
2011年12月10日
紫式部
『源氏物語』・『紫式部日記』・『紫式部集』の作者。

生年は973年頃、没年は1031年(長元4年)頃と考えられている。※生没年には諸説あり。最も短命な場合の説では、没年は1014年(長和3年)。本名は未詳だが、角田文衞氏によって「藤原香子(たかこ・かおりこ・こうし)」説が提起されている。
父は、藤原為時。母は、藤原為信の娘。幼い頃から才気を発揮しており、父・為時は紫式部が男子でなかったことを惜しんだらしい。
996年(長徳2年)、父・為時が越前守になり共に越前に下向する。
997年(長徳3年)の秋~998年(長徳4年)春頃、帰京。

999年(長保元年)、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、同年または翌年に 賢子(けんし・かたこ=のちの大弐三位)を出産するものの、宣孝の死によって結婚生活は終止符を打たれた。1001年(長保3年)のことだった。夫・宣孝の死後、『源氏物語』の執筆を始めたと考えられる。
1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子<のちの上東門院>に女房として仕えるようになり、「藤式部」と呼ばれる。 『源氏物語』の完成時期は不明だが、宮仕え中や里邸<堤第(つつみてい)>において書き続けられたと思われる。

「紫式部」という呼称の由来は諸説あるが一説には、『源氏物語』の登場人物“紫の上”にちなんで呼ばれるようになったという。「式部」は、父・藤原為時が式部省の官僚“式部大丞(しきぶのたいじょう)”だったことによる。伝・紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にある。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄(かかいしょう)」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。

生年は973年頃、没年は1031年(長元4年)頃と考えられている。※生没年には諸説あり。最も短命な場合の説では、没年は1014年(長和3年)。本名は未詳だが、角田文衞氏によって「藤原香子(たかこ・かおりこ・こうし)」説が提起されている。
父は、藤原為時。母は、藤原為信の娘。幼い頃から才気を発揮しており、父・為時は紫式部が男子でなかったことを惜しんだらしい。
996年(長徳2年)、父・為時が越前守になり共に越前に下向する。
997年(長徳3年)の秋~998年(長徳4年)春頃、帰京。
999年(長保元年)、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、同年または翌年に 賢子(けんし・かたこ=のちの大弐三位)を出産するものの、宣孝の死によって結婚生活は終止符を打たれた。1001年(長保3年)のことだった。夫・宣孝の死後、『源氏物語』の執筆を始めたと考えられる。
1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子<のちの上東門院>に女房として仕えるようになり、「藤式部」と呼ばれる。 『源氏物語』の完成時期は不明だが、宮仕え中や里邸<堤第(つつみてい)>において書き続けられたと思われる。

「紫式部」という呼称の由来は諸説あるが一説には、『源氏物語』の登場人物“紫の上”にちなんで呼ばれるようになったという。「式部」は、父・藤原為時が式部省の官僚“式部大丞(しきぶのたいじょう)”だったことによる。伝・紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にある。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄(かかいしょう)」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。
2011年12月09日
源氏物語 千年の謎
源氏物語 千年の謎

絢爛豪華な平安王朝の時代。一条帝の心を娘の彰子(蓮佛美沙子)に向けさせようと企む時の権力者・藤原道長(東山紀之)は、紫式部(中谷美紀)に物語を書くよう命じる。その物語の題名は『源氏物語』。主人公は今上帝と桐壺更衣(真木よう子)の間に生まれた光源氏(生田斗真)。

だが、帝の寵愛を受ける桐壺更衣は、嫉妬心に燃える帝の正妻・弘徽殿女御(室井滋)によって殺害される。光源氏は宮中の女性たちの憧れの的だったが、桐壺に瓜二つの義理の母・藤壺(真木よう子:二役)への狂おしい思いを断ち切ることができずにいた。その苦しさから逃れるため、正妻・葵の上(多部未華子)、艶やかな大人の色香を放つ六条御息所(田中麗奈)、はかなげでつつましやかな夕顔(芦名星)と、奔放に愛を求めて彷徨うのだった。

