
2011年09月30日
富士山本宮浅間大社
富士山本宮浅間大社は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮である。富士山を神体山としている。

富士信仰の中心地である。浅間大社の略称が多くで用いられ、大宮浅間とも呼ばれる。大同元年(806年)建立で、東海地方で最古の社である。現在は浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とし、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀する。元々の祭神は富士山の神霊「浅間大神」であるが、いつの時代からか、神話に登場する木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになり江戸時代に定着した。現在でも一般的な認識では浅間大神と木花之佐久夜毘売命は明確に区別されてはおらずほぼ習合した状態である。

『富士本宮浅間社記』によると、806年(大同元年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座したという。この地に遷座することとなった理由については、富士山の湧水からなる湧玉池が湧く地を神聖な地として考えたためと言われている。またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきた[2]。それが現在も行われる御田植祭である。 以降、朝廷の崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、また、駿河国一宮として崇敬された。駿河国国府の近くに当社より勧請を受けて「浅間神社」が創建され、それを「新宮」と呼ぶ。

源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では毎年流鏑馬祭りが行われている。武将からも崇敬を受け、源頼朝・豊臣秀吉が社領を寄進、北条義時・足利尊氏・足利持氏が社殿を造営、武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行っている。徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営し、1609年には、富士山頂の土地を寄進している。その後も歴代の将軍が祈祷料・修理料の寄進を行った。
室町時代に始まった富士信仰は江戸時代に盛んとなり、多くの人が富士山に登るようになったが、当社はその表口として賑った。

朱塗りの社殿は1604年(慶長9年)徳川家康によって造営された。その後、寛永や安政の大地震などで崩壊した建物もあり、当時の建物で現存するのは本殿・拝殿・楼門のみである。
本殿
桁行5間、梁間4間、寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式で、「浅間造」と称される。屋根は檜皮葺である。
幣殿・拝殿
拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。

富士信仰の中心地である。浅間大社の略称が多くで用いられ、大宮浅間とも呼ばれる。大同元年(806年)建立で、東海地方で最古の社である。現在は浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とし、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀する。元々の祭神は富士山の神霊「浅間大神」であるが、いつの時代からか、神話に登場する木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになり江戸時代に定着した。現在でも一般的な認識では浅間大神と木花之佐久夜毘売命は明確に区別されてはおらずほぼ習合した状態である。

『富士本宮浅間社記』によると、806年(大同元年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座したという。この地に遷座することとなった理由については、富士山の湧水からなる湧玉池が湧く地を神聖な地として考えたためと言われている。またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきた[2]。それが現在も行われる御田植祭である。 以降、朝廷の崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、また、駿河国一宮として崇敬された。駿河国国府の近くに当社より勧請を受けて「浅間神社」が創建され、それを「新宮」と呼ぶ。

源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では毎年流鏑馬祭りが行われている。武将からも崇敬を受け、源頼朝・豊臣秀吉が社領を寄進、北条義時・足利尊氏・足利持氏が社殿を造営、武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行っている。徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営し、1609年には、富士山頂の土地を寄進している。その後も歴代の将軍が祈祷料・修理料の寄進を行った。
室町時代に始まった富士信仰は江戸時代に盛んとなり、多くの人が富士山に登るようになったが、当社はその表口として賑った。

朱塗りの社殿は1604年(慶長9年)徳川家康によって造営された。その後、寛永や安政の大地震などで崩壊した建物もあり、当時の建物で現存するのは本殿・拝殿・楼門のみである。
本殿
桁行5間、梁間4間、寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式で、「浅間造」と称される。屋根は檜皮葺である。
幣殿・拝殿
拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。
2011年09月29日
平安時代
平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。

平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。

王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。
11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。
【 平安時代wiki 】
【 Milkyhouse 2010秋 動画 】

平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。

王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。
11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。
【 平安時代wiki 】
【 Milkyhouse 2010秋 動画 】
2011年09月28日
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いは、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

【背景】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。

源家側
総大将:陸:源範頼、海:源義経
船数:800艘(吾妻鏡説)・3000艘(平家物語説)
参加武将:梶原景時、熊野別当湛増、河野通信
平家側 総大将:平宗盛
船数:500艘(吾妻鏡説)・1000艘(平家物語説)
参加武将:平知盛・平経盛・平教盛・平教経・平資盛・平有盛・平行盛・平時忠・平清宗・藤原景清

『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とあり、平家物語にも同様の記述がある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。愚虜をもってして捜し奉る。」と記されており、一般的には三種の神器のうち天叢雲剣は壇ノ浦の戦いで一度失われていると考えられている。
【 壇ノ浦の戦いwikiより 】

【背景】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。

源家側
総大将:陸:源範頼、海:源義経
船数:800艘(吾妻鏡説)・3000艘(平家物語説)
参加武将:梶原景時、熊野別当湛増、河野通信
平家側 総大将:平宗盛
船数:500艘(吾妻鏡説)・1000艘(平家物語説)
参加武将:平知盛・平経盛・平教盛・平教経・平資盛・平有盛・平行盛・平時忠・平清宗・藤原景清

『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とあり、平家物語にも同様の記述がある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。愚虜をもってして捜し奉る。」と記されており、一般的には三種の神器のうち天叢雲剣は壇ノ浦の戦いで一度失われていると考えられている。
【 壇ノ浦の戦いwikiより 】
2011年09月27日
屋島の戦い
屋島の戦いは、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。

