2012年12月08日
天空の城/竹田城
兵庫県朝来市にある竹田城跡。日本百名城の1つで天守閣などがない石垣のみの状態ながら城マニアの方々からもかなり評価の高い城跡です。標高は353.7m。マチュピチュは標高2400mなので比べものにはならないのですが、この雲海(朝霧)の上にそびえ立つ感じはまさに「天空の城」

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもち日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

室町時代
築城に関しては、不明な点が多い。江戸末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年-1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのもののをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし1431年(永享3年)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。
この時期、但馬国守護山名氏と播磨国守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441年)6月、征夷大将軍足利義教が重臣赤松満祐によって暗殺される。嘉吉の乱である。同年8月室町幕府より追討令を受けた山名宗全軍は、丹波国より生野から播磨国に入国し、同年9月城山城にいる赤松満祐を滅ぼした。同年10月には山名宗全は播磨国守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後1443年(嘉吉3年)赤松教政が、1444年(文安元年)赤松満政が、1455年(康正元年)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃、逃亡している。当時の竹田城は播磨国と但馬国の国境を守る拠点で、播磨国を平定するための出撃の拠点ともなっていた。

戦国時代
応仁の乱が起こると細川氏と山名氏で争いとなった。応仁2年(1468年)3月、細川軍であった内藤軍が夜久野から但馬国に侵攻しようとしていた。竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。その後も細川氏や赤松氏の脅威は去ることは無かった。山名軍は赤松氏の播磨国を占領したりしたが、1488年(長享2年)頃には敗戦を続け山名誠豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。1522年(大永2年)に山名誠豊が、赤松氏がいる播磨国へ攻め込んだがこの時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。

安土桃山時代
尼子氏と山名氏は同盟関係であった。毛利氏は、大友氏との交戦状態あり、その間隙をついて出雲国奪還を目指す尼子氏に背後を突かれた。これに対して毛利氏は織田信長に尼子氏の後援となっていた山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼した。これに応じた織田信長は永禄12年(1569年)8月1日木下秀吉(豊臣秀吉)軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として織田信長に献納して但馬国への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。
吉川元春ら毛利軍は、1573年(天正元年)出雲国、伯耆国、因幡国に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬国に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575年)5月山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月竹田城を占領すると、山名祐豊は織田信長に救援を求め明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。

竹田城の戦い
織田氏と毛利氏の間も次第に対決色が明確になり、織田信長は播磨国に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、黒田孝高が迎え入れ姫路城に入城し、それから一カ月で播磨国の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴秀吉軍は二手に分かれて、本隊は上月城を攻城、羽柴秀長隊は三千兵を率いて但馬国に進軍した。羽柴秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説している。一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており羽柴秀長隊の第一目標になった。同年11月羽柴秀長隊は真弓峠から但馬国に侵攻、まずは岩州城を攻城し次いで竹田城を攻城した。
天空の城 竹田城跡


大神稲荷神社
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/3

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもち日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

室町時代
築城に関しては、不明な点が多い。江戸末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441年-1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのもののをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし1431年(永享3年)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。
この時期、但馬国守護山名氏と播磨国守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441年)6月、征夷大将軍足利義教が重臣赤松満祐によって暗殺される。嘉吉の乱である。同年8月室町幕府より追討令を受けた山名宗全軍は、丹波国より生野から播磨国に入国し、同年9月城山城にいる赤松満祐を滅ぼした。同年10月には山名宗全は播磨国守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後1443年(嘉吉3年)赤松教政が、1444年(文安元年)赤松満政が、1455年(康正元年)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃、逃亡している。当時の竹田城は播磨国と但馬国の国境を守る拠点で、播磨国を平定するための出撃の拠点ともなっていた。

戦国時代
応仁の乱が起こると細川氏と山名氏で争いとなった。応仁2年(1468年)3月、細川軍であった内藤軍が夜久野から但馬国に侵攻しようとしていた。竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。その後も細川氏や赤松氏の脅威は去ることは無かった。山名軍は赤松氏の播磨国を占領したりしたが、1488年(長享2年)頃には敗戦を続け山名誠豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。1522年(大永2年)に山名誠豊が、赤松氏がいる播磨国へ攻め込んだがこの時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。

安土桃山時代
尼子氏と山名氏は同盟関係であった。毛利氏は、大友氏との交戦状態あり、その間隙をついて出雲国奪還を目指す尼子氏に背後を突かれた。これに対して毛利氏は織田信長に尼子氏の後援となっていた山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼した。これに応じた織田信長は永禄12年(1569年)8月1日木下秀吉(豊臣秀吉)軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた山名祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として織田信長に献納して但馬国への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。
吉川元春ら毛利軍は、1573年(天正元年)出雲国、伯耆国、因幡国に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬国に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575年)5月山名祐豊は吉川元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月竹田城を占領すると、山名祐豊は織田信長に救援を求め明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。

竹田城の戦い
織田氏と毛利氏の間も次第に対決色が明確になり、織田信長は播磨国に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、黒田孝高が迎え入れ姫路城に入城し、それから一カ月で播磨国の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴秀吉軍は二手に分かれて、本隊は上月城を攻城、羽柴秀長隊は三千兵を率いて但馬国に進軍した。羽柴秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説している。一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており羽柴秀長隊の第一目標になった。同年11月羽柴秀長隊は真弓峠から但馬国に侵攻、まずは岩州城を攻城し次いで竹田城を攻城した。
天空の城 竹田城跡


大神稲荷神社
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Posted by hidesun(英寸) at 17:51│Comments(0)
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