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2012年03月31日

二人静

桜にちなむ能演目 二人静


現の人間に霊がとり憑く能は多いが、死者に憑かれて、その死者の物語を語る女と、死霊そのものとが現れて二人が同じ衣装で、影が形に添うように同じ舞を舞うと云う数少ない形をとる能で、その物語は、吉野の勝手明神(奈良県吉野町:頼朝勢に追われ義経と別れた静御前が捕らえられ、この社殿の前で別れの舞を舞ったとの伝説がある)は、毎年正月7日の神事に、ふもとの菜摘川から若菜を摘んできて神前に供える風習がありました。
例によって神職が、菜摘女に若菜を摘みにやらすと、一人の女が現れて、“吉野に帰るなら伝えて下さい。
私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って欲しい”と頼みました。
そして“あなたのお名前は”と尋ねられると、何も答えないで、跡形もなく消えてしまいます。
そんな不思議な体験をした菜摘女は、そのことを神職に話しているうちに、その女の顔つきが変わり、言葉つきも変わってきたので、神職は“いかなる人が憑いているのか名を名乗りなさい”と云うと、“静である”と名乗りました。
静御前の霊が菜摘女に憑いたことが分かり“それでは、ねんごろに弔うから舞いを見せて欲しい”と女に頼むと、女は果って静が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝物蔵から取り出し、女がその衣裳をつけて、舞を舞おうとすると、いつの間にか静の霊も現われ、一人の女が二人となり、義経が頼朝勢を逃れて吉野の山を奥へ奥へとふみ分けて行ったありさまを語り、頼朝の前で不本意ながら舞った白拍子の舞を舞うのです。

※ 参考 : 白拍子
売春婦であり、芸能の民であり、神女であり、時代の象徴でもあった彼女たち――現代の言葉でそれを表すとすれば「アイドル」という言葉が最もふさわしい。源平合戦期、その白拍子の中で頂点であったのが静御前である。

中森明菜 二人静


1991年の唯一の中森明菜の作品が「二人静 ~天河伝説殺人事件~」である。
無情なる人の世で翻弄される静御前、しかしそれでも絶えなかった一途な情愛。その思いは、最愛の者にうち捨てられても、あるいは敵対する時の最高権力者の前であっても、けっして怯むことはなかった。
静御前の苛烈な愛の歴史を、スキャンダルに身を揉まれる現代の歌姫・中森明菜の肉体に憑依(お)ろした。であるからこの歌の題は「二人静」なのである。
「二人静」とは、中森明菜と静御前という現代と過去のふたりの哀しい歌姫の相舞である。 その相舞は、エロスとタナトスが、愛と憎しみが、背中合わせに寄りそい、そこにある感情は渾然として、なにものであるとも言葉にしがたい。 ただ、精神の激しい高揚と、白々した気迫が、あるのみである。
※中森明菜 「二人静」 激しく哀しい歌姫の相舞 より



【 二人静  ( 舞姫伝) 】動画
2012年3月 ・4月 MilkyMAIHIME公演
大江戸あやかし舞姫伝より


※ 参考
フタリシズカ(二人静) センリョウ科センリョウ属
草丈:30~60cm / 花径:3mm
山野の林下に生える多年草です。茎の先に数本の穂状花序を出し、小さな白い花をつけます。花弁はなく、3 個の雄しべが丸く子房を取り巻いています。和名は静御前とその亡霊の舞姿にたとえたものといいます。

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)伝統芸能

2012年03月30日

舞妓

舞妓 (まいこ)は年少芸妓、芸子(芸妓)の見習い、修行段階の者を指す。舞妓は京都(大阪、奈良などでも)の呼称である。東京など関東地域でいう『半玉』もしくは『おしゃく』に相当する。芸者は江戸での呼び方なので、区別する必要がある。


京都の舞妓
古くは『舞子』と書き、かつては9~12歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していたが、戦後児童福祉法と労働基準法の改正にともない現在は中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2~3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1~4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えの時期は20歳前後の場合が多い。