やがて、女の心の奥に潜む“嫉妬”という魔物に追いつめられてゆく光源氏……。紫式部が綴る『源氏物語』は、たちまち帝の心を掴み、帝と彰子の間に男の子が生まれた。これによって道長の栄華は確固たるものとなり、紫式部の役目は終わるはずだった。しかし何故か紫式部は『源氏物語』を書き続ける。

そんな中、道長の友人で陰陽師の安倍晴明(窪塚洋介)は、物語に没頭する紫式部に不穏な気配を感じ始める……。光源氏に心奪われる女性たちに深く嫉妬した御息所の修羅の心が、道長への思いを心に秘めた式部自身の心と重なり、生き霊となって現実と物語の空間を越え始めていたのだ。愛と嫉妬と憎悪にゆがむ時空を超えた紫式部、道長、光源氏の運命。そして、陰陽師・安倍晴明がその生き霊を追う……。

日本が世界に誇る傑作長編小説「源氏物語」誕生の秘密に、斬新な解釈で迫る歴史スペクタクル。作者である紫式部が生きる現実と、光源氏らが生きる物語の世界が時空を超えて重なっていくさまを描き出す。監督は、『愛の流刑地』の鶴橋康夫。紫式部を中谷美紀が熱演するほか、光源氏役に『人間失格』の生田斗真、式部が思いを寄せる藤原道長役に東山紀之と、豪華キャストがミステリアスな王朝絵巻を彩る。
【 源氏物語 千年の謎 (予告) 】

絢爛豪華な平安王朝の時代。一条帝の心を娘の彰子(蓮佛美沙子)に向けさせようと企む時の権力者・藤原道長(東山紀之)は、紫式部(中谷美紀)に物語を書くよう命じる。その物語の題名は『源氏物語』。主人公は今上帝と桐壺更衣(真木よう子)の間に生まれた光源氏(生田斗真)。

だが、帝の寵愛を受ける桐壺更衣は、嫉妬心に燃える帝の正妻・弘徽殿女御(室井滋)によって殺害される。光源氏は宮中の女性たちの憧れの的だったが、桐壺に瓜二つの義理の母・藤壺(真木よう子:二役)への狂おしい思いを断ち切ることができずにいた。その苦しさから逃れるため、正妻・葵の上(多部未華子)、艶やかな大人の色香を放つ六条御息所(田中麗奈)、はかなげでつつましやかな夕顔(芦名星)と、奔放に愛を求めて彷徨うのだった。

やがて、女の心の奥に潜む“嫉妬”という魔物に追いつめられてゆく光源氏……。紫式部が綴る『源氏物語』は、たちまち帝の心を掴み、帝と彰子の間に男の子が生まれた。これによって道長の栄華は確固たるものとなり、紫式部の役目は終わるはずだった。しかし何故か紫式部は『源氏物語』を書き続ける。

そんな中、道長の友人で陰陽師の安倍晴明(窪塚洋介)は、物語に没頭する紫式部に不穏な気配を感じ始める……。光源氏に心奪われる女性たちに深く嫉妬した御息所の修羅の心が、道長への思いを心に秘めた式部自身の心と重なり、生き霊となって現実と物語の空間を越え始めていたのだ。愛と嫉妬と憎悪にゆがむ時空を超えた紫式部、道長、光源氏の運命。そして、陰陽師・安倍晴明がその生き霊を追う……。

日本が世界に誇る傑作長編小説「源氏物語」誕生の秘密に、斬新な解釈で迫る歴史スペクタクル。作者である紫式部が生きる現実と、光源氏らが生きる物語の世界が時空を超えて重なっていくさまを描き出す。監督は、『愛の流刑地』の鶴橋康夫。紫式部を中谷美紀が熱演するほか、光源氏役に『人間失格』の生田斗真、式部が思いを寄せる藤原道長役に東山紀之と、豪華キャストがミステリアスな王朝絵巻を彩る。
【 源氏物語 千年の謎 (予告) 】
2011年12月07日
関屋
かつて源氏と一夜の契りをかわした「空蝉」の後日譚です。逢坂の関で、源氏と偶然に再会し、その後出家して尼となります。
のちに末摘花と同じように二条院に迎えられ、平穏な余生をおくります。


