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2012年05月31日

大神稲荷神社(鳥居)

「赤い鳥居」といえば、すぐさま人々は「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。



この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。


大神稲荷神社鳥居


大神稲荷神社鳥居


大神稲荷神社鳥居

JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
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Posted by hidesun(英寸) at 19:17Comments(0)大神稲荷神社(SL)

2012年05月26日

盃(さかずき)は、主に日本酒を飲むために用いる器。



盃の多くは、中心がくぼんだ皿状・円筒状で、皿部分の下に小さな円筒(高台)が付いている形状になっている。材質は、木に漆を塗った漆器製、ガラス製(切子等の装飾入りも)、金・銀・錫(ピューター)などの金属製、陶磁器製、「かわらけ」とも呼ばれる土器製などがあり、大きさは様々である。盃は、通常、酒を飲むために使用される。日常の飲酒から、神道の結婚式や神事などフォーマルな席まで、色々な場面で使用される。また、酒を飲む以外にも黒田節を舞うための道具、優勝した際に渡される賞品(トロフィー)、勲章・褒章などと共に授与される賜杯などとしても用いられる。





大小複数の盃を一組にした盃を組盃という。重ね盃ともいう。一般的なものは三枚一組の三ツ組盃で盃台が付けられている場合が多い。



盃を用いて酒を酌み交わす杯事(さかずきごと)は、血縁の無い人間関係を確認し、強固にするためにも行われる。このため、盃を「絆」の意味で用いることもある。
神道の結婚式では、夫婦となる男女が神前で3種の盃を用いて酒を飲む三々九度と、列席した親族が共に盃で酒を飲む親族固めの杯の儀式が行われる。これにより、新たに作られる夫婦とその夫婦を取り巻く親戚関係が作られ、その結束を確認する意味を持つ。また、日本の暴力団では、兄弟や親子など家族を模した関係が形成され、これを確認するために行われる杯事が重視される。さらに、命をかけた関係を形成する場合や、後に死に別れて会うことが出来ないことが予測される場面などでは、酒ではなく水を酌み交わす水杯(みずさかずき)が行われることもある。江戸時代に行われた一揆では、結束を確認するため、各人が署名した起請文を神前で燃やし、その灰を盃に入れた水に溶いて飲む一味神水が行われた。近代においても第二次世界大戦中、特別攻撃隊の出撃前には水杯が酌み交わされた。



長野県の北信地方の一部には、「北信流」(真田十万石流ともいう)と呼ばれる宴席における盃事の風習がある。これは宴席において主宰者の功労をねぎらい、祝意を表するものである。
宴席で場が暖まりお開きが近い頃を見計らい、参会者の中の年長者や主賓から「盃を差し上げたい」などと北信流を行おうという旨の動議が出され、同時に指名を一任する事の同意が求められる。参会者の賛同を得られたら、盃を受ける人とお酌をする人が指名され、謡の心得のある人が一人「お肴役」に指名される。お酌をする人とされる人は一組とは限らず、同時に複数で行なわれることもある。お酌の指名を受けた人はその日の功労者や主宰者(主に宴席の幹事など)に盃を持参し、お酌をする。そして「お肴」として宴席にふさわしい謡が披露される。「お肴」が終わると注がれた酒を飲み干し、その盃にはもう一度お酌がされ、これも飲み干す。そして今度は注いでもらった側が「盃返し」として、同様にお酌を受ける。




JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
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Posted by hidesun(英寸) at 20:21Comments(0)和文化

2012年05月21日

こびとずかんキャンプ

** こびとずかんキャンプ **  - Japan Graffiti Sakai1574 SIM



堺SIMオーナーりょうさんよりのキャンプコメントの紹介です^^↓↓↓

こんばんわ★堺のオーナーりょうです★黄金週間も過ぎ、五月病の深刻な皆様(決めつけてさっせん)お元気でしょうか??★
うちのSIMでずっと配布していたかわいい、こびとちゃんたちのLBを実は、まだもらえていない人も多くおられますので、キャンプにしてみました~w



