在は日本における代表的な伝統芸能として遇され、歌舞伎に並んで国際的に高い知名度を誇る。

能は、俳優(「シテ(仕手)」)の歌舞を中心に、ツレやワキ、アイ狂言を配役として、伴奏である地謡(じうたい)や囃子(はやし)などを伴って構成された音楽劇・仮面劇である。舞と謡を担当し、実際に演技を行うのがシテ方、ワキ方および狂言方であり、伴奏音楽を担当するのが囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)である。能は、仕手方が中心となって行われることが多く、ワキ方、囃子方、狂言方を総称した呼び方の「三役」に、シテ方より役目の依頼をかけることが多い。



能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措や佇まいのように、「ただ美しく柔和なる体」を、つまり、「平安朝的な優美さを持つことで、女性的な美しさをいう。」ことを「幽玄」としている。「あはれ」と「艶」との調和した静寂美と優雅美が合致して寂びて見える優美が能楽の「幽玄」といえる。

型の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)、これを円滑に行うためには膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要がある。すなわちこれが「構え」である。また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って舞踏を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。 能舞台は音がよく反響するように作られており、演者が足で舞台を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。
【 能WIKIより 】

【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 白蛇の間 動画 NEW 】


● 次回開催日  2011年9月11日(日)22:00  


Posted by hidesun(英寸) at 21:12Comments(0)伝統芸能

2011年08月29日

長月(ながつき)

日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼びます。


現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。

英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていたのを1月を年の始めとすると改めたにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus」の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。

【 異名 】
いろどりづき(色どり月)、いわいづき(祝月)、えいげつ(詠月)、きくさきづき(菊開月)、きくづき(菊月)、くれのあき(晩秋)、げんげつ(玄月)、けんじゅつづき(建戌月)、せいじょづき(青女月)、ちくすいづき(竹酔月)、ながつき(長月)、ねざめづき(寝覚月)、ばんしゅう(晩秋)、ぼしゅう(暮秋)、もみじづき(紅葉月)


【 桔梗画像 】

・誕生石 - サファイア
・星座 - 乙女座(9月22日頃まで)、天秤座(9月23日(秋分)頃から)
・誕生花 - リンドウ、芙蓉、桔梗
「 長月wikiより 」


【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 白蛇の間 動画 NEW 】


● 次回開催日  2011年9月11日(日)22:00  


Posted by hidesun(英寸) at 20:49Comments(0)和の暦

2011年08月28日

MOD女陰陽師【画像メモ】

【 MOD女陰陽師 】


「みるきー舞姫 MOD女陰陽師 黒桜の間 カザネ舞 画像」

平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

【 公演画像メモ 】

・会場概観 ・・・ こんなイメージですが、実物とはかけ離れていますw


・白蛇の間の一部変更箇所 ・・・ よくわからない図


・公演開催場所 ・・・ SIM到着後、舞姫御殿入口まで50m程移動



【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 白蛇の間 動画 NEW 】


● 次回開催日  2011年9月11日(日)22:00  


Posted by hidesun(英寸) at 20:25Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月27日

水墨画

水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。



日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。
墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。

平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。


室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺の画僧・明兆(みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿(もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。
(水墨画wikiより)


【 大神 アマテラス画像 】


2011年9月11日(日)22:00 みるきー舞姫公演開催
  


Posted by hidesun(英寸) at 16:20Comments(0)和文化

2011年08月25日

平安貴族(2)


【 みるきー舞姫公演「MOD女陰陽師画像」】

当時、平安貴族の娘は初対面の男性には、声もかけませんでした。男性と対面するときは、几帳・御簾越しで、姿は見せないのが常識でした。例え、知り合った後でも、会話は全て侍女を通してするのが普通でした。現代のように、直接会って始まる恋は、まず無いと言ってもいいくらいです。たいてい、男が女についての噂を聞き、興味を持った女性に文を送るのが始まりでした。

物語に多く見られる「かいま見」から始まる恋は、現実ではありませんでした。しかし、偶然出会って強引に関係する事もあったようです。当時は一夫多妻制でしたが、女性にも複数の男性がいることがあったようです。そして運悪く男性同士が、かち合う事もあったようです。また、女の方で、飽きられた人は、「夜離れ」を嘆いたのでした。