昔、紀伊守の邸で、はかない一夜の逢瀬をもった空蝉は、心ならずも拒みつづけた源氏への思いを胸に、夫伊予の介(その後常陸宮となる)に伴われて、任地常陸国へ下っていましたが、源氏帰京の翌年、任期を終えて都にもどってくることになりました。
その一行が、逢坂の関を越えて都に入ろうとしたとき、たまたま願ほどきのために石山詣でをする源氏の行列と行き会わせたのです。常陸介の一行は、車からおりて木陰に隠れるように、華やかな行列を見送りますが、源氏も空蝉も、それぞれに感慨はつきません。源氏は、昔の小君(空蝉の弟、今は衛門の佐)を介して、この行き会わせは偶然でなく宿世であると、空蝉に消息を送り、また女心を揺さぶります。

その後、夫の常陸介は、空蝉の行末を案じつつ、亡くなり、空蝉は、継子の河内守(昔の紀伊の守)に好色な下心で言い寄られ、頼る人もなくなって、出家して尼になってしまいます。

伊予介といひしは、故院崩れさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやり聞こえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。
のちに末摘花と同じように二条院に迎えられ、平穏な余生をおくります。


昔、紀伊守の邸で、はかない一夜の逢瀬をもった空蝉は、心ならずも拒みつづけた源氏への思いを胸に、夫伊予の介(その後常陸宮となる)に伴われて、任地常陸国へ下っていましたが、源氏帰京の翌年、任期を終えて都にもどってくることになりました。
その一行が、逢坂の関を越えて都に入ろうとしたとき、たまたま願ほどきのために石山詣でをする源氏の行列と行き会わせたのです。常陸介の一行は、車からおりて木陰に隠れるように、華やかな行列を見送りますが、源氏も空蝉も、それぞれに感慨はつきません。源氏は、昔の小君(空蝉の弟、今は衛門の佐)を介して、この行き会わせは偶然でなく宿世であると、空蝉に消息を送り、また女心を揺さぶります。

その後、夫の常陸介は、空蝉の行末を案じつつ、亡くなり、空蝉は、継子の河内守(昔の紀伊の守)に好色な下心で言い寄られ、頼る人もなくなって、出家して尼になってしまいます。

伊予介といひしは、故院崩れさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやり聞こえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。
2011年12月05日
蓬生
源氏28~29才。この巻は、うまずらで、長く真っ赤な鼻の、想像を絶する醜女として登場した、あの末摘花の後日譚です。
源氏が須磨に退去している間、生活の窮乏に耐えながらじっと彼との再会を待ち続けていた彼女に、再会した源氏が感動し、二条院に引き取って幸せに暮らすという暖かい物語です。


源氏が須磨に退去していたころ、末摘花の生活は悲惨を極めていました。
昔風の気性の彼女は、由緒ある宮家の誇りを持ち続けようと、庭の木や道具類を所望する者があっても、けっして手放そうとせず、邸は蓬(よもぎ)や葎(むぐら)のしげる狐のすみかにもなって、盗人さえもよりつかないような貧しさの中で、細々と暮らしていました。
末摘花の叔母は、かってこの宮家から軽んじられ恨んでいましたが、いまこそその報復をと、あれこれ意地悪をし、彼女のたった一人の相談相手であった女房の侍従までも自分のもとに引き取ってしまいます。
頼りにする使い人もいなくなり、荒れ果てた邸で、ひとしおもの寂しい冬を過ごしていました。
翌春、源氏は花散里を訪ねる道すがら、末摘花の邸のそばを通り掛かり、木立に見覚えのあるのを思い出し、蓬の露をわけて訪れます。
対面した彼女に、源氏は疎遠にした年月を悔いながら、これまでの労をねぎらい、今なお自分を信じて待ってくれていた彼女の心がいとおしく、この人を終生庇護してあげようと誓います。
源氏の心遣いで、邸内も修理され、生気を取り戻し、末摘花もやっと安らかな暮らしに戻ることができました。
のちに、末摘花は二条院に迎えられ、源氏の配慮のもと、幸せに過ごします。