年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装はかならず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。ぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であるといえるかもしれない。座敷では主に立方を勤め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるがごとくあつかわれることも多い。


本業は茶屋や、料亭、旅館などにおいての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。近年「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も、徐々に門戸を開いており、京都市観光協会が観光イベントとして協賛し2009年1月より祇園の料理旅館で 京料理と舞妓の夕べ なども定期的に開催されるようになり、また、「おおきに財団」(京都伝統伎芸振興財団)が、お茶屋でお座敷遊びのイベントを開催することもあり、一般の観光客にも花街文化を体験できる機会が増えている。
現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒の五花街である。


【 舞妓wikiより 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)和文化

2012年03月29日

八百屋お七の日

天和3年3月29日(1683年4月25日)、恋人を思うあまりに放火した八百屋の娘お七が火刑に処されたことに由来します。



八百屋お七(やおやおしち)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られる。一途な悲恋として井原西鶴によって取り上げられ、後に浄瑠璃など芝居の題材となった。


本郷森川町の商人八百屋市兵衛は、もと駿河国富士郡の農民であったが、今は八百屋を業として裕福に暮らしていた。
男子二人のほかに、今年十六で末っ子のお七は、容姿、性格ともに優れて夫婦はことのほか溺愛した。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院に避難した。
この寺には寺小姓の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。
庄之助はひと目でお七に恋慕し、文を渡すなどすると、お七も庄之助のことを憎からず想い、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。
その後、家に戻ったお七だったが、庄之助の事が忘れられず、文など送り、隠れては逢瀬を続けた。が、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ず、お七はいつもじれったく感じ始めていた。



そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来る、とはかない女心で考えたお七は三月二日の夜、近所に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。

その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。



お七処刑から3年後の貞享3年(1686年)、井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げたことで、お七は有名となった。以後、浄瑠璃・歌舞伎の題材として度々脚色された。

「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。
お七の幽霊が、鶏の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が「夢のお七」という小説を著している。
「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記したと伝えている。
  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)和の暦

2012年03月28日

河童

河童は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。各地に残る河童神社、河童塚がある。



悪戯好きだが悪さをしない妖怪として伝えられる場合もあるが、多くは水辺を通りかかったり、泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺すなどの悪事を働く。抜いた尻子玉は食べたり竜王に税金として納めたりする。尻子玉とはヒトの肛門内にあると想像された架空の臓器で、これを抜かれるとふぬけになると言われている。この伝承は溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子があたかも玉が抜けたように見えたことに由来するようである(尻子玉は胃や腸などの内臓を意味するという説もある)。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様の溺死者の姿があたかも内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる。
相撲が大好きでよく子供を相撲に誘う。相撲に負けた子供は尻子玉を抜かれる。河童は大人よりも力が強いが、仏前に供えた飯を食べた後に闘えば子供でも負けないと言われている。また相撲をとる前にお辞儀をすると河童もお辞儀を返し、それにより頭の皿の水がこぼれてしまうため、力が出せなくなるともいう。河童が相撲を好むのは相撲が元々水神に奉げる行事だったためとも言われる。
好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる。



河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが(河伯信仰を参照)、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。
河神[6]が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談がある。
河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている。



河童にまつわる言葉
河童の川流れ
河童は泳ぎが得意であることから、物事に長けている人でも失敗することがあるという意。
屁の河童
河童はいつも水の中にいるため、屁をしてもあまり勢いがないことから、「取るに足りないこと」を「河童の屁」、後に語順が変わった。「木っ端の火」から来たという説もある。
陸(おか)へ上がった河童
河童は水中では能力を十分発揮できるが、陸に上がると力がなくなるとされるところから、力のある者が環境が一変するとまったく無力になってしまうことのたとえ。
カッパ巻き
河童がキュウリを好むことから巻き寿司のキュウリ巻きをカッパ巻きと呼ぶ。