【結婚】

当時の結婚の大きな特徴は、①婿取り婚(むことりこん)②一夫多妻(いっぷたさい)であったことです。
一夫多妻といっても、正妻はもちろん一人でしたが、妻の実家が夫の面倒を見ていて、生まれた子どもも妻の方で育てていました。ただ、天皇の妻となって宮廷に出仕する(入内~じゅだい~)場合は逆で、妻の方が後宮に自分の部屋をもらい、そこにすみましたが、その生活は、実家の方でまかなっていました。
そのほか、内親王(ないしんのう)が降嫁する場合は、経済面の大半を相手の男性がひきうけなければなりませんでした。相手の女性の身分が低かったり、後ろ盾がない時は男性の家に、同居したりしましたが、この場合、正妻として社会的に認められませんでした。結婚当初は妻の実家に通っても、ずっとではなく、夫婦だけで別のところに、移り住むのが普通でした。

1. 男が仲立ちをたてて、女の家に求婚の手紙を贈ります。
2. 保護者の承諾を得て、吉日を選び三日間ひそかに女のことに通います。この期間は、普通の恋愛と同じ く、男は闇にまぎれて通い、夜明け前に帰らなければならなかったし、帰ったらすぐ恋文(ラブレター)を
贈らなければなりません。
3. 三日目になると、「露顕(ところあらわし)」という披露宴と「三日夜(みかよ)の餅」という夫婦固めの共食が行われ、これで晴れて世間から夫婦と認められます。ちなみにこれらは、全て妻の実家が主催します。

【 MILKYHOUSE 十二単 】



みるきー舞姫 【 MOD女陰陽師 予告編 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:16Comments(0)和文化

2011年08月23日

平安貴族(1)

平安時代になると国風文化が花開き、華やかな固有の衣装が確立しました。


【 衣装 】

貴族にとって衣装はとても大きな関心事でした。というのも、地位によって衣装や持つものも決められていました。いかに衣装をセンスよく選び、自分の株をあげるかが大切だったからです。これが出来ない人は「もののあはれ」の分からない無粋な人と周りから失笑を買い、馬鹿にされたのです。それ位重要なことだったのです。そのほかにもどのような香を衣にたきしめるか、扇を持つか、いかに季節に合わせたものをさりげなく着こなすか、これらもとても大切なポイントでした。
正式の衣装では男女ともに長い布を後ろに垂らすなど、とても動きにくい格好でしたが、儀式や宴に堂々と参列するには立ち居の姿を立派に見せることが重視されました。
また、男女ともに顔に化粧をしていましたが、顔に塗る白粉は水銀が使われていることも多く、お歯黒とともに病気の原因になっていました。そのほかには唇には紅を、眉はすべて抜き目と眉の間を大きくあけて眉墨(まゆずみ)で別に書くのが普通でした。
また、衣装と、季節に合わせたお香(全く自分のオリジナルのもの)を調合して、たきしめているのが、当時の常識でした。ちなみに女性は、女の命と言われた黒髪にもたきしめていました。

【 住宅 】

平安の貴族の住まいは、寝殿造りというもので、平安時代に完成した住宅様式です。南向きの寝殿を中心に左右対称に建物が建っています。

「 MilkyHouse_SIM : 平安の寝殿造りと大きな池のSIMです。」

【 教養 】

男性は官僚貴族として身を立てるため、漢詩文の教養が絶対に必要でした。次に有職故実(ゆうそくこじつ)という、宮中行事の決まりに通じていることも大変重要でした。そのほか、習字、音楽、和歌が一般教養として求められていました。

女性は情操面が重んじられ、和歌、習字、音楽に通じていることが求められました。和歌の上達のため、歌集の暗記も大切でした。そのほか、和歌を書くのにふさわしい紙の色や質、墨の濃淡の工夫、センスよく衣服の色目を選ぶこと、すぐれた香を合わせる能力、普段の立ち居振る舞いについての心得も重要でした。
当時の貴族達は(特に女性)相当にひまを持て余しており、そのため様々な遊びが生まれました。