霜月ばかりになれば、雪霰がちにて、外には消ゆる間もあるを、朝日夕日をふせぐ蓬葎の陰に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪の中に、出で入る下人だになくて、つれづれとながめたまふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳の中もかたはらさびしく、もの悲しく思さる。
源氏が須磨に退去している間、生活の窮乏に耐えながらじっと彼との再会を待ち続けていた彼女に、再会した源氏が感動し、二条院に引き取って幸せに暮らすという暖かい物語です。


源氏が須磨に退去していたころ、末摘花の生活は悲惨を極めていました。
昔風の気性の彼女は、由緒ある宮家の誇りを持ち続けようと、庭の木や道具類を所望する者があっても、けっして手放そうとせず、邸は蓬(よもぎ)や葎(むぐら)のしげる狐のすみかにもなって、盗人さえもよりつかないような貧しさの中で、細々と暮らしていました。
末摘花の叔母は、かってこの宮家から軽んじられ恨んでいましたが、いまこそその報復をと、あれこれ意地悪をし、彼女のたった一人の相談相手であった女房の侍従までも自分のもとに引き取ってしまいます。
頼りにする使い人もいなくなり、荒れ果てた邸で、ひとしおもの寂しい冬を過ごしていました。
翌春、源氏は花散里を訪ねる道すがら、末摘花の邸のそばを通り掛かり、木立に見覚えのあるのを思い出し、蓬の露をわけて訪れます。
対面した彼女に、源氏は疎遠にした年月を悔いながら、これまでの労をねぎらい、今なお自分を信じて待ってくれていた彼女の心がいとおしく、この人を終生庇護してあげようと誓います。
源氏の心遣いで、邸内も修理され、生気を取り戻し、末摘花もやっと安らかな暮らしに戻ることができました。
のちに、末摘花は二条院に迎えられ、源氏の配慮のもと、幸せに過ごします。

霜月ばかりになれば、雪霰がちにて、外には消ゆる間もあるを、朝日夕日をふせぐ蓬葎の陰に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪の中に、出で入る下人だになくて、つれづれとながめたまふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳の中もかたはらさびしく、もの悲しく思さる。

2011年12月04日
上杉謙信
「毘沙門天の化身」、「越後の龍」などのカッコイイ異名を持ち、義侠に富んだ数々の逸話を残しつつ、戦国時代の最強武将としても名高い稀代の名将「上杉謙信」。「越後(現在の新潟県)」の上杉家は、そんな上杉謙信が治めた国です。

元々の上杉家は、かなり複雑で紛らわしい家柄です。
上杉家は室町時代の名家ではありましたが、実は 上杉謙信 の 「上杉家」 は元々は 「長尾家」 という家柄で、この 長尾家 は 上杉家 よりも下であり、それほどの家柄ではありませんでした。しかし、本流の 上杉家 が戦国時代に没落して行ったため、上杉謙信の 長尾家 が、その家を継ぐ事になります。ですが、この時代の越後の周辺には他にも同じ 「上杉家」 「長尾家」 という名前の勢力が複数存在していたため、どれがどれやら紛らわしい事この上ないです。まあ、「上杉謙信の上杉家」 以外の勢力は 「信長の野望 Online」 には登場しませんし、戦国大名としてもマイナーですけどね。
さて、上記で述べたように、元々は上杉家は 「長尾家」 という名前で、上杉謙信 も元は「長尾景虎」という名前でした。しかし彼は実は長男ではなく、長尾家を継ぐような立場ではなかったので、幼い頃はお寺に奉公に出されていました。そこで景虎は、禅や仏の修行を7年も続け、そのまま僧侶になる予定だったのですが・・・。
元々越後では内乱が発生し続けており、長尾家の殿様だった景虎の兄はそれを鎮圧することが出来ず、配下にも謀反(反乱)を起こされまくっていたため、景虎(謙信)はお寺から引っ張り出されます。そして景虎は初陣で大活躍、さらにその後も反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、そのまま兄は隠居して、景虎は代わりの当主に推薦されて「長尾家」の家督を相続する事になります。

