
2011年03月02日
春

「はる」という言葉は「万物が発〔は〕る(発する)」「木の芽が張〔は〕る」「天候が晴〔は〕る」「田畑を墾〔は〕る」などの意味を持ちます。天候に恵まれ、希望に溢れる季節を象徴しています。
立春りっしゅん
2月4日頃
冬と春の分かれる節分の翌日であり、立春は寒さがあけて春に入る日です。
また、立春以降初めて吹く南よりの強風を春一番と呼び、立春の早朝禅寺では厄除けのために門に縦書きをすると、左右対称になる「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があるようです。
雨水うすい
2月19日頃
雨水とは、雪が雨に変わり雪解けが始まるという日で、忍び寄る春の気配に草木が蘇るという意味があります。
とはいえ東日本ではまだ雪が深く、関東・東海地方にあたっては、この時期から雪が降り始めるそうです。
啓蟄けいちつ
3月6日頃
啓蟄とは、土の中で縮こまっていた虫(蟄)が穴を開いて(啓いて)動き出す日のことです。具体的には、日本人が「さぁ働くぞ」と意気込み始める日のことを言います。
この時期は、一雨降るごとに気温があがってゆき、春に近づいていきます。日差しも徐々に暖かくなってきます。
春分しゅんぶん
3月21日頃
春分は、昼と夜の長さが同じになる日です。
昔の人はこの日を「自然に感謝し春を祝福する日」だと感じていました。それは冬眠をしていた生物が動き初め、人の生活にも新しい希望と活力がもたらされる時期だからです。
またこの日の前後に、家族でご先祖様のお墓参りに行く習慣もあります。
清明せいめい
4月5日頃
清明とは「清浄明潔」の略で「万物ここに至りて皆潔斎にして清明なり」という意味があります。間単にいえば「満開の桜をみると、全てのモノが生き生きしているように見えるなぁ。さあ、花見だ!」ということでしょうか。
この頃南の地方には、越冬のためツバメが渡ってくるようです。
穀雨こくう
4月20日頃
穀雨とは、春の雨が全ての穀物を潤すという意味です。
農業を営む人は、この時期に種まきをすると植物の成長に欠かせない雨に恵まれるといわれています。
【日本文化いろは事典より】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年03月01日
梅
梅(英:Japanese apricot)

別名に好文木(こうぶんぼく)、春告草(はるつげぐさ)、木の花(このはな)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、匂草(においぐさ)などがある。
江戸時代以降、花見といえばもっぱらサクラの花を見ることとされている。しかし奈良時代以前に「花」といえば、むしろウメを指すことの方が多かった。ウメよりサクラがより愛好されはじめるのは、平安時代中頃からのことである。
「ウメ」の語源には諸説ある。ひとつは中国語の「梅」(マイあるいはメイ)の転という説で、伝来当時の日本人は、鼻音の前に軽い鼻音を重ねていた(現在も東北方言などにその名残りがある)ため、meを/mme/(ンメ)のように発音していた、これが「ムメ」のように表記され、さらに読まれることで/mume/となり/ume/へと転訛した、というものである。今日でも「ンメ」のように発音する方言もまた残っている。
家紋
梅紋(うめもん)は、ウメの花を図案化した日本の家紋である。その一種で「梅鉢(うめばち)」と呼ばれるものは、中心から放射線状に配置した花弁が太鼓の撥に似ていることに由来している。奈良時代に文様として用いられはじめ、菅原道真が梅の花を好んだことにより天満宮の神紋として用いられ始めたと考えられている。

【 Stabat Mater (聖母哀傷) 】動画
● キャプチャソフト : Fraps3 / HD youtube動画
● 撮影時期 : 2010年7月
● 撮影場所 : Neptune Tokyo

別名に好文木(こうぶんぼく)、春告草(はるつげぐさ)、木の花(このはな)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、匂草(においぐさ)などがある。
江戸時代以降、花見といえばもっぱらサクラの花を見ることとされている。しかし奈良時代以前に「花」といえば、むしろウメを指すことの方が多かった。ウメよりサクラがより愛好されはじめるのは、平安時代中頃からのことである。
「ウメ」の語源には諸説ある。ひとつは中国語の「梅」(マイあるいはメイ)の転という説で、伝来当時の日本人は、鼻音の前に軽い鼻音を重ねていた(現在も東北方言などにその名残りがある)ため、meを/mme/(ンメ)のように発音していた、これが「ムメ」のように表記され、さらに読まれることで/mume/となり/ume/へと転訛した、というものである。今日でも「ンメ」のように発音する方言もまた残っている。
家紋
梅紋(うめもん)は、ウメの花を図案化した日本の家紋である。その一種で「梅鉢(うめばち)」と呼ばれるものは、中心から放射線状に配置した花弁が太鼓の撥に似ていることに由来している。奈良時代に文様として用いられはじめ、菅原道真が梅の花を好んだことにより天満宮の神紋として用いられ始めたと考えられている。