この頃の世の中では、遊びは貴族の生活そのものともいえ、出来て当たり前の、いわば教養の一種だったのです。主流は室内的な娯楽でした。最も盛んに行われていたのは“遊び”と称された音楽で、日常的に演奏、合奏をしていました。こうした"管弦の遊び"では、管楽器(横笛、笙など)、弦楽器(和琴、琴、筝、琵琶)、打楽器(太鼓、鼓など)を組み合わせて演奏しました。また、"物合(ものあわせ)"も盛んで、主に貝合、絵合、歌合、薫合(かおりあわせ)などが有名です。これらは、互いに優劣を競い合う、一種のコンテストのようなものでした。
このほか、囲碁、双六、舟遊び、絵画の制作や書道、物語の深く味わったりする事などもありました。
男性は屋外の娯楽として蹴鞠(けまり)、鷹狩、弓などがありました。

「 おじゃる丸画像 」


【 みるきー舞姫 2011年9月11日(日)公演予告動画 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:38Comments(0)和文化

2011年08月22日

薙刀


昨晩は、みるきー舞姫公演 【MOD女陰陽師】にお越しいただき、誠に有難うございました。


【 みるきー舞姫「MOD女陰陽師」公演画像 】

薙刀(なぎなた)は日本の長柄武器の一種で、平安時代に登場した武具である。
長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具で、当初は「長刀」(”ながなた”とも読まれた)と表記されていたが、「刀」に打刀という様式が生まれると、「打刀」を「短刀」と区別するために呼称する「長刀」(ちょうとう)と区別するため、「薙刀」と表記されるようになった。

薙刀が誕生した過程については研究が進められていないために未だにはっきりとは判明していないが、単純により間合いを大きく取れる太刀を求めた結果柄が自然と長くなったものだとする説から、奈良時代後期から鎌倉時代にかけて「手鉾(てほこ)」と呼ばれる、一尺(約30cm)から二尺(約60cm)程の刀身を比較的短い柄に嵌めて用いる柄武器が存在しており、これが改良されたものが薙刀であるという説、また、大陸に渡って仏教を学んだ僧によって中国の長柄武器である大刀が伝えられ、これに習って日本で作られたものが奈良時代から平安時代にかけて寺院の守護のために僧兵の武器として広く用いられており、これが薙刀の発祥であるという説もあり、その起源と発達過程については諸説存在する。



日本において武士の主な戦闘方法は遠距離から馬上で弓を射ることであったが、名乗りを上げて一騎打ちを行う際には手持ちの武器による接近戦も行われた。やがて、戦闘方法の変化から徒戦(かちいくさ)という概念が一般化すると、薙刀は武士から足軽まで広く用いられる主武器となった。

薙刀の使用が最も盛んであったのは源平時代の頃であり、その後南北朝時代に至ると「矛」から発展した長柄武器として槍が登場し、また長巻の登場によって薙刀が戦場で用いられることは少なくなっていった。応仁の乱の頃より戦闘の主流が足軽による集団戦に変わると、“振り回す”形で使う武器は密集した隊列を組んで行う戦闘において不便であり、やがて槍に取って代わられていった。その後戦国時代に鉄砲が伝来すると長柄武器そのものが衰退し、薙刀は僧侶、婦女子の用いる武具となっていく。

実戦武具としては廃れたものの、江戸時代には武家の婦女子の習う必須の武芸として稽古され、武士の家であれば嫁入りの際には薙刀を必ず持参したという。大正から戦後にかけて、主に女性のたしなむ武道となり、「なぎなた」として現代も競技が盛んである。





みるきー舞姫 【 MOD女陰陽師 予告編 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:30Comments(0)日本刀

2011年08月21日

MOD女陰陽師【舞】

【 MOD女陰陽師 】


平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

みるきー舞姫 今宵の開催時間

2011年 8月21日(日)22:00~

会場入口

MilkyHouse_SIM 舞姫御殿前


今宵、22:00よりの開始となります。
お客様待合室にて、演目内容の確認が出来ます。
約2時間の公演となります。お飲み物等ご用意の上、ご入場は、お時間の余裕を持ってお越しください。


地図はこちら
詳細はこちら







【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】
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Posted by hidesun(英寸) at 21:19Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月21日