座って時間が経つともらえる代物です!いままでゲットした以外のも簡単にGET可能ですので、是非参加してくださいね(^^)
尚、キャンプの際はグループに参加してください★地面のこびとのシルエットを発見したら、長押しすると、グループのURLが出てきます^^加入後、右クリックで"CAMP"を選んで座ると簡単に参加www

ちなみに場所のヒントは、下記の三枚のSSをご参考に★

ヒント① 竹林傍の岩陰


ヒント② ちりとてちんのお庭


ヒント② 川沿いの木の根元


<<<堺SIMへはコチラから>>>
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LBの前からもグループ加入できます!!


JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
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Posted by hidesun(英寸) at 21:21Comments(0)

2012年05月19日

近藤勇

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。


試衛館
農民・宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。出身地である武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水徳川家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久2年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。
文久3年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。


【 新選組!より 】

新選組局長
清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。文久3年(1863年)9月16日(一説に18日)、芹沢一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。
元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応3年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。


【 新選組!より 】
そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助・斎藤一(近藤派の間者との説あり)らがこれに加わった。伊東は近藤を暗殺しようと企むが(伊東には暗殺しようなどという気持ちはなかったという説もある)、慶応3年(1867年)11月18日、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。その報復として近藤は12月18日、伏見街道で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷する。そのため、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。


【 新選組!より 】
戊辰戦争
三条河原
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別する。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。
しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。


【 新選組!より 】
(島崎勝太→近藤勇)
演:香取慎吾
局長。多摩の農家、宮川家の出身で幼名は宮川勝五郎。当初は島崎勝太(しまざき かつた)の名前で登場した。誠意の塊のような真っ直ぐな人物で、農家の出身である故に、人一倍武士らしくありたいと思っていることもあって、卑怯なことや道理に合わないことを好まない。それ故自分のために辣腕をふるう土方を度々窘める一幕もあった。げんこつを丸ごと口に咥えこむという珍妙な特技を持つ。
天然理心流宗家・近藤周助の門下に入り、後に養子となり宗家4代目を襲名しながらも、時代が動き出してることを感じ自分の生き方を悩み続けていた。浪士組が募集されると、門弟と共に上洛する。芹沢暗殺後は総髪になり京都守護職・松平容保のもと、新選組の局長として、京の治安維持や長州による政変などで活躍し、晴れて幕臣となる。しかし政治状況は激変し、次第に幕府そして新選組は衰退の道を辿ることになる。隊では伊東甲子太郎ら御陵衛士が分裂。伊東らを油小路で失った御陵衛士の生き残りによって近藤は銃撃され、治療のために大坂城へ行く。次第に劣勢となる中、幕府軍艦で江戸へ引き揚げた後も徳川のために官軍と戦おうと画策したが、時勢はそれを許さなかった。勝海舟の要請によって甲陽鎮撫隊を率いて甲府城を目指すも、東山道を降ってきた新政府軍に敗れる。その後大久保大和の変名を用いながら下総流山で再起を期するも、新政府軍に包囲され単身出頭し処刑される。

【 寺田屋大騒動動画 】
前回の山南さんの死で凹みがちな気分から一変、鉢合わせ事件の局長を中心にかなり面白いですね。特に源さん最高です。 「この年になって初めて恋をしました」と局長の為の寸劇のはじまりです!その後、その場を知らず飛び込んでくる土方副長と源さんのやりとりが、また笑えます。 そして、そのドタバタ劇を局長が、「みんなそれなりにありがとー!」で締めさせたのは流石です。



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Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(0)新撰組

2012年05月18日

沖田総司

沖田 総司(おきた そうじ、天保15年(1844年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)は、幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良。幼名は宗次郎。

【 新選組!より 】

陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区)で生まれる。生年については天保13年(1842年)又は15年(1844年)の2つの説があり未確定で、生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であったということしか分かっていない。2人の姉がおり、沖田家は姉のみつが婿に林太郎を迎えて相続させる。
父の勝次郎は弘化2年(1845年、総司4歳)に死去し、母とも死別したとされる。9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」(近藤周助)の内弟子となり、のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。若くして試衛館塾頭を務め、安政3年(1856年)には近藤とともに調布の下仙川村に出稽古に出かけている記録が見られる。