カッパ淵(カッパぶち)は、岩手県遠野市にあるカッパ(河童)の伝承地


堺SIM 大神稲荷神社
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)妖怪

2012年03月27日

さくらの日

今日、3月27日は「さくらの日」です。


【 大神稲神社 壱 】

平成4年 (1992年)に、日本さくらの会が我が国の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜をとおして、日本の自然や文化について、国民の関心を高めることを目的に制定しました。
●3×9(さくら)=27の語呂合せ
●七十二候のひとつ「桜始開」が重なる時期であること
日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜を通して、日本の自然や文化について関心を深める日です。


【 大神稲神社 弐 】

さくらに関しては、気象庁が毎年開花の観測を行っています。最近では、さくらの開花する時期が地球温暖化の影響でだんだん早まっていると言われたりします。
さくらの開花の時期は、春先の気温の変化にともなって早まってきていることが長年の観測結果からわかります。
1960年代の4月1日には、三浦半島から紀伊半島にかけての本州の太平洋沿岸と四国、九州でさくらが開花していました。それが最近10年間では同じ時期に関東、東海、近畿、中国地方でも開花するようになってきています。

さくら(ソメイヨシノ)の4月1日の開花ラインの変化


【 気象庁ホームページ「さくらの開花日の変化より 】

お花見に出かけてみてください。

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)和の暦

2012年03月26日

天狗

天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物である。



一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。また後白河天皇の異名でもあった。元来は中国の物怪で、火球の流星痕が狗(いぬ)に似ていることから、天の狗、すなわち天狗と呼ばれた。日本において天狗の言葉が初めて見られるのは『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、怪音をたてて空を飛来するもの(ソニックブームを生じた火球)を唐から帰国した学僧の旻が、「非流星 是天狗也 其吠聲 似雷也」(流星にあらず、これ天狗アマキツネなり)と呼んだという記載がある。奈良〜平安時代初期における天狗とは、『山海経』の形状の通り天狐であり、火球を指したと考えられる。



天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴である。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。



天狗の種類

一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「大天狗」、鼻先が尖ったのは「小天狗」あるいは「烏天狗」という。

神としての天狗
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」、等が知られる。滋賀県高島市では「グヒンサン」と言い、大空を飛び、祭見物をしたという。高島町大溝に火をつけにいったが、隙間がなくて失敗したという話が伝わっている。鹿児島県奄美大島でも、山に住む「テンゴヌカミ」が知られ、大工の棟梁であったが、嫁迎えのため六十畳の家を一日で作るので藁人形に息を吹きかけて生命を与えて使い、二千人を山に、二千人を海に帰したと言う。愛媛県石鎚山では、6歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという。

山神としての天狗
天狗はしばしば輝く鳥として描かれ、松明丸、魔縁とも呼ばれた。怨霊となった崇徳上皇が、天狗の王として金色の鷲として描かれるのはこのためである。また、山神との関係も深く、霊峰とされる山々には、必ず天狗がいるとされ(それゆえ山伏の姿をしていると考えられる)、実際に山神を天狗(ダイバ)とする地方は多い。現在でも、山形県最上郡の伝承にみえる天狗は白髪の老人である。山伏を中心とする天狗の信仰は、民間の仏教と、古代から続く山の神秘観山岳信仰に結びついたもので、極めて豊富な天狗についての伝説は山岳信仰の深さを物語るものである。

天狗と猿田彦
古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。
祭礼で猿田彦の役に扮する際は、天狗の面を被ったいでたちで表現されるのが通例である。

天狗と迦楼羅(カルラ)天
天狗は、仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。 奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いがしかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである。




堺SIM 大神稲荷神社  


Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(0)妖怪

2012年03月25日

今宵"大江戸あやかし舞姫伝"

みるきー舞姫 出張公演のご案内



開催日
2012年3月25日(日) 22:30~開演

開演場所
はなこらんど スカイ特設会場
http://maps.secondlife.com/secondlife/hanako%20Land/211/186/21

ご注意 : 人数と軽量化制限がありますので、是非早目の入場をお勧めいたします。



● 舞姫伝イメージ動画


楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※舞姫伝イメージ・利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/
  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月25日

