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2011年08月11日

盆踊り



本来の盆踊りはお盆にかえってきた祖霊を慰める霊鎮めの行事です。念仏踊りから 踊り念仏に発展した民族芸能が盂蘭盆(うらぼん)と結びつき、精霊を慰めたり送り出すための行事になりました。15日の晩に盆踊りをし、16日に精霊送りをするのもそのためです。

盆踊りには娯楽的な要素もあります。地域の結びつきを深め、帰省した人々の再会の場や、男女の出会いの場でもありました。盆踊りの歌詞に色恋ものやきわどい内容が多いのはそのためで、人々は年に一度の盆踊りに様々な思いを託しました。本来、盆踊りの晩(旧暦7月15日)は満月ですから、照明のない時代でも明るく過ごせ、月の引力の影響で人も高揚するため、盆踊りに最適だったのです。



盆踊りは、祖霊になった人々との別れを惜しむ踊りであり、人の出会いや別れとともに過ぎ行く夏を惜しむ踊り。子供達は無邪気にはしゃぎ、大人達は様々な思いを胸に踊ります。そのためでしょうか、楽しいだけではなくなぜか切なさを感じます。

ほとんどの盆踊りは、手の動きよりも足の動きを重視しています。これは、足・下半身の跳躍運動が神送りの意味をもつためで、天地の間にいる人間が地を踏むという動作には、霊を封じ込める鎮魂の意味があります。「踊」という字も足偏ですね。ちなみに、神迎えは手を重視した「舞」になります。
盆踊りの振り付けは浴衣が基本なので、洋服よりも浴衣で踊ったほうが美しく映えます。着ている本人も気分が出ますし、見ているほうも楽しい。ぜひ袖を通してください。

JAPAN GRAFFITI Sakai1574(堺)着物通りにある「杏子屋」さんのLB浴衣


次回、みるきー舞姫の(第二回目)の公演の日は、8月21日(日)となります。

”闇に舞い、光を解き放て”


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 告知動画 】


  


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2011年08月10日

お盆

お盆の正式名称は[盂蘭盆会・うらぼんえ]と言います。先祖の精霊を迎え追善の供養をする期間を「お盆」と呼びます。


古くからの農耕儀礼や祖霊祭祀などが融合して伝えられてきたのが日本のお盆です。
お盆の習わしも、地域や宗教・宗派によって、あるいは時代によって、 さまざまに形を変えながら伝えられてきました。 その意味では、これが絶対に正しいという決まりはありません。
しかし、親族が一堂に会し、先祖や故人を偲び、今日ある自分をかえりみるという、 お盆の根幹をなす理念は、千古の昔から変わらないものだといっていいでしょう。

江戸の時代、お正月とお盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称しました。当時は、仕事を見習うために、職人・商人ともに、十三・四歳頃から師匠や商家を選んで丁稚奉公にでたものです。丁稚たちは例年、正月の薮入りに主人から衣類万端与えられ、小遣いをもらって親許へ帰ります。

日本の「お盆」は、仏教の盂蘭盆(ウランバナ)が藪入り(やぶいり)に結びついて、現代に伝えられたものです。先祖の霊が帰ってくる日ということで、親戚一同が集まってお迎えし供養します。故郷を離れている人も帰郷する人も多いことでしょう 。日本のお盆行事は、家族や一族があつまりご先祖を供養し、亡くなられた人をしのぶ行事として行なわれます。家族や一族が集まり、故人の思い出を語り合うことは大変に意義ある素晴らしい風習であると思います。

お盆の日にちは地方によって異なります。
東京など都市部では、7月13日~16日(4日間)に行うことが多いようです。
地方では、8月13日~16日(4日間)
※日付に関しては始めと終わりが多少異なることはあっても15日を含むことは変わりがありません。

