
2011年08月03日
血液型より面白い

【 2011/08/07(日)22:00開催 みるきー舞姫公演案内画像 】
陰陽師についていろいろと綴ってきていますが、少し休憩です。
WEB上で、血液型より面白い-陰陽五行と生年月日で人のタイプ・性格を示したサイトがありましたので紹介をします。
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サイト: 血液型より面白い-「陰陽五行と生年月日でわかる=タイプ10種類
我が国の文化、歴史に圧倒的な影響を与えた陰陽五行思想には、地球には、「陰」と「陽」の相反するエネルギ-があり、それは、男と女、酸とアルカリ、昼と夜のように、互いに相反しながらも、混沌の中で接点があり、中和するものであるという、基本的な考え方があります。
五行とは、四季のようにバランスよく循環する5種類のエネルギ-のことをいい、それぞれに、「木=もく」「火=か」「土=ど」「金=きん」「水=すい」という仮設代名詞が付けられています。そして、このよくできた代名詞のひとつひとつには、性格に繋がるような特質(色・季節・味覚・身体の部位・方角等々)が見られます。
世間では誤解が多く、なかなか理解されない陰陽五行のセンスですが、年中行事やお祭り、日本料理、日本建築、神道、農業、きもの、尺貫法など、さまざまな分野において、この自然の考え方は、今も生きています。 それでは、生年月日から「陰陽五行」の一端をお楽しみ戴けたらと思います。
ちなみに、私は『 乙 』タイプと出ました。
サイト: 血液型より面白い-「陰陽五行と生年月日でわかる=タイプ10種類
※【 陰陽五行と生年月日でわかる 】サイトより抜粋
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【 みるきー舞姫 2011年夏公演ご案内 動画 】

== MOD女陰陽師 ==
※ 詳細: みるきー舞姫ブログより
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約1分10秒
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約4分30秒
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約3分20秒
2011年07月18日
厄と陰陽師
厄とは、子供の七五三を含めて「厄年」の根拠を「陰陽五行説」にルーツを求めることが多いとされます。

【 2011年8月・9月公開予定 みるきー舞姫 「MOD女陰陽師」画像 】
初詣も厄払いも、現在では「民間信仰」としての風習です。
「陰陽五行説」は、平安末期に、仏教、神道、陰陽道、修験道などの宗教と習俗が混ざり合って形作られました。
5~6世紀に、「陰陽五行説」が「仏教」や「儒教」とともに日本に伝わります。「大化の改新」では、国を統制する手法として仏教や漢字を利用します。陰陽五行説と密接な関係のある天文暦、時刻、易などの自然観察に関わる占術により災厄を判断し政治を行いました。
漢文の読み書きが堪能な、渡来人や僧侶に代わって、朝廷に仕える世俗人として「陰陽師」が現れます。
10世紀に陰陽道・天文道・暦道に卓越した才能を示した人物が、朝廷や公家から信望を得た「安倍晴明」です。
晴明は、天文道、暦道を陰陽道に取り込みます。
陰陽師という職業がミステリアスなのは映画などの演出のせいですが、「鬼神」という思想・概念も中国から輸入され、「陰陽五行説」と関わりながら「世界感」が日本独特に発展していきます。香川県・金刀比羅宮の宝物に「百鬼夜行」絵図があります。
鬼は、地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配する世界の概念があります。日本人は大地の神を「大国主命」とし、天上の神を太陽神の「天照大神」としました。
民衆の世界に近い「大国主命」はいろいろな形で現されます。
大地の精霊(spirit)は、「もの」を生み出すため「女性」であり、「蛇」でありました。
川の精霊も同様に蛇であり、蛇から龍(ドラゴン)など、さまざまの形が生まれることとなります。川の神「弁財天」もその一つです。大地の神も同様に女性と考えられ、最終的には「山姥」など、鬼の一種へと変化していきます。
初期の鬼は、全て女性の形であり「源氏物語」に登場する怨霊も女性で描かれます。「源氏物語」には、鬼とは人間の霊魂で、「怨霊」とも「物の怪」とも呼び、形は不明とされています。
呼び名の変化は、怨(オン)→女(オンナ)になり、オニナ、鬼(オニ)へと続いていくらしいです。

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告編動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約4分30秒

