
2011年11月27日
伊達政宗
伊達政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。

伊達政宗・独眼竜政宗と言えば、いかにも強そうな感じの名前で印象に残りやすいし、誰もが聞いたことがあるだろう有名人ですが、実際の所どう凄かったのかが一番わかりにくい人ではないかと思います。 その一番の理由はやはり、登場が遅かったからでしょう。 織田信長が桶狭間に今川義元を破った時、政宗はまだ生まれてもおらず、秀吉が天下統一を果たした時で政宗23歳と、時期的に生まれが遅かったために、戦国の有名武将達と渡り合って名勝負を歴史に残すといったことが殆どないので、今一つ業績のようなものがはっきりしないからでは無いかと思います。それ故、才がありながらも生まれが遅かったために活躍できなかったということで、「遅生まれの英雄」といった呼ばれ方をすることが多いみたいです。

東北の英雄
では政宗が何をした人なのか一言でいうと、“奥羽(東北地方)平定”を果たした人です。
奥羽も群雄割拠の様相を呈していましたが、父輝宗の代では伊達家は米沢一国の領主に過ぎなかった所を、政宗が17歳で家督を継いでからは、相馬・畠山・芦名・佐竹といった東北の有力勢力を次々と打ち破り、若干23歳にして奥羽をほぼ掌握したという、武力で言えば戦国時代きっての英傑と言っても過言ではありません。また、政宗は5歳の時疱瘡にかかり右目を失っていたために、人々は政宗のことを「独眼竜」と言って畏れ称えました。
秀吉の目もごまかした策士
1590年、既に天下の大半を手中に収めていた豊臣秀吉が、関東は小田原城に居する北条氏を征伐するために20万もの大軍を率いて来襲しており、その際、東北の諸大名に対しても秀吉に対する臣従の証しとして挨拶に来いと言ってきました。
政宗としては、まだまだ領土拡大の野望は尽きておらず、しかも北条氏と同盟も結んでいたため、どうすべきか進退に悩みました。しかしさすがに、20万の大軍には勝てないと判断し、秀吉に対する臣従の意味も含めて小田原攻めに参陣することにしましたが、タイミング悪く伊達家のお家騒動も重なり、小田原参陣に一ヶ月も遅参するという失態を犯してしまいました。
秀吉の怒りは火を見るより明らかなので、このままでは伊達家は危ないと判断した政宗は、秀吉との謁見の際、白装束(死に装束)で見えると言う策に出ました。白装束=死の覚悟を決めている、という肝の据わった政宗の行動に対し、先手を打たれた秀吉はむしろその政宗の性根に感心し、処遇は一部領土の取り上げのみに収まりました。こうした、相手の性格を見抜き、それに応じた策を講じることが出来るのも政宗の賢かった点です。他にも、一揆扇動が発覚しそうになった時、見破られた際に備えて二種類の花押を前以って用意していたなど、小細工にも長けていた(?)ようです。

柔軟な発想
伊達政宗の軍で有名なのが、「鉄砲騎馬隊」です。織田信長が鉄砲を巧みに活用したことにヒントを得て、強力な騎馬隊に鉄砲をミックスした政宗独自の戦法です。騎馬隊各員に鉄砲を持たせ、戦闘の際にはまずその鉄砲で敵部隊を撹乱させ、敵の陣形が乱れたところをそのまま疾風の如く襲いかかるという斬新なもので、強力な部隊として大変怖れられたそうです。
また、イエズス会の宣教師が仙台にやってきた時には布教を許し、南蛮貿易にも目をつけて1613年には支倉常長をスペインやローマに派遣するなど、日本人にありがちな古い思想にとらわれない柔軟なマインドを持っていたことがわかります。
伊達者
今でも使われる“伊達者”という言葉。
“~はダテじゃない”
“ダテに~していない”
“ダテ○○”
など、わかりやすく言うと“カッコつけ”な意味で用いられる“伊達”ですが、その由来は伊達政宗から来ています。 その理由はとにかく、伊達軍といえば信じられないくらい派手で目立つ格好をしていたからだそうです。特に有名なのは朝鮮出兵の時で、京都に現れた伊達軍は、紺の旗に金の日の丸、漆黒の具足に金の日の丸、馬鎧は虎柄・豹柄に孔雀の羽、陣笠は1mもある三角帽子で全て金色。太刀や陣羽織も金色、水玉模様もあったとか無かったとか・・・
想像しただけでも、もはや悪趣味とも思えるような相当派手な格好です。こうしたところから、京都の人々は“伊達軍の男=伊達男=ええカッコしい”となり、それが、ええカッコ、カッコだけ、という意味で“伊達~”という言葉になったそうです。