【 新選組!より 】

文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番隊組長となる。一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久3年(1863年)3月24日の夜で、清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番隊に在籍していた殿内義雄だった。この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺[7]、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺[8]など手がけたという。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ[9]。この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれている(これには諸説あり、詳細は後述の発病時期を参照)。翌月の禁門の変にも出動している。
慶応元年(1865年)2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。


【 新選組!より 】

体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年(1867年)以降である。慶応3年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、負傷させている。
鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)。鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も、中途での落伍を余儀なくされる。
以後は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。辞世の句は「動かねば 闇にへだつや 花と水」。
生年が明確で無いため、享年については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。墓所は東京都港区の専称寺にある。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。
【 沖田総司wikiより 】


【 新選組!動画 】

(沖田惣次郎→沖田総司)
演:藤原竜也(少年時代:田辺季正)
副長助勤・一番組長。幼名は惣次郎(そうじろう)。試衛館の中でも最も剣の才能に恵まれ、若くして塾頭になり近藤をして「宗家5代目を襲名させたい」と言わしめる。無邪気で天真爛漫な性格だが、仲間内で一人前の大人として扱われないことに不満を持っていた。また剣に自信を持っているため最初に山南と試合して敗れた際には多少の引け目を感じていた。
上洛後は芹沢やお梅に魅せられて一時行動を共にしていた。それ故に芹沢は自分が斬らねばならないと理解し、芹沢暗殺事件では参加を志願。その後も池田屋事件などで活躍。肺結核を患い医者には静養を勧められるが、剣への情熱と責任感からかえって稽古や任務に熱を入れるようになり剣の鬼と化していく。病気を隠していたもののある時、遂に皆の前で大量の血を吐いて昏倒して以降は療養生活となり、戦列を離れお孝の看病を受ける事になった。新選組が伏見に移転した時も京に残ったが、そこを浪士らに襲われる。しかし、お孝の機転で難を逃れ、銃撃され負傷した近藤と共に大坂城へ送られ松本良順の治療を受ける。江戸に戻った後は、病を圧して甲陽鎮撫隊に加わり多摩へ向かう。しかし、多摩で土方と剣術を立ち会っている時に倒れ、近藤に江戸に戻るように命じられる。植木屋平五郎宅で療養していたが襲撃される。その際お孝を斬られ、襲撃してきた刺客を返り討ちにするが再度吐血し昏倒してしまう。その後、姉のみつが総集編で「勇さんの後を追うように亡くなった」と語った事から勇の死後に病状の悪化で病死したとされる。





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Posted by hidesun(英寸) at 19:45Comments(1)新撰組

2012年05月16日

山南敬助

山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、新選組の副長・総長をつとめた幕末の武士 【 山南敬助wikiより 】

【 新選組!より 】

名字の「山南」読みについては「やまなみ」と「さんなん」の二通りが考えられている。一般には「やまなみ」が広く知られているが、本人の署名に「三南」や「三男」としたものがあるため「さんなん」の可能性も高いと考えられている。ただし幕末には自称他称に有職読みを用いることが流行していた背景もあり、確かなことは不明である。

【 新選組!より 】

その心優しく温厚な性格から山南は壬生の女性や子供たちから慕われており、その界隈には「親切者は山南・松原」という言葉が明治のはじめ頃まで伝わっていた。また隊士からも「サンナンさん」と呼ばれ親しまれていたという。『新選組遺聞』には「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たちにも評判が良かった」という旨の記述があり、山南の切腹の際には、鬼の副長として有名な土方でさえも涙を流したと伝わるほどである。
それでも八月十八日の政変に際して御所警備に出動する時、近藤や土方がすでに甲冑に身を包んでいるのに対し、山南には甲冑が調達されなかったことにいたく立腹したという逸話も伝わっているが、この時は親しかった松原忠司に宥められている。
文武両道の人としても知られ、新選組のスポンサーだった小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。新選組に対する酷評で知られる西本願寺の西村兼文も『壬生浪士始末記』で山南を「少しく時理の弁えある者(少しは物事の筋道がわかる人)」と好評している。
壬生時代の新選組の幹部が宿所とした八木家の子だった八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」で、「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」という。