今宵"大江戸あやかし舞姫伝"

みるきー舞姫 出張公演のご案内



開催日
2012年3月25日(日) 22:30~開演

開演場所
はなこらんど スカイ特設会場
http://maps.secondlife.com/secondlife/hanako%20Land/211/186/21

ご注意 : 人数と軽量化制限がありますので、是非早目の入場をお勧めいたします。



● 舞姫伝イメージ動画


楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※舞姫伝イメージ・利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/
  


Posted by hidesun(英寸) at 16:10Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月24日

大江戸あやかし舞姫伝

みるきー舞姫 出張公演のご案内



開催日
2012年3月25日(日) 22:30~開演

開演場所
はなこらんど スカイ特設会場
http://maps.secondlife.com/secondlife/hanako%20Land/211/186/21

ご注意 : 人数と軽量化制限がありますので、是非早目の入場をお勧めいたします。



● 舞姫伝イメージ動画


楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※舞姫伝イメージ・利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:03Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月19日

春分の日

春分の日 「自然を称え、将来のために努力する日」と法律で定められた祝日です。


春分は、昼と夜が同じ長さになる日です。
昔の人は、自然に感謝し春を祝福する日だと感じていたようです。それは、長い間冬眠をしていた動物たちが動き始め、人々もやる気に満ち溢れている時期です。
また、この日の前後にご先祖様への感謝の気持ちを伝えるためにお墓参りに行く習慣もあります。



古来、人々はこの日を春の訪れを祝う日としていました。それと同時に祖先に感謝をするお祭りを行い、この風習は農村部で長く続いてきました。
明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、宮中において祖先を祭る日となったのをきっかけとして、一般市民の間でも祭日とされました。
その後1948年に、古来から伝わる自然に感謝する日「自然を称え将来のために努力する日」と法律で定められましたが、現在でも、春分の日というと「お彼岸」のイメージが強く残っています。



春分の日は、太陽が春分点(天球上の赤道を太陽が南から北へ横切る瞬間の交点)にくるため、昼夜の長さが等しくなる日と言えます。
その不思議な現象が古代の人の心を惹いたのではないでしょうか。暦は、天文学的要素と占いなどの要素の両方がバランスよく組み合わさって出来ています。
またこの日は、生気に満ちた体に更に活気をつけるためか、各地でマラソン大会など開催されるようです。


堺SIM 大神稲荷神社 場所
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33


みるきー舞姫 奉納舞
  


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2012年03月16日

春の彼岸

春分の日を中日としたその前後7日間。雑節の一つ。始めの日を「彼岸の入り」、中日を「彼岸の中日」、終わりの日を「彼岸の明け」という。この間に、お墓参りをしたり、先祖の霊の供養をする。


彼岸とは元来仏語で煩悩を解脱した境地をいいますが、かかる彼岸に達するには専心仏道に精進しなければなりません。在家の人々は、ひまが無いからある期間だけでも彼岸を求めさせようとしたのが、彼岸会の起こりで春分及び秋分は太陽が真西に沈むので西方極楽浄土を求める便宜としてこの時期を選んだらしくこの期間は、諸寺は仏事を修し説法などを行って、俗家でも「ぼた餅」「五目すし」などを作り仏に供養し、祖霊を祭り墓参などを行います。 
彼岸は、此岸から彼岸(現世から浄土の理想の世界へ)へを意味します。今も、その風習が続いています。春分の日(彼岸の中日)の前後3日づつ計7日間をお彼岸といいます。春の中日は、昼夜の長さが同じであり、また、太陽が真西に沈むからだという説もあり、仏教の中道の考えに基づくからだとも言われています。



春には牡丹餠(ぼたもち)、秋は御萩(おはぎ)と季節の植物を呼び名にした食物を先祖にお供えするようになったと云われてれています。大阪では四天王寺の西門が真西に太陽が沈むため極楽浄土の東門にあたるとされ、多くの人たちが彼岸の中日に夕日を拝むため集まってきます、いまも、その風習が続いています。