● 迎え火 :盆の入り(13日)の夕方、家の前で火を焚き祖先の霊を迎える。これが迎え火。
迎え火の変形として有名なのが盆提灯です。門前に吊された提灯は、祖霊がやってくるための目印であり、またその家の中に祖霊が滞在しているしるしであるとされ鎌倉時代からこの盆提灯の風習は行われています。
● 送り火 :家に迎えた精霊を今度は送り火をたいてお墓に帰っていただきます。迎え火をたいた同じ場所で16日(又は15日)オガラをつみ重ねて送り火をたきます。京都の夜を美しく彩る大文字焼はこの送り火の名残であるとされます。精霊流しや灯籠流しなどで霊を迎えたり送ったりする地方や宗派もあります。
※ 夏祭りのメインイベントの打ち上げ花火は元来、精霊送りの行事であったとされています。

次回、みるきー舞姫の(第二回目)の公演の日は、8月21日(日)となります。

”闇に舞い、光を解き放て”


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 告知動画 】


  


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2011年08月02日

土用

土用 とは、 立春(2月4日頃)立夏(5月5日頃)立秋(8月7日頃)立冬(11月7日頃)の前18日間を言います。それぞれ、立春前の「冬の土用」が1月17日頃、立夏前の「春の土用」が4月17日頃、立秋前の「夏の土用」が7月20日頃、立冬前の「秋の土用」が10月20日頃から始まります。その中でも、現在は「夏の土用」の間の丑の日にうなぎを食べる「土用の丑〔うし〕」という行事が有名です。


土用には様々な禁忌〔きんき〕があります。例えば土用中に土を犯すことは忌むべきこととされていたため、土いじりをしてはいけない、丑の日に大根の種をまいてはいけない、葬送は延期しなければならないなどの禁忌が設けられていました。
これら土用にまつわる禁忌が生み出された背景には「土用中は季節の変わり目であるために、農作業などの大仕事をすると体調が崩れやすい」などの、先人の戒めが込められているといいます。

【 土用を作った陰陽五行説 】
古来中国から伝わった陰陽五行説では、すべての事象を木・火・土・金・水の5つに分類して世界を考えます。五行説では春は「木気」夏は「火気」秋は「金気」冬は「水気」と割り当てていました。しかし、これでは五行説の重要な構成要素の「土気」がどこにも分類されないことになります。そこで、季節の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の前18日間を「土気」に分類し「土用」と呼ぶようになったようです。

【 土用の丑の日のうなぎ 】


現在は立秋の前に訪れる夏の土用が私たちには最も馴染み深い土用と言えるでしょう。夏の土用の丑の日にはうなぎを食べる習慣があります。この習慣には面白い由来があります。一説では江戸時代、夏になると暑くてうなぎが売れず困っていたうなぎ屋が学者である平賀源内〔ひらがげんない〕に相談したところ、源内が「今日はうなぎの日です(うなぎを食べよう)」という張り紙を店の前に張り出したことで、うなぎが飛ぶように売れたそうです。これがきっかけとなり、現在も夏の土用の丑の日にはうなぎを食べると言いますが、詳しい事は分かっていません。
また、地方によってはうなぎに限らずその他の「う」のつく食べ物を食べる習慣もあります。これには夏バテ対策として、スタミナのある「馬(肉)」や「牛(肉)」、また胃に優しい「瓜」「うどん」「梅干」などが選ばれているようです。
年によっては夏の土用の間に丑の日が2度訪れることもあり、この場合は2度目の丑の日を「二の丑」と呼びます。

 みるきー舞姫 2011年夏公演ご案内 動画 】

== MOD女陰陽師 ==

※ 詳細: みるきー舞姫ブログより


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約1分10秒


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2011年08月01日

入道雲

入道雲、雷雲等と呼ばれる対流雲。夏を感じさせる雲


入道雲は強い上昇気流が生じているところ、空気中の水蒸気が多いところに発生します。
晴れていて強い日光で地面が暖められている夏の日中に下層の空気と上層の空気の温度差が大きくなってできる雲ということになります。
高さは高いもので10kmにもなります。また、水蒸気を多く含む雲ですから当然大雨を降らせる雲です。
また、強い上昇気流のために強い電気が生じるために雷も発生させます。一般的に夏の雲と思われがちですが、冬にも発生することがあります。
大陸の冷たい空気が日本海に流れ込み、その海上に発生します。この入道雲は日本海側に大雪をもたらします。 