【 新選組!より 】

山南敬助(やまなみ けいすけ)
演:堺雅人
副長、のち総長。仙台の浪人で北辰一刀流の門人であったが、同門の坂本龍馬の紹介で試衛館を訪れ、近藤の人柄に惹かれ門人となる。常に笑顔を絶やさず、何を口にするにも丁寧な口調で話す品のある人物。北辰一刀流免許皆伝で、最初に試合をした時沖田を破る程であった。その際、「彼(総司)はよい資質を持っている。必要なのは経験」と述べており、数年後には沖田に負かされている。学問にも明るく時勢を見極めていて、近藤を知の面から支える。
勇を浪士組の創設者・清河八郎、浪士組取締役・山岡鉄太郎と引き合わせ、浪士組への参加へのきっかけを作る。また、京で清河の浪士組から離れた時に会津藩の預りとするよう近藤に進言する。当初は副長を務めたが、土方により総長に棚上げされる。お互い認め合いながらも、度々土方とは対立し、屯所の本願寺移転でも反対するなど、論争は絶えなかった。その後、伊東らの入隊で、ますます自らの居所をなくしたと感じていく。隊のあり方に疑問を感じていた最中に起きた、永倉らの建白書提出に端を発する土方の処分をきっかけに、明里を伴って脱走したが、追いかけてきた沖田に近江の草津で自ら声をかけて京に戻る。そして、周囲の皆に死別の言葉を残して志を託し、近藤、土方ら試衛館の仲間たちが見守る中、隊のために切腹する。


【 心に響く 新選組! あけさと太夫と山南敬助動画より 】


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Posted by hidesun(英寸) at 20:08Comments(0)新撰組

2012年05月14日

土方歳三

土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日(1835年5月31日) - 明治2年5月11日(1869年6月20日))は、新選組副長、幕末期の幕臣。諱は義豊。雅号は豊玉。新選組「鬼の副長」として恐れられた。戊辰戦争では旧幕府陸軍指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮し、いわゆる「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任した。家紋は左三つ巴。
【 土方 歳三wikiより 】

※ 土方衣装・HIJKATA座りポーズでの画像

●土方歳三の生涯については、長くなりますのでwikiに載っています逸話の紹介です。

幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたといいます。その柱は土方歳三資料館に現在でも残っています。
甥(佐藤彦五郎の3男・為吉)が庭先で転んで額を切った時にはすぐさま駆け付けて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたといいます。
天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していません。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったようです。しかし、実戦では滅法強かったと言われています(斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、縦横無尽に戦闘をしていたという)。
後の洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来の懐中時計なども持っていたといいます。また、戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させたり、二股口を守備した時も、味方が敗走を続ける中で勝利を重ねるなど、近代戦術にも理解を示して実践し、成果を上げている中で、隊内の気の置けない仲間には、「自分は、信長の生まれ変わりだろう」と言ったことがあります。


【 新選組!!より 】

陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ、普段は冷酷な人物とされます。しかし、箱館戦争にまで従った新選組隊士中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、母のように慕われていた」といいます。この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったとも言われています。ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げるための、計算の上であったとする説もあります。
もともと色白で引き締まった顔立ちをしており(当時としては)長身であった為、京都にて新選組副長として活動していた時などは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどでありました。
上洛間もない頃、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛て大きな荷物が届きます。京土産でも送って来たかと開けてみると、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という和歌が手紙に添えられていたといいます。


