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2010年11月30日

大奥-右衛門佐局

右衛門佐局(えもんのすけのつぼね、うえもんのすけのつぼね、慶安3年(1650年)- 宝永3年2月11日(1706年3月25日)は、江戸時代前期の大奥女中。単に右衛門佐とも。公家・水無瀬氏信の娘。


五代将軍徳川綱吉の時代、霊元天皇の後宮で常盤井の局という名で仕えており、宮中随一の才媛と呼ばれていた。貞享二年には、綱吉とお伝の方の間にできた鶴姫付上臈として紀州家に入る。その後、江戸城本丸大奥へ入った。または、御台所鷹司信子の姉で中宮の鷹司房子の推薦で、信子付上臈御年寄として大奥入りした、とされる。

江戸城大奥に入ってから名前を右衛門佐と改め、将軍付上臈御年寄として、大奥の総取締を行ったと考えられている。その後は大典侍、新典侍といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れた。

1706年、57歳で死去。墓所は東京都新宿区の月桂寺にある。
【右衛門佐局wikiより】

「大奥~華の乱~」では、高岡早紀さんが演じ印象深いです。
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:02Comments(0)大奥

2010年11月29日

大奥-絵島

絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、絵島生島事件の中心人物である。

三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。
家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄の立場にあった。

 絵島生島事件 】
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。
当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。
評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。
この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。  
タグ :大奥絵島


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2010年11月28日

大奥-月光院

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)、叙任時の名に輝子(てるこ)がある。

父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲、母は和田治左衛門の娘。
初め京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に四代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられた。そして宝永元年(1704年)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。
やがて喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の12月には五代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城の西の丸に入ることになり、正室近衛熙子や喜世らの側室も西の丸に同行した。
宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。同年7月、喜世は男児(家宣の四男)を出産。鍋松と名付けられた。後の家継である。喜世も左京の局と呼ばれるようになった。この時、家宣には大五郎(家宣の三男)という側室の須免が産んだ子がいたが、宝永7年(1710年)に大五郎が3歳で急逝。その2年後の正徳2年(1712年)10月に家宣が死去し、喜世は落飾して「月光院」となった。翌正徳3年(1713年)、家継に将軍宣下。月光院は従三位の位を賜った。
大奥で月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との間に生まれたなどとも言われるが、いずれも俗説で信憑性は低い。
正徳4年(1714年)、月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた絵島生島事件が発生した。
享保元年(1716年)、家継は風邪をこじらせて死去した。月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせたためとも言われる。その後の八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、九代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたともいわれる。
そして宝暦元年(1751年)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。
埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、血液型はA型で、四肢骨から推定した身長は144.4センチメートルである。この鑑定によって、当時としては目元がかなりぱっちりとしていたこともわかっている。



”The Times” Milky House Collection
開催日時 :11/28(日) 22:00(日本時間)より 
日本の和を重んじた衣装の数々とその演出に酔いしれて頂きたいと思います。
会場:MK TOKYO SIM

Milky House本店はこちらです。
    


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2010年11月27日

大奥-天英院

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日)[1] - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の皇女・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。