「 Youtubeで有名な平家物語:屋島の闘い The Tale of the Heike: Battle of Yashima動画 」
【 背景 】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。
寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。しかし、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。
後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国獲得した。同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。

【 扇の的と弓流し 】
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

「 Youtubeで有名な平家物語:屋島の闘い The Tale of the Heike: Battle of Yashima動画 」
【 背景 】
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。
寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。しかし、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。
後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。 その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国獲得した。同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。

【 扇の的と弓流し 】
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

2011年09月26日
屋台
屋台(やたい)は、移動式の簡易店舗。簡単な飲食物や玩具などを売る。似た言葉として露店(ろてん)があるが、露店は移動式とは限らず、歩道上に物を並べて販売したり、建物の1階で物を売る店も含まれる。

正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなど様々な屋台が出店する。屋台店とも呼ばれる。このような祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台は的屋と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多い。
屋台は江戸時代に大きく繁栄し、江戸(後の東京)では、握り寿司や蕎麦切り、天ぷらといったすぐに提供できる食べ物が屋台で初めて提供され、現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。
移動式の屋台ではラーメン屋が多く商われている。これは江戸時代の夜鳴きそばに起源を発し、チャルメラをならしながら夜の街を流すため、別名チャルメラと呼ばれることもある。
夜間にのみ営業し、酒類とともにおでん、焼き鳥やどて焼きなど様々な料理を出して営業する屋台もある。屋台特有の雰囲気に誘われるファンは今も多い。

広い敷地に水道を引き多くの屋台を集めた「屋台村」と呼ばれる常設の施設が各地で見られたこともあったが、昨今はあまり見られなくなった。そんな中でも北海道各所や、青森県八戸の屋台村は観光名所にもなり、盛況である。
近年の東京丸の内近郊をはじめとする各都市部では、ネオ屋台と呼ばれる移動販売車のランチタイム販売が好評を博している。商品は弁当中心でエスニック系のものが多く、清潔感と洒落た雰囲気で、女性客も気軽に買える内容となっている。 出店ポイントをネオ屋台村と称して、主にオフィス街の昼食需要に応えている。

福岡市の博多区中洲・中央区天神・長浜地区など、「屋台街」と呼ばれる歩道上に屋台が集合して商売する場所もある。気候の温暖な九州は常設の屋台が夏を挟んで長期間営業が可能な環境にあり、独自の屋台文化を開花させてきた。メニューは豊富で、ラーメンのほかおでん、もつ鍋、焼き鳥、鉄板焼き、天ぷらといったメニューを掲げる店が多い。これらのメニューをつまみに酒を飲み、最後にラーメンを食べるパターンになることが多い。店によってはカクテル専門・西洋料理専門・沖縄料理専門の店などもある。また、最近は店主の好みによって独自メニューの開発を行なって新たな形態を打ち出す例もあり、一方で従来のメニューを伝統的に守る主義の店も多い。
【 屋台wikiiより 】


「 和を追求するSIM : sakai風景 」

正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなど様々な屋台が出店する。屋台店とも呼ばれる。このような祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台は的屋と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多い。
屋台は江戸時代に大きく繁栄し、江戸(後の東京)では、握り寿司や蕎麦切り、天ぷらといったすぐに提供できる食べ物が屋台で初めて提供され、現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。
移動式の屋台ではラーメン屋が多く商われている。これは江戸時代の夜鳴きそばに起源を発し、チャルメラをならしながら夜の街を流すため、別名チャルメラと呼ばれることもある。
夜間にのみ営業し、酒類とともにおでん、焼き鳥やどて焼きなど様々な料理を出して営業する屋台もある。屋台特有の雰囲気に誘われるファンは今も多い。

広い敷地に水道を引き多くの屋台を集めた「屋台村」と呼ばれる常設の施設が各地で見られたこともあったが、昨今はあまり見られなくなった。そんな中でも北海道各所や、青森県八戸の屋台村は観光名所にもなり、盛況である。
近年の東京丸の内近郊をはじめとする各都市部では、ネオ屋台と呼ばれる移動販売車のランチタイム販売が好評を博している。商品は弁当中心でエスニック系のものが多く、清潔感と洒落た雰囲気で、女性客も気軽に買える内容となっている。 出店ポイントをネオ屋台村と称して、主にオフィス街の昼食需要に応えている。

福岡市の博多区中洲・中央区天神・長浜地区など、「屋台街」と呼ばれる歩道上に屋台が集合して商売する場所もある。気候の温暖な九州は常設の屋台が夏を挟んで長期間営業が可能な環境にあり、独自の屋台文化を開花させてきた。メニューは豊富で、ラーメンのほかおでん、もつ鍋、焼き鳥、鉄板焼き、天ぷらといったメニューを掲げる店が多い。これらのメニューをつまみに酒を飲み、最後にラーメンを食べるパターンになることが多い。店によってはカクテル専門・西洋料理専門・沖縄料理専門の店などもある。また、最近は店主の好みによって独自メニューの開発を行なって新たな形態を打ち出す例もあり、一方で従来のメニューを伝統的に守る主義の店も多い。
【 屋台wikiiより 】


「 和を追求するSIM : sakai風景 」
2011年09月25日
おでん
おでん(御田)は、日本料理のうち、煮物料理の一種。鍋料理にも分類される。出汁を醤油等で味付けしたつゆに、大根、竹輪、コンニャク、ゆで卵など様々な具材を入れて煮込んだ料理である。具材の種類は地域や家庭によって異なる。