激しい雷雨をもたらす雲ですが、やはりこの雲を見ないと夏という気がしません。



『 みるきー舞姫 2011年夏公演のご案内  -動画- 』


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2011年07月30日

八月

日本では、旧暦8月を葉月(はづき)と呼び、現在では新暦8月の別名としても用います。


木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」「葉月」であるという説が有名です。他には、稲の穂が張る「穂張り月(ほはりづき)」という説や、雁が初めて来る「初来月(はつきづき)」という説、南方からの台風が多く来る「南風月(はえづき)」という説などがあります。また、「月見月(つきみづき)」の別名もあります。

八月の暮らし
暑中見舞い(7日まで)・残暑見舞い(8日~8月末まで)・紫外線対策・海水浴・花火大会・お墓参り・夏バテ対策・台風の備え
夏休み・旅行・浴衣・簾(すだれ)・籐枕・風鈴・かき氷・夏祭り・盆踊り・帰省・葦簣(よしず)・冷奴・麦茶・扇子・水羊羹・打ち水・ビール・そうめん・鵜飼・蝉・日傘・氷菓・蝉しぐれ・精進料理

八月の自然
入道雲・雲の峰・山滴る・残暑・夕立ち・土用波

八月の花
向日葵(ひまわり)・月見草・朝顔(あさがお)・百日草・山百合・銭葵(ぜにあおい)・りんどう・詰草(しろつめくさ)

誕生石 - サードニクス、ペリドット
星座 - 獅子座(8月22日頃まで)、おとめ座(8月23日頃から)
誕生花 - ヒマワリ、ユリ


『 みるきー舞姫 2011年夏公演のご案内  -動画- 』



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2011年07月08日

ほおずき市


7月9、10の両日、東京都台東区の浅草寺で行われるホオズキの市。


赤く実りかけたホオズキの鉢植えが境内に並べられ、参拝客に販売されます。
ほおずき市は、観音信仰と関連が深い。古来、毎月18日は「仏様と特別なご縁のある日」という意味を込めて「縁日」と呼ばれ、この日に参拝すると、大きな功徳があるとされています。
室町時代以降、これとは別に「功徳日」という縁日が毎月1回新たに設けられ、この日の参拝は何百日、何千日分ものお参りに相当すると言われてきました。特に7月10日は、4万6千日分の参拝効果があるとされており、江戸時代ごろから参拝が盛んになっていきました。また、前日の9日から意気込んだ人々が寺を訪れるようになったことから、9、10日の2日間が4万6千日の縁日とみなされるようになりました。


このような大きな縁日には、必ずと言っていいほど参拝客目当ての市が立ちます。ほおずき市もそんな市の1つだが、ホオズキはもともと、薬草として東京都港区にある愛宕(あたご)神社の千日参りの縁日で売られていました。ホオズキを煎(せん)じてのむと、子どものかんの虫や女性の癪(しゃく)によく効くと言われており、これを参拝土産に持ち帰るのが通例でした。
やがてこれが浅草寺に波及し、愛宕神社をしのぐ活況を呈するようになったのがいまのほおずき市です。千日参りと4万6千日の参拝とが同じような意味を持っていたことや、明治以前の日本では神仏習合の信仰が一般的だったことが、このような市が神社から寺へとすんなり伝わった背景だと考えられています。
ほおずき市は、浅草寺のほか、都内各地の寺社で開かれているが、浅草寺の市が最も有名。毎年200もの露店が境内に軒を連ね、威勢のよいかけ声とともにホオズキの鉢が売られます。ちょうど梅雨が終わりに近づく時期であり、鉢に付けられた風鈴が涼しげに鳴ることから、江戸の夏の風物詩と言われています。