みるきー舞姫【今夜公開】

【 MOD女陰陽師 】


平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。



みるきー舞姫 今宵の開催時間

2011年 8月21日(日)22:00~

会場入口

MilkyHouse_SIM舞姫御殿前


今宵、22:00よりの開始となります。
お客様待合室にて、演目内容の確認が出来ます。
約2時間の公演となります。お飲み物等ご用意の上、ご入場は、お時間の余裕を持ってお越しください。


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【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】
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Posted by hidesun(英寸) at 19:18Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月21日

今宵公開【MOD女陰陽師】

【 MOD女陰陽師 】



平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

みるきー舞姫 今宵の開催時間

2011年 8月21日(日)22:00~

会場入口

MilkyHouse_SIM舞姫御殿前

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【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】
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Posted by hidesun(英寸) at 17:17Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月20日

MOD女陰陽師 舞公演

【 MOD女陰陽師 】


平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

みるきー舞姫公演開催日

2011年 8月21日(日)22:00~

※ 詳細は、こちら

【白蛇の間】

【赤龍の間】

【蒼水の間】

【竹林の間】

【黒桜の間】


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】


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Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月20日

みるきー舞姫公演

【 MOD女陰陽師 】



平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

みるきー舞姫公演開催日

2011年 8月21日(日)22:00~

※ 詳細は、こちら

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】


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Posted by hidesun(英寸) at 15:15Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月19日

日本刀(4)


【 みるきー舞姫公演 MOD女陰陽師 赤龍の間画像 】

幕末動乱期、黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。

水戸勤皇派による天狗党事件、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と勤皇派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)3月28日に警察官・軍人以外は帯刀を禁止する廃刀令が出されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。



明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし廃刀令以後は新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。

一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告にて将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変や第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。

日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の健軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった。


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】


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Posted by hidesun(英寸) at 21:05Comments(0)日本刀

2011年08月18日

日本刀(3)


【みるきー舞姫公演 MOD女陰陽師 白蛇の間 画像】

室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀、脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。
南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。



江戸以降、刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。

武家文化の中心である江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、天草の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。
商業の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の商業力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。
刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。
【日本刀wikiより】


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】


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Posted by hidesun(英寸) at 20:12Comments(0)日本刀

2011年08月17日

日本刀(2)


【みるきー舞姫 MOD陰陽師 赤龍の間 画像】

鎌倉時代初期の日本刀は平安時代末期とあまりかわらない姿をしているが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく。後鳥羽上皇は御番鍛冶を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励した。中でも備前の刀工則宗が有名である。この時期には山城国の粟田口派、備前国の一文字派が新たに興った。

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる。鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている。この頃から短刀の制作が活発になる。また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。

鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。



政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。
【日本刀wikiより】


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2011年08月16日

日本刀(1)

刀剣類は、日本では古墳時代から作られていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった湾曲した刀のことを指す。寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。

【 MOD女陰陽師公演 蒼水の間画像 】

「日本刀」は元来、海外からみた場合の呼称である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。「日本刀」という名称は外国の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった。

【 日本刀の歴史 】
古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。

7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。

平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀頃)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。


平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。

平安時代の太刀の特徴。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。
(日本刀wikiより)



【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】


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2011年08月16日

MOD女陰陽師 「黒桜の間」

平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。


みるきー舞姫(第二回目)の公演開催日

2011年 8月21日(日)22:00~


『 黒桜の間の紹介 』



※ 詳細は、こちら

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】



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Posted by hidesun(英寸) at 19:33Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月15日

MOD女陰陽師 「竹林の間」



みるきー舞姫(第二回目)の公演の日は、今週末 8月21日(日)22:00となります。

平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

『 竹林の間の紹介 』


第一回目公演より会場の重さ対策と鑑賞し易さ向上を目的に下記の変更があります。

◆ 字幕HUDの廃止
・・・ 地上パンフレッド配布、ステージ中空字幕パネル表示に変更です。
◆ 回転客席の廃止
・・・ 客席は西向き固定にしました。ステージが見易くなってます。
◆ ステージ位置変更
・・・ 鑑賞し易さ改善のため中心にあったステージを西側へ移動しました。
◆ お客席待合内装変更
・・・ 各階のステージSSをパネル表示、開演前に演目内容を確認できます。
◆ 地上テレポーター
・・・ 下記の画像にありますようシンプルな感じにモデルチェンジしました。