室町時代に出現した味噌田楽が原型である。田楽と呼ばれた料理には具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた「煮込み田楽」があり、煮込み田楽は上方では具を昆布だしの中で温め甘味噌をつけて供したが、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになった江戸では、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で煮込むようになり、女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになって、単に田楽といえば味噌田楽をさすようになった。江戸では振売や屋台で売られたが、焼き田楽より予め温めてある煮込み田楽が、味噌をつける味噌田楽よりおでんの方が、江戸の町民には好まれたという。
江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが上方に伝わり「関東炊き」や「関東煮(かんとだき)」と呼ばれるようになった。関東煮の語源については「かんとうふ煮」説や中国の煮込み料理に由来する「広東煮」説もある。「関東煮」は昆布・鯨・牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に変化していった。
その後、関東のおでんは廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが一時期主流となった。そのため、現在東京でも老舗とされる店の中で、薄味の店も少なく無い。1937年(昭和12年)発行の大日本帝国陸軍の調理教本「軍隊調理法」では、本項で述べるおでんが「関東煮」と表記されており、別途「肉味噌おでん」として田楽風の料理が記載されている。
通常のおでんとは異なった種類のおでんとして、コンニャクのみを具とする「こんにゃくおでん」(「味噌おでん」とも呼ばれる)がある。だし汁ではなく湯で煮込んで熱くしたコンニャクに甘い味噌ダレを付けて食べる淡白な食品で、古い時代の煮込み田楽の遺風を残している。

日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に東日本では醤油味の濃い色合い、西日本では薄い色合いが好まれる(ちなみに実際の塩分濃度は醤油の色の濃薄とは無関係)。したがって、おでんに関しても基本的には同様である。ただし、上記のような複雑な発展の経緯があったために、関東で関西風のだしが好まれたり、関西でも濃口醤油を用いたりすることがある。また、関西では、濃い色合いのものを関東煮、薄い色合いのものをおでんと呼び分ける傾向もある。薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方では、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。
北海道
北海道のおでんは、2種存在する。現在、一般的な物は、北海道産のコンブを用いた薄い醤油味。地域特色として海の幸(コンブ・タチ(タラの精巣)・カニ・ツブなど)・山菜(フキ・ネマガリダケなど)がある。縁日の屋台・海の家・雪祭りの飲食店の定番品である生姜風味の甘辛い味噌だれを串おでん(ダイコン・揚げかまぼこ(角天・マフラーなど)・白こんにゃく・ゆでたまご)にかけたものがある。串おでんの具材は、出汁ではなく水で茹でた物に味噌だれをかけた単純なものである。
以前は、手軽に食される串おでんが主流であったがコンビニのおでんの登場により薄い醤油味のものが定番となった。別添えに生姜味噌・和からしの小袋が付属する。現在、生姜風味の甘辛い味噌だれをかけた串おでんは、コンビニおでんでは、販売されない(但し、味噌味の串おでんのレトルト品は、存在する。ファミリーマートでは、「ちび太のおでん」(おでん串)は販売される)。
青森県青森市
ツブ貝、ネマガリダケ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。
静岡県静岡市
静岡市のおでんは濃口醤油を使い鶏ガラ(および牛すじ)でだしを取った長年継ぎ足しの黒いつゆを使用する。はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺し、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。これは「静岡おでん」と呼ばれ、発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」である。葵区にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。また季節を問わず食されており、夏場のプールなどでも販売しており、店によっては冬場より売れる所も存在する。おやつ、酒の肴、おかずと幅広く食されている。
長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。具は豆腐が良く食べられる。
富山県 塩と昆布やかつお節でとっただし汁に、玉子、大根、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこ、すりみなどを入れて煮込み、「白とろろ昆布」や練りからしを添えて食べる。昆布の消費量(一人当たり)日本一の県として、この「白とろろ昆布をのせて召し上がる」を「富山おでん会」としては、「富山おでん」の定義にしているが、富山県で一般的に食されているというわけではない。
愛知県
「味噌おでん」は、八丁味噌をベースとした甘めの汁でダイコン、こんにゃく等の具を煮込む。味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。
兵庫県姫路市
薄味だが、「関東煮(かんとだき)」ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。
香川県
おでんには白味噌ベースの甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。 「うどん店」では、必ずと言っても良いほど副食としてセルフサービス販売されている。
愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。 また、県内の一部の地域ではラーメン屋で提供され、ラーメンの出来上がりを待つ間に食べられている。
鹿児島県
鹿児島県のおでん(味噌おでん)については、味噌おでん (鹿児島風)を参照。
沖縄県
沖縄のおでんは、てびち(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられる。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共にてびちやソーキも具材として採用されている。 また、おでんに沖縄そばを入れる例もしばしばみられ、沖縄ファミリーマートやローソン沖縄では「おでんそば」も販売されている。 薬味には他の地域で一般的な和からしではなく、アメリカ製のマスタードが用いられることも多い。


