
2011年12月10日
紫式部
『源氏物語』・『紫式部日記』・『紫式部集』の作者。

生年は973年頃、没年は1031年(長元4年)頃と考えられている。※生没年には諸説あり。最も短命な場合の説では、没年は1014年(長和3年)。本名は未詳だが、角田文衞氏によって「藤原香子(たかこ・かおりこ・こうし)」説が提起されている。
父は、藤原為時。母は、藤原為信の娘。幼い頃から才気を発揮しており、父・為時は紫式部が男子でなかったことを惜しんだらしい。
996年(長徳2年)、父・為時が越前守になり共に越前に下向する。
997年(長徳3年)の秋~998年(長徳4年)春頃、帰京。

999年(長保元年)、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、同年または翌年に 賢子(けんし・かたこ=のちの大弐三位)を出産するものの、宣孝の死によって結婚生活は終止符を打たれた。1001年(長保3年)のことだった。夫・宣孝の死後、『源氏物語』の執筆を始めたと考えられる。
1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子<のちの上東門院>に女房として仕えるようになり、「藤式部」と呼ばれる。 『源氏物語』の完成時期は不明だが、宮仕え中や里邸<堤第(つつみてい)>において書き続けられたと思われる。

「紫式部」という呼称の由来は諸説あるが一説には、『源氏物語』の登場人物“紫の上”にちなんで呼ばれるようになったという。「式部」は、父・藤原為時が式部省の官僚“式部大丞(しきぶのたいじょう)”だったことによる。伝・紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にある。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄(かかいしょう)」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。

生年は973年頃、没年は1031年(長元4年)頃と考えられている。※生没年には諸説あり。最も短命な場合の説では、没年は1014年(長和3年)。本名は未詳だが、角田文衞氏によって「藤原香子(たかこ・かおりこ・こうし)」説が提起されている。
父は、藤原為時。母は、藤原為信の娘。幼い頃から才気を発揮しており、父・為時は紫式部が男子でなかったことを惜しんだらしい。
996年(長徳2年)、父・為時が越前守になり共に越前に下向する。
997年(長徳3年)の秋~998年(長徳4年)春頃、帰京。
999年(長保元年)、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、同年または翌年に 賢子(けんし・かたこ=のちの大弐三位)を出産するものの、宣孝の死によって結婚生活は終止符を打たれた。1001年(長保3年)のことだった。夫・宣孝の死後、『源氏物語』の執筆を始めたと考えられる。
1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子<のちの上東門院>に女房として仕えるようになり、「藤式部」と呼ばれる。 『源氏物語』の完成時期は不明だが、宮仕え中や里邸<堤第(つつみてい)>において書き続けられたと思われる。

「紫式部」という呼称の由来は諸説あるが一説には、『源氏物語』の登場人物“紫の上”にちなんで呼ばれるようになったという。「式部」は、父・藤原為時が式部省の官僚“式部大丞(しきぶのたいじょう)”だったことによる。伝・紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にある。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄(かかいしょう)」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。