
2011年02月19日
歌舞伎(1)

歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。
江戸時代の歌舞伎
江戸時代の歌舞伎は成立の過程から(1) 歌舞伎踊りと、(2) 歌舞伎劇に分けられるともいう。
(1) 歌舞伎踊りは若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎は曲芸なども見せていたといわれる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある。
(2) 歌舞伎劇は自然に現代に見られるような舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたこともその一因となった。つまり幕府は舞踊主体の公演は売色などを伴い、風紀上望ましくないと考えていたのである。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。
※ 歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれ、出演者を「歌舞伎役者」と呼ぶ。歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)と区分され身分上差別されたが、反面各地への通行に便宜を与えられた。武士階級の者は江戸幕府に倣って芝居見物を多くの藩で禁止した。
歌舞伎の舞台は本来能舞台をもとにした構造であったが、時代が下ると客席を貫いて歌舞伎役者が登場・退場する花道が付き、舞台の幅を広げ、観客の座る場にも屋根を設けて舞台とひとまとまりの建物にするなど、能舞台からは離れた形に発展していった。また能では用いられない引き幕によって場面を区切るという演出は、話の筋に時の流れを自然に導入して複雑な劇の展開を可能にし、花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、またセリ(迫り)によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図るなど高度な演劇へと進化した。【 歌舞伎wiki 】

撮影時期 : 2010年8月 【 舞姫夏祭 - 織天舞 - 】