和の海画像 : sakai_SIM南

室町時代に出現した味噌田楽が原型である。田楽と呼ばれた料理には具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた「煮込み田楽」があり、煮込み田楽は上方では具を昆布だしの中で温め甘味噌をつけて供したが、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになった江戸では、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で煮込むようになり、女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになって、単に田楽といえば味噌田楽をさすようになった。江戸では振売や屋台で売られたが、焼き田楽より予め温めてある煮込み田楽が、味噌をつける味噌田楽よりおでんの方が、江戸の町民には好まれたという。
江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが上方に伝わり「関東炊き」や「関東煮(かんとだき)」と呼ばれるようになった。関東煮の語源については「かんとうふ煮」説や中国の煮込み料理に由来する「広東煮」説もある。「関東煮」は昆布・鯨・牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に変化していった。
その後、関東のおでんは廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが一時期主流となった。そのため、現在東京でも老舗とされる店の中で、薄味の店も少なく無い。1937年(昭和12年)発行の大日本帝国陸軍の調理教本「軍隊調理法」では、本項で述べるおでんが「関東煮」と表記されており、別途「肉味噌おでん」として田楽風の料理が記載されている。
通常のおでんとは異なった種類のおでんとして、コンニャクのみを具とする「こんにゃくおでん」(「味噌おでん」とも呼ばれる)がある。だし汁ではなく湯で煮込んで熱くしたコンニャクに甘い味噌ダレを付けて食べる淡白な食品で、古い時代の煮込み田楽の遺風を残している。

日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に東日本では醤油味の濃い色合い、西日本では薄い色合いが好まれる(ちなみに実際の塩分濃度は醤油の色の濃薄とは無関係)。したがって、おでんに関しても基本的には同様である。ただし、上記のような複雑な発展の経緯があったために、関東で関西風のだしが好まれたり、関西でも濃口醤油を用いたりすることがある。また、関西では、濃い色合いのものを関東煮、薄い色合いのものをおでんと呼び分ける傾向もある。薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方では、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。
北海道
北海道のおでんは、2種存在する。現在、一般的な物は、北海道産のコンブを用いた薄い醤油味。地域特色として海の幸(コンブ・タチ(タラの精巣)・カニ・ツブなど)・山菜(フキ・ネマガリダケなど)がある。縁日の屋台・海の家・雪祭りの飲食店の定番品である生姜風味の甘辛い味噌だれを串おでん(ダイコン・揚げかまぼこ(角天・マフラーなど)・白こんにゃく・ゆでたまご)にかけたものがある。串おでんの具材は、出汁ではなく水で茹でた物に味噌だれをかけた単純なものである。
以前は、手軽に食される串おでんが主流であったがコンビニのおでんの登場により薄い醤油味のものが定番となった。別添えに生姜味噌・和からしの小袋が付属する。現在、生姜風味の甘辛い味噌だれをかけた串おでんは、コンビニおでんでは、販売されない(但し、味噌味の串おでんのレトルト品は、存在する。ファミリーマートでは、「ちび太のおでん」(おでん串)は販売される)。
青森県青森市
ツブ貝、ネマガリダケ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。
静岡県静岡市
静岡市のおでんは濃口醤油を使い鶏ガラ(および牛すじ)でだしを取った長年継ぎ足しの黒いつゆを使用する。はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺し、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。これは「静岡おでん」と呼ばれ、発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」である。葵区にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。また季節を問わず食されており、夏場のプールなどでも販売しており、店によっては冬場より売れる所も存在する。おやつ、酒の肴、おかずと幅広く食されている。
長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。具は豆腐が良く食べられる。
富山県 塩と昆布やかつお節でとっただし汁に、玉子、大根、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこ、すりみなどを入れて煮込み、「白とろろ昆布」や練りからしを添えて食べる。昆布の消費量(一人当たり)日本一の県として、この「白とろろ昆布をのせて召し上がる」を「富山おでん会」としては、「富山おでん」の定義にしているが、富山県で一般的に食されているというわけではない。
愛知県
「味噌おでん」は、八丁味噌をベースとした甘めの汁でダイコン、こんにゃく等の具を煮込む。味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。
兵庫県姫路市
薄味だが、「関東煮(かんとだき)」ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。
香川県
おでんには白味噌ベースの甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。 「うどん店」では、必ずと言っても良いほど副食としてセルフサービス販売されている。
愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。 また、県内の一部の地域ではラーメン屋で提供され、ラーメンの出来上がりを待つ間に食べられている。
鹿児島県
鹿児島県のおでん(味噌おでん)については、味噌おでん (鹿児島風)を参照。
沖縄県
沖縄のおでんは、てびち(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられる。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共にてびちやソーキも具材として採用されている。 また、おでんに沖縄そばを入れる例もしばしばみられ、沖縄ファミリーマートやローソン沖縄では「おでんそば」も販売されている。 薬味には他の地域で一般的な和からしではなく、アメリカ製のマスタードが用いられることも多い。