【 2011年8月・9月公開予定 みるきー舞姫 「MOD女陰陽師」画像 】
初詣も厄払いも、現在では「民間信仰」としての風習です。
「陰陽五行説」は、平安末期に、仏教、神道、陰陽道、修験道などの宗教と習俗が混ざり合って形作られました。
5~6世紀に、「陰陽五行説」が「仏教」や「儒教」とともに日本に伝わります。「大化の改新」では、国を統制する手法として仏教や漢字を利用します。陰陽五行説と密接な関係のある天文暦、時刻、易などの自然観察に関わる占術により災厄を判断し政治を行いました。
漢文の読み書きが堪能な、渡来人や僧侶に代わって、朝廷に仕える世俗人として「陰陽師」が現れます。
10世紀に陰陽道・天文道・暦道に卓越した才能を示した人物が、朝廷や公家から信望を得た「安倍晴明」です。
晴明は、天文道、暦道を陰陽道に取り込みます。
陰陽師という職業がミステリアスなのは映画などの演出のせいですが、「鬼神」という思想・概念も中国から輸入され、「陰陽五行説」と関わりながら「世界感」が日本独特に発展していきます。香川県・金刀比羅宮の宝物に「百鬼夜行」絵図があります。
鬼は、地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配する世界の概念があります。日本人は大地の神を「大国主命」とし、天上の神を太陽神の「天照大神」としました。
民衆の世界に近い「大国主命」はいろいろな形で現されます。
大地の精霊(spirit)は、「もの」を生み出すため「女性」であり、「蛇」でありました。
川の精霊も同様に蛇であり、蛇から龍(ドラゴン)など、さまざまの形が生まれることとなります。川の神「弁財天」もその一つです。大地の神も同様に女性と考えられ、最終的には「山姥」など、鬼の一種へと変化していきます。
初期の鬼は、全て女性の形であり「源氏物語」に登場する怨霊も女性で描かれます。「源氏物語」には、鬼とは人間の霊魂で、「怨霊」とも「物の怪」とも呼び、形は不明とされています。
呼び名の変化は、怨(オン)→女(オンナ)になり、オニナ、鬼(オニ)へと続いていくらしいです。

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 予告編動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約4分30秒
2011年07月10日
狩衣
陰陽師の衣装といえば「狩衣(かりぎぬ)」

陰陽師=狩衣というイメージは最も有名な陰陽師の一人・安倍晴明から来てるのでしょう。今日一般的に知られている陰陽師・安倍晴明像は夢枕獏さんの小説の影響が強いかと思います。
狩衣は平安貴族の普段着だったので、陰陽寮の役人である安倍晴明が妖怪退治等のに出かける時に動きやすい衣装である狩衣を着るのは割と普通のことかと思います。つまり、陰陽師=狩衣ではなく、平安時代の動きやすい衣装=狩衣です。
狩衣装束の構成は、下着を着て指貫(あるいは差袴)をはき、狩衣を着るだけです。また、立烏帽子をかぶります。
普段着という性質上、狩衣の色目・紋様は全くの自由です。ただし、禁色は避けられました。なお、白色の無紋狩衣・無紋指貫の形を「浄衣(じょうえ)」といい、専ら神事に用いられました。

【 映画 陰陽師画像 】
狩衣はもともと都の中産階級の人々のお洒落着であった布衣に由来します。布と言う字からも解るとおりもともと麻布製の素朴なものでありましたが、動きやすさを好まれて貴族が鷹狩りなどの衣装として採用し、平安初期には上皇以下の貴族の日常着になりました。
平安時代中期には国風文化の隆盛とともに「みやび」と言う価値観・美意識が広まりました。 貴族達は狩衣の表地と裏地の色に工夫を凝らし、裏地の色が薄い絹を通して表にほんのり現れる様子に優美な名称をつける「色目」が考え出されました。ただし、上級貴族の場合、四十歳を迎え「四十の賀」の祝いの後は老人と見なされ白い裏地しか使えなくなりました。
平安時代末期の院政期に入ると、直衣に続き狩衣で院御所に出入りすることが一般化しました。

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画

陰陽師=狩衣というイメージは最も有名な陰陽師の一人・安倍晴明から来てるのでしょう。今日一般的に知られている陰陽師・安倍晴明像は夢枕獏さんの小説の影響が強いかと思います。
狩衣は平安貴族の普段着だったので、陰陽寮の役人である安倍晴明が妖怪退治等のに出かける時に動きやすい衣装である狩衣を着るのは割と普通のことかと思います。つまり、陰陽師=狩衣ではなく、平安時代の動きやすい衣装=狩衣です。
狩衣装束の構成は、下着を着て指貫(あるいは差袴)をはき、狩衣を着るだけです。また、立烏帽子をかぶります。
普段着という性質上、狩衣の色目・紋様は全くの自由です。ただし、禁色は避けられました。なお、白色の無紋狩衣・無紋指貫の形を「浄衣(じょうえ)」といい、専ら神事に用いられました。