【 新選組!!より 】

宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)閏4月頃から7月頃(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していました。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官の望月光蔵が訪ねて来ましたが、歳三は寝ころんだまま「俺達と共に戦え」と言いました。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦う事はできない」と拒否をします。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなた達は宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」。望月にそう言われた歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。この時歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたそうです。



死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否をします。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放ちます。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振りました。日野に旅立つ時、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく土方さんだったのだと思います」と語り残しています。その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届けています。
和歌や俳諧などを嗜むなど風流人の面もあった。書き溜めた句は自らまとめており、「豊玉発句集」として残されています。

【 新選組!より 】 演:山本耕史
副長。多摩の出身。近藤とは幼なじみで「かっちゃん」「トシ」と呼び合う無二の親友。極度の女好きで、秀二郎がひでの男装であったのを見抜けず、相当悔しがっていたこともある。作戦立案や組織造りなどに抜群の才を発揮する知恵者。
一時は行商の道を志し家伝の石田散薬の行商をしていたりしたが、剣の道を志し天然理心流に入門する。一時は「剣は総司がいる。頭(知恵)は山南がついている」と考え、自分は近藤には必要ないのではないかと自信喪失するが、周斎に「山南の知恵は書物で学んだ知恵だ。お前の知恵は生きた知恵だ」と諭される。京に上ると近藤を大名にすることを狙うが、「八月十八日の政変」で自分たちが時勢の蚊帳の外にいることを痛感、近藤を日本一の侍にするために鬼になることを誓った。以後、近藤のために嫌われ役に徹し組織統制に辣腕をふるい多くの隊士を粛清したことから「鬼の副長」といわれる。一方で山南や河合ら不本意ながら切腹させないといけなくなった場合は人知れず涙を流した。江戸に帰った後は洋装になり、関東敗走後は内藤隼人の変名を使用。流山で近藤と訣別した後も宇都宮、会津、函館と新政府軍を相手に死場所を求めて戦い続ける。


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2012年05月12日

新選組史跡

京都幕末に行き、新選組史跡の一部を追ってみました。



壬生寺
近藤勇の胸像・遺髪塔、芹沢鴨・平山五郎、河合耆三郎の墓がある。
屯所はここにおいてなかったが、境内は隊士の兵法調練に使われ、武芸や大砲の訓練をしていた。また、沖田総司がよく近所の子供を集めて遊んだりした。近藤勇をはじめ隊士達が壬生狂言を鑑賞したという逸話も残っている。





八木邸
土方歳三、芹沢鴨 ら十人の最初の宿。新選組結成でそのまま屯所になった。




※芹沢鴨暗殺の際、沖田総司が付けたと言われる鴨居の刀傷もあります。

西本願寺
「池田屋騒動」(元治元年<1864>)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、屯所を壬生から本願寺に移した。





池田屋
池田屋事件は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋騒動ともいわれている。




京都幕末
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2012年05月09日

赤い鳥居

「赤い鳥居」といえば、すぐさま人々は「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。


元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。
この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。



崇敬者が祈りと感謝の念を奥社参道に鳥居の奉納をもって表そうとする信仰は、すでに江戸時代に興り今日の名所「千本鳥居」を形作っています。


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2012年05月07日

新撰組(羽織・隊旗)



隊旗
赤地に金字または白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的。旗が揺れたときに「誠」という字が、近藤の実家・試衛館の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。近藤派の存在を大きくしたかった土方の野望だとも言われる。


他にも隊旗があり、全部で6種類あるとされている。また、その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。この旗は現在の高島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。

隊服
当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士が切腹のときに着る裃の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく「呉服問屋・菱屋」ともいわれる。


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十五屋さん

ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であった[22]。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると判ったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。
警備や戦闘の際には、鉢金、鎖帷子、籠手、胴などの防具を装着した。主な武器は刀と槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長2尺8寸の和泉守兼定、1尺9寸5分の堀川国広の刀を用いていた。
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2000両を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い。