和の海画像 : sakai_SIM南
2011年09月24日
燗酒
燗酒(かんざけ)とは、加熱した酒のことである。なお、酒自体を加熱する行為のことを、燗(かん)を付ける、お燗(おかん)するなどと言う。ただし、お湯を加えることで酒の温度を上げる行為を燗とは言わず、その場合は、お湯割り(おゆわり)と呼んで区別される。基本的に、燗を行う時、加水(お湯も含む)は行われない。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
燗は、普通、日本酒、または、中国酒の一部を飲む際に行われます。日本酒を加熱したものを燗酒と呼ぶこともありますが、燗が行われるのは日本酒だけではありません。ただし、基本的には醸造酒でしか燗は行われません。また、暑い時期にはあまり行われず、寒い時期に多く行われる傾向にあります。燗は、日本や中国では古くから行われてきた行為であり、現在でも行われる行為ですが、世界的に見ると珍しい行為です。対して、酒のお湯割りは、世界中で行われる行為です。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
【 燗酒の歴史 】
お酒を温めて飲む「燗」は日本酒の特徴の一つですが、お酒を温めたと思われる「暖酒料炭一斛」という記載が、平安時代の延喜式(927年)にあります。また同じ延喜式に、お酒を温めた鍋だとされる「土熬堝(どこうなべ)」という文字も見られます。おそらく直接火にかける「直燗」用の鍋だと思われますが、どのような形をしていたのかは判りません。 平安時代に貴族の間で広く読まれた、中国の白楽天(はくらくてん)の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」には「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という有名な詩句がありますし、「万葉集」の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」には「・・・すべもなく寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒うちすすろいて・・・」と塩をなめながら、お湯でといた酒粕をすすって暖をとる、庶民の姿が歌われています。
また10世紀の「宇津保物語」の蔵開き下の巻に「酒樽に入れて据えてまがり(鋺:えん)して沸しつつ飲む」とあります。お鋺とは貝の器だったらしく、これに酒を入れて火にかけて燗をしたようです。
このようにお酒を温めて飲む習慣は、かなり古くから行われていたようですが、昔は、旧暦の菊の節句(新暦10月初旬頃)より、桃の節句(新暦4月上旬)まで酒を温めて飲んだ、と記載があります。
燗酒を飲んだ主な理由は、暖房器具が現在ほど多くなく、燗酒で簡単に暖を取ったからだと思われます。
二次的な理由として、江戸時代の酒は現在ほど米を精白することができなかったために、温めることで、酒質の悪さをごまかしたのだともいわれています。
そして一年中燗酒を飲む習慣は、燗徳利が酒席に登場した江戸時代後半から一般的になったようです。
【 日本酒の燗における温度 】

【 燗に適した酒 】
味の深い「味吟醸」、「ひやおろし(夏越し)の酒」、「古酒」など、熟成香が少しあり、味がまろやかなものが燗によいとされています。酒を燗すると、味わいを引き立たせ幅を持たせるので、味や香りがよくわかり、熟成した旨味を楽しめます。
逆に生酒や吟醸酒を燗すると、香りがつんつんし、味はピリピリと舌を刺激するなど違和感を感じることがあります。吟醸酒のような香りの高い高級酒は、50度を超す「熱燗」(あつかん)ではせっかくの香味が台無しになります。「人肌燗」から「ぬる燗」にするか、冷やしてその微妙な風味を味わって下さい。
「燗酒wiki他より」

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 場所
※ 今回の画像の徳利、熱燗セットは、りょーさん作 SIM内好評販売中!
【 舞姫・奉納舞動画 2011.1月 】

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
燗は、普通、日本酒、または、中国酒の一部を飲む際に行われます。日本酒を加熱したものを燗酒と呼ぶこともありますが、燗が行われるのは日本酒だけではありません。ただし、基本的には醸造酒でしか燗は行われません。また、暑い時期にはあまり行われず、寒い時期に多く行われる傾向にあります。燗は、日本や中国では古くから行われてきた行為であり、現在でも行われる行為ですが、世界的に見ると珍しい行為です。対して、酒のお湯割りは、世界中で行われる行為です。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
【 燗酒の歴史 】
お酒を温めて飲む「燗」は日本酒の特徴の一つですが、お酒を温めたと思われる「暖酒料炭一斛」という記載が、平安時代の延喜式(927年)にあります。また同じ延喜式に、お酒を温めた鍋だとされる「土熬堝(どこうなべ)」という文字も見られます。おそらく直接火にかける「直燗」用の鍋だと思われますが、どのような形をしていたのかは判りません。 平安時代に貴族の間で広く読まれた、中国の白楽天(はくらくてん)の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」には「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という有名な詩句がありますし、「万葉集」の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」には「・・・すべもなく寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒うちすすろいて・・・」と塩をなめながら、お湯でといた酒粕をすすって暖をとる、庶民の姿が歌われています。
また10世紀の「宇津保物語」の蔵開き下の巻に「酒樽に入れて据えてまがり(鋺:えん)して沸しつつ飲む」とあります。お鋺とは貝の器だったらしく、これに酒を入れて火にかけて燗をしたようです。
このようにお酒を温めて飲む習慣は、かなり古くから行われていたようですが、昔は、旧暦の菊の節句(新暦10月初旬頃)より、桃の節句(新暦4月上旬)まで酒を温めて飲んだ、と記載があります。
燗酒を飲んだ主な理由は、暖房器具が現在ほど多くなく、燗酒で簡単に暖を取ったからだと思われます。
二次的な理由として、江戸時代の酒は現在ほど米を精白することができなかったために、温めることで、酒質の悪さをごまかしたのだともいわれています。
そして一年中燗酒を飲む習慣は、燗徳利が酒席に登場した江戸時代後半から一般的になったようです。
【 日本酒の燗における温度 】

【 燗に適した酒 】
味の深い「味吟醸」、「ひやおろし(夏越し)の酒」、「古酒」など、熟成香が少しあり、味がまろやかなものが燗によいとされています。酒を燗すると、味わいを引き立たせ幅を持たせるので、味や香りがよくわかり、熟成した旨味を楽しめます。
逆に生酒や吟醸酒を燗すると、香りがつんつんし、味はピリピリと舌を刺激するなど違和感を感じることがあります。吟醸酒のような香りの高い高級酒は、50度を超す「熱燗」(あつかん)ではせっかくの香味が台無しになります。「人肌燗」から「ぬる燗」にするか、冷やしてその微妙な風味を味わって下さい。
「燗酒wiki他より」