景虎(謙信)には元々戦争の才能があったらしく、その後も続いた国内の反乱を次々と鎮圧、越後を平定した頃にはその名は周辺諸国にとどろいていました。
そんな頃、隣の「信濃(長野県の辺り)」から 「村上義清」 という人が尋ねてきます。話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて~」 と言います。信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。しかし・・・ 元々景虎は僧侶になるはずだった人。相次ぐ反乱と家臣の対立、それを鎮圧する戦いの繰り返し、そして 武田家 など近隣諸国との戦いに嫌気が差したのか・・・。
突然、「もー大将やめる!!」 と言い出してムリヤリ出家しようとし、仏教の総本山 「高野山」 に1人で行ってしまい、長尾家は大パニックに!結局この騒ぎは家臣たちが協力し、「もう反乱しません」とかの約束状を書いたりして景虎を押し止め、なんとか収束しましたが・・・これには、長年お寺で仏の修行をしていた景虎の、心の葛藤が見え隠れします。
ただ、この一件以降、長尾家内での反乱はなりを潜めたと言われています。

一方、武田家との戦いも続き、ついに 1561 年、武田家と上杉家が激しくぶつかった 「第4回 川中島の戦い」 が起ります。
両軍が正面からぶつかり、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちも行われたと言う戦国時代でも最も有名な大規模合戦です。
この戦いの模様は 「武田家」 のページで詳しく書いていますので、そちらを見てください。
加えて、領内では 「一向一揆」 という僧侶と農民の結託した一揆も起るようになり、これの鎮圧にも謙信は奔走します。
この頃の上杉家は外も内も敵だらけ、謙信はまさに四六時中戦っているような状態で、それが謙信の戦国最強伝説にも繋がりました。しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。
しかし 1573 年、武田信玄 が病没すると、謙信は西へ向かって進軍し始めます。
これは武田家の脅威が無くなったと同時に、織田信長 と対立を始めた 室町幕府の将軍 の足利義昭 から、京都へ進軍(上洛)するようにとの要請があったためだと言われています。
途中、越中(富山県周辺)の 「神保家」 や、織田家に従属していた能登半島の 「畠山家」 などを撃破すると、さらに西に向かって進み、織田信長 が支配していた 「加賀」 に迫ります。
ここで上杉軍は、織田軍の本隊と 「手取川」 で激突しますが、これは 上杉謙信 の強さを物語る一番の戦いだったと言えます。
景虎の出家騒ぎから3年後の 1559 年、長尾家 の上の家柄の 「上杉家」 から、景虎は 「関東管領」 という関東を統治する役職を譲り受ける事になります。「関東管領」 は関東地方一帯を統治する役職ですが、当時の関東は 「北条家」 に制圧されており、元々関東管領を持っていた 「山内上杉家」 も何とか関東を奪還しようと北条家と戦っていましたが、全くかないませんでした。そこでその(山内)上杉家は 長尾景虎 の勇名を聞いて、彼にこの職を譲る事を決意します。
これを拝領した景虎は同時に 「上杉家」 の家名も譲られ、こうして 「長尾家」 は 「上杉家」 となり、景虎も後に名前を 「上杉輝虎」、さらに 「上杉謙信」 に改めました。そして、「関東管領」 の名の通りに関東を支配するべく、上杉家 は 北条家 に幾度も進攻を繰り返すことになります。

「手取川の戦い」 は、上杉軍と織田軍がその名の通り 「手取川」 という川の近くで戦ったものですが、織田軍がその場所にさしかかった頃、上杉軍はまだかなり東の方を進んでいました。両者の距離は、両軍がそのまま進んでも遭遇するのに数日かかるぐらいの距離です。しかしその日の夜・・・
謙信は陣を張っている場所に、いつもより多めに「かがり火」を炊かせて、さもそこに部隊が駐留しているように見せかけると、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田の陣へ向かって夜通しかけて向かっていきました!一方の織田軍は、まだ上杉軍に会うまで距離があるため、まさか攻撃を受けるとは思っておらず備えもしていませんでした。そのうえ、作戦を巡って織田家の重臣 柴田勝家 と 羽柴秀吉 が大ゲンカ! 秀吉は軍勢と共に勝手に帰ってしまい、戦闘態勢がまるで整っていません。そこに長距離を駆け抜けてきた 上杉謙信 の騎馬精鋭部隊が夜襲をかけます!
突然の事に織田軍は大混乱!先陣にいた織田軍の部隊はあっという間に壊滅!
しかも当時、雨が降り続いていて手取川が増水していたため、負けた織田軍は撤退が困難な状況に陥り、追撃も受けまくって大被害を被ってしまいます。勇将で知られる 「柴田勝家」 の部隊が何とか軍をまとめて反撃しようとしますが、すでに気勢を制されており、ボコボコにされて壊滅。織田信長も残存の兵をまとめて対抗しようとしますが、その頃には騎馬以外の上杉軍の兵士達も到着しており、そのまま圧倒されて軍は崩壊。信長は近衛兵数十騎と共に戦場からの脱出を計りますが、上杉軍に追撃され、何とか美濃まで逃げ帰った時、近衛兵は数人だけになっており、自身も傷を負っていたと言います。