延宝元年(1679年)、徳川綱豊(後の6代将軍・家宣)に嫁ぐ。父・基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意な物であり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた。結婚前に水戸徳川光圀の養子徳川綱條との縁談話があったが、基熙はこれを断っている。ただし、基熙の伯母泰姫は徳川光圀に嫁いでおり、実際に先祖の遺誡があったかどうかは不明である。しかし幕府からの正式な要請は断ることが出来ず、「無念々々」としながらも縁談を承諾した。このため結婚前に、熙子は近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女となって嫁した。但し、この養女縁組は幕府側から見ると幕府を侮辱する行為以外の何物でもなかったために、近衛親子と平松時量以外には秘密であった。このため熙子の扱いは近衛家の娘のままであった。
綱豊との仲は良好だったらしく、2人の子供(長女・豊姫、長男・夢月院)を儲けたが、いずれも夭折する。その事で彼女は嘆き悲しみ、そのためかいずれの子供も徳川家とは別に日蓮正宗常泉寺にて戒名を授かる。30年後に夫・綱豊は6代将軍に就任、御台所として江戸城大奥に入った。これにより、当時朝廷において閑職にあった父・基熙は将軍の岳父となり、1709年(宝永6年)には江戸時代最初の太政大臣に就任するなど権勢を振るった。このため、霊元法皇は基熙を呪詛する願文を上御霊神社に納め、皇室の影響力を高めるために皇女八十宮吉子内親王を家継の御台所にしようと奔走するようになる。
ところが、甲府時代とは異なり、大奥に入ると夫婦生活は一変し、憂鬱な生活を送っていたといわれている。さらにお喜世の方が側室に迎えられた事によって、さらに疎遠になった。
正徳2年(1712年)に夫・家宣は病により没し、熙子も剃髪して院号を天英院と号する。お喜世の方が産んだ家継が将軍宣下を受けたのに伴って従一位を賜り、一位様と呼ばれた。
将軍家継の生母・月光院(お喜世の方)とは不仲であったといわれ、御年寄にして月光院の腹心であった絵島が大奥の門限に遅れた江島生島事件では、老中や譜代門閥層と結託して、月光院と側用人・間部詮房と新井白石らの権威失墜を謀ったとされている。しかしその後は仲も良好になったらしく、家継が病気で危篤状態になり、嘆き悲しんでいた月光院を励ましたと言われている。家継への八十宮降嫁にあたっては、月光院とともに主導的な役割を果たしている。
家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を8代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、その後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。
寛保元年(1741年)、76歳で没。戒名は「天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀」。
日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。

Milky House Collection
開催日時 :11/28(日) 22:00(日本時間)より 
今回は海外でななく日本での開催となります。
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※ 詳細は後日。
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2010年11月26日

大奥-瑞春院

瑞春院(ずいしゅんいん、万治元年2月1日(1658年3月4日) - 元文3年6月9日(1738年7月25日))は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の側室。通称、伝・三ノ丸様・御袋様。
父は下級武士(黒鍬(10俵一人扶持)とも、中間頭(80俵)とも)の小谷正元(小谷権兵衛)で、のちに堀田正元(堀田将監)と名乗る。兄の権太郎は天和2年(1682年)2月に賭博の喧嘩で小山田弥一郎(小山田弥市)に殺された。


綱吉が館林藩主であった寛文10年(1670年)、桂昌院御付の侍女として白山御殿にあがり牧野成貞の推挙で御中臈となる。綱吉の寵愛が厚く、延宝5年3月7日(1677年4月8日)19歳のときに白山邸で鶴姫を、延宝7年(1679年)21歳のときに神田邸で徳松を産んだ。綱吉の子を産んだ女性は瑞春院だけである。
同じく出自の低い綱吉生母・桂昌院とともに、正室鷹司信子を筆頭とした公家出身の側室たち(大典侍、新典侍、右衛門佐局)とは対立関係にあったという説もあるが確証はない。また、悪女として語られることの多い伝だが、実は自己主張の弱い、大人しい女性であったという話もある。
ただ、兄を殺した小山田弥一郎は、賭博からの喧嘩の罪ではなく、将軍世子の外伯父殺害を罪とされ、獄門磔となっている。彼を捕らえる時も、親・主君殺しでもない限り行われない人相書きまで全国に配られたという。これらは将軍の威を借りて天下の法度を動かしたとも考えられ、必ずしも大人しいだけの女性とは言い切れない部分もある。
徳松を幼くして亡くした後は、鶴姫の婿である紀伊藩主徳川綱教を将軍にしようとする動きもあったが、鶴姫・綱教ともに早世した。綱吉の死後は落飾して瑞春院と名乗り、二之丸に移る。1738年、81歳で死去。墓所は芝増上寺。