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 場所
※ 今回の画像の徳利、熱燗セットは、りょーさん作 SIM内好評販売中!
【 舞姫・奉納舞動画 2011.1月 】
2011年09月23日
桔梗

万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本種であると言われている。絶滅危惧種である。
根は太く、黄白色。高さは40-100cm程度。葉は互生で長卵形、ふちには鋸歯がある。下面はやや白みがかっている。つぼみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっている。そのため "balloon flower" という英名を持つ。つぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて6-9月に星型の花を咲かせる。雌雄同花だが雄性先熟で、雄しべから花粉が出ているが雌しべの柱頭が閉じた雄花期、花粉が失活して柱頭が開き他の花の花粉を待ち受ける雌花期がある。花冠は広鐘形で五裂、径4-5cm、雄しべ・雌しべ・花びらはそれぞれ5本である。なお、園芸品種には白や桃色の花をつけるものや、鉢植え向きの草丈が低いもの、二重咲きになる品種やつぼみの状態のままほとんど開かないものなどがある。

花の形から「桔梗紋」が生まれた。美濃の山県氏、土岐氏一族は桔梗紋を紋所にしていた事で知られている。明智光秀も土岐氏一族であり、桔梗紋を用いていた。 安倍晴明が使用した五芒星を桔梗印と呼び、現在の晴明神社では神紋とされている。
桔梗紋は、土岐悪五郎の「…水色の笠符吹流させ…」という『太平記』の記述が文献上に初めて現れる。この「水色の笠符吹流させ」というのが桔梗を表す。【桔梗wiki】

【 犬夜叉-桔梗- 】
2011年09月22日
秋分
現在広まっている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったときで、9月23日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。西洋占星術では、秋分を天秤宮(てんびん座)の始まりとする。

日本ではこの日は国民の祝日の「秋分の日」となる。秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして閣議決定され、前年2月1日に暦要項として官報に告示される。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、彼岸の中日でもある。
春分と同様に、秋分では昼夜の長さがほぼ同じになる。『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。

秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。
元々農村部では、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を祝う自然信仰があり、山の神様である祖先の霊を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていました。しかし、仏教の浸透とともに秋分は「秋の彼岸」として祖先を供養する意味を持ち始めました。
明治時代に秋分の中日を「秋季皇霊祭〔しゅうきこうれいさい〕」と定め、宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着していきました。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

秋分(春分)の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言い、その7日間を彼岸と言います。秋分・春分はその中間に位置するため「彼岸の中日」と呼ばれています。
また「彼岸」とは元々仏教用語で「煩悩に満ちた世界から解脱した悟りの世界」を指します。これは、簡単に言えば「亡くなった先祖達の霊が住む世界」のことです。その祖先の霊を供養するために、私たちはお彼岸になると「お墓参り」へ行きます。
【 秋分wiki 他 】
【 祈り 第一幕 】2009年舞台動画

日本ではこの日は国民の祝日の「秋分の日」となる。秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして閣議決定され、前年2月1日に暦要項として官報に告示される。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、彼岸の中日でもある。
春分と同様に、秋分では昼夜の長さがほぼ同じになる。『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。
秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。
元々農村部では、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を祝う自然信仰があり、山の神様である祖先の霊を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていました。しかし、仏教の浸透とともに秋分は「秋の彼岸」として祖先を供養する意味を持ち始めました。
明治時代に秋分の中日を「秋季皇霊祭〔しゅうきこうれいさい〕」と定め、宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着していきました。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。

秋分(春分)の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言い、その7日間を彼岸と言います。秋分・春分はその中間に位置するため「彼岸の中日」と呼ばれています。
また「彼岸」とは元々仏教用語で「煩悩に満ちた世界から解脱した悟りの世界」を指します。これは、簡単に言えば「亡くなった先祖達の霊が住む世界」のことです。その祖先の霊を供養するために、私たちはお彼岸になると「お墓参り」へ行きます。
【 秋分wiki 他 】
【 祈り 第一幕 】2009年舞台動画
2011年09月21日
台風
今年は、自然の猛威よる爪痕被害が大きな年ですね。今週も台風が暴れています。
台風は、太平洋や南シナ海に存在する熱帯低気圧のうち、最大風速(10分間平均)が34ノット(17.2m/s)以上のものを指す。主に北緯2度~北緯40度付近の海上で発生する。

日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称する。フィリピンでは「バギョ(bagyo)」と呼ばれる。
江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書「颶風新話」)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。現在の台風という名は、1956年の同音の漢字による書きかえの制定にともなって、颱風と書かれていたのが台風と書かれるようになったものであるが、その由来には諸説がある。
WMOによる国際分類の定義では、日本の台風とは異なり、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものをタイフーン(typhoon)と呼ぶ。
同様の気象現象は世界各地にあり、それぞれの地方により呼び名が違う。国際分類では、大西洋北部・太平洋北東部・太平洋北中部では、ハリケーン(Hurricane)と呼び、インド洋北部・インド洋南部・太平洋南部では、サイクロン(Cyclone)と呼ぶ。
台風が、国際分類上、熱帯低気圧をハリケーンやサイクロンと呼ぶ区域に進んだ場合には、台風ではなくそれぞれの区域の名称で呼ばれることになる。東経180度より東(西経)に進んだ場合、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものはハリケーンと呼ばれ、34ノット以上64ノット未満のものをトロピカルストーム (Tropical Storm) と呼ばれる。また、マレー半島以西に進んだ場合、サイクロンと呼ばれる。