【 映画 陰陽師画像 】
狩衣はもともと都の中産階級の人々のお洒落着であった布衣に由来します。布と言う字からも解るとおりもともと麻布製の素朴なものでありましたが、動きやすさを好まれて貴族が鷹狩りなどの衣装として採用し、平安初期には上皇以下の貴族の日常着になりました。
平安時代中期には国風文化の隆盛とともに「みやび」と言う価値観・美意識が広まりました。 貴族達は狩衣の表地と裏地の色に工夫を凝らし、裏地の色が薄い絹を通して表にほんのり現れる様子に優美な名称をつける「色目」が考え出されました。ただし、上級貴族の場合、四十歳を迎え「四十の賀」の祝いの後は老人と見なされ白い裏地しか使えなくなりました。
平安時代末期の院政期に入ると、直衣に続き狩衣で院御所に出入りすることが一般化しました。

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
2011年06月30日
陰陽道②
過去にも陰陽道には触れていますが、再び綴ってみます。


【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
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陰陽道
簡単に説明すると「古代中国の陰陽五行説の思想に基づいて天文・暦法・占術などの学問的なものから天人相関思想による祥瑞災異などの思想、あるいは呪術・祭祀に至るまでを包括したもので、日本において体系化されたもの。」と定義することができます。
陰陽五行説については別に項目を作って詳しく説明いたしますが、陰陽説と五行説という二つの哲学的な思想が合体したものです。それぞれについて簡単に説明すると次のようになります。
●陰陽説とは
陰(日陰を意味する)と陽(日向を意味する)に大別される相対する2つの気(潜在的活力)が和合・循環することで万物の生成・消滅などの変化をもたらすとして説明する原理を指します。
「易」に由来する陰陽説は宇宙生成論の一種と言えます。万物を能動的・昂進的状態である「陽」と受動的・沈静的状態である「陰」の二つに大別し、それらが和合・循環することで万物の生成・消滅といった変化が発生すると考えます。 また、先に陰陽に大別すると述べましたがこの分類は絶対的なものではなく、万物の置かれている状況に応じて(つまり相対的に)変化します。
●五行説とは
ものの多様性とその変化の順序を統一あるものとして説明する原理を指します。 木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五つの気によって森羅万象の生成・変化を説明します。
自然界や人間社会の諸現象など森羅万象の生成・変化を説明する原理で、木・火・土・金・水という五つの要素を考えます。要素ということからわかるように「木」とはいわゆる木そのものを指すのではなく、草木の生長・発育を行う不思議な力を指しています。そういった力を「気」と呼んでいます。他の要素も同様に考えます。これらの気が循環することで森羅万象の生成・変化が行われるという考えです(五行の「行」という字には「巡る・運行」という意味あります)。
陰陽五行は初めは四季の変化を説明するのに使われたようです。それによると、 この世の初めは何も区別できない混沌とした状態(太極)だったが、その中から軽く澄んで暖かい気((陽気)が上昇して「天」に、重く濁って寒い気(陰気)が下降して「地」になり、この陰陽二気は一年という周期をもって消長し、その間に木・火・土・金・水という五つの気が生じ、これらも消長することで四季の別ができる、と考えたようです。


【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
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陰陽道
簡単に説明すると「古代中国の陰陽五行説の思想に基づいて天文・暦法・占術などの学問的なものから天人相関思想による祥瑞災異などの思想、あるいは呪術・祭祀に至るまでを包括したもので、日本において体系化されたもの。」と定義することができます。
陰陽五行説については別に項目を作って詳しく説明いたしますが、陰陽説と五行説という二つの哲学的な思想が合体したものです。それぞれについて簡単に説明すると次のようになります。
●陰陽説とは
陰(日陰を意味する)と陽(日向を意味する)に大別される相対する2つの気(潜在的活力)が和合・循環することで万物の生成・消滅などの変化をもたらすとして説明する原理を指します。
「易」に由来する陰陽説は宇宙生成論の一種と言えます。万物を能動的・昂進的状態である「陽」と受動的・沈静的状態である「陰」の二つに大別し、それらが和合・循環することで万物の生成・消滅といった変化が発生すると考えます。 また、先に陰陽に大別すると述べましたがこの分類は絶対的なものではなく、万物の置かれている状況に応じて(つまり相対的に)変化します。
●五行説とは
ものの多様性とその変化の順序を統一あるものとして説明する原理を指します。 木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五つの気によって森羅万象の生成・変化を説明します。
自然界や人間社会の諸現象など森羅万象の生成・変化を説明する原理で、木・火・土・金・水という五つの要素を考えます。要素ということからわかるように「木」とはいわゆる木そのものを指すのではなく、草木の生長・発育を行う不思議な力を指しています。そういった力を「気」と呼んでいます。他の要素も同様に考えます。これらの気が循環することで森羅万象の生成・変化が行われるという考えです(五行の「行」という字には「巡る・運行」という意味あります)。
陰陽五行は初めは四季の変化を説明するのに使われたようです。それによると、 この世の初めは何も区別できない混沌とした状態(太極)だったが、その中から軽く澄んで暖かい気((陽気)が上昇して「天」に、重く濁って寒い気(陰気)が下降して「地」になり、この陰陽二気は一年という周期をもって消長し、その間に木・火・土・金・水という五つの気が生じ、これらも消長することで四季の別ができる、と考えたようです。