※ 詳細は、こちら

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】



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Posted by hidesun(英寸) at 21:39Comments(0)みるきー舞姫

2011年08月15日

八百万の神々

日本人は無宗教だと言われていますが、それは現代の話であって、仏教やキリスト教が入ってくるまでは、一般的に神道という宗教が信じられていました。正確に言うと、信じられていたのではなく、そう考えるのが当たり前だったと言った方が的確でしょう。その神道の主人公達であるのが、無数の神々、俗に八百万(やおよろず)の神と呼ばれる神様達です。神道における神とは、信仰や畏怖の対象です。「八百万の神」と言う場合の「八百万」は数が多いことの例えをいいます。


【 日本の神 】
神様と一端に言っても、神道の神はとくに個性的でそれ自体が山や海、火や水、土や金属を現している場合も少なくありません。では、なぜ、このように多くの神々が生まれたのでしょうか?
四季の変化、緑豊かな自然に恵まれた風土に生きてきた日本人は、地上の森羅万象は、神々によって生み出され、神々が司っていると考えてきました。そのもっとも素朴な形態は、山や森、岩や水などの自然物がに精霊が宿ると信じてきた、自然物崇拝のアニミズムなのです。やがて、山や森に宿る精霊は、どこからやって来るどういう存在なのかを人々が知ろうとするようになります。そうして、名もない精霊は『神』として意識され、人間の生活に直接関係するようになり、八百万の神として発展したのです。
地上の森羅万象を司る神は、いたるところに存在しますが、肉体には備わらず、目には見えない、得体の知れない存在です。それゆえに、神は自分から姿を現すことなく、やたらに自己を主張することもないと考えられ、常に沈黙して語らず、人間に対して何かを要求したり、いかに生きるべきかという教義を垂れることはないのです。
日本の神というのは、その存在の仕方も機能も、自由自在で多彩です。それは唯一絶対神(ユダヤ教のヤハウェのようなもの)のいないことによる自由さと開放性といってもいいかもしれません。普段、八百万の神と言ってひとまとめに呼んでいる神々も、ここの世界に焦点を当ててみると、その経歴も活動ぶりもさまざまです。有力な神に従属すると言ったことはなく、それぞれ独自な神としての個々を発揮しています。

【 天津神と国津神 】
高天原に住む神と天孫に従って天降った神を天津神、天孫降臨の前から国土に生じていた神(土着の神)を国津神といいます。天照大神は天津神の代表格、大国主神は国津神の代表格です。
天津神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊の子孫であり、国津神は日本の地に元々住んでいた地方神となります。
「天津神 」
別天津神
造化の三神(天之御中主神、タカミムスビ、カミムスビ)/ 神世七代 / 国之常立神、イザナギ、イザナミなど / 三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)など

「国津神」
大国主 / 大国主の御子神(アヂスキタカヒコネ、事代主、建御名方神)など / 椎根津彦

【 千と千尋の神隠し 】
「千と千尋の神隠し」にも、湯婆婆が経営する温泉旅館たくさんの八百万の神々が体を休めにやってきていました。古代の日本人は、山、川、巨石、動物、植物といった自然物や、火、雨、風、雷などといった自然現象のなかに「神」が宿ってると考え、常に信仰の対象にしていました。そして、日本は「森の国」と言っても過言ではないほど森の多い国です。日本の国土のうち約7割が森で、例えば森に囲まれているイメージの強いカナダでさえ約5割、アメリカに至っては3割程度なのです。このように日本人の生活と隣り合わせあった森は常に信仰の対象だったのです。しかし、自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼすため、人々はこれを神の「祟り」と呼んで恐れていました。つまり、八百万の神とは、信仰の対象でありながら恐怖の対象でもあったわけです。


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 告知動画 】


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Posted by hidesun(英寸) at 19:19Comments(0)神話

2011年08月14日

MOD女陰陽師 「蒼水の間」



次回、みるきー舞姫の(第二回目)の公演の日は、8月21日(日)となります。

平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

『 蒼水の間の紹介 』


第一回目公演の客席が改築されています。
・舞姫御殿前のテレポーター
・客席、舞台の位置
・各物語のご案内板の設置 他


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告動画 】



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Posted by hidesun(英寸) at 20:34Comments(0)みるきー舞姫