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2012年01月31日

八犬伝(智)

犬坂 毛野 胤智(いぬさか けの たねとも) 智の珠を持つ。


千葉氏の重臣・粟飯原胤度の妾の子。
馬加大記の策謀により、籠山逸東太の手で胤度は討たれ、粟飯原一族は滅ぼされた。馬加の討手を避けた母は相模箱根の犬坂村に逃れ、3年に及ぶ懐胎のあと、寛正元年(1460年)毛野が生まれた。母とともに女田楽の一座に入ったため毛野も女装で育てられ、旦開野(あさけの)と名乗っていた。女田楽師・乞食・放下師に姿を変え、父の仇である馬加大記と籠山逸東太を狙う。女性とも見紛う美貌の持ち主で、女田楽師旦開野として小文吾に結婚を申し込んだことがあり、小文吾は女性であることを疑わずに承諾している。
諏訪で再会した小文吾から犬士の因縁を聞かされ、玉と痣を持つことから犬士に連なることが確認されるが、籠山逸東太の仇討ちを優先して詩を残して去った。その後、蟹目前・河鯉守如らの知遇を得、扇谷家に仕えて龍山免太夫と名を変えた逸東太を討ち果たしたが、これに便乗して扇谷定正への復仇を図った犬山道節らの加勢によって蟹目前と河鯉守如は自害することになる。八犬士随一の策士であり、関東大戦では里見軍の軍師を務めた。
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2012年01月30日

八犬伝(仁)

犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし) 仁の珠を持つ。


文明7年(1475年)12月、下総国市川に生まれる。山林房八と沼藺の子で、小文吾は伯父にあたる。
生まれつき左手が開かなかったが、これは沼藺が幼少の頃に飲み込んだ珠を握って生まれたためであることがのちに明らかになる。幼名は真平だったが、周囲に大八と渾名され、この名が定着した。この渾名は「片輪」の車という連想によるものであることが知られる。
初登場時は4歳。古那屋で房八と小文吾が争った際、房八に脇腹を蹴られて仮死状態に陥ったが、蘇生後に左手が開いて珠が現れ、房八に蹴られた脇腹に痣が生じたことで犬士であることが明らかになった。丶大は「真平」の名を「親兵衛」に改め、諱を「仁」とした。房八夫妻の死と親兵衛の犬士としての蘇生は「身を殺して仁を成す」を意味している。
丶大や妙真(房八の母)に連れられて安房に向かう途中悪漢に襲われたが、このとき神隠しに遭う。これは伏姫神によるものであり、親兵衛はその庇護のもと富山で育てられ、9歳ながら異様な成長を遂げて里見義実の前に再登場する。蟇田素藤の二度にわたる叛乱を鎮圧した。その後、結城の法要で七犬士と合流し八犬具足を果たす。京都に使者として赴いて武勇を示し、関東大戦では伏姫に与えられた神薬(善人のみに効果がある)で敵味方の戦死者を蘇生させた。物語後半の主役といえる。
儒教の徳目全てを体現した童子で、完璧なまでのヒーローである。それゆえか「八犬士の随一」を自ら称するなど高飛車な言動が目立つ。唯一の弱点は水練だったが、関東大戦への参加を前に霊夢の中で伏姫より習得した。大団円では安房館山城を与えられ、里見義成の長女で9歳年上の静峯(しずお)姫と結婚、二男一女を儲けるが死別する。
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2012年01月29日

八犬伝(悌)

犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより) 悌の珠を持つ。


長禄3年(1459年)11月20日、行徳の旅籠屋・古那屋文五兵衛の子として生まれる。犬江親兵衛は甥にあたる。巨漢であり、相撲を得意とする。
父は神余家に仕えた武家の那古氏出身だが、町人として暮らしていたため苗字を称さなかった。16歳のとき、行徳の町を荒らした犬太という悪人を義侠心から殺したため、「犬太殺しの小文吾」、これが転じて犬田小文吾と呼ばれるようになり、また自ら悌順の諱を定めて名乗ることになった。肉親の縁の薄い八犬士の中では実の親と暮らした期間が一番長いが、犬士となる代償として妹沼藺と義弟房八の死、父との離別を経験することになる。
荒芽山での離散後、武蔵国で毒婦船虫と出会い、命を狙われる。馬加大記によって石浜城で幽閉されるが、旦開野こと犬坂毛野と邂逅する。越後小千谷では暴れ牛を取り押さえる活躍を見せるが、当地で山賊の妻となっていた船虫に命を狙われ、行き会った荘助とともに山賊を退治する。領主である箙大刀自に捕らえられるが、稲戸津衛に救われた。その後諏訪で毛野に行き会うなど、船虫・毛野とはとくに因縁が深い。
対管領戦では行徳口に出陣。千葉軍の豪傑2人と一騎討ちを演じる。戦後、里見家の末娘である弟(いろと)姫と結婚した。
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2012年01月28日

八犬伝(信)

犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも) 忠の珠を持つ。


長禄3年(1459年)9月、武蔵国豊島郡生まれ。父は煉馬家重臣・犬山道策貞与。浜路の異母兄。
生まれながらに左肩に瘤があった。幼少時に父の妾(浜路の母)に毒殺されたが、墓の中で蘇生した。乳母は音音である。犬山家が仕えた煉馬氏は豊島氏とともに扇谷定正らに滅ぼされ、父も討死したため、姨雪世四郎・十条兄弟らとともに扇谷定正を仇として執拗に付け狙うことになる。
道節は家伝の書を研究し火遁の術を使いこなしており、本郷円塚山での初登場時には火定を装って軍資金を集めていた。網乾左母二郎から村雨を奪取し、浜路の最期を看取っている。荘助と斬り合った際、切り裂かれた道節の左肩の瘤から珠が飛び出し、荘助の手に渡るとともに、荘助の珠を手に入れている。上州白井で村雨を用いて扇谷定正を討とうとするが、巨田助正の策によって失敗。荒芽山の音音の家で四犬士と合流し、自らも犬士として自覚すると火遁の術を棄てた。このとき、荘助と互いの珠を返し、村雨を信乃に返している。
離散後は甲斐で物語に再登場し、犬塚信乃と浜路姫を救出。犬坂毛野の仇討ちを知るとこれに乗じて扇谷定正を狙い、里見家に仕官したのちの対管領戦では洲崎口の防禦使として扇谷定正を追い詰めるが、いずれも失敗に終わっている。
扇谷家への復仇の一念のあまり、短気・短慮でトラブルメーカーとしての描かれ方をされている。
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2012年01月27日

八犬伝(忠)

犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも) 忠の珠を持つ。


長禄3年(1459年)9月、武蔵国豊島郡生まれ。父は煉馬家重臣・犬山道策貞与。浜路の異母兄。
生まれながらに左肩に瘤があった。幼少時に父の妾(浜路の母)に毒殺されたが、墓の中で蘇生した。乳母は音音である。犬山家が仕えた煉馬氏は豊島氏とともに扇谷定正らに滅ぼされ、父も討死したため、姨雪世四郎・十条兄弟らとともに扇谷定正を仇として執拗に付け狙うことになる。
道節は家伝の書を研究し火遁の術を使いこなしており、本郷円塚山での初登場時には火定を装って軍資金を集めていた。網乾左母二郎から村雨を奪取し、浜路の最期を看取っている。荘助と斬り合った際、切り裂かれた道節の左肩の瘤から珠が飛び出し、荘助の手に渡るとともに、荘助の珠を手に入れている。上州白井で村雨を用いて扇谷定正を討とうとするが、巨田助正の策によって失敗。荒芽山の音音の家で四犬士と合流し、自らも犬士として自覚すると火遁の術を棄てた。このとき、荘助と互いの珠を返し、村雨を信乃に返している。
離散後は甲斐で物語に再登場し、犬塚信乃と浜路姫を救出。犬坂毛野の仇討ちを知るとこれに乗じて扇谷定正を狙い、里見家に仕官したのちの対管領戦では洲崎口の防禦使として扇谷定正を追い詰めるが、いずれも失敗に終わっている。
扇谷家への復仇の一念のあまり、短気・短慮でトラブルメーカーとしての描かれ方をされている。
【 八犬伝登場人物wiki 】