【 Stabat Mater (聖母哀傷) 】動画
● キャプチャソフト : Fraps3 / HD youtube動画
● 撮影時期 : 2010年7月
● 撮影場所 : Neptune Tokyo
2011年02月28日
三月

日本では、旧暦3月を弥生(やよい)と呼び、現在でも新暦3月の別名としても用いる。弥生の由来は、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力です。
異名
かげつ(花月)、きしゅん(季春)、くれのはる(晩春)、けんしんづき(建辰月)、さくらづき(桜月)、さはなさきつき(早花咲月)、さんげつ(蚕月)、しゅくげつ(宿月)、とうげつ(桃月)、はなみづき(花見月)、はるをしみつき(春惜月)、ばんしゅん(晩春)、ひいなつき(雛月)、やよい(弥生)、ゆめみづき(夢見月)
日本では年度替り(主に会計年度や学年)の時期として有名である。月を通して卒業式や送別会が行われ、出会いと別れの時期でもある。また、春休みに該当する当月末には、人事異動が行われたり、多くの学校・会社・官公庁などが引越しや移行作業、新生活の始まりなどで忙しくなる。
ヨーロッパ諸言語での呼び名であるmars,marzo,Marchなどはローマ神話のマルス (Mars) の月を意味するMartiusから取ったもの。古代ローマの暦(ユリウス暦より前)においては、年の最初の月は現在の3月にあたる。閏年の日数調整を2月に行うのは、当時の暦での最後の月に日数調整を行っていたことの名残である。
3月はその年の11月と同じ曜日で始まり、平年には2月と同じとなる。
誕生石 - アクアマリン、ブラッドストーン、コーラル(珊瑚)
星座 - 魚座(3月20日頃まで)、牡羊座(3月21日(春分)頃から)
誕生花 - サクラ、スイートピー、チューリップ

【 Stabat Mater (聖母哀傷) 】動画
● キャプチャソフト : Fraps3 / HD youtube動画
● 撮影時期 : 2010年7月
● 撮影場所 : Neptune Tokyo
2011年02月23日
雛祭り(2)
「雛人形」は、宮中の殿上人の装束(平安装束)を模している。

雛人形の種類
親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす。
官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し
(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である
(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)
随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある。
仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である。
配置
内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
飾り方
御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
御殿の内の一室を拝しての飾り方
屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
雛人形の種類
親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす。
官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し
(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)
五人囃子は能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大鼓」「小鼓」「笛」「謡」である
(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)
随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある。
仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である。
配置
内裏雛や人形の配置に決まりごとはない。しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。
飾り方
御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
御殿の内の一室を拝しての飾り方
屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。 また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」という、躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年02月22日
雛祭り(1)
和暦(太陰太陽暦)の3月の節句である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし一部では引き続き旧暦4月3日に祝うか、新暦3月3日に祝う(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。旧暦では桃の花が咲く季節になるため「桃の節句」となった。

雛祭りの歴史
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
※雛祭りが祝日でない理由※
江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】

雛祭りの歴史
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
※雛祭りが祝日でない理由※
江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。【雛祭りwiki】

撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】
2011年01月11日
鏡開き
【 鏡開き 】
鏡開き(かがみびらき)・鏡割り(かがみわり)とは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げ、雑煮や汁粉で食べる行事である。年中行事のひとつです。(wikiより)