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開催日時 :11/28(日) 22:00(日本時間)より 
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2010年11月25日

大奥-桂昌院

桂昌院


桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代の女性。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。名は玉。『徳川実紀』に拠れば、父は北小路太郎兵衛宗正。母は鍋田氏の娘。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。

京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』に拠れば、父は関白・二条光平の家司である北小路太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部には二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。道祐は幕府につかえた儒者の林羅山の弟子であり、元禄四年に死去したことからわかるようにまさに同時代資料である。しかも現存の写本は公家の難波宗建が類纂した系統であることからわかるように古くから評価が高い本である。ゆえにこの記事も極めて信ぴょう性が高い。『鸚鵡籠中記』には、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また『御当代記』には、畳屋の娘という説が記されている。死後やや経ってからの『元正間記』には、大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。
寛永16年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。
慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。
実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら藩主として立身出世を果たしている。墓所は東京都港区の増上寺。また、京都府京都市西京区の善峯寺にも桂昌院の碑がある。
【桂昌院wukiより】
  


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2010年11月24日

大奥-春日局

大奥の有名な女性

春日局 - 徳川家光の乳母

春日局(かすが の つぼね、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤 福(さいとう ふく)。
父は美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられた。

実家の斎藤家は美濃守護代を代々務めた武家の名門だった。春日局は、その当時父の所領のあった丹波(現・兵庫県及び京都府)の黒井城下館(興禅寺)で生まれる。丹波は明智光秀の所領であり、斎藤利三は家臣として丹波国内に光秀から領地を与えられていた。
その後父は主君光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し帰城後に坂本城下の近江堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国に養育された。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉家の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家を勝利に導いた功労者である。後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(家光)の乳母に正式に任命される。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫正成の戦功が評価されたといわれている。
家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、秀忠・江与夫妻が竹千代の実弟・国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年(1615年)、駿府にいた大御所・徳川家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。この直訴はその時は失敗し、後に家康が江戸城を訪れたときにその江与の溺愛ぶりを見て考え直した、という説もある。

寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり(春日局は三条西公条の玄孫になる)、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、既に他界していたため、やむをえずその息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家の娘として参内する資格を得、同年10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の称号、及び天酌御盃をも賜る。その後、寛永9年7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。
よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。
【春日局wikiより】

  


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2010年11月23日

大奥(2)

大奥女性の身分と立場


御台所

大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍徳川家斉御台所・広大院と13代将軍徳川家定御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、近衛家に養女となった上で輿入れしたため形式的には例外はない。

江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表した事で、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、約100年もの間、御台所不在の期間が続き、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが、大奥を主宰した。

側室

将軍の側室は基本的に将軍付の中臈から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれた。
寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる。さらに我が子が世子となり、やがて将軍ともなれば、落飾した側室でも将軍生母として尼御台(あまみだい、落飾した御台所)をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。
しかし側室や将軍生母の力は時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上(おかみ、将軍)の最近親として礼遇された。その他の側室は二丸御殿や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。

大奥女中

大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。
女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。
【大奥wikiより】






  


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2010年11月22日

大奥(1)



大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所

江戸時代、徳川の天下の中で室町時代に築城された江戸城は「将軍様のお城」として増改築を繰り返されてきました。
特に三代将軍家光の時までは大規模な増築がされ、総坪数は222,182坪、そのうち本丸の建坪は10,978坪になります。