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2012年01月26日

八犬伝(義)

犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう) 義の珠を持つ。


長禄3年(1459年)12月1日、伊豆生まれ。幼名は荘之助。父親は北条の荘官・犬川衛二則任。「荘介」の表記もある。
寛正6年(1465年)、父が主君足利政知(→史実:足利政知)の勘気に触れて切腹。里見家に仕官している母の従兄、蜑崎輝武を頼って母とともに安房国に向かうが、その途中の大塚で母親が行き倒れる。以来、大塚家の下男として酷使され、忍従の日々を送っていた。下男としての名は額蔵(がくぞう)。
文明2年(1470年)、12歳のときに大塚家に引き取られた信乃に世話役兼監視役としてつけられ、信乃が自分と同じ痣と珠を持っていることを知り、出自を明かして義兄弟の契りを結ぶ。蟇六夫婦の手前、表向きはよそよそしく振る舞ったが、密かに信乃と武芸を競い、その書籍で学んだ。文明10年(1478年)6月、許我に旅立つ信乃を見送った帰り、円塚山で犬山道節と遭遇。大塚に戻ると主人蟇六夫婦が陣代簸上宮六らに殺されており、額蔵は主人の仇を討つこととなった。捕らえられた額蔵は主人殺しの罪を着せられて処刑されかけるが、信乃・小文吾・現八に救出される。十条兄弟の犠牲を払い、荒芽山を目指しての逃避行の中で下男としての「額蔵」の名を捨て、武士として「犬川荘助義任」と名乗りを改める。
荒芽山で離散ののち、越後では小文吾と再会してその危機を救う。越後を治める箙大刀自に捕らえられるが、賢臣稲戸津衛に救われる。実は津衛は荘助の父・衛二と縁故があった。
対管領戦では小文吾とともに行徳口を防衛。長尾家の軍勢を率いる稲戸津衛と対陣するが、三舎を避けて恩に報いた。また、扇谷家の重臣で大塚の領主である大石憲重を捕らえている。戦後は小長狭城主となり、里見家の二女・城之戸姫と結婚した。
八犬士随一の苦労人と見なされる。
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2012年01月25日

八犬伝(孝)

犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか) 孝の珠を持つ


長禄4年(1460年)7月戊戌の日、武蔵大塚で生まれる。父は犬塚番作、母は手束(たつか)。
読者の前に最初に姿を現す犬士であり、生い立ちが詳述されていることからも、八犬伝前半の主役と言える。また、父方・母方ともども結城合戦において関東公方家に殉じた忠義の士である事から、八犬士の中でも別格扱いにされる事が多く、二次創作では主役を務める傾向にある。使用する太刀は足利家の宝刀・村雨丸、脇差は桐一文字。
番作夫婦には幾人かの子があったが、いずれも夭折している。手束が子を願って滝野川の弁才天に参拝した帰り道で神犬に騎乗した神女(伏姫神)に遭遇し珠を授けられるが、この時は取りこぼしてしまい、代わりに傍らにいた仔犬(与四郎)を連れて帰る。その後出産したのが信乃である。元服まで性別を入れ替えて育てると丈夫に育つという言い伝えに母が願いを託したため、女名をつけられ、女装で育てられた。
信乃が幼いときに母と死に別れる。文明2年(1470年)、信乃が11歳のときに父が「御教書破却事件」で自害する。信乃は父の後を追おうとし、瀕死の与四郎犬を介錯した際、その首から飛び出した珠が腕に当たり、痣が生じた。番作の遺言に従い、大塚蟇六・亀篠夫婦に引き取られ、その養女・浜路を許婚とした。また、大塚家に下男として使役されていた額蔵(犬川荘助)と同じ縁にあることを知る。
村雨は父の自害の際に渡されたもので、いつの日か足利家に返すことを願っているが、伯母夫妻は奪取を図っている。文明10年(1478年)、19歳になった信乃は、浜路の懇請(浜路口説き)を振り切って許我に旅立つものの、村雨はすりかえられたものであり、芳流閣で犬飼現八と組討を演じる。以後、行徳の古那屋で破傷風を患い、山林房八夫妻の犠牲により蘇生。荒芽山で犬山道節から村雨を返却されて以降は再びこれを佩刀とする。甲斐では浜路姫と出会い、その身体を借りた亡き許婚の浜路の魂から想いを伝えられる。鈴茂林の仇討ちに便乗した扇谷定正との戦いでは、五十子城を攻め落とし、民衆のために倉を開放して墨書を残した。
管領戦では犬飼現八とともに国府台に出陣し、山内顕定・足利成氏と対戦。犬江親兵衛の危機を救って房八に報い、火猪の計を用いて勝利を収め、成氏を捕虜とした。戦後、帰還する成氏に村雨を献上して父子三代の宿願を果たす。里見家の五女・浜路姫を妻とし、東条城主となった。
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2012年01月24日

