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2011年11月07日

もののけ姫(2)

もののけ姫 「神々の世界」


シシ神とディダラボッチ
太古の照葉樹林の森に棲む神々の頂点に立つ半身半獣の神がシシ神である。設定には「生命の生死を司り、新月に生まれ月の満ち欠けと共に生死を繰り返す」とある。逆に言えば「光満る満月に死ぬ」という意味か。とすれば、闇多き森(つまり原生林)にしか生まれない神とも解釈出来る。
ディダラボッチは、シシ神の夜の姿である。青白く輝く半透明の巨人である。唐草紋らしき文様が全身に見える。
シシ神は人間との抗争には超然たる傍観者である。自ら攻撃に出ることはなく、首を狙ったエボシの銃に芽を吹かせる程度である。しかし、首を刈られた後のディダラは、天を覆う巨大な闇となってドロドロの塊を振りまき、森を破壊しながら首を求めてタタラ場に迫る。
アシタカとサンの活躍によって、首を返還されたディダラは、朝陽を浴びて倒壊し、一陣の風と共に、砕けた破片が地下に浸透して一帯に緑が再生する。同じドロドロがシシ神の意志次第で、破壊も再生も生み出すのである。
しかし、もし人の手でシシ神に首を返還出来ず、自力で復活したとしたら、憎悪による破壊を続れて朝陽に果てたのか、あるいはタタラ場も原生林に覆われて、人間はこの地から追いやられてしまったかも知れない。アシタカとサンが命がけで尽くした礼儀が、シシ神の憎悪を消しタタラ場を救ったのだ。アシタカの呪いが解けたことも、同様に解釈出来る。シシ神は、共生の意志ある人間の行動を認めたのだ。
しかし一方では、朝陽を浴びて去勢されてしまったシシ神には、そもそも本来の力がなく原生林を蘇生するまでには至らなかった、という絶望的解釈も成り立つ。タタラ場と禿山を覆った緑は、言わば牙を抜かれた自然であり、穏やかで明るい「里山」であった。

神を殺して得た里山を「人間と自然の共生の象徴」と理解するのは簡単であるが、事はそんなに単純ではない。構造的には人間側に森の主導権が移ってしまったのである。原住生物たちにとっては「シシ神の死んだ」森で、君臨する神としてでなく、狩られる獣として暮らさねばならないのだ。しかし、アシタカは、それでも「共に生きよう」と訴える。それは、互いに礼を尽くし、生かし生かされる構造を保つという生命平等主義の立場である。それは余りにも厳しく困難な共生への道である。
 なお、ディダラボッチの伝説は全国各地にある。東京都世田谷区「代田」の地名は、ディダラがかけた橋に由来すると言う。

山犬・モロ一族ともののけ姫・サン

作中には、山犬神「モロの君」とその一族が登場する。
古来、山犬または狼を土地神として祀る風習は日本各地にあった。田畑を荒らす害獣を退治する智恵ある獣として慕われた反面、人間を襲う凶暴な獣として恐れられてもいた。西欧童話の狼が間抜けな悪役であるのに比して、日本では狼を高貴な神とする伝承が多い。
猪や鹿を獲物として来た山犬が、作中のように猪一族と険悪な関係なのは当然である。
もののけ姫・サンは、村から神鎮めの生贄としてモロに捧げられた。その原因は、おそらく人間による森林破壊であったろう。モロは、破壊の許可を求めるために赤子をよこした人間のエゴを蔑んだことであろう。しかし、にも関わらず、モロはサンに二足歩行と人語を教え、衣服・靴・装飾品を与え(作らせ)、入れ墨まで施している。これは何故か。
モロはサンを人間として育てたとしか思えない。ただし、憎き敵の現世の人間文化を与えず、自然との共生関係を保っていた縄文人の文化を与えたのである。サンの呪術的な土面や装束、食物・習俗などは、全て縄文人のものである。神は縄文人を認めていたのだ。
サンとアシタカの出会いは、北方と南方の縄文人の末裔同士の出会いでもあったのだ。