こうして、織田家 を窮地に立たせた 上杉謙信 でしたが・・・これが 謙信 の最後の勇名と、戦いになりました。
一度越後に戻り、改めて軍勢をまとめていた謙信がトイレに行ったとき、突然 謙信 は脳卒中で倒れてしまいます。 そのまま、謙信が帰ってくることはありませんでした。享年 48 才。
上杉謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」 と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また 北条氏康 も、「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます。生涯 妻を持たず、敵からも賞賛され、自らを仏法の守護神 「毘沙門天」 と称した謙信は、やはり武士と言うより、僧侶に近かったのかもしれません。

元々の上杉家は、かなり複雑で紛らわしい家柄です。
上杉家は室町時代の名家ではありましたが、実は 上杉謙信 の 「上杉家」 は元々は 「長尾家」 という家柄で、この 長尾家 は 上杉家 よりも下であり、それほどの家柄ではありませんでした。しかし、本流の 上杉家 が戦国時代に没落して行ったため、上杉謙信の 長尾家 が、その家を継ぐ事になります。ですが、この時代の越後の周辺には他にも同じ 「上杉家」 「長尾家」 という名前の勢力が複数存在していたため、どれがどれやら紛らわしい事この上ないです。まあ、「上杉謙信の上杉家」 以外の勢力は 「信長の野望 Online」 には登場しませんし、戦国大名としてもマイナーですけどね。
さて、上記で述べたように、元々は上杉家は 「長尾家」 という名前で、上杉謙信 も元は「長尾景虎」という名前でした。しかし彼は実は長男ではなく、長尾家を継ぐような立場ではなかったので、幼い頃はお寺に奉公に出されていました。そこで景虎は、禅や仏の修行を7年も続け、そのまま僧侶になる予定だったのですが・・・。
元々越後では内乱が発生し続けており、長尾家の殿様だった景虎の兄はそれを鎮圧することが出来ず、配下にも謀反(反乱)を起こされまくっていたため、景虎(謙信)はお寺から引っ張り出されます。そして景虎は初陣で大活躍、さらにその後も反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、そのまま兄は隠居して、景虎は代わりの当主に推薦されて「長尾家」の家督を相続する事になります。

景虎(謙信)には元々戦争の才能があったらしく、その後も続いた国内の反乱を次々と鎮圧、越後を平定した頃にはその名は周辺諸国にとどろいていました。
そんな頃、隣の「信濃(長野県の辺り)」から 「村上義清」 という人が尋ねてきます。話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて~」 と言います。信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。しかし・・・ 元々景虎は僧侶になるはずだった人。相次ぐ反乱と家臣の対立、それを鎮圧する戦いの繰り返し、そして 武田家 など近隣諸国との戦いに嫌気が差したのか・・・。
突然、「もー大将やめる!!」 と言い出してムリヤリ出家しようとし、仏教の総本山 「高野山」 に1人で行ってしまい、長尾家は大パニックに!結局この騒ぎは家臣たちが協力し、「もう反乱しません」とかの約束状を書いたりして景虎を押し止め、なんとか収束しましたが・・・これには、長年お寺で仏の修行をしていた景虎の、心の葛藤が見え隠れします。
ただ、この一件以降、長尾家内での反乱はなりを潜めたと言われています。