江戸城本丸は南から北へ、「表」「中奥」「大奥」の三つの部分から成っていました。
「表」は、広大な白洲に謁見が行われる大広間があり、大名や役人が執務する多くの座敷が廊下でつながっていて、政治の中心となる所です。
「中奥」は、将軍の官邸で、将軍が自ら政務を行なったり、普段生活している場所です。
休息の間、台所、能舞台などもありました。
そして「大奥」。将軍の正室をはじめとする各女性たちが住む場所で、将軍の私邸です。
本丸の北半分の敷地を占め、中奥とは銅塀で遮断され、御鈴廊下と呼ばれる廊下のみでつながっていました。
出入り口は御錠口(おじょうぐち)のみで、将軍が大奥に入るときは、係が太いひもにつるした鈴を鳴らすので「御鈴口(おすずぐち)」とも呼ばれました。
御錠口は午前6時ごろに開き、午後6時頃に閉られ、それ以外の通行は禁じられていました。
原則として将軍以外の男は入れませんでしたが、将軍の親戚の御三家・御三卿、御台所・側室の譜代大名の親戚、老中、御留守居役、大奥付の医者や僧侶は立ち入ることができたそうです。

二代目将軍 秀忠の時代である1618年(元和4年)1月1日に「大奥法度」という法律が作られてから以後は表の世界とは完全に分離され、その体勢は江戸城開城まで続きました。




※2011年11月みるきー舞姫「不夜城」公演も無事に終了しました。お越し頂いた皆様方、有難うございました。


  


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2010年11月21日

今宵公開【不夜城】

みるきー舞姫11月公演告知

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
【 場所 】
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
【 お願い 】
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
【 演 目 】
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞 [ 大正バージョン ]

※ 詳細は、こちら


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【 11月公演告知動画~ 不夜城 ~ 】

座長制作
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:40Comments(0)みるきー舞姫

2010年11月21日

今宵公開【不夜城】

みるきー舞姫11月公演告知

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

みるきー舞姫11月公演告知
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
【 場所 】
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
【 お願い 】
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
【 演 目 】
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞[大正バージョン]

※ 詳細は、こちら


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【 11月公演告知動画~ 不夜城 ~ 】

座長制作

  


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2010年11月21日

今宵公開【不夜城】

みるきー舞姫11月公演告知

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みるきー舞姫11月公演告知
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
【 場所 】
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
【 お願い 】
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
【 演 目 】
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞[大正バージョン]

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【 11月公演告知動画~ 不夜城 ~ 】

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2010年11月20日

明日公開【みるきー舞姫】

みるきー舞姫11月公演告知

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みるきー舞姫11月公演告知
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
【 場所 】
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
【 お願い 】
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
【 演 目 】
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞[大正バージョン]

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2010年11月19日

11月公演【みるきー舞姫】告知

みるきー舞姫11月公演告知

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みるきー舞姫11月公演告知
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
【 場所 】
特設会場
到着地点に門がございます。公演10分程度前に開門致します。
【 お願い 】
できるだけ快適に鑑賞いただけるように舞台装置など工夫しましたが重くなる場合があるので可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、フェースライトなし などでご来場いただければ助かります。
【 演 目 】
  第一幕(1階) 江戸 大門~吉原遊郭ゾーン
  第二幕(2階) 大正 和楽器奏舞[大正バージョン]

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サクラ大戦より

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みるきー舞姫10月公演 【 MOD竹取物語 】動画
  


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2010年11月18日

女性髪の歴史(2)




「笄髷」(こうがいまげ)
「こうがいまげ」江戸時代の女子の髪型。変化によっていろいろな
髪型がある。先笄・おばこ結び・勝山髷・片手髷・片外し等。

「おばこ結び」
単におばこともいう。幕末に江戸に起こり、明治時代にかけて結われた主婦の髪型。髻の毛をひとねじりして右回りに髪を前の方へ撓め(たわめ)(ちょうど片外しを作るときのごとく)一回転して、髪先を根の周囲にぐるぐると蛇のとぐろを巻く様に巻き上げ、根に笄(こうがい)「また中挿し」をさして輪の上に出して留める。一名遣手(つかいて)結びともいった。