八犬伝(伏姫)

伏姫

【 大神画像 フセヒメ 】

里見義実の娘。八犬士の象徴的な母。
母は真里谷入道静蓮の娘・五十子(いさらご)。作中の嘉吉2年(1442年)夏、三伏の頃に生まれたため伏姫と名づけられた。3歳まで泣きも笑いもせず言葉も発しなかったが、母とともに洲崎明神の役行者の岩窟に参拝した帰り道に、仙翁(役行者)に仁義八行の数珠を与えられ、以後は健やかに美しく成長した。
伏姫16歳の秋、飢饉に乗じて安西景連が里見領に攻め込む。落城の危機に瀕した父は、敵将の首を取ってきた者に伏姫を与えると言う。八房はこれを実行し、約束の履行を求めた。このとき「伏姫」の名は「人にして犬に従う」意の名詮自性であることが明らかにされる。伏姫は父に君主が約束を違えることの不可を説くとともに、仁義八行の玉の文字が「如是畜生発菩提心」に変化していることを示し、富山に伴われる。


富山では法華経を読経する日々を送り、八房に肉体を許すことはなかったが、翌年、山中で出遭った仙童から、八房が玉梓の呪詛を負っていたこと、読経の功徳によりその怨念は解消されたものの、八房の気を受けて八人の子の「種子」を宿したこと、さらにそれらが世に出るときに父と夫に出会うことを告げられる。伏姫は犬の子を産む恥に耐えられず入水を図ったが、おりしも伏姫奪回のために富山に入った金碗大輔による銃撃の誤射を受け負傷。折りしも里見義実も富山に導かれ、父と「夫」(義実に大輔と伏姫を娶わせる意思はあったが、婚約していたわけではない)の前で割腹し、胎内に犬の子がないことを証した。その傷口から流れ出た白気は姫の数珠を空中に運び、仁義八行の文字が記された八つの大玉を飛散させる。伏姫は安堵して死んだ。長禄2年(1458年)秋、享年17。
死後は「伏姫神」となってしばしば登場し、犬士たちと里見家に加護を与える。特に、危機に瀕していた犬江親兵衛は「神隠し」によって救い出し、手許に引き取って育てていた。
【 八犬伝登場人物wiki 】


【 大神稲荷神社 】 場所  


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2012年01月23日

八犬伝

『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、南總里見八犬傳)は、江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著された読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。

【 画像:大神より 】

『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。


『八犬伝』にもっとも強い影響を及ぼしているのは『水滸伝』である。たとえば『水滸伝』では百八の魔星が飛び散り、のちに豪傑英雄として各地に現われるが、『八犬伝』では八つの数珠玉が飛び散り、のちに八犬士として世に現われる、というように発端と構成が共通する。粗暴な部分もある『水滸伝』の英傑たちの物語を換骨奪胎したものが『八犬伝』であり、忠臣・孝子・貞婦のおこないは報いられ、佞臣・姦夫・毒婦のおこないは罰せられる、儒教的道徳にもとづいた勧善懲悪の物語となっている。


馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。『八犬伝』の当時の年間平均発行部数は500部ほどであったが、貸本により実際にはより多くの人々に読まれており、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。明治に入ると、坪内逍遥が『小説神髄』において、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判しているが、このことは、当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示している。
本作は現在に至るまで大衆文学・ドラマ・漫画・アニメなど各ジャンルの創作に影響を与え、多くの翻案が生み出された。「前世の因縁に結ばれた義兄弟」「共通する聖痕・霊玉・名前の文字」「抜けば水気を放つ名刀・村雨」などのモチーフを借りた作品は枚挙にいとまがない(→関連作品)。また、『八犬伝』執筆時の馬琴のエピソードも、芥川龍之介『戯作三昧』などの創作の題材となっている。なお、里見氏は実在の大名であるが、「八犬伝で有名な里見氏」と語られることがある。『八犬伝』の持つ伝奇ロマンのイメージは安房地域をはじめとする里見家関連地の観光宣伝に資しているが、史実とフィクションが混同されることもある。

【 大神稲荷神社 】 場所  


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2012年01月21日

大神稲荷(高天原)

高天原(たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら)は、『古事記』に含まれる日本神話、および祝詞において、天津神が住んでいる、とされた場所のことである。


古事記においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所としてその名が登場する。次々に神々が生まれ、国生みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていたのであろう。天照大神が生まれたときに、高天原を治めるよう命じられた。須佐男命にまつわる部分では、高天原には多くの神々(天津神)が住み、機織の場などもあったことが記述されており、人間世界に近い生活があったとの印象がある。葦原中国が天津神によって平定され、天照大神の孫のニニギが天降り(天孫降臨)、以降、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとしている。



高天原神話
伊弉諾尊(イザナギノミコト)の禊ぎによって生まれた天照大神・素戔嗚尊・月読尊の三神はそれぞれに天上界(高天原)・海(または天の下)・夜(または海)とこの世を分担して治めることになりますが、素戔嗚尊だけは伊弉諾尊の命に従わず、伊弉冉尊(イザナミノミコト)を慕って泣いてばかりおり、素戔嗚尊が泣くことにより河川の水が涸れたり、植物が枯れるという。自然界の秩序を乱すような自体に陥ってしまいます。そこで親神の怒りをかい、素戔嗚尊は「根の国」に追放されることとなります。その時素戔嗚尊は根の国に行く前に、姉である天照大神に挨拶をしようと高天原に向かいますが、その様子が山も海も国土全体を揺り動かすほどの凄まじいものだった為、天照大神は弟が高天原を奪いに来たものと誤解し、武装して相対します。素戔嗚尊は「うけひ」を行って高天原を奪いに来た訳ではないことを示そうとします。

「うけひ」というのは占いの一方法で、この場合は、お互いに「子」を生みだし、その性別が正邪の判定の基準になっています。 この「うけひ」によって生まれた子については、『日本書紀』と『古事記』では性別が違っています。『書紀』では素戔嗚尊が生んだのは「男の子」、『古事記』では「女の子」なのですが、勝ちはどちらも「素戔嗚尊」となっています。ここに『日本書紀』と『古事記』の理念の違いを見ることができます。 (『古事記』はその成立当時の「女帝に捧げられた書物」なのではないかとkitunoが考える理由のひとつです。)

この時二神によって生み出された子の中に天皇の始祖ともなるべき「天忍穂耳尊」がいることで、この話はその後の展開の上で重要な部分となってくるわけです。



さて、「うけひ」に勝った素戔嗚尊ですが、困ったことに調子に乗って高天原でさんざん乱暴を働いてしまいます。最初は弟をかばっていた天照大神ですがついに怒って「天の岩戸」に隠れてしまいます。天照大神が隠れてしまったことで地上は闇になってしまい、混沌とした危機状態に陥ってしまいます。八百万の神々は天照大神の復帰を促そうと様々な儀式を行いますが、そのクライマックスが「天鈿女命(アメノウズメノミコト)」の踊りです。この天鈿女命は桶を伏せた上で半裸になり踊るのですがその姿に周りの神々がどっと笑ったのを聞いて天照大神が興味を持って顔を覗かせた瞬間、手力雄神(タヂタラオノカミ)手を引いて天照大神を出し、世界に光が戻ります。