2011年06月29日
陰陽師の主な道具・呪法


【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
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九字(くじ)
陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴います。現在のところ「九字」の初見は葛洪『抱朴子』「登渉篇」とされますが、同書では末尾が「在前」ではなく「前行」となっており、入山時に唱える「六甲秘祝」として呪のみが載っています。したがって九字の呪、四縦五横に切る所作、結印の所作は別個に形成されたものと考えられます。なお、四縦五横に切る所作自体は道教経典等にも見え古くから存在していますが、結印の所作は見えません。
陰陽道における九字では、古いものでは鎌倉期の陰陽道の反閇儀礼を伝える文献に四縦五横に切りながら「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」を唱えるものがあります。
「急急如律令」
元来は、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令の如く行え」の意。本来は「急」の字は「ロ(口編)」がつきます。道家が呪文に取りいれたものを陰陽師も用いたものと思われます。なお、密教や修験道においても「急々如律令」の呪は用いられます。
六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)
六壬式占によって吉凶を判断するための道具で、地を表す「輿(よ)」と呼ばれる方形の台座と、天を表す「堪(かん)」と呼ばれる円形の天盤で作られています。地盤には、二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載され、天盤には十二月将等が記載されています。天盤の十二月将を地盤の十二支に合わせることで、簡易な計算を行ったのと同じ効果が得られます。式盤は栻(ちょく、木偏に式)とも呼ばれます。正しく作成するためには、輿である地盤には雷に撃たれた棗の木、堪である天盤には楓(ふう)にできるコブである楓人を使用します。
渾天儀(こんてんぎ)
天文上の変異知るために天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測しました。
呪符・霊符
陰陽師が用いたとされる、種々の紋様や呪文を記載した護符。俗に「 セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や「ドーマン(九字格子)」と呼ばれる図形を記すものも多い。他にも「鎮宅七十二霊符」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「六芒星」や、「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符があります。元来中国で用いられていたものが伝来したものと考えられますが、我国における護符の歴史は未だ解明されていない部分が多く、古くは藤原京跡などから「急々如律令」の呪句を書き付けた呪符木簡等が出土しており、奈良時代にはすでに活用されていたらしいと言われます。古い資料はほとんど残っていません。
太上神仙鎮宅霊符
『太上秘法鎮宅霊符』「鎮宅七十二道霊符」等とも呼ばれる七十二種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられています。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容されました。この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられています。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体でありました。それ故日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えています。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われます。
人形(ひとかた、ひとがた)
形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、それにより患部等を撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習はこれを元としています。一方で人形に相手の名前等を記し、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど、様々な祈祷儀礼に広く見られます。丑の刻参りの藁人形が有名です。
式神(しきがみ)
陰陽師が使役したとされる使役神を言います。「識神」「しきのかみ」「式(しき)」とも。「式神」の解釈は密教の護法童子に似たものであるとか、精霊を使役するものであるとか諸説存在しますが、最も有力なのは陰陽道で用いられる「六壬式盤(りくじんしきばん)」に由来するとの説です。
(陰陽師wikiより)

※ 少年陰陽師画像
2011年06月26日
式神(十二神将)
式神(しきがみ、しきじん、識神)とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるものです。式の神ともいい、文献によっては式鬼(しき)式鬼神ともいいます。「式」とは「用いる」の意味であり、使役することをあらわします。