「勝山髷」(かつやままげ)
承応、明暦{1652~58}のころ、遊女勝山によって始められた髷。特徴は根で結んだ髷を後ろから前へ曲げて輪を作り、髷の先を髷の内側へ折り返し、根の部に元結いで結びつける。初めは遊女だけが結っていたが、のちに一般化し元禄期に盛んに流行した。
江戸中期の勝山髷は、髷の輪がいくらか扁平になり髷の幅がいくぶん広がってきた。享保から天明{1716~89}にわたる70~80年の間は振るわない時代だった。
その後勝山髷は後古丸髷とよばれ、文化ごろより急速に一般婦人の髪型となり同時に型も変わってきた。総体的に年増が結うことが多く、幕末頃になると既婚婦人のユニフォームにも比すべき結髪と考えられた。正式には笄(こうがい)を挿し、略式には両天簪(りょうてんかんざし)をさした。

「先笄」(さきこうがい)
江戸中期からとくに関西の既婚婦人の髷(まげ)として結われた日本髪の一種。島田髷の一種とみられるもので、島田の形に髷を作って、あまった毛先を笄の下から上へ立たせ、さらにS字形に笄を巻きつかせ、先端を中へはめこんだもの。のち「橋」と
俗に言う細い仮髪を髷の上に渡すようになった。

「片手髷」(かたてまげ)
笄(こうがい)を使用して結髪する笄髷(こうがいまげ)の一種で、片笄(かたこうがい)ともいう。髪の根元を元結いでしばり、上へまわして、根にさした笄に髪の先を巻き付けたもの。江戸時代中期に関西で、変わった風を好む女性や占い師、医師の女房などが、まれに結ったといわれる。江戸大奥の上級の女中が結った片外し(かたはずし)に似ているが、片外しの場合は後の輪がねたようになり、片手髷は後の輪が立つとされている。

「玉結び」
江戸時代に結われた女子の髪型のひとつ。髪を垂らしてその先を輪に結んだもの。その結び方が簡単なため、起源が古く(平安時代からそれらしいものはあった)広く行われていたが、儀礼の髪としては価値のないものとされていた。輪が大きく上のほうにあるものは卑しく、輪が小さく下の方にあって元締め(もとじめ)をかけてあるのが上品とされ、庶民でも、上流社会で結われていた。

「片外し」(かたはずし)
江戸時代の御殿女中などが結っていた髪型のひとつ。たとえば、かぶきの先代萩(はぎ)の政岡や、重の井の岩藤などの結っている髷(まげ)はこれで、笄(こうがい)を横に貫き一方をはずしたもの。笄を抜けば下げ髪となる。

「島田」
この名称は、江戸時代の寛文年間、東海道島田宿の遊女達が結い始めたものといわれ、また寛永ごろの歌舞伎(かぶき)役者島田万吉の髪の型から起こったものといわれ、また、しまだは、締めた、という語がなまったものとの説もある。主として若い未婚の女性に結われる。しめつけ島田・やつし島田・投げ島田・小万・腰折り・小枝(さえだ)・きりずみ・結び・とりあげ・根細・文金・つぶし・かけおろし・いたこ・吉原など島田の名をつけた髷(まげ)が江戸時代全期を通じて大いに行われた。また文金高島田などは婚礼に結われる風習となって現今に伝えられている。
根を高く結ったものを高島田・文金島田といい、髷下(まげした)に紋縮緬(もんちりめん)のような吉野紙を用い、後世にひ縮緬がかけられるようになった。根の低く平らなものを、つぶし島田といい、島田の中央を細くしたもので、鹿子絞(かのこしぼり)の縮緬(ちりめん)を髻(もとどり)に巻きつけてある。

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みるきー舞姫11月公演告知

女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
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2010年11月17日

女性髪の歴史(1)

日本の歴史の中で『髪』の歴史もあります。
その「女性の髪」について

「垂髪」(たれがみ)
古墳・大和の時代から平安・鎌倉・室町と各時代を通じての女子の髪型です。
(垂れ髪・ひとすじ垂れ髪)最も古く素朴な髪型で 古墳・大和の時代から平安・鎌倉・室町時代まで各時代を通じておおかた子はこの髪型だった。 「すべしもとどり・すべらかしともいう」髪を頭上中央で分けて後ろに下げ、背に垂れた髪型で花や木の葉を髪飾りにしていた。