正月十一日には、飾ってあった鏡もちを開く鏡開きが行なわれる。元来が武家社会の風習で「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」とし、ハッカが刃柄と通じるところから、二十日に行なわれてきた。それが十一日に行なわれるようになったのは、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を忌日として避けて十一日になったといわれている。
正月中に重々しく飾られていた鏡もちを割るということは、大正月の終わりと、その年の仕事始めを意味する。武士は、具足櫃(ひつ)開きをし、主家の鏡もちを君臣ともども分け合って主従固めをし、商家では、蔵開きをし、農村では田打ち正月をして、一年の出発とした。
鏡もちは一月十日まで飾って、十一日に飾りをとくと同時にもちを食べるのがしきたりであるが、20日の小豆粥(あずきがゆ)に入れることもある。
武家の風俗が始まりであっただけに、切るをきらって、包丁などの刃物で切るのは禁物で、手で割り砕くか、金づちで割り開くようにする。歳神へのお供え物をいただくことによって、一年の一家一族の無事息災が約束されるという意味もあり、また食べ物をたいせつにする心がけを見ることもできる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
鏡開き(かがみびらき)・鏡割り(かがみわり)とは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げ、雑煮や汁粉で食べる行事である。年中行事のひとつです。(wikiより)

正月十一日には、飾ってあった鏡もちを開く鏡開きが行なわれる。元来が武家社会の風習で「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」とし、ハッカが刃柄と通じるところから、二十日に行なわれてきた。それが十一日に行なわれるようになったのは、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を忌日として避けて十一日になったといわれている。
正月中に重々しく飾られていた鏡もちを割るということは、大正月の終わりと、その年の仕事始めを意味する。武士は、具足櫃(ひつ)開きをし、主家の鏡もちを君臣ともども分け合って主従固めをし、商家では、蔵開きをし、農村では田打ち正月をして、一年の出発とした。
鏡もちは一月十日まで飾って、十一日に飾りをとくと同時にもちを食べるのがしきたりであるが、20日の小豆粥(あずきがゆ)に入れることもある。
武家の風俗が始まりであっただけに、切るをきらって、包丁などの刃物で切るのは禁物で、手で割り砕くか、金づちで割り開くようにする。歳神へのお供え物をいただくことによって、一年の一家一族の無事息災が約束されるという意味もあり、また食べ物をたいせつにする心がけを見ることもできる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月08日
干支(えと)

干支(えと)」とは、正確には「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせです。今年の場合、十干は「辛(かのと)」、十二支はご存知の「卯」なので、干支は「辛卯(かのとう・しんぼう)」となります。今では、干支(えと)といえばネズミ、トラ、ウサギなどの十二支、と思うほうが話が通じやすくなっています。
十干(じっかん)
干支(えと)の「干」は「十干」のことで、以下の10種類です。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
<日本語の読み>
甲:きのえ、乙:きのと、丙:ひのえ、丁:ひのと、戊:つちのえ、
己:つちのと、庚:かのえ、辛:かのと、壬:みずのえ、 癸:みずのと、
<音読み>
甲:こう、乙:おつ、丙:へい、丁:てい、戊:ぼ、
己:き、庚:こう、辛:しん、壬:じん、 癸:き、
十干は、陰陽五行説に基づいて「木・火・土・金・水」の五行と、「陰・陽」の「兄(え)・弟(と)」に分けたものです。
木(き)は甲・乙、火(ひ)は丙・丁、土(つち)は戊・己、金(かね)は庚・辛、水(みず)は壬・癸。木は、陽である甲が「木の兄(きのえ)」、陰である乙が「木の弟(きのと)」、火は、陽である丙が「火の兄(ひのえ)」。
※「兄(え)」の年と「弟(と)」の年が交互に繰り返していくことから「えと」と呼ばれるようになったといわれます。
十二支(じゅうにし)
干支(えと)の「支」は「十二支」のことで、以下の12種類です。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
<日本語の読み>
子:ね、丑:うし、寅:とら、卯:う、辰:たつ、巳:み、
午:うま、未:ひつじ、申:さる、酉:とり、戌:いぬ、亥:い、
<音読み>
子:し、丑:ちゅう、寅:いん、卯:ぼう、辰:しん、 巳:し、
午:ご、未:び、申:しん、酉:ゆう、戌:じゅつ、亥:がい、
古代中国で、天球を約12年で1周する木星の運行を目安として、12の方角に分けて名前を付け、1年12ヶ月の暦をあらわしたのが十二支の成立であるといわれます。
十二支にも陰・陽があり、「子・寅・辰・申・午・戌」が陽、「丑・卯・巳・未・酉・亥」は陰で、陰陽が交互に割り当てられています。
【 十二支の動物に関しての逸話 】
そのいきさつとしては次の2通りの逸話がある。
お釈迦様のもとに新年の挨拶に来た順番に動物を割り当てた。
十二支の動物を指定日に挨拶に来た順番に決定する、というお釈迦様の招集により集まった。
そして次のような結果がもたらされたという話になっている。
牛は足が遅いので早めに行ったものの、一番乗りしたのは牛の背中に乗っていた鼠だった。
鶏が猿と犬の間になったのは仲の悪い両者を仲裁していたため。
鼠は猫に挨拶に行く日を尋ねられた際に嘘をつき、実際よりも一日遅い日を教えたため、猫は十二支に入ることができなかった。それを根に持った猫は鼠を追いかけるようになった。
猫は鼠の嘘を信じて一日遅れて挨拶に行ったため、お釈迦様から「今まで寝ていたのか。顔を洗って出直して来い。」と言われ、それからよく顔を洗うようになった。
13番目であったために十二支に入れなかったイタチをかわいそうに思ったお釈迦様は、毎月の最初の日を「ついたち」と呼ぶことにした。ただし実際の「ついたち」の語源はこの逸話からではない。また、13番目の動物はカエルやシカであったという逸話もある。
干支(えと)
十干と十二支を組み合わせたものが本来の「干支」です。
十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」の組み合わせ「甲子(きのえね)」から始まり、「乙丑」「丙寅」「辛卯」・・・と続き、「癸亥(みずのとい)」まで60種類あります。干支がひとまわりして同じ干支が巡ってくると「還暦」です。
※「壬申の乱」「戊辰戦争」「辛亥革命」など、歴史上の大事件の呼び方に干支が使われています。