台風の中心が最も天気が荒れていると考えがちだが、中心付近は暴風が吹き荒れるものの風向きが乱れているために互いに打ち消し合い、最も荒れているわけではない。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなる。
台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上では台風の右側半分を危険半円と呼ぶ。逆に台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために比較的風は弱く、可航半円と呼ぶ。しかし、「可航半円」はかつて帆船が台風の進路方向の左側に入っている場合には右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(帆船が台風の進路方向の右側に入っている場合には右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないように保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
【 台風wikiより 】
「 祈り 第二幕 」2009年舞台動画
台風は、太平洋や南シナ海に存在する熱帯低気圧のうち、最大風速(10分間平均)が34ノット(17.2m/s)以上のものを指す。主に北緯2度~北緯40度付近の海上で発生する。

日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称する。フィリピンでは「バギョ(bagyo)」と呼ばれる。
江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書「颶風新話」)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。現在の台風という名は、1956年の同音の漢字による書きかえの制定にともなって、颱風と書かれていたのが台風と書かれるようになったものであるが、その由来には諸説がある。
WMOによる国際分類の定義では、日本の台風とは異なり、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものをタイフーン(typhoon)と呼ぶ。
同様の気象現象は世界各地にあり、それぞれの地方により呼び名が違う。国際分類では、大西洋北部・太平洋北東部・太平洋北中部では、ハリケーン(Hurricane)と呼び、インド洋北部・インド洋南部・太平洋南部では、サイクロン(Cyclone)と呼ぶ。
台風が、国際分類上、熱帯低気圧をハリケーンやサイクロンと呼ぶ区域に進んだ場合には、台風ではなくそれぞれの区域の名称で呼ばれることになる。東経180度より東(西経)に進んだ場合、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものはハリケーンと呼ばれ、34ノット以上64ノット未満のものをトロピカルストーム (Tropical Storm) と呼ばれる。また、マレー半島以西に進んだ場合、サイクロンと呼ばれる。

台風の中心が最も天気が荒れていると考えがちだが、中心付近は暴風が吹き荒れるものの風向きが乱れているために互いに打ち消し合い、最も荒れているわけではない。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなる。
台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上では台風の右側半分を危険半円と呼ぶ。逆に台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために比較的風は弱く、可航半円と呼ぶ。しかし、「可航半円」はかつて帆船が台風の進路方向の左側に入っている場合には右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(帆船が台風の進路方向の右側に入っている場合には右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないように保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
【 台風wikiより 】
「 祈り 第二幕 」2009年舞台動画
2011年09月19日
かえで
カエデ(槭、槭樹、楓)とはカエデ科カエデ属 の木の総称。
モミジ(紅葉、椛)とも呼ばれるが、その場合は様々な樹木の紅葉を総称している場合もある。主に童謡などで愛でられるものはそれである。赤・黄・緑など様々な色合いを持つ為、童謡では色を錦と表現している。

もみじの語源は秋に葉が赤や黄色に色づき、変わっていく様子を古く「紅葉づ(もみづ)」と言った動詞から転じたことから由来しており、秋に冬支度する落葉前に色づく植物全般を総称して「紅葉づ」と行っていたようです。中でも葉の切れこみの深い赤ちゃんの手のようなイロハモミジ葉が大変美しく好まれ、鑑賞されたところから人の手を広げたか達の葉を代表してもみじと呼ばれるようになり、またカエデは「蛙手(かえるて)」が転じたものと言われ、カエルの水かきのある足の形のように切れ込みの浅い葉をカエデと呼ぶようになったと考えられています。しかし、このような区別は日本的な園芸上のことで、植物学的にはもみじもカエデも「カエデ」と言い、どちらも分類上カエデ科のカエデ属の植物です。もみじという科や属はありません。
カエデ科植物は日本を始め北半球に広く分布し、各地に自生しています。自生地の気候や地形、地質、海抜などの環境に適応して、葉の形や大きさ、葉色、樹形などの性質や形態が個々に変化、進化して雌雄同株、その中間の雌雄別株の品種や、また、熱帯にまで進出していったものは、落葉せずに常緑してしまった珍しいものなどバラエティに富んでいます。北米のサトウカエデ、ヨーロッパ産のプラタノイデス、ノルウェーカエデ、コブカエデ、中国産のトウカエデなど知られていますが、これに近い品種を含め、実に世界的にみても数多くの野生種が凝縮したように日本列島の中に自生し、特に日光国立公園の地域はカエデの自生する品種の密度が高いところで、秋の紅葉の名所といわれる由縁であります。

カエデもそうですが、もみじと呼ばれるカエデは日本の秋をまさに代表する植物です。これらの自生種の中からすぐれた色を出すものを拾い集め、より見ごたえのあるものや変わり葉の園芸品種を江戸時代から作りだし、栽培、コレクションされてきました。その中には秋の紅葉のよい品種と、芽吹きから初夏に鑑賞される春もみじとがあります。第二次世界大戦の時になくなってしまった品種もありますが、今日では品種を復元し、より美しい品種が沢山作られました。現在では、原種、園芸品種を合わせて四百種類以上になります。