「振分髪」(ふりわけがみ)
飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町時代中期までに見られた髪型です。
髪を肩までの長さに切り、頭上中央で左右に分けさばいたまま、垂らす髪型。

「鬢そぎ」(びんそぎ)
平安時代後期・鎌倉時代・室町時代中期に行われた女子の髪型です。
女子が年頃になると垂髪の鬢(びん)の前方部(頬の両側の部分に当たる所)を短く切りこの髪型を鬢そぎといった。

「大垂髪」(おすべらかし)
おうすべかし、あるいは大すらべらかしともいわれる。
女子の髪型の一種で、前髪をとり、両鬢を大きくふくらませ、髻(もとどり)を背後にすべらせて長く下げたものをいう。
平安時代からの宮廷女子の垂髪(たれがみ)形式が、鎌倉・室町時代を経て、江戸時代に至って定型化したものである。
普通の垂髪に対して特に大きなものをいった。平安時代の垂れ髪と異なるところは、鬢を大きく張ったことと垂髪のかもじのところどころに絵元結(えもとゆい)や水引を結んだことである

「唐輪」(からわ)
鎌倉時代末期から室町時代初期に結われた髪型の一種で、当時は男子の髷(まげ)であった。初めは武家の少年、寺院の稚児(ちご)などの髪型で稚児輪(ちごわ)ともいった。天正年間に、一部女性の間で流行した唐輪は、中国女性の髪型をまねたもので、前期のものとは形がかなりちがっている。その髪風は頭上で髪の輪を作り、その根を残りの髪で巻き付けるもので、その輪は4つの場合、3つの場合、2つの場合があった。その一種である一つ輪は後に変化して兵庫髷となり、江戸時代の遊女間に流行した。

「禿」(かむろ)
室町時代から江戸時代末期に起こった髪型。首の周りくらいまで髪を短く切りそろえる。かぶろ・きりかぶろ(切り禿)ともいう。禿の語義は頭毛の脱落すること、はげることでそれから髪を短く切ることを言ったと考えられている。後にはもっぱら童女の髪とし長く行われ、江戸時代の遊女の召使少女を禿と呼ぶのも童女の髪名が転用されたと考えられる。

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2010年11月16日

花魁(4)



MilkyHouse

江戸吉原 花魁道中

太夫(たゆう)
三枚歯の高下駄を履き、独特の外八文字の歩き方を披露します。(京都では内八文字)
かつら・衣装等合わせると30kgにも及ぶ重量のものを身につけるため、美貌だけでなく、精神力や忍耐強さ、足腰の強さ等体力面も要求されます。

禿(かむろ)
将来の「おいらん(太夫)」の候補生として、「おいらん」や「新造」の身の周りの雑用や行儀作法の見習いをする少女のことで、たばこ盆とキセル入れを抱えています。

振袖新造(ふりそでしんぞう)
「かむろ」から成長し、独り立ちする前のおいらん付の見習のことです。
おいらん(太夫)の身の回りの世話などをします。「振袖新造になるものは格の高い花魁になる将来が約束されたものである。」と言われています。

番頭新造(ばんとうしんぞう)
全てを取り仕切り、マネージャー的な役割を担うのが番頭新造です。
かむろ・振袖新造のお姉さん的な役割です。
他の新造と衣装も違い、振袖新造の一番後ろに付きます。
(歌舞伎などでは、[羽衣新造 はごろもしんぞう] とも呼びます。)