MOD女陰陽師 【告知動画】 みるきー舞姫

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2011年07月04日

天の川


天の川あるいは天の河(あまのがわ、あまのかわ)は、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯。


東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ています。
ギリシャ神話では、これを乳と見ています。それが継承され英語圏でもMilkyWay(ミルキーウェイ)と言うようになりました。
この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っています。
日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来ます。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見えます。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになります。
現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり天の川銀河を指すこともあります。

【 東アジアの神話  】
●中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川です。
二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになりました。
●『西遊記』の猪八戒は、玉帝より天蓬元帥職を任され、天の川の管理をしていたことになっています。
●日本では『万葉集』において、大伴家持の歌に、天漢(あまのがわ)とも記されています。
(天の川wikiより)


【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】

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2011年07月02日

七夕

旧暦7月を文月(ふみづき、ふづき)と呼び、現在では新暦7月の別名としても用います。文月の由来は、7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからというのが定説となってます。しかし、七夕の行事は奈良時代に中国から伝わったもので、元々日本にはないものです。そこで、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあります。また、「秋初月(あきはづき)」、「七夜月(ななよづき)」の別名もあります。


七夕(たなばた、しちせき)は、日本・中国・ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことです。

※ 7月7日晴れ

【 織女星と牽牛星の伝説 】
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られています。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めました。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなります。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しましたが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名があります。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれています。

古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話ですが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至りました。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となりました。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』があります。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっています。

風習としては、全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われています。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られません。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいいます。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるします。


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2011年06月17日

神戸海軍操練所

1864年6月17日(元治元年5月14日) - 江戸幕府が神戸海軍操練所を開設。


明治維新の中心人物として幕末の志士たちに大きな影響を与えた勝海舟(かつかいしゅう)は、神戸を拠点に壮大な構想を実現させようとしました。

1863年(文久3年)、鎖国政策の崩壊により海防の必要性が高まっていた折、勝海舟は神戸に海軍操練所(かいぐんそうれんしょ)の設立を提案しました。これは海軍兵学校と海軍機関学校を兼ねたものであり、日本に欧米と肩を並べる海軍を建設するための足がかりを作ろうとしたのです。勝が神戸を選んだ理由は、江戸時代の末期に網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が築いた「船たで場(ふなたでば)」(船底に付いた貝殻や船虫などを焼くための施設、現在の「ドッグ」に相当する)の設備を利用できると考えたからでした。

翌年の1864年(元治元年)から勝は生徒の募集をはじめますが、幕府に反対する者でも入所を認めたことが問題となり、わずか1年で操練所は閉鎖されてしまいます。操練所の開所期間は非常に短かったものの、その間に坂本龍馬・陸奥宗光(むつむねみつ)など新しい時代を担う人々を育て、日本の海軍の歴史にも大きな足跡を残しました。海軍操練所跡は現在の中央区新港町にあり、錨(いかり)の形をした記念碑が建っています。


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2011年06月15日

時の記念日

すでに5日前のお話ですが、6月10日は「時の記念日」でした。


天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、この日が時の記念日に制定されました。制定は大正9年のことです。もっとも、日本書紀によれば漏刻は実は斉明天皇6年5月に皇太子(天智天皇、当時は中大兄皇子)の命により既に設置されていました。しかしその日付が不明であるため、日付の明確な天智天皇10年の方が採用されています。
※ 水時計(みずどけい)とは、容器に水が流入(流出)するようにして、その水面の高さの変化で時をはかる時計のこと。東洋(中国由来)のものは漏刻(ろうこく)ともいいます。


大雑把な目安しか提供できない日時計に比べて水時計はどうしても精密な時刻を測ることができるものとして重用されましたが、その発明は古く、BC16世紀にはエジプトで既に使用されていた記録が残っています。


