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2012年05月18日

沖田総司

沖田 総司(おきた そうじ、天保15年(1844年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日)は、幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良。幼名は宗次郎。
沖田総司
【 新選組!より 】

陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩屋敷(現・東京都港区)で生まれる。生年については天保13年(1842年)又は15年(1844年)の2つの説があり未確定で、生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であったということしか分かっていない。2人の姉がおり、沖田家は姉のみつが婿に林太郎を迎えて相続させる。
父の勝次郎は弘化2年(1845年、総司4歳)に死去し、母とも死別したとされる。9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」(近藤周助)の内弟子となり、のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。若くして試衛館塾頭を務め、安政3年(1856年)には近藤とともに調布の下仙川村に出稽古に出かけている記録が見られる。

沖田総司
【 新選組!より 】

文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛する。分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成。沖田は一番隊組長となる。一番隊は剣豪ひしめく新選組の中で常に重要な任務をこなしたといわれる。沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久3年(1863年)3月24日の夜で、清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番隊に在籍していた殿内義雄だった。この時期では同年9月の芹沢鴨暗殺[7]、元治元年5月20日の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺[8]など手がけたという。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込んだ[9]。この奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれている(これには諸説あり、詳細は後述の発病時期を参照)。翌月の禁門の変にも出動している。
慶応元年(1865年)2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。山南は沖田の介錯で切腹した。沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。

沖田総司
【 新選組!より 】

体調の悪化により、第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年(1867年)以降である。慶応3年12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、負傷させている。
鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に後送される(鳥羽・伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に後送される船中において肺結核を発症したとも)。鳥羽・伏見での敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も、中途での落伍を余儀なくされる。
以後は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。近藤の死を知らないまま亡くなったともいわれる。辞世の句は「動かねば 闇にへだつや 花と水」。
生年が明確で無いため、享年については諸説あり、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。墓所は東京都港区の専称寺にある。戒名は「賢光院仁誉明道居士」。
【 沖田総司wikiより 】


【 新選組!動画 】

(沖田惣次郎→沖田総司)
演:藤原竜也(少年時代:田辺季正)
副長助勤・一番組長。幼名は惣次郎(そうじろう)。試衛館の中でも最も剣の才能に恵まれ、若くして塾頭になり近藤をして「宗家5代目を襲名させたい」と言わしめる。無邪気で天真爛漫な性格だが、仲間内で一人前の大人として扱われないことに不満を持っていた。また剣に自信を持っているため最初に山南と試合して敗れた際には多少の引け目を感じていた。
上洛後は芹沢やお梅に魅せられて一時行動を共にしていた。それ故に芹沢は自分が斬らねばならないと理解し、芹沢暗殺事件では参加を志願。その後も池田屋事件などで活躍。肺結核を患い医者には静養を勧められるが、剣への情熱と責任感からかえって稽古や任務に熱を入れるようになり剣の鬼と化していく。病気を隠していたもののある時、遂に皆の前で大量の血を吐いて昏倒して以降は療養生活となり、戦列を離れお孝の看病を受ける事になった。新選組が伏見に移転した時も京に残ったが、そこを浪士らに襲われる。しかし、お孝の機転で難を逃れ、銃撃され負傷した近藤と共に大坂城へ送られ松本良順の治療を受ける。江戸に戻った後は、病を圧して甲陽鎮撫隊に加わり多摩へ向かう。しかし、多摩で土方と剣術を立ち会っている時に倒れ、近藤に江戸に戻るように命じられる。植木屋平五郎宅で療養していたが襲撃される。その際お孝を斬られ、襲撃してきた刺客を返り討ちにするが再度吐血し昏倒してしまう。その後、姉のみつが総集編で「勇さんの後を追うように亡くなった」と語った事から勇の死後に病状の悪化で病死したとされる。

沖田総司

沖田総司

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Posted by hidesun(英寸) at 19:45│Comments(1)新撰組
この記事へのコメント
藤原さん、山本耕史さんの時代劇、良いです
しかし現実のチャンバラ あのように動けず、もっと一刀一刀だったと思います。
時代劇見るたびに、そう思います。屋敷の部屋も家財道具全然ないとか、雪降ってるのに、廊下で談笑とか・・。雨戸締め切ってもんもんとしてたのではと、思います 
文句新選組 LOL
Posted by Shinichi Adamski at 2012年12月26日 14:53
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