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2012年05月05日

端午の節句

端午の節句」は5月5日にあたり、「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」とも言われます。強い香気で厄を祓う菖蒲やよもぎを軒(のき)につるし、また菖蒲湯に入ることで無病息災を願いました。 また、「菖蒲」を「尚武〔しょうぶ〕」という言葉にかけて、勇ましい飾りをして男の子の誕生と成長を祝う「尚武の節句」でもあります。
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江戸以降は男子の節句とされ、身を守る「鎧」や「兜」を飾り、「こいのぼり」を立てて男子の成長や立身出世を願ってお祝いをします。また、初節句(男の子が生まれて初めての節句)にはちまきを、2年目からは新しい芽がでるまで古い葉を落とさない事から「家督が途絶えない」縁起物として「柏餅」を食べます。地方によっては、子供の行事としてだけでなく、田の神を迎えるための禊の名残として菖蒲湯に入る習慣も残っているようです。
※登竜という激流(登竜門)を鯉が登ったという中国の伝説を受け、鯉には出世と健やかな成長を願う親の気持ちが託されています。


「gallery Sayopiyoさんの超巨大こいのぼり①」


「gallery Sayopiyoさんの超巨大こいのぼり②」

gallery Sayopiyoさんブログ: http://gallerysayopiyo.slmame.com/

端午の節句は奈良時代から続く古い行事です。もとは月の端〔はじめ〕の午〔うま〕の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午〔ご〕と五〔ご〕の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。当時は邪気を避け魔物を祓う薬草とされていた「菖蒲」を、よもぎと共に軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。時代が武家社会に移るにつれ、これまでの風習が廃れ、代わりに「菖蒲」と「尚武」をかけた尚武(武士を尊ぶ)の節句へと移っていきます。この流れを受け、江戸時代には徳川幕府の重要な式日が5月5日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印〔うましるし〕や幟〔のぼり〕を立てて祝いました。こうして時代と共に男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなっていきました。


JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】① ※1


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男の節句とされていたので昔は鎧や兜はお父さんやおじいちゃんが飾るのが習わしでしたが、現在では特にこだわる必要はないそうです。4月中旬までには飾りの準備を終わらせ、当日か前日の晩には両家両親や知人を招き、縁起物のご馳走でもてなします。 また、今でも「強い香気による厄払い」という意味が込められた「菖蒲湯」には性別年齢関係なく入浴しています。


大神稲荷神社 社務所内「兜」① ※2

大神稲荷神社 社務所内「兜」②

※1: SakaiSIMオーナー Ryoさん作 神社西鳥居前の改装画像
※2: SakaiSIMオーナー Ryoさん作 兜画像



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2012年05月04日

賀茂別雷神社

賀茂別雷神社は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。



賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。

祭神
賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのみこと)



社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。
『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。


延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。





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2012年05月03日

賀茂御祖神社

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。


賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称葵祭)で有名である。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。付属施設に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある。



祭神
東殿 玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) - 玉依姫命の父



歴史
京都の社寺でも最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。また、崇神天皇7年(紀元前90年)に神社の瑞垣の修造が行われたとの記録があり、この頃の創建ではないかとの説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくするための宮移し(式年遷宮)を行っていたが、本殿2棟が国宝・社殿52棟は重要文化財に指定されているため、現在は傷んだところを直す形を取っている。




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2012年05月01日

八十八夜

八十八夜は、雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として88日目、つまり、立春の87日後の日です。
現在は平年なら5月2日、閏年なら5月1日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により5月3日の年もあります。


あと3日ほどで立夏だが、「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期である。一般に霜は八十八夜ごろまでといわれているが、「九十九夜の泣き霜」という言葉もあり、5月半ばごろまで泣いても泣ききれない程の大きな遅霜の被害が発生する地方もある。そのため、農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節が作られた。八十八夜は日本独自の雑節である。




この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれている。茶の産地である埼玉県入間市狭山市・静岡県・京都府宇治市では、新茶のサービス以外に手もみ茶の実演や茶摘みの実演など、一般の人々も参加するイベントが行われる。



「♪夏も近づく八十八夜…」と茶摘みの様子が文部省唱歌『茶摘み』に歌われている。




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