天智天皇の時代にこの水時計の管理をしていたのは陰陽寮の漏刻博士たちで二人で交替で水の量をチェックして鐘や太鼓で時報を鳴らしていました。
たいへん重要な役目ですので、居眠りしたり遅刻した場合の罰は出勤停止・罷免など、たいへん厳しいものであったようです。


昔の中国がシナとよばれていた時代には、垂直(すいちょく)な柱の影の長さを測って、その影が一番長くなる日を冬至と決めていました。この柱のことを土圭(トケイ)といい、このトケイの名前が時計となったと言われています。


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2011年06月03日

紫陽花



花が青紫色で中性花の萼片が皿形につぼまるウズアジサイ、花が八重咲きになるヤエアジサイなど品種が多く、セイヨウアジサイ(ハイドランジャ)はヨーロッパでアジサイを改良したものです。ヨーロッパへは1789年に、日本から中国に渡っていたアジサイをバンクスJoseph Banksがイギリスのキュー王立植物園に導入したのが初めで、その後ヤマアジサイ、ベニガクなども渡って交雑育種され、多くの園芸品種が育成されました。


『万葉集』に大伴家持(おおとものやかもち)と橘諸兄(たちばなのもろえ)が詠んでいますが、平安文学に名はみえません。色が変わることが心の変節と結び付けられ、道徳的でないとみなされて、近世までは目だたない花でありました。逆に西洋では色変わりが珍しがられて改良が進みました。
シーボルトが愛人のお滝さん(楠本滝)の名からオタクサH. otakusaを種小名に与えたが、現在は先取権上ツンベルクが命名したマクロフィラが使われています。『和名抄(わみょうしょう)』以来の漢名である紫陽花は、中国ではライラックとする説が有力です。

紫陽花は、咲き始めからだんだんと花の色を変えることから、移り気な花と呼ばれていますが、これは心変わりからではなく、美しくなるための試行錯誤のような気がします。 現に、いちど地面に根を張ったアジサイは、冬の間は枯れたように見えながら、春になると再び、強い生命力で新芽を伸ばし、緑の葉を広げます。そしてその花たちは、日々美しくなるために色を変え、それでも満足せずに、また、色を変えていくのです。 
そんなアジサイの中に、シーボルトは、つかの間の愛人として生きた「お滝さん」の姿を重ね合わせたのでしょうか。 
名前だけを連れて帰ったシーボルト。
「人の心をごまかすように 七つのおたくさ紫陽花は オランダさんの置き忘れ……」と、長崎を舞台に、お滝さんをうたった悲しげな曲が残ります。いつもその身を雫でいっぱいにしている印象が強いアジサイ。お滝さんのことをうたった悲しげな曲を思い出すと、その雫は彼女の涙にも見えてきてしまいます。水が大好きで、人(?)一倍水を吸収する紫陽花らしい話「ひたむきな愛情」です。
古来より、紫陽花の花を乾かし煎じて飲むと、解熱作用があるといわれています。好きな人に想いをこめて贈れば、なにかいい結果がでるかもしれません。


Japan Graffiti sakai1574_SIM内大神稲荷神社は、こちらから

【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

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2011年06月02日

梅雨(つゆ)

梅雨は、中国から「梅雨」として伝わり、江戸時代頃より「つゆ」として呼ばれるようになりました。

6月上旬から7月中旬頃の、春の終わりから夏の初めにかけて降る長雨。梅雨前線の停滞により起こります。五月雨(さみだれ)、黴雨(ばいう)ともいいます。また、梅雨に入ることを、入梅(にゅうばい)といいます。

「入梅」は梅雨入りを意味する言葉ですが、歳時記を記したカレンダーには毎年6月11日頃に「入梅」と記してあります。この「入梅」は雑節(季節の移り変わりを把握するためのもので、あらかじめ日付が決まっているんです。
現在は太陽の黄経が80度に達した日が「入梅」ですが、以前は立春から数えて135日目、さらに昔の旧暦では芒種のあとの最初の壬(みずのえ)の日とされていました。こうした日付は実際の梅雨入りとは異なりますが、農作業の目安として重要視されていました。ちなみに、「梅雨明け」のことは「出梅」(しゅつばい)といいます。