  


Posted by hidesun(英寸) at 21:21Comments(0)和の暦

2012年03月13日

巫女衣装

2012年 Milkyhouseより巫女衣装(巫女装束・巫女服)が出ています。


Milkyhouseブログより

■Milky House ”佐保姫”


こちらは 佐保姫、佐保姫とは春の女神、巫女の姿を借りていただきました。


「 みるきー舞姫公演 奉納舞より 」

【 佐保姫 】
佐保姫(さほひめ)は春の女神である。元は佐保山の神霊であり、948年の『陽成院一宮姫君歌合』では秋の歌に登場している。五行説では春は東の方角にあたり、平城京の東に佐保山(現在の奈良県法華寺町法華町)があるためにそこに宿る神霊佐保姫を春の女神と呼ぶようになった。白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性と考えられ。この名は春の季語であり和菓子の名前にも用いられている。 竜田山の神霊で秋の女神竜田姫と対を成す女神。
竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染めものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる。

「 参考 : 竜田姫 」
竜田姫(たつたひめ)は日本の秋の神。立田姫と表記されることもある。竜田山の神霊で元々は風神。秋の季語。
五行説では西は秋に通じ、平城京の西に位置する竜田山(現在の奈良県生駒郡三郷町の西方)の神霊が秋の女神としての神格を持ったもの。龍田比古龍田比売神社に祭られる龍田比古神が夫神であり、鮮やかな緋色や黄金の秋の草木の錦を纏った妙齢の女性として想像される。

■Milky House ”巫女”


Milky舞姫が着ております巫女服とベースは同じです。柄がすこうしかえてありますことと
舞姫ロゴがはいってないことでしょうか。
巫女になりきってみてくださいね^^


「 みるきー舞姫公演 奉納舞より 」

Milky House本店はこちらです。
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23 

【 2012年 みるきー舞姫公演 奉納舞動画 】









  


Posted by hidesun(英寸) at 22:11Comments(0)MilkyHouse

2012年03月12日

遊郭

遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。成立は安土桃山時代にさかのぼる。


別称として、花街(はなまち、かがい)、廓(くるわ)、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、傾城町(けいせいまち)などがある。「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、その地の支配者が治安を守り風紀を統制することが目的だった。



古代から女性による接客は存在した。神社の巫女による官人の接待がその起源である。江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。



権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。



江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。
夕霧太夫のいる大坂の新町遊廓、吉野太夫のいる京都の島原遊廓、高尾太夫のいる江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
鎖国の時代になると、寛永16年(1639年)ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生した。井原西鶴は『日本永代蔵』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。この丸山を三大遊廓に数える書もあるほどで、南蛮貿易で潤った当時の華やかさがうかがえる。



江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。
江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。



明治5年(1872年)、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった。東大の近くにあった根津遊廓が深川の洲崎に移転したのはその例である。
明治33年の娼妓取締規則は、 庁府県令に貸座敷に関する取締規則を制定させた。その規則によって、貸座敷営業の許される地域が指定され、また娼妓の居住地と貸座敷の許される地域が一致させられたことにより、娼妓はこの指定地外に居住することができなくなった。この指定された公娼街をかつては「遊廓」と呼んだ。
第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続した。昭和32年(1956年)、売春防止法が成立し、昭和34年末の同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。



【 舞姫伝イメージ 】

大江戸あやかし舞姫伝
場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※当日舞台の舞楽曲ではなく、舞姫伝イメージ利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(0)花魁

2012年03月10日

舞姫伝イメージ

みるきー舞姫 出張公演 【 大江戸あやかし舞姫伝 】
 

2012年3月4日(日)開催された 【 大江戸あやかし舞姫伝 】イメージ動画

● 舞姫伝場所: Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
● 舞: 雪花/yukika ・ 雫/sizuku ・ 花菜/kana
● 楽曲: Chouchou / 空知らぬ雨、空に知られぬ雪 / 紫苑
http://chouchouholic.blogspot.com/