一方、武田家との戦いも続き、ついに 1561 年、武田家と上杉家が激しくぶつかった 「第4回 川中島の戦い」 が起ります。
両軍が正面からぶつかり、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちも行われたと言う戦国時代でも最も有名な大規模合戦です。
この戦いの模様は 「武田家」 のページで詳しく書いていますので、そちらを見てください。
加えて、領内では 「一向一揆」 という僧侶と農民の結託した一揆も起るようになり、これの鎮圧にも謙信は奔走します。
この頃の上杉家は外も内も敵だらけ、謙信はまさに四六時中戦っているような状態で、それが謙信の戦国最強伝説にも繋がりました。しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。
しかし 1573 年、武田信玄 が病没すると、謙信は西へ向かって進軍し始めます。
これは武田家の脅威が無くなったと同時に、織田信長 と対立を始めた 室町幕府の将軍 の足利義昭 から、京都へ進軍(上洛)するようにとの要請があったためだと言われています。
途中、越中(富山県周辺)の 「神保家」 や、織田家に従属していた能登半島の 「畠山家」 などを撃破すると、さらに西に向かって進み、織田信長 が支配していた 「加賀」 に迫ります。
ここで上杉軍は、織田軍の本隊と 「手取川」 で激突しますが、これは 上杉謙信 の強さを物語る一番の戦いだったと言えます。
景虎の出家騒ぎから3年後の 1559 年、長尾家 の上の家柄の 「上杉家」 から、景虎は 「関東管領」 という関東を統治する役職を譲り受ける事になります。「関東管領」 は関東地方一帯を統治する役職ですが、当時の関東は 「北条家」 に制圧されており、元々関東管領を持っていた 「山内上杉家」 も何とか関東を奪還しようと北条家と戦っていましたが、全くかないませんでした。そこでその(山内)上杉家は 長尾景虎 の勇名を聞いて、彼にこの職を譲る事を決意します。
これを拝領した景虎は同時に 「上杉家」 の家名も譲られ、こうして 「長尾家」 は 「上杉家」 となり、景虎も後に名前を 「上杉輝虎」、さらに 「上杉謙信」 に改めました。そして、「関東管領」 の名の通りに関東を支配するべく、上杉家 は 北条家 に幾度も進攻を繰り返すことになります。

「手取川の戦い」 は、上杉軍と織田軍がその名の通り 「手取川」 という川の近くで戦ったものですが、織田軍がその場所にさしかかった頃、上杉軍はまだかなり東の方を進んでいました。両者の距離は、両軍がそのまま進んでも遭遇するのに数日かかるぐらいの距離です。しかしその日の夜・・・
謙信は陣を張っている場所に、いつもより多めに「かがり火」を炊かせて、さもそこに部隊が駐留しているように見せかけると、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田の陣へ向かって夜通しかけて向かっていきました!一方の織田軍は、まだ上杉軍に会うまで距離があるため、まさか攻撃を受けるとは思っておらず備えもしていませんでした。そのうえ、作戦を巡って織田家の重臣 柴田勝家 と 羽柴秀吉 が大ゲンカ! 秀吉は軍勢と共に勝手に帰ってしまい、戦闘態勢がまるで整っていません。そこに長距離を駆け抜けてきた 上杉謙信 の騎馬精鋭部隊が夜襲をかけます!
突然の事に織田軍は大混乱!先陣にいた織田軍の部隊はあっという間に壊滅!
しかも当時、雨が降り続いていて手取川が増水していたため、負けた織田軍は撤退が困難な状況に陥り、追撃も受けまくって大被害を被ってしまいます。勇将で知られる 「柴田勝家」 の部隊が何とか軍をまとめて反撃しようとしますが、すでに気勢を制されており、ボコボコにされて壊滅。織田信長も残存の兵をまとめて対抗しようとしますが、その頃には騎馬以外の上杉軍の兵士達も到着しており、そのまま圧倒されて軍は崩壊。信長は近衛兵数十騎と共に戦場からの脱出を計りますが、上杉軍に追撃され、何とか美濃まで逃げ帰った時、近衛兵は数人だけになっており、自身も傷を負っていたと言います。