梅雨は春から夏へと移るための大切な季節。梅雨ならではの悩みもあれば、楽しいこともありますね。毎年巡ってくるものなので、昔の人は上手に暮らしに組み込んで生活していました。
まず、梅雨の楽しみといえば梅。「梅雨」「入梅」の語源でもあるように、この時期は梅が実ります。昔から梅は三毒(食べものの毒・血液の毒・水の毒)を断つといわれる健康食で、梅酒や梅干し作りが欠かせませんでした。また、梅干し作りに使う赤じそも旬ですから、しそジュース作りも楽しいものです。
また、食中毒対策として、食あたりを防ぐ役目のあるみょうが、しょうが、わさび、大葉などの薬味を活用したり、お弁当やおにぎりを酢飯にしたりするのも昔ながらの知恵です。まな板に緑茶をかければ、消臭・抗菌作用でスッキリするでしょう。


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【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

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2011年05月30日

水無月



日本では、旧暦6月を水無月(みなづき)と呼び、現在では新暦6月の別名としても用います。文字通り、梅雨が明けて水が涸れてなくなる月であると解釈されることが多いですが、逆に田植が終わって田んぼに水を張る必要のある月「水張月(みづはりづき)」「水月(みなづき)」であるとする説も有力です。他に、田植という大仕事を仕終えた月「皆仕尽(みなしつき)」であるとする説、水無月の「無」は「の」という意味の連体助詞「な」であり「水の月」であるとする説などがあります。
梅雨時の新暦6月の異称として用いられるようになってからは、「梅雨で天の水がなくなる月」「田植で水が必要になる月」といった解釈も行われるようになりました。
英語名であるJuneはローマ神話のユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)から取られました。ユノが結婚生活の守護神であることから、6月に結婚式を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」(June bride、6月の花嫁)と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれます。
現在日本では8月と並んで、国民の祝日が無い。その上お盆のような休暇も取れない月ともいえます。
 【 六月wiki 】

● 誕生石 - ムーンストーン、真珠、アレキサンドライト
● 星座 - 双子座(6月21日頃まで)、蟹座(6月22日頃から)
● 誕生花 - バラ、グラジオラス、牡丹



昨夜開催された【 MilkyHouse_SIM 1周年イベント 】風景

 ////// みるきー舞姫HUNT & Dance_Party /////





  


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2011年05月01日

皐月



五月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦5月を皐月(さつき)と呼び、現在では新暦5月の別名としても用いる。「さつき」は、この月は田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものである。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もある。日本書紀などでは「五月」と書いて「さつき」と読ませており、皐月と書くようになったのは後のことである。また「皐月」は花の名前となっている。「菖蒲月(あやめづき)」の別名もある。

英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神マイア (Maia) の名に因むといわれている。12か月で唯一英語名に略称が存在しない。


旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、梅雨の季節である。五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名であるし、五月晴れ(さつきばれ)とは本来は梅雨の晴れ間のことである。

【 五月の季語 】

五月晴(皐月晴れ、さつきばれ)
五月晴(さつきばれ、ごがつばれ、五月晴れとも表記)とは、6月(陰暦の5月)の梅雨時に見られる晴れ間のこと

五月雨(皐月雨、さみだれ)
「さみだれ」の「さ」は田植えの古語で、古来の田植えの時期(現代の農法よりやや遅く6月ごろ)を意味し、「早苗(さなえ)」「五月(さつき)」の「さ」と同語源。「みだれ」は「水垂れ」で雨の意

新緑(しんりょく)
新緑(しんりょく)とは、春から初夏にかけて、冬枯れの木々が芽吹き鮮やかな緑色になる現象
【5月wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 座天舞 (和楽器奏舞) 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年04月30日

