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2012年03月29日

八百屋お七の日

天和3年3月29日(1683年4月25日)、恋人を思うあまりに放火した八百屋の娘お七が火刑に処されたことに由来します。



八百屋お七(やおやおしち)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られる。一途な悲恋として井原西鶴によって取り上げられ、後に浄瑠璃など芝居の題材となった。


本郷森川町の商人八百屋市兵衛は、もと駿河国富士郡の農民であったが、今は八百屋を業として裕福に暮らしていた。
男子二人のほかに、今年十六で末っ子のお七は、容姿、性格ともに優れて夫婦はことのほか溺愛した。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院に避難した。
この寺には寺小姓の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。
庄之助はひと目でお七に恋慕し、文を渡すなどすると、お七も庄之助のことを憎からず想い、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。
その後、家に戻ったお七だったが、庄之助の事が忘れられず、文など送り、隠れては逢瀬を続けた。が、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ず、お七はいつもじれったく感じ始めていた。



そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来る、とはかない女心で考えたお七は三月二日の夜、近所に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。

その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。



お七処刑から3年後の貞享3年(1686年)、井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げたことで、お七は有名となった。以後、浄瑠璃・歌舞伎の題材として度々脚色された。

「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。
お七の幽霊が、鶏の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が「夢のお七」という小説を著している。
「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記したと伝えている。
  


Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)和の暦