【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷
2010年12月27日
除夜の鐘

除夜の鐘(じょやのかね)は、日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つ。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞(つ)くことを言う。
神社画像【堺 大神稲荷】
::108つの由来::
除夜の鐘は108回撞かれる。この「108」という数の由来については次のような複数の説がある。
1. 煩悩の数を表す
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表す。
2. 一年間を表す
月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。
3. 四苦八苦を表す
四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている。
除夜の鐘を聞きながら1年を振り返り、良い年をお迎え下さい。

◆ 今年撮影・編集した動画 ◆
MIlkyMIHIME 2010年8月舞姫夏祭のイメージ動画
撮影場所: MlkyHouse 舞姫御殿上空
撮影時期: 2010年8月
2010年12月26日
年越しそば
年越ししそば とは、大晦日(12月31日)に縁起を担いで食べられる蕎麦で、歳末の日本の風物詩である。地域によって違いもあり、各地の年越し蕎麦参照)呼び方もみそか蕎麦、大年そば、つごもり蕎麦、また、大晦日蕎麦、年取り蕎麦、年切り蕎麦、縁切り蕎麦、寿命蕎麦、運蕎麦、福蕎麦、思案蕎麦と多くある。
年越しそばは江戸時代辺りから定着したようです。
年越しそばを食べて、この不景気を来年は好景気に変えましょう。

◆そばは長く伸びるので延命長寿や身代が細く長くのびるようにと願う、形からきた説。「寿命そば」「のびそば」などとも言う。場所によってはそばに限らず、細長いものならなんでもいいという所もあります。
◆金銀細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を使うために、金を集める縁起で始まったという説。そば粉は水に溶けるため、そば粉を水で練り金粉に押し付けて金粉を集め、水につけると金粉だけが底に沈むのでそば粉が使われました。
以上の2つがよくいわれていることです。他にも、鎌倉時代、博多の承天寺で年の瀬を越せない町人に「世直しそば」と言って、そば餅を振る舞った所、次の年から皆運が向いてきたため、大晦日に「運そば」を食べる習慣が生じたとする説。「運気そば」「福そば」とも言います。
◆室町時代、関東三長者の一人増渕民部が毎年の大晦日に1年の無事息災を祝い「世の中にめでたいものは蕎麦の種、花咲き実り、みかどおさまる」と歌い、家人ともどもそばがきを食べたのがおこりとする三角(みかど)縁起説。そばの実が三角形をしている事と帝をかけています。
・そばは切れ易いから、旧年の労苦や災厄をきれいさっぱり切り捨てようと「縁切りそば」「年切りそば」と言う説。
・一年中の借金を打ち切る意味で「借銭切り」「勘定そば」といい、必ず残さずに食べなければいけないと言う説。縁起をかつぐ地方では太く長かれと「運どん(うどん)」を食べる所もあります。
・「本朝食鑑」に「蕎麦は気を降ろし腸を寛し、能く腸胃の滓穢積滞を練る」とあり、新陳代謝により体内を清浄にして新年を迎えるという蕎麦効能説。ネギを添えるのも、清め祓う(はらう)神官の禰宜(ねぎ)に通じるからといいます。
・ソバは少々の風雨に当たっても、翌日陽がさせばすぐ起き直ります。それにあやかって、来年こそはと、捲土重来を期して食べるという説。又、旧年を回顧し反省する「思案そば」という説。

