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2012年05月16日

山南敬助

山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、新選組の副長・総長をつとめた幕末の武士 【 山南敬助wikiより 】
山南敬助
【 新選組!より 】

名字の「山南」読みについては「やまなみ」と「さんなん」の二通りが考えられている。一般には「やまなみ」が広く知られているが、本人の署名に「三南」や「三男」としたものがあるため「さんなん」の可能性も高いと考えられている。ただし幕末には自称他称に有職読みを用いることが流行していた背景もあり、確かなことは不明である。
山南敬助
【 新選組!より 】

その心優しく温厚な性格から山南は壬生の女性や子供たちから慕われており、その界隈には「親切者は山南・松原」という言葉が明治のはじめ頃まで伝わっていた。また隊士からも「サンナンさん」と呼ばれ親しまれていたという。『新選組遺聞』には「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たちにも評判が良かった」という旨の記述があり、山南の切腹の際には、鬼の副長として有名な土方でさえも涙を流したと伝わるほどである。
それでも八月十八日の政変に際して御所警備に出動する時、近藤や土方がすでに甲冑に身を包んでいるのに対し、山南には甲冑が調達されなかったことにいたく立腹したという逸話も伝わっているが、この時は親しかった松原忠司に宥められている。
文武両道の人としても知られ、新選組のスポンサーだった小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。新選組に対する酷評で知られる西本願寺の西村兼文も『壬生浪士始末記』で山南を「少しく時理の弁えある者(少しは物事の筋道がわかる人)」と好評している。
壬生時代の新選組の幹部が宿所とした八木家の子だった八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」で、「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」という。
山南敬助
【 新選組!より 】

山南敬助(やまなみ けいすけ)
演:堺雅人
副長、のち総長。仙台の浪人で北辰一刀流の門人であったが、同門の坂本龍馬の紹介で試衛館を訪れ、近藤の人柄に惹かれ門人となる。常に笑顔を絶やさず、何を口にするにも丁寧な口調で話す品のある人物。北辰一刀流免許皆伝で、最初に試合をした時沖田を破る程であった。その際、「彼(総司)はよい資質を持っている。必要なのは経験」と述べており、数年後には沖田に負かされている。学問にも明るく時勢を見極めていて、近藤を知の面から支える。
勇を浪士組の創設者・清河八郎、浪士組取締役・山岡鉄太郎と引き合わせ、浪士組への参加へのきっかけを作る。また、京で清河の浪士組から離れた時に会津藩の預りとするよう近藤に進言する。当初は副長を務めたが、土方により総長に棚上げされる。お互い認め合いながらも、度々土方とは対立し、屯所の本願寺移転でも反対するなど、論争は絶えなかった。その後、伊東らの入隊で、ますます自らの居所をなくしたと感じていく。隊のあり方に疑問を感じていた最中に起きた、永倉らの建白書提出に端を発する土方の処分をきっかけに、明里を伴って脱走したが、追いかけてきた沖田に近江の草津で自ら声をかけて京に戻る。そして、周囲の皆に死別の言葉を残して志を託し、近藤、土方ら試衛館の仲間たちが見守る中、隊のために切腹する。


【 心に響く 新選組! あけさと太夫と山南敬助動画より 】

山南敬助
JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/3



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Posted by hidesun(英寸) at 20:08│Comments(0)新撰組
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