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2012年04月25日

宇佐神宮

宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と言われる八幡宮の総本宮である。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。同じ官幣大社の石清水八幡宮、筥崎宮、または筥崎宮に代えて、格下の鶴岡八幡宮(国幣中社)とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。


主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一之御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二之御殿)、神功皇后(三之御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている(メインは上宮だが、上宮・下宮どちらも三柱全てを祀っている)。比売大神は宗像三神のこととされる。このほか、境内には仁徳天皇以下五柱の通称「若宮五神」を祭る若宮神社、応神天皇の子神を祭る春宮神社、大山積尊を祭る亀山神社(亀山は当宮が位置する山の名前)、境内の菱形池を守る水分(みくまり)神社、菅原道真を祭る天満神社、素戔嗚尊を祭る八坂神社、武内宿禰を祭る黒男神社、和気清麻呂を祭る護皇神社、初代大宮司・大神比義を祭る大神祖神社、かつて東征中の神武天皇をこの地でもてなしたとされる菟沙津彦・菟沙津姫を祭る宇佐祖神社などが末社として敷地内に存在する。また、敷地外にある外宮として、大許(おおもと)神社が近隣の御許山(おもとさん)の上にある。御許山は、比売大神が地上に下った時、最初に降り立った地とされている。なお、古くは弥勒寺という神宮寺(正確には石清水八幡宮に属する)があったが、廃仏毀釈により取り壊され、礎石のみが残っている。かつて同寺があった場所の北側には、社務所に相当する「神宮庁」と神宝を収める宝物館が存在する。




由来と歴史
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。また社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)とある。
そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている和銅元年(708年)頃までには大神比義と関係がある大神一族が大和朝廷より宇佐の地にやってきて、あるいは大和朝廷と手を結んで、神仏習合、八幡神創出を行ったと考えられている[要出典]。
また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。
そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙咩(おとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。
崇峻天皇(588 - 592年)の御代に鷹居社(たかいしゃ)(宇佐市上田字1435)が建てられ、和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄える[1]。宇佐にある葛原古墳は辛島勝氏の墓である、という説がある。
社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)、一之殿を建立、天平元年(729年)には二之殿、弘仁14年(823年)には三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成したと言い伝えられている。
704年の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願し、743年の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、769年の宇佐八幡宮神託事件では、皇位の継承まで関与する等伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した信仰を集めていた。
宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めた。後に菟沙津彦らの子孫・宇佐氏と大神氏の祝が大宮司職を継承した。はじめ大神氏が務めたが、平安時代の中頃神主職を宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲した。宇佐氏と氏族の岩根氏、安心院氏も大宮司になった事もある。鎌倉時代末期の宇佐公世の代から二家に分かれた、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称し、この二家が交互に大宮司職を継ぎ、明治に至っている。一時宇佐氏の出光氏も大宮司となっている。


参拝形式
二礼「四拍手」一拝 を作法としている。



九州最大の荘園領主
律令下での宇佐神宮は、神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また当時の社寺の例にもれず神人(じにん)による武装もしており、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司宇佐公通が平氏方につく。屋島の戦いから敗走する総大将平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、ご神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。


この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった。鎌倉時代の元寇でも当時の社寺の例にもれず加持祈禱を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれ、その子宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。さらに下って戦国時代 (日本)には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立(特に大内盛見や大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている)。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、キリシタン大名の大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司らが現在の北九州市到津付近まで逃げ延びる羽目になる。
大友氏はその後の島津氏との戦いで勢力をそがれ豊臣秀吉による九州平定を招くこととなり、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐する。江戸時代には、宇佐一帯は中津藩、佐賀藩飛び地、天領などが複雑に入り組む土地となったが、その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。




JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】  


Posted by hidesun(英寸) at 20:34Comments(0)宇佐神宮