神社画像【堺 大神稲荷】
◆ 今年撮影・編集した動画 ◆
Stabat Mater (聖母哀傷)
撮影場所: Neptune Tokyo
撮影時期: 2010年7月
※ 今年の干支の寅(小虎)を使っての動画です。
年越しそばは江戸時代辺りから定着したようです。
年越しそばを食べて、この不景気を来年は好景気に変えましょう。

◆そばは長く伸びるので延命長寿や身代が細く長くのびるようにと願う、形からきた説。「寿命そば」「のびそば」などとも言う。場所によってはそばに限らず、細長いものならなんでもいいという所もあります。
◆金銀細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を使うために、金を集める縁起で始まったという説。そば粉は水に溶けるため、そば粉を水で練り金粉に押し付けて金粉を集め、水につけると金粉だけが底に沈むのでそば粉が使われました。
以上の2つがよくいわれていることです。他にも、鎌倉時代、博多の承天寺で年の瀬を越せない町人に「世直しそば」と言って、そば餅を振る舞った所、次の年から皆運が向いてきたため、大晦日に「運そば」を食べる習慣が生じたとする説。「運気そば」「福そば」とも言います。
◆室町時代、関東三長者の一人増渕民部が毎年の大晦日に1年の無事息災を祝い「世の中にめでたいものは蕎麦の種、花咲き実り、みかどおさまる」と歌い、家人ともどもそばがきを食べたのがおこりとする三角(みかど)縁起説。そばの実が三角形をしている事と帝をかけています。
・そばは切れ易いから、旧年の労苦や災厄をきれいさっぱり切り捨てようと「縁切りそば」「年切りそば」と言う説。
・一年中の借金を打ち切る意味で「借銭切り」「勘定そば」といい、必ず残さずに食べなければいけないと言う説。縁起をかつぐ地方では太く長かれと「運どん(うどん)」を食べる所もあります。
・「本朝食鑑」に「蕎麦は気を降ろし腸を寛し、能く腸胃の滓穢積滞を練る」とあり、新陳代謝により体内を清浄にして新年を迎えるという蕎麦効能説。ネギを添えるのも、清め祓う(はらう)神官の禰宜(ねぎ)に通じるからといいます。
・ソバは少々の風雨に当たっても、翌日陽がさせばすぐ起き直ります。それにあやかって、来年こそはと、捲土重来を期して食べるという説。又、旧年を回顧し反省する「思案そば」という説。

神社画像【堺 大神稲荷】
◆ 今年撮影・編集した動画 ◆
Stabat Mater (聖母哀傷)
撮影場所: Neptune Tokyo
撮影時期: 2010年7月
※ 今年の干支の寅(小虎)を使っての動画です。
2010年12月25日
大晦日
1年の最後の日を「大晦日〔おおみそか〕」または「大晦〔おおつごもり〕」とも呼びます。「晦日〔みそか〕」とは毎月の末日のことです。一方「晦〔つごもり〕」とは、"月が隠れる日"すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。"1年の最後の特別な末日"を表すため、末日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。
神社画像【堺 大神稲荷】
12月31日「大晦日」には1年の間に受けた罪や穢れ〔けがれ〕を祓うために、大祓い〔おおはらい〕が宮中や全国の神社で執り行われます。仏教色が強い夏のお盆に対して、正月の行事の1つである大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀る意味を強く感じます。
昔、1日は夜から始まり朝に続くと考えられていたため、大晦日は既に新しい年の始まりでした。そのため、この日に縁起物であるお頭〔かしら〕付の魚を用いた正式な食事やお雑煮などを家族揃って食べるなどします。これを「年越し」「年取り」といいます。年越しの夜は除夜〔じょや〕ともいいます。かつて、除夜は歳神様を迎えるため一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、シワが寄るなどの俗信がありました。
大晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。本来大晦日は歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
大晦日の風物詩である年越し蕎麦〔としこしそば〕は江戸時代頃から食べられるようになりました。金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を使ったことから、年越し蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないと言われています。
また、江戸時代の町人は大晦日になると借金の返済に追われていました。これは、年内に借金を返済し、新しい気持ちで新年を迎えたいという人が多かったからです。現代でもそれにならってか、決算を3月ではなく12月にする企業が多いようです。
大晦日の夜ふけに、全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」といいます。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味しています。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと言うわけです。また、108回のうち最後の1回は年が明けてから突きます。これは、今年1年煩悩に惑わされないように、という意味が込められているそうです。