みるきー舞姫2011夏公演 【 白蛇の間 】天戸開き(天照大神)より  


Posted by hidesun(英寸) at 17:05Comments(0)神話

2012年01月20日

大神稲荷(大寒)

大寒(だいかん)は二十四節気のひとつで1月20日ごろをいいます。


この日から立春までの期間を指すこともあります。
寒さがさらに厳しくなり、1年中で最も寒い時季です。小寒から立春までの30日間を寒の内といい、大寒はそのまん中にあたります。武道ではこの頃寒稽古が行われます。また、凍り豆腐、寒天、酒、味噌など寒気を利用した食物が仕込まれる時期にもあたります。






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2012年01月18日

大神稲荷(初釜)

初釜は新年に行われる茶道のお茶会です。


初釜とは茶道の行事の一つです。新春を迎えて初めてかける釜のことで、新しい年を祝う茶道の新年会のようなものです。新春らしい設えを楽しみ、懐石料理をいただき、お手前を拝見してお濃茶やお薄茶をいただきます。
茶道には多くの流派があり、代表的な流派は表千家・裏千家・武者小路千家です。


服装
①女性は着物で紋付の色無地や訪問着、付け下げ、小紋など。男性はダークスーツがお勧めです。
②髪の毛はまとめて
お道具やお菓子に髪の毛がかかるのは失礼です。長い髪はまとめてアップにします。
③アクセサリーは控え目に
華美なアクセサリーはお茶席にふさわしくありません。また、指輪は外しましょう。お道具を傷つけては大変です。

持ち物
①懐紙(かいし)
お菓子を取り分けたり、お食事のときの敷物になります。また、お抹茶を飲んで汚れた口元やお茶碗を拭うときに使います。

②手拭(ハンカチ)
お食事をいただく際に膝にかけたり、手を拭くときに使います。
③替え足袋(足袋カバー)
招待された家の畳を汚すのは大変失礼なので、茶室に入る前には足袋を取り替えます。また、足袋カバーを利用するのもお勧めです。洋服の場合は白靴下を用意します。
④ご祝儀
開かれるお茶席によって金額も違いますし、会費制の場合もあります。参加される方に確認しましょう。

用意しておくと格好がつくもの
①扇子
お席に入るときの挨拶や、掛け軸やお道具を拝見するときなどに使います。
②袱紗(ふくさ)
お茶席や、受付などで会費を納めたりする際に使います。
③お菓子用の楊枝
お客様用の菓子楊枝を用意していただけますが自分用のものがあると安心です。
④袱紗(ふくさ)ばさみ
袱紗・扇子・懐紙・菓子楊枝を入れておく道具です。



大神稲荷神社 場所
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2012年01月17日

大神稲荷(藪入り)

薮入り(やぶいり)とは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日。1月16日と7月16日がその日に当たっていた。



薮入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた。
薮入りの日がこの二日となったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされる。

薮入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。

明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、薮入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴いそのまま新暦へと移行した。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、薮入りはさらに大きな行事となった。薮入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展した。第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると薮入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。薮入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残している。



大神稲荷神社 場所
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2012年01月15日

大神稲荷(弁財天)

弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の1つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。


経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。
また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。



信仰

近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。中世において、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を祀った記録があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られている。
また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。 そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。
「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社は、いずれも海や湖や川などの水に関係している(いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては異説があり、その他には、江ノ島・江島神社などがある)。
弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改め、弁才天は摂社で祀られる。
弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある。
以上のように、近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示している。



【 七福神占い 】
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大神稲荷神社 場所
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2012年01月14日

大神稲荷(布袋)

布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な僧。


水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智顗、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。





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2012年01月13日

大神稲荷(寿老人)

寿老人(じゅろうじん)は道教の神仙(神)


中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身とされる。
酒を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。



【 七福神占い(今日の占い版) 】
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2012年01月12日

大神稲荷(福禄寿)

福禄寿(ふくろくじゅ)は、七福神の一つ。道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。 福禄人(ふくろくじん)とも言われる。


中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた。また、背が低く、長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている像とされる。 真言は「オン マカシリ ソワカ」。