こいのぼり

こいのぼり(鯉幟)とは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。皐幟(さつきのぼり)とも言う。現在はグレゴリオ暦(新暦)5月5日まで飾られ、夏の季語として用いられる。飾られる季節も変わり、イメージは「晩春の晴天の日の青空にたなびくもの」となった。


中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。
本来は真鯉(黒い鯉)のみで、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになったが、昭和時代からは家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となった。ただし、過渡的に黒と青だけという組み合わせも見られた。また、真鯉に赤い裸の男の子がしがみついている柄のものがあるが、これは金太郎とみられ金太郎が自分より大きい鯉を捕まえた伝説をもとにしているとみられる。
最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もある。暖色の子鯉の増加はそういった需要に応えてのことのようである。
さおの先に回転球やかご玉、その下に矢車を付け、五色もしくは鯉などを描いた吹流しを一番上に、以下真鯉、緋鯉、等を大きさの順に並べて揚げるのが一般的。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し」と言われるように、こいのぼりは「幟(のぼり)」とは名づけられているものの、形状は魚を模した吹流し形である。
そもそも、こいのぼりは門松や雛人形と同じく、江戸時代中期の裕福な庶民の家庭で始まった習慣であった。
端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。
一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。
さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。  


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2011年04月29日

端午

旧暦では午の月は5月にあたり、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったという。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいう。

日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。
鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している(こいのぼりの項)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)こいのぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。
端午の日にはちまきや柏餅(かしわもち)を食べる風習もある。ちまきを食べるのは、中国戦国時代の楚の詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)にちまきを投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


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2011年03月08日

野遊び(2)

春いちばんのめぐみ 野草、花摘みの風習

春の野山には、太陽の光をいっぱい浴びた鮮やかな花が咲きそろいます。春の野遊びには皆で飲食をして楽しむとともに、藤やつつじ、石楠花(しゃくなげ)などを愛(め)でる習わしがありました。豊かな実りを感じさせるものとして花を手折り、持ち帰って鑑賞していました。
また、野遊びのときに野草を摘む風習も各地でみられます。現在でも春の行楽として、かごなどを持って、蕗の薹(ふきのとう)、土筆(つくし)、蓬(よもぎ)、ぜんまい、芹(せり)、嫁菜などを摘み、おひたしやてんぷら、ねりみそなどの和え物にして食べたりします。昔の人々にとって、雪解けとともに芽を出す野草は貴重な食材で「春は苦味から」といわれるように、苦味のあるものを春に食べておくと体によいとされていました。

 Japan Graffiti sakai1574 SIM - 大神稲荷 
春の訪れを迎えようとしている堺SIMです。
撮影場所:大神稲荷
  


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2011年03月07日

野遊び(1)



昔から、農業や漁撈が繁忙期に入る前に、山野に出かけて食事をしたり遊んだりして終日を過ごす習わしがありました。
これを野遊び、野駆、山遊び、または海に近い地方では磯遊びなどといいます。今日では行楽の意味合いが強くなっていますが、これが遠足や花見、潮干狩りの起源と考えられます。
野遊びは、暖かい地方では旧暦3月3日に、寒い地方は旧暦4月8日の行事と重ねて行うところが多いようです。この日は、仕事を休まなければならないもの物忌みの日とされ、各家庭ではこの日のためにご馳走をつくり、河原にかまどを築くなどして共に食事をします。
古来山には神がいると考えられていたので、実際の農事に先立って田の神を迎えるために野山に出かけるのです。ご馳走を持ち寄って宴を開くことには、神と共に食事をする意味もあり、それで霊力が授かると考えてきたからです。


 Japan Graffiti sakai1574 SIM - 大神稲荷 
堺SIMが先週の日差しで、雪解けがすすみ、一歩づつですが「春」に近づいてきています。
撮影場所:大神稲荷
  