手古舞・おんな木遣り(てこまい おんなきやり)
「江戸中期頃、芸者が山車を先導するため、男性風の扮装で登場したのが始まり。」と言われています。

持ち物は、右手に金棒(上に鉄製の輪が4~6個付く鉄製の棒)、左手に自分の名前が書かれた提灯を持ち、本来は木遣りを歌いながら行進する。

男衆(おとこしゅう)付き人

<strong>金棒引き・露払い(かなぼうひき・つゆはらい)
行列の先頭を金棒を突き鳴らしながら歩きます。

提灯持ち(ちょうちんもち)
太夫の名前が入った大きな箱提灯を持っています。

肩貸しの男衆(かたかしのおとこしゅう)
おいらん(太夫)が外八文字で歩く際に、無くてはならない存在の男衆です。
側に付いて警護の役割もします。

傘持の男衆(かさもちのおとこしゅう)
大きな傘を太夫の後ろから差し掛けています。

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日時 11月21日(日) 開演22:30~24:00(JST) 
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2010年11月15日

花魁(3)



MilkyHouse

【花魁】映画には「さくらん」があります。
--- あらすじ ---
真っ赤な金魚たちが宙を泳ぐ。大門をくぐると、そこは華やかな吉原遊郭。
桜が満開の中、遊郭<玉菊屋>に連れてこられた8歳の少女は、きよ葉と名付けられた。
口が悪く、誰にもなつこうとしないきよ葉の面倒をみることになったのは、気位が高く、絶世の美しさと知性を兼ね備えた完璧な高級花魁・粧ひ。女だらけの世界に嫌気がさし、きよ葉は脱走を図るがあえなく失敗。厳しい折檻を受けても逃げ出すことをやめようとしないきよ葉。だが、自分から「吉原一の花魁になってやる」と言ってしまう。その気にさせたのは粧ひだった。きよ葉に、相手に自分が思った通りの言動をとらせる「手練手管」(てれんでくだ)を見せ付けたのであった。そして、粧ひは金持ちの旦那に身請けされ、全ての遊女が最も夢み、羨望するかたちで吉原を出て行く。それは吉原の門を出て、遊女が生きられる、唯一の方法。別れの日にきよ葉は粧ひから、彼女が身につけていたかんざしを受け継ぐ。
やがて、17歳になったきよ葉は「十年に一度の天女」と楼主が誉めるほどの女に成長し、店に立つ。きよ葉のはじめての客「突き出し」の相手は玉菊屋一の上客であり、花魁・高尾の馴染であったご隠居。鼻っ柱の強さと美貌が気をひき、一躍江戸中の注目の的となる。
そんな、きよ葉も初めて恋に落ちる。うぶな青年・惣次郎がきよ葉目当てに玉菊屋を訪れ彼女を求めたとき、きよ葉はどうしようもなく恋に落ちた。惣次郎の前では弱さも本音も全て曝け出し、ただひたすら彼といられることをこの上もなく幸せに感じていた。遊女は偽りの愛を売る世界に生きるもの。しかし、惣次郎と過ごす時間だけはきよ葉にとっては本物だったのだ。
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さくらん】用語
足抜け…廓(くるわ)から逃亡すること。捕まると酷い仕置きを受け、命を落とすこともあった。
ありんす言葉…吉原の遊女が使っていた言葉。地方出身の遊女が多いことから、なまりを隠すために使われていたという。
大門(おおもん)…吉原の出入り口は大門だけである。明け六つ(午前六時)に開かれ、夜四つ(午後十時)には閉じられていたが、深夜の出入りは横の木戸から行われていた。
お茶をひく…客が付かず、売れ残っていることを言う。
女衒(ぜげん)…遊女屋への身売りの仲介をする周旋業者を呼ぶ。
外八文字(そとはちもんじ)…花魁道中の花魁の歩き方。
惣仕舞(そうじまい)…客が一軒の遊女屋を買い占めて遊ぶこと。
突き出し…新造がはじめて客をとり、一本立ちをするお披露目の日。
手練手管(てれんてくだ)…客の自尊心をくすぐったり焼き餅を焼かせたり、巧みな手法で客の心を虜にする手口。
馴染み…客が通って三会目、花魁に気に入られると見合い・結納・結婚という擬似夫婦関係が成り立ったとして馴染みになれる。馴染みと認められて初めて床入りが許された。
年季…江戸時代に定められた10年間の雇用期間。吉原の遊女も表向きは10年間の年季奉公で、この10年間は「苦界」(くがい)と詠われた。禿時代の奉公はこの10年間には入らない。
裸寝(はだかね)…何も身に着けず、丸裸で情事におよぶこと。遊女は客と床入りする時も襦袢の帯を解くことは無く、それを「張り」(プライド)としていた。
張見世(はりみせ)…花魁以外の遊女が、見世に並んで顔見せをする。見世には籬(まがき)と呼ばれる格子があり、どんな籬をつけているかで見世のランクが分かれていた。玉菊屋はもちろん最高峰。
引っ込み禿(ひっこみかむろ)…禿の中でも上流遊女として将来性が見込まれるエリートとして英才教育(琴や俳諧、接客方など)で育てられる禿。
間夫(まぶ)…遊女が本当に思いを寄せる男。
身請け(みうけ)…馴染み客が多額の身代金を払って、遊女を引き取ること。千両(7500万円)もの大金を必要とすることもあった。身請けは遊女にとって最大の夢であるが、望まない身請け話もあり、事実上遊女に選択権は無かった。
三ッ布団(みつぶとん)…敷き布団を3枚重ねたもの。遊女の格によって敷布団の枚数が違った。呼び出し、昼三、座敷持ち以上の遊女しか三ッ布団は敷けなかった。
名代(みょうだい)…姉女郎が忙しい時などは、妹分の新造が代理として座敷に出る。客は名代に手を付けられないが、馴染みの遊女と同額の場代を取られた。