陰陽道は神道(古神道)に道教の陰陽五行思想や、密教などの思想を取り入れ習合したもので、現在の神社神道にもその系譜としての思想や儀式があります。神主や巫女は神降ろしによって、神を呼び出し憑依させることを、神楽や祈祷というが、これは和御魂の神霊であり、式神は鬼神となっていることから、和御魂の神霊だけではなく、荒御魂の神霊いわゆる「荒ぶる神」や「妖怪変化」の類である位の低い神を呼び出し、使役したと考えられます。また、人の善悪を監視するということは、人の心(霊魂)の和御魂と荒御魂の状態の変化でもあり、このことも式神という、2つの状態のどちらかの神霊を、使役したことと係わっていると思われます。
陰陽道の大家で、陰陽師として知られる安倍晴明が使役したという式神に十二神将(十二天将)があります。
十二神将とは陰陽師の占術である式占(ちょくせん)にみられる十二天将です。
「青龍・朱雀・白虎・玄武・勾陳(こうちん)・六合(りくごう)・騰蛇(とうだ)・天后(てんこう)・貴人・大陰(だいおん)・大裳(たいもう)・天空」に由来しており、仏教で云われる薬師如来の眷属(けんぞく)である十二夜叉大勝とは別物です。

※少年陰陽師画像
この式神の性格的な面については『今昔物語』では密教での護法童子や眷属神をイメージさせる神霊的存在ですが、『宇治拾遺物語』では紙などの無生物が陰陽師の呪力で、まるで生物のように操られています。
無生物に生命を吹き込むなどと言うとインチキも甚だしいと思われますが、折り紙にした鶴や人形を川に流して罪を背負ってもらうというような分身的な風習が残っています。
また呪詛に使う人形に、敵人の魂を込めて五寸釘で打ち付けたり、土に埋めることで相手に何らかのダメージを与える。成功するかどうかは別としても素人でさえこういう事をやる(出来る?)のだから陰陽師(プロ)が無生物に霊力を吹き込んで操ることができたとしても不思議ではないのかもしれません。

※少年陰陽師 十二神将 天一

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画

陰陽道は神道(古神道)に道教の陰陽五行思想や、密教などの思想を取り入れ習合したもので、現在の神社神道にもその系譜としての思想や儀式があります。神主や巫女は神降ろしによって、神を呼び出し憑依させることを、神楽や祈祷というが、これは和御魂の神霊であり、式神は鬼神となっていることから、和御魂の神霊だけではなく、荒御魂の神霊いわゆる「荒ぶる神」や「妖怪変化」の類である位の低い神を呼び出し、使役したと考えられます。また、人の善悪を監視するということは、人の心(霊魂)の和御魂と荒御魂の状態の変化でもあり、このことも式神という、2つの状態のどちらかの神霊を、使役したことと係わっていると思われます。
陰陽道の大家で、陰陽師として知られる安倍晴明が使役したという式神に十二神将(十二天将)があります。
十二神将とは陰陽師の占術である式占(ちょくせん)にみられる十二天将です。
「青龍・朱雀・白虎・玄武・勾陳(こうちん)・六合(りくごう)・騰蛇(とうだ)・天后(てんこう)・貴人・大陰(だいおん)・大裳(たいもう)・天空」に由来しており、仏教で云われる薬師如来の眷属(けんぞく)である十二夜叉大勝とは別物です。

※少年陰陽師画像
この式神の性格的な面については『今昔物語』では密教での護法童子や眷属神をイメージさせる神霊的存在ですが、『宇治拾遺物語』では紙などの無生物が陰陽師の呪力で、まるで生物のように操られています。
無生物に生命を吹き込むなどと言うとインチキも甚だしいと思われますが、折り紙にした鶴や人形を川に流して罪を背負ってもらうというような分身的な風習が残っています。
また呪詛に使う人形に、敵人の魂を込めて五寸釘で打ち付けたり、土に埋めることで相手に何らかのダメージを与える。成功するかどうかは別としても素人でさえこういう事をやる(出来る?)のだから陰陽師(プロ)が無生物に霊力を吹き込んで操ることができたとしても不思議ではないのかもしれません。

※少年陰陽師 十二神将 天一

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】
● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
2011年01月10日
陰陽道①
陰陽道(おんみょうどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じ。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系。「おんようどう」、「いんようどう」とも読む。陰陽道に携わる者を陰陽師といい、陰陽師集団のことも陰陽道と呼ぶ。

5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。
日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。
『 陰陽道wikii 』
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷

5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。
日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。
『 陰陽道wikii 』
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月09日
五行思想
五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は『互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する』という考えが根底に存在する。

五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん。騶は{馬芻}。鄒衍と表記する場合もある,紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。
春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
五行
木(木行)
木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)
光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)
植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)
土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)
泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、残った陰気が西に移動して金行を生じた。
そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷

五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん。騶は{馬芻}。鄒衍と表記する場合もある,紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。
春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
五行
木(木行)
木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)
光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)
植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)
土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)
泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、残った陰気が西に移動して金行を生じた。
そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