※ 動画利用許諾を頂いた楽曲を使用しています。


【 舞姫伝 イメージ 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:32Comments(1)みるきー舞姫

2012年03月06日

春の新作着物

Milky House 春の新作着物  ”涼風” です。



製作 : Seqさんより

スノーフレーク^^4月の花です。

小さな小さな可愛い花なのですが、構図を考えてるうちにちょっと大きく描いてみたくなりました。

まだまだ寒い日は続きますが、一足早く春の足音聞きませんか^^どうぞMilky Houseいらしてくださいね。

よろしくお願いします。











Milky House本店はこちらです。
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23 

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:38Comments(0)MilkyHouse

2012年03月04日

大江戸あやかし舞姫伝

今宵は2012年「大江戸あやかし舞姫伝」出張公演 



開催日時 2012年3月4日(日) 22:30より
( 2012.03.04 JST 22:30 (SLT 5:30))

場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
http://slurl.com/secondlife/DAIKIN%20Air%20Resort/179/207/23
※ ここからテレポに載っての移動となります。


1 牡丹の床   
2 三巴八卦の床
3 墨牡丹の床 
4 扇の床
5 蝶桜の床 
6 土台部分の床   

【 2012/2/26 奉納舞 集合舞動画 】  
 


  


Posted by hidesun(英寸) at 21:05Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月04日

大江戸あやかし舞姫伝

今宵は2012年「大江戸あやかし舞姫伝」出張公演 



開催日時 2012年3月4日(日) 22:30より
( 2012.03.04 JST 22:30 (SLT 5:30))

場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
http://slurl.com/secondlife/DAIKIN%20Air%20Resort/179/207/23
※ ここからテレポに載っての移動となります。

1 牡丹の床   
2 三巴八卦の床
3 墨牡丹の床 
4 扇の床
5 蝶桜の床 
6 土台部分の床   

【 2012/2/26 奉納舞 集合舞動画 】  
 


  


Posted by hidesun(英寸) at 17:05Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月03日

大江戸あやかし舞姫伝

みるきー舞姫公演のお知らせ


開催日時 2012年3月4日(日) 22:30より
( 2012.03.04 JST 22:30 (SLT 5:30))

場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
http://slurl.com/secondlife/DAIKIN%20Air%20Resort/179/207/23
※ ここからテレポに載っての移動となります。

1 牡丹の床   
2 三巴八卦の床
3 墨牡丹の床 
4 扇の床
5 蝶桜の床 
6 土台部分の床      

【 2010年11月 みるきー舞姫 不夜城 イメージ 】



  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)みるきー舞姫

2012年03月02日

桃の節句

五節句の一つ。上巳(じょうし)の節句、雛(ひな)の節句、三月節句、重三(ちょうさん)ともいう。


桃の節句は、平安時代から

桃の節句の起原は大変古く平安時代に遡ります。昔の日本には五つの節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、当時この行事は貴族の間では、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。その中の一つ「上巳(じょうし)の節句」が後に「桃の節句」となります。



上巳の節句が桃の節句へ

平安時代、上巳の節句の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。この行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してゆきます。
室町時代になるとこの節句は3月3日に定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。



初節句のひな祭りは、身のけがれを祓う災厄除けの行事です。

ひな祭りは、高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとしての「桃の節句」が、庶民の間にも定着して行ったお祝いです。ですから単なるお祭りではなく、お七夜やお宮参りと同じく女の赤ちゃんのすこやかな成長を願う行事、いうなればお雛さまは、赤ちゃんに降りかかろうとする災厄を、代わりに引き受けてくれる災厄除けの守り神のようなもの。



みるきー舞姫公演のお知らせ

開催日時 2012年3月4日(日) 22:30より
( 2012.03.04 JST 22:30 (SLT 5:30))

場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
http://slurl.com/secondlife/DAIKIN%20Air%20Resort/179/207/23
※ ここからテレポに載っての移動となります。  


Posted by hidesun(英寸) at 22:19Comments(0)和の暦