◆ 今年撮影・編集した動画 ◆
舞姫夏祭 - 座天舞 - 和楽器奏舞 『凛』 【Image】
撮影時期 2010年8月
撮影場所 Milkyhouse-SIM 舞姫御殿
神社画像【堺 大神稲荷】
12月31日「大晦日」には1年の間に受けた罪や穢れ〔けがれ〕を祓うために、大祓い〔おおはらい〕が宮中や全国の神社で執り行われます。仏教色が強い夏のお盆に対して、正月の行事の1つである大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀る意味を強く感じます。
昔、1日は夜から始まり朝に続くと考えられていたため、大晦日は既に新しい年の始まりでした。そのため、この日に縁起物であるお頭〔かしら〕付の魚を用いた正式な食事やお雑煮などを家族揃って食べるなどします。これを「年越し」「年取り」といいます。年越しの夜は除夜〔じょや〕ともいいます。かつて、除夜は歳神様を迎えるため一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、シワが寄るなどの俗信がありました。
大晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。本来大晦日は歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
大晦日の風物詩である年越し蕎麦〔としこしそば〕は江戸時代頃から食べられるようになりました。金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を使ったことから、年越し蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないと言われています。
また、江戸時代の町人は大晦日になると借金の返済に追われていました。これは、年内に借金を返済し、新しい気持ちで新年を迎えたいという人が多かったからです。現代でもそれにならってか、決算を3月ではなく12月にする企業が多いようです。
大晦日の夜ふけに、全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」といいます。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味しています。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと言うわけです。また、108回のうち最後の1回は年が明けてから突きます。これは、今年1年煩悩に惑わされないように、という意味が込められているそうです。

◆ 今年撮影・編集した動画 ◆
舞姫夏祭 - 座天舞 - 和楽器奏舞 『凛』 【Image】
撮影時期 2010年8月
撮影場所 Milkyhouse-SIM 舞姫御殿
2010年12月24日
日本のクリスマス

【12/22 みるきー舞姫本拠地 MilkyHouse御殿開催時のパネル】

『 日本のクリスマスの歴史・行事 』
明治維新以前
1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスである。しかし、その後江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまでまったく受け入れられることはなかった。
明治時代
日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、その頃からクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。
大正時代
大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の十二月号には、表紙をはじめとしてクリスマスにまつわる話や挿絵がたくさん導入された。1925年(大正14年)に日本で初めてクリスマスシール(結核撲滅の寄付切手)が発行される。
昭和(戦前)
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、昭和時代が幕を開けた。当時の法律「休日ニ関スル件」では先帝崩御日を休日と定めていたため、クリスマスの習慣が広く普及したとされる。1948年(昭和23年)に「国民の祝日に関する法律」が施行されると休日ではなくなった。
1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた。
昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えた。この様子を1931年(昭和6年)12月12日の都新聞は、「七千四百余のカフェと二千五百余の喫茶店に華やかにクリスマスが訪れサンタ爺さん大多忙を来たす」と報じた。
昭和(戦後)・平成
現代の日本ではクリスマスは年中行事として定着した。商業施設では早いところは11月上旬からクリスマスツリーが飾られ、クリスマスセール等が行われる。店内にはクリスマスソングが流れ、洋菓子店ではクリスマスケーキが販売される。街中では街路樹に豆電球(近年は省エネに配慮してLED照明)が飾り付けられる(イルミネーション)。庭のある家庭では、庭木などに電飾を施すこともある。商業施設などの場合、12月24日のクリスマス・イブにイベントなどを開くことがある。
イギリスおよび英連邦諸国では12月26日に使用人や配達人などにプレゼントを渡すボクシング・デーがあり、1月6日までをクリスマス期間ともしているのに対して、日本では12月25日を過ぎるとクリスマスの飾りが一転して門松などの正月飾り(日本の神道式)に付け替えられたり、小売店などでも正月準備用や大掃除用商品の陳列・販売が中心となる、BGMも「お正月」が流れる、という点が特異である。近年ではカウントダウンイベントが盛んになる12月31日深夜までイルミネーションがそのままにされているところも出てきている。

みるきー舞姫 11月公演 『 不夜城 イメージ 』動画