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2011年03月04日

花見

花見(はなみ)とは主に花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ慣習である。日本の場合、多くは開花した桜の下で行われる宴会のことを指します。

桜の木は日本全国に広く見られその花は春の一時期にある地域で一斉に咲き、わずか2週間足らずという短い期間で散るため毎年人々に強い印象を残し、日本人の春に対する季節感を形成する重要な風物となっている。その開花期間の短さ、そしてその花の美しさはしばしば人の命の儚さになぞらえられる。そのためか古来、桜は人を狂わせるといわれ、実際花見の席ではしばしば乱痴気騒ぎが繰り広げられる。一方で花を見ながら飲む酒は花見酒と呼ばれ、風流だともされている。陰陽道では、桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈します。
花見は奈良時代の貴族の行事が起源だと言われている。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代に桜と変わってきた。その存在感の移り変わりは歌にも現れており『万葉集』において桜を詠んだ歌は40首、梅を詠んだ歌は100首程度だが、平安時代の『古今和歌集』ではその数が逆転する。また「花」といえば桜を意味するようになるのもこの頃からである。
『日本後紀』によると、嵯峨天皇が812年(弘仁3年)に神泉苑にて「花宴の説」を催した。これが記録に残る最初の桜の花見だとの説がある。831年(天長8年)から場所は宮中に移り、天皇主催の定例行事として取り入れられていった。その様子は『源氏物語』「花宴」に描かれる。『源氏物語』には藤を鑑賞する宴会についての記述もあるが、この頃には「花」はほぼ桜と同義に使われるようになっていたためか桜以外の花を観賞する宴が花見、花宴といわれることはない。
吉田兼好の『徒然草』には貴族風の花見とそうでない田舎ぶりの花見の違いが説かれており、室町初期には地方の武士階級にも花見の宴は行われていたことが伺える。
織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される。この時期のもっとも大規模な花見は豊臣秀吉の醍醐の花見である。
花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代、徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励してからだといわれている。江戸で著名な花見の名所には愛宕山などがある。この時期の花見を題材にした落語としては『長屋の花見』や『あたま山』がある。 【花見wikiより】



撮影時期:2010年5月
場所:MilkyHouse
音楽:Yaz Rockett  


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2011年03月03日

流し雛

桃の節句の由良と起源は、古代中国の「上巳(じょうし)の節句」に始まります。
古代中国では、季節の節目や物事の節目には災いをもたらす邪気がくるとされ、三月の巳(み)の日は、水辺で身を清め心身のけがれを洗い流したり、桃のお酒を飲んで邪気をはらい幸福を願う習慣がありました。
やがて上巳は、日本に伝わり、平安時代に人々は薬草を摘んで心身のけがれを払い健康と厄除けを祈願しました。貴族たちは、人形(ひとがた)と呼ばれる人形や紙人形を自分の身代わりとし、自分の身のけがれや自分にふりかかる災いを人形(ひとがた)にたくして、それを川へ流すようになりました。

流し雛(ながしびな)は、雛祭りのおおもととなった行事です。雛祭りの源は、3月3日の上巳の節句の薬草摘みでしたが、やがて人の形をした紙の人形(かたしろ)で体を撫でて、それを川に流すことで穢れを祓い、災厄祓いを願いました。
流し雛は、源氏物語の「須磨」にも出てくるほど歴史ある行事です。やがてこの行事が宮中のひいな遊びへと発展し、雛祭りへと変わっていきます。現在でも流し雛は、各地に残っています。

※水で身を浄める儀式は、古くは中国の前漢の時代(紀元前 202年前~)、三月の上巳の日に行われていましたが、それだけでなく、日本の神話にも登場します。日本人の観念は、死だけでなく、罪や病気、天変地異などの災厄も穢れに含み、古来よりみそぎや祓いで身を浄めてきました。 嫌なことを「水に流す」というのも、このみそぎから来る言葉です。




撮影時期 : 2010年11月 【 "The Times" Milky House Collection 】  


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