福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神である。中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がある。
福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。禄星は「禄」 lù が「緑」 lù と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人である。
三星図は実にさまざまな形態で描かれるが、三者それぞれを人の姿ではなく意味や音韻に関連性がある象徴物として描くものも多く、そのバリエーションは多岐にわたる。中には、寿星だけを老人の姿で描き、その左右に福星を蝙蝠として(「福」 fú と「蝠」 fú が中国では同音のため)、禄星を鹿として(「禄」 lù と「鹿」 lù がやはり同音のため)描いたものなどもあり、こういった伝来物が日本人には二物を伴った一人の神に見えたため、日本においては福禄寿を三人ではなく一人の神格とする認識が流布したと考えられる。

【 七福神占い 】
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2012年01月11日

大神稲荷(毘沙門天)

毘沙門天(びしゃもんてん)、梵名ヴァイシュラヴァナとは、仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。

インド神話の財宝神クベーラを前身とする。 ヴァイシュラヴァナという称号は本来「ヴィシュラヴァス神の息子」という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳される。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。
三昧耶形は宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)、宝塔。種子はベイ(vai)。毘沙門天に捧げられた真言としては「オン ベイシラマンダヤ ソワカ」がある。
その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は宝塔が一般的。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。 例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。 ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。
インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージはほとんどなかった。この頃の性格についてはクベーラの項を参照。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。そして帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。
また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められる。



聖徳太子
物部守屋追討の折四天王に戦勝を祈願し、後に四天王寺を建立したことが日本書紀に記載されている。また毘沙門天を祭るために信貴山を開山したという伝承もある。

上杉謙信
毘沙門天を篤く信仰しており、軍の旗印にも「毘」の文字を使った。




【 秘伝七福神占い 】
http://777.littlestar.jp/777/


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2012年01月10日

堺戎神社(十日戎)21:00より

十日戎(とうかえびす)

SL堺SIMに、ryoさんの突貫工事にて突如出現しました「 堺戎神社 」

巨大な赤い傘が目印となります。



● 今夜1月10日(火) 21:00~ 十日戎(とうかえびす)
● 場所 : 堺SIM 堺戎神社
● 福娘がいます。
● 『商売繁盛熊手配布』(無料)


※ 大神稲荷神社西北の方角にあります。今宵は、堺戎神社におります。皆様のお越しをお待ちしております。

十日戎
毎年1月10日は十日戎といわれこの日を本戎、前日を宵戎、翌日を残り福と称し三日を祭礼の日としています。「戎(恵比寿)」様は、「七福神」の中の一人で、釣り竿と鯛を両手に持ってほほえんでいる神様です。遠くの海からやってきて人々をしあわせにする神様だといわれ、漁業の神、商売繁盛の神、福の神として親しまれています。
この祭礼では、枝先に縁起物を飾った「笹」を売り賑わいます。その「笹」を売るときのかけ声が、かの有名な「商売繁盛、笹もってこい」なのです。戎様自体はは全国的に有名ですが。十日戎というのは東京の人には馴染みが薄く、西日本の行事のようです。東京にはエビス神社が30社もありませんが兵庫県や京都府は200社以上、広島県に至っては400社を超えるそうです。最も賑やかな大阪の今宮神社の十日戎。宵戎、戎、残り戎の3日間で訪れる人は100万人と言います。




● 場所 : 堺SIM 大神稲荷神社
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2012年01月09日

大神稲荷(大黒天)

神道の大黒天 - 密教の大黒天が元になり、大国主命と神仏習合して出来た神道の神で、七福神の一柱としても知られる。


先日、七福神占衣結果が「大黒天」だったので気になり調べてみました。
【 七福神占い 】
http://www.so-net.ne.jp/uranai/enta.cgi?id=shichifukujin

ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは大(もしくは偉大なる)、“カーラ”とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。
密教の伝来とともに、日本にも伝わった。日本で大黒天といえば一般的には神田明神の大黒天(大国天)像に代表されるように神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。



日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。
袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされる。
伊豆山神社(伊豆山権現)では、夫が大国主大神で妻が神須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像がある。



大神稲荷神社 場所
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