こうして、織田家 を窮地に立たせた 上杉謙信 でしたが・・・これが 謙信 の最後の勇名と、戦いになりました。
一度越後に戻り、改めて軍勢をまとめていた謙信がトイレに行ったとき、突然 謙信 は脳卒中で倒れてしまいます。 そのまま、謙信が帰ってくることはありませんでした。享年 48 才。
上杉謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」 と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また 北条氏康 も、「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます。生涯 妻を持たず、敵からも賞賛され、自らを仏法の守護神 「毘沙門天」 と称した謙信は、やはり武士と言うより、僧侶に近かったのかもしれません。
2011年12月03日
師走の大神稲荷
十二月に入り、堺SIMも雪化粧がされました。【大神稲荷神社 】も初雪です。

先日、七五三の祝いにご家族の方々がいらっしゃいました。
そのときに頂いた画像です。

神社の拝殿周辺にも雪が残っています。



師走の大神稲荷神社 場所
※ のんびりと神社内大晦日、初詣準備中です。

先日、七五三の祝いにご家族の方々がいらっしゃいました。
そのときに頂いた画像です。

神社の拝殿周辺にも雪が残っています。



師走の大神稲荷神社 場所
※ のんびりと神社内大晦日、初詣準備中です。
2011年12月02日
針供養
針供養とは針仕事を休んで古い針を寺院や神社に納めて供養することをいいます。

針供養(はりくよう)は、折れた縫い針を供養し、近くの神社に収める行事。主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われる 。2月8日、または12月8日に行われる。関東地方や東北地方の一部では両方という地域もあるが 、ほとんどはどちらか一方の日に行われる。関東地方では2月8日、関西地方や九州地方では12月8日が普通であったが、大阪天満宮では2月8日、加太の淡嶋神社でも2月8日、嵯峨の法輪寺 (京都市西京区)では12月8日と2月8日の双方に行われるなど、必ずしも地域によって日時が固定しているわけではない。

かつて、12月8日と2月8日は事八日と呼ばれ、2月8日を事始め、12月8日を事納めとして、この日から農耕を始め終る日とされていた。両日はつつしみをもって過ごす日とされ、この日は針仕事を休むべきとされていた 。そして折れた針を神社に納めたり、豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養し、裁縫の上達を祈った。また、かつては土の中に埋めたり 、針を刺した豆腐や蒟蒻を川や海に流して供養するということも行われた。この日は針に触れないようにするという風習もある。富山県や石川県では針歳暮とも呼ばれ、饅頭や餡餅を食べたり知人に贈ったりすることが行われた。
現在では家庭で針仕事を行うことが少なくなり、家庭行事としては廃れた。一方で、和裁・洋裁の分野においてはこの行事は未だ根付いており、和裁や洋裁の学校では現在も行われている 。
「 針供養wiki 」


針供養(はりくよう)は、折れた縫い針を供養し、近くの神社に収める行事。主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われる 。2月8日、または12月8日に行われる。関東地方や東北地方の一部では両方という地域もあるが 、ほとんどはどちらか一方の日に行われる。関東地方では2月8日、関西地方や九州地方では12月8日が普通であったが、大阪天満宮では2月8日、加太の淡嶋神社でも2月8日、嵯峨の法輪寺 (京都市西京区)では12月8日と2月8日の双方に行われるなど、必ずしも地域によって日時が固定しているわけではない。

かつて、12月8日と2月8日は事八日と呼ばれ、2月8日を事始め、12月8日を事納めとして、この日から農耕を始め終る日とされていた。両日はつつしみをもって過ごす日とされ、この日は針仕事を休むべきとされていた 。そして折れた針を神社に納めたり、豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養し、裁縫の上達を祈った。また、かつては土の中に埋めたり 、針を刺した豆腐や蒟蒻を川や海に流して供養するということも行われた。この日は針に触れないようにするという風習もある。富山県や石川県では針歳暮とも呼ばれ、饅頭や餡餅を食べたり知人に贈ったりすることが行われた。
現在では家庭で針仕事を行うことが少なくなり、家庭行事としては廃れた。一方で、和裁・洋裁の分野においてはこの行事は未だ根付いており、和裁や洋裁の学校では現在も行われている 。
「 針供養wiki 」