乙事主・ナゴの守と猪一族

冒頭タタリ神としてアシタカの村を襲ったのが、シシ神の森に棲む猪一族の長「ナゴの守」である。ナゴの守は、エボシ御前に鉛玉を撃ち込まれ、死の恐怖と闘い切れず、怨みの塊たるタタリ神と化したのであった。シシ神に与えられる安楽な自然死ではタタリ神となることはない。つまり、タタリとは、神が卑しい人間によって強制的に殺される立場に転落したことに対して抱く、やり場のない憎悪と恐怖が生み出す現象なのだ。
これは、人間が神をも殺戮出来る兵器を開発し、神の支配を覆す時代となったことに対する神の逆襲だが、高貴な心を捨てて凶悪かつ醜悪な破壊神と化したその姿は悲しい。
白内障を煩っている「乙事主」は、猪神信仰の盛んな鎮西(九州)を治める齢五〇〇歳の巨大な猪神である。エボシ・ジコ連合に対し、出雲・鎮西連合の猪族を率いて「猪突猛進」の特攻を敢行するが、悉く玉砕する。
この特攻に際し、猪たちの群は泥水に浸かって体をくねらせ、互いの体に泥の白丸を描く。これは、沖縄・宮古島の島尻部落に伝わる祭を原典としたものと思われる。ここでは神聖な泥水に浸かった男が、里に降りて幸福をもたらすと言う。その泥水を「ニタ(ニッジャ)」と呼ぶ。ニタとは、古来、猪が虱を取るために浸かる(「ニタをうつ」と言う)場所を指す言葉である。つまり、あの白丸は、神がかりの特攻のための隈取り化粧なのだ。

コダマ


作中には、「コダマ」と呼ばれる不思議な精霊の群が登場する。いわゆる山彦のことではなく、豊かな森に宿る「樹の精」らしい。人間に対する敵意はなく、アシタカには大変親しげである。 
これは、宮崎監督が木々の生命をヴィジュアル化したものと考える。森を破壊することは、莫大なコダマを殺すことにもなるのだ。作中のクライマックスで、まるでマリンスノーのように次々と死んで降り注ぐコダマたちは、森の生命の急速な衰退を物語る。人間中心主義の視点しか持たない私たちには、木々が伐り倒される映像よりも、擬人化されたコダマが殺されて降り注ぐシーンの方がはるかに生命の重さを感じてしまう。
ラストシーンで、破壊の爪痕残る森の深部には、一人ぼっちのコダマがいる。これは、森の生命がこれから復興するのか、衰退するのかは人間次第という暗示ではないか。
なお、大樹や森に生じる音の精霊を「コダマ」として信仰する伝承も、かつては日本各地にあった。

猩々

作中には、「猩々」と呼ばれる不気味な猿の一族が登場する。一族は、夜な夜なタタラ場周辺の禿山に出没しては樹を植えている。直接山犬族や猪族と共に人間と闘うことはせず、最後には絶望して森を去る。かつては「森の賢者」とも呼ばれていたそうだが、その容姿と赤く光る眼は異様で、地獄の餓鬼のようでもある。
猩々とは、古代中国の伝説上の怪物である。大型の類人猿であり、学術的にはオラン・ウータンを示す。日本にも古くから猩々の伝説があり、それによれば「全身赤毛で、人語を解し、酒が大好き」とのことだ。能にも「猩々」という演題があり、酒酔いを示す赤い面をつけて踊る。また、猩々の血で染めた「猩々緋」と呼ばれる赤い染物もあった。
ちなみに、「ショウジョウバエ」の語源は、「猩々のように酒に群がる蝿」の意味である。




【アシタカとサン】  


Posted by hidesun(英寸) at 20:05Comments(0)アニメ