2011年06月15日
時の記念日
すでに5日前のお話ですが、6月10日は「時の記念日」でした。

天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、この日が時の記念日に制定されました。制定は大正9年のことです。もっとも、日本書紀によれば漏刻は実は斉明天皇6年5月に皇太子(天智天皇、当時は中大兄皇子)の命により既に設置されていました。しかしその日付が不明であるため、日付の明確な天智天皇10年の方が採用されています。
※ 水時計(みずどけい)とは、容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時をはかる時計のこと。東洋(中国由来)のものは漏刻(ろうこく)ともいいます。

大雑把な目安しか提供できない日時計に比べて水時計はどうしても精密な時刻を測ることができるものとして重用されましたが、その発明は古く、BC16世紀にはエジプトで既に使用されていた記録が残っています。

天智天皇の時代にこの水時計の管理をしていたのは陰陽寮の漏刻博士たちで二人で交替で水の量をチェックして鐘や太鼓で時報を鳴らしていました。
たいへん重要な役目ですので、居眠りしたり遅刻した場合の罰は出勤停止・罷免など、たいへん厳しいものであったようです。

昔の中国がシナとよばれていた時代には、垂直(すいちょく)な柱の影の長さを測って、その影が一番長くなる日を冬至と決めていました。この柱のことを土圭(トケイ)といい、このトケイの名前が時計となったと言われています。

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天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、この日が時の記念日に制定されました。制定は大正9年のことです。もっとも、日本書紀によれば漏刻は実は斉明天皇6年5月に皇太子(天智天皇、当時は中大兄皇子)の命により既に設置されていました。しかしその日付が不明であるため、日付の明確な天智天皇10年の方が採用されています。
※ 水時計(みずどけい)とは、容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時をはかる時計のこと。東洋(中国由来)のものは漏刻(ろうこく)ともいいます。

大雑把な目安しか提供できない日時計に比べて水時計はどうしても精密な時刻を測ることができるものとして重用されましたが、その発明は古く、BC16世紀にはエジプトで既に使用されていた記録が残っています。
天智天皇の時代にこの水時計の管理をしていたのは陰陽寮の漏刻博士たちで二人で交替で水の量をチェックして鐘や太鼓で時報を鳴らしていました。
たいへん重要な役目ですので、居眠りしたり遅刻した場合の罰は出勤停止・罷免など、たいへん厳しいものであったようです。

昔の中国がシナとよばれていた時代には、垂直(すいちょく)な柱の影の長さを測って、その影が一番長くなる日を冬至と決めていました。この柱のことを土圭(トケイ)といい、このトケイの名前が時計となったと言われています。

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Posted by hidesun(英寸) at 21:21│Comments(0)
│和の暦
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