本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。

伊達政宗・独眼竜政宗と言えば、いかにも強そうな感じの名前で印象に残りやすいし、誰もが聞いたことがあるだろう有名人ですが、実際の所どう凄かったのかが一番わかりにくい人ではないかと思います。 その一番の理由はやはり、登場が遅かったからでしょう。 織田信長が桶狭間に今川義元を破った時、政宗はまだ生まれてもおらず、秀吉が天下統一を果たした時で政宗23歳と、時期的に生まれが遅かったために、戦国の有名武将達と渡り合って名勝負を歴史に残すといったことが殆どないので、今一つ業績のようなものがはっきりしないからでは無いかと思います。それ故、才がありながらも生まれが遅かったために活躍できなかったということで、「遅生まれの英雄」といった呼ばれ方をすることが多いみたいです。

東北の英雄
では政宗が何をした人なのか一言でいうと、“奥羽(東北地方)平定”を果たした人です。
奥羽も群雄割拠の様相を呈していましたが、父輝宗の代では伊達家は米沢一国の領主に過ぎなかった所を、政宗が17歳で家督を継いでからは、相馬・畠山・芦名・佐竹といった東北の有力勢力を次々と打ち破り、若干23歳にして奥羽をほぼ掌握したという、武力で言えば戦国時代きっての英傑と言っても過言ではありません。また、政宗は5歳の時疱瘡にかかり右目を失っていたために、人々は政宗のことを「独眼竜」と言って畏れ称えました。
秀吉の目もごまかした策士
1590年、既に天下の大半を手中に収めていた豊臣秀吉が、関東は小田原城に居する北条氏を征伐するために20万もの大軍を率いて来襲しており、その際、東北の諸大名に対しても秀吉に対する臣従の証しとして挨拶に来いと言ってきました。
政宗としては、まだまだ領土拡大の野望は尽きておらず、しかも北条氏と同盟も結んでいたため、どうすべきか進退に悩みました。しかしさすがに、20万の大軍には勝てないと判断し、秀吉に対する臣従の意味も含めて小田原攻めに参陣することにしましたが、タイミング悪く伊達家のお家騒動も重なり、小田原参陣に一ヶ月も遅参するという失態を犯してしまいました。
秀吉の怒りは火を見るより明らかなので、このままでは伊達家は危ないと判断した政宗は、秀吉との謁見の際、白装束(死に装束)で見えると言う策に出ました。白装束=死の覚悟を決めている、という肝の据わった政宗の行動に対し、先手を打たれた秀吉はむしろその政宗の性根に感心し、処遇は一部領土の取り上げのみに収まりました。こうした、相手の性格を見抜き、それに応じた策を講じることが出来るのも政宗の賢かった点です。他にも、一揆扇動が発覚しそうになった時、見破られた際に備えて二種類の花押を前以って用意していたなど、小細工にも長けていた(?)ようです。

柔軟な発想
伊達政宗の軍で有名なのが、「鉄砲騎馬隊」です。織田信長が鉄砲を巧みに活用したことにヒントを得て、強力な騎馬隊に鉄砲をミックスした政宗独自の戦法です。騎馬隊各員に鉄砲を持たせ、戦闘の際にはまずその鉄砲で敵部隊を撹乱させ、敵の陣形が乱れたところをそのまま疾風の如く襲いかかるという斬新なもので、強力な部隊として大変怖れられたそうです。
また、イエズス会の宣教師が仙台にやってきた時には布教を許し、南蛮貿易にも目をつけて1613年には支倉常長をスペインやローマに派遣するなど、日本人にありがちな古い思想にとらわれない柔軟なマインドを持っていたことがわかります。
伊達者
今でも使われる“伊達者”という言葉。
“~はダテじゃない”
“ダテに~していない”
“ダテ○○”
など、わかりやすく言うと“カッコつけ”な意味で用いられる“伊達”ですが、その由来は伊達政宗から来ています。 その理由はとにかく、伊達軍といえば信じられないくらい派手で目立つ格好をしていたからだそうです。特に有名なのは朝鮮出兵の時で、京都に現れた伊達軍は、紺の旗に金の日の丸、漆黒の具足に金の日の丸、馬鎧は虎柄・豹柄に孔雀の羽、陣笠は1mもある三角帽子で全て金色。太刀や陣羽織も金色、水玉模様もあったとか無かったとか・・・
想像しただけでも、もはや悪趣味とも思えるような相当派手な格好です。こうしたところから、京都の人々は“伊達軍の男=伊達男=ええカッコしい”となり、それが、ええカッコ、カッコだけ、という意味で“伊達~”という言葉になったそうです。