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2010年11月14日

花魁(2)


MilkyHouse

遊女には位があり、それによって揚代が決まっていた(吉原細見に格付けが記載されている。店にも大見世・中見世・小見世の別がある)。時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、花魁に相当するのは、おおむね次の遊女である。

太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。
格子:太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
散茶:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。
座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。
呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
本来は「呼出し」を花魁と呼んだと考えられる。これらより下位の遊女は花魁とはいわなかった。
なお、店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。

花魁を揚げるには様々なしきたりが存在していた。
花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。このため、茶屋で豪勢に遊び金を落とす必要があった。
座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
初会(つまり一回目)、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
裏(つまり二回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
三回目にようやく馴染みになり、自分の名前の入った膳と箸が用意される。このとき、ご祝儀として馴染み金を支払わなければならなかった。通常は、三回目でようやく床入れ出来るようになった(なお、この初会から三会目のしきたりは、存在を疑問視する意見もある)。
馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされる。他の花魁に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った。客は金を支払って詫びを入れたという。
花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。その際は名代といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。一方で、通常の揚代金を取られることになる。「花魁wikiより」

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2010年11月13日

花魁(1)


Milkyhouseより

花魁wiki」
花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。 18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある]。
江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。

吉原に遊郭ができた当初には、少数ではあるが江戸にも太夫がおり、その数は万治元年(1658)の吉原細見によれば、太夫3人であった。またその下位の遊女として格子67人、局365人、散茶669人、次女郎1004人がいた。
江戸時代後期の安永4年(1775)になると、吉原細見には散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている。
花魁は、吉原の遊郭で最も格の高い遊女で張り店を行わないため、引手茶屋を通して「呼び出し」をしなければならなかった。呼び出された花魁が禿や振袖新造を従えて遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中(後に花魁道中)と呼んだ。
花魁には教養も必要とされ、花魁候補の女性は幼少の頃から禿として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。人気の花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。浮世絵に描かれている花魁は、実際には付けるのが不可能なくらい多くのかんざしを付けて、とても豪華な姿で描かれている。

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女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )

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