もみじといえば、だれもが紅葉の名所を思い浮かべ秋の紅葉の美しさは多くの人々が絶賛するところです。あまりにも秋だけ鑑賞するものとの思いが強すぎて、他の季節の良さがほとんど知られていないのは残念なことです。秋の紅葉は冬に向かい気温が下がり、生長が止まって休眠する前に色づき即、落葉の季節に数日で引き継がれます。秋は動きのないとても静かで透き通った美しさであるのに対して、春のもみじは生長の始めとしてとても強く華やかな若々しい枝や花、葉を次々と繰り出す動きのある世界です。芽吹きは一日で葉色と葉の姿が大きく変化するのです。秋の紅葉は気温、湿度、日当たりなどの紅葉するための条件がそろわず色づかない地域もありますが、春のもみじはすべて一様にどこでも春になれば芽吹いて楽しませてくれます。

【 地獄少女 】
【 地獄少女 三鼎ED 】
モミジ(紅葉、椛)とも呼ばれるが、その場合は様々な樹木の紅葉を総称している場合もある。主に童謡などで愛でられるものはそれである。赤・黄・緑など様々な色合いを持つ為、童謡では色を錦と表現している。

もみじの語源は秋に葉が赤や黄色に色づき、変わっていく様子を古く「紅葉づ(もみづ)」と言った動詞から転じたことから由来しており、秋に冬支度する落葉前に色づく植物全般を総称して「紅葉づ」と行っていたようです。中でも葉の切れこみの深い赤ちゃんの手のようなイロハモミジ葉が大変美しく好まれ、鑑賞されたところから人の手を広げたか達の葉を代表してもみじと呼ばれるようになり、またカエデは「蛙手(かえるて)」が転じたものと言われ、カエルの水かきのある足の形のように切れ込みの浅い葉をカエデと呼ぶようになったと考えられています。しかし、このような区別は日本的な園芸上のことで、植物学的にはもみじもカエデも「カエデ」と言い、どちらも分類上カエデ科のカエデ属の植物です。もみじという科や属はありません。
カエデ科植物は日本を始め北半球に広く分布し、各地に自生しています。自生地の気候や地形、地質、海抜などの環境に適応して、葉の形や大きさ、葉色、樹形などの性質や形態が個々に変化、進化して雌雄同株、その中間の雌雄別株の品種や、また、熱帯にまで進出していったものは、落葉せずに常緑してしまった珍しいものなどバラエティに富んでいます。北米のサトウカエデ、ヨーロッパ産のプラタノイデス、ノルウェーカエデ、コブカエデ、中国産のトウカエデなど知られていますが、これに近い品種を含め、実に世界的にみても数多くの野生種が凝縮したように日本列島の中に自生し、特に日光国立公園の地域はカエデの自生する品種の密度が高いところで、秋の紅葉の名所といわれる由縁であります。

カエデもそうですが、もみじと呼ばれるカエデは日本の秋をまさに代表する植物です。これらの自生種の中からすぐれた色を出すものを拾い集め、より見ごたえのあるものや変わり葉の園芸品種を江戸時代から作りだし、栽培、コレクションされてきました。その中には秋の紅葉のよい品種と、芽吹きから初夏に鑑賞される春もみじとがあります。第二次世界大戦の時になくなってしまった品種もありますが、今日では品種を復元し、より美しい品種が沢山作られました。現在では、原種、園芸品種を合わせて四百種類以上になります。

もみじといえば、だれもが紅葉の名所を思い浮かべ秋の紅葉の美しさは多くの人々が絶賛するところです。あまりにも秋だけ鑑賞するものとの思いが強すぎて、他の季節の良さがほとんど知られていないのは残念なことです。秋の紅葉は冬に向かい気温が下がり、生長が止まって休眠する前に色づき即、落葉の季節に数日で引き継がれます。秋は動きのないとても静かで透き通った美しさであるのに対して、春のもみじは生長の始めとしてとても強く華やかな若々しい枝や花、葉を次々と繰り出す動きのある世界です。芽吹きは一日で葉色と葉の姿が大きく変化するのです。秋の紅葉は気温、湿度、日当たりなどの紅葉するための条件がそろわず色づかない地域もありますが、春のもみじはすべて一様にどこでも春になれば芽吹いて楽しませてくれます。

【 地獄少女 】
【 地獄少女 三鼎ED 】
2011年09月18日
彼岸花
ヒガンバナは、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。クロンキスト体系ではユリ科。リコリス、曼珠沙華とも呼ばれる。

全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると葉は枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。つまり開花期には葉がなく、葉があるときは花がない。


彼岸花(ひがんばな)の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。上記の飢餓植物としての面から一考する価値はあると思われる。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、"天上の花"という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。 『万葉集』にみえる"いちしの花"を彼岸花とする説もある。また、毒を抜いて非常食としている事もあるので、悲願の花と言う意味もあるが一般的には危険である。
異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもある。一方、欧米では園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。日本での別名・方言は千以上が知られている。
また、韓国では夏水仙のことを花と葉が同時に出ることはないから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶのに、彼岸花も同じく花と葉が同時に出ることはないので彼岸花も相思花と呼ぶことが多い。日本では上記の「花と葉が同時に出ることはない」という理由から「葉見ず花見ず」とも言われる。【 彼岸花wikii 】

【 地獄少女画像 】
【 地獄少女 二籠ED あいぞめ 】

全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると葉は枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。つまり開花期には葉がなく、葉があるときは花がない。


彼岸花(ひがんばな)の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。上記の飢餓植物としての面から一考する価値はあると思われる。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、"天上の花"という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセンの花は白い)。 『万葉集』にみえる"いちしの花"を彼岸花とする説もある。また、毒を抜いて非常食としている事もあるので、悲願の花と言う意味もあるが一般的には危険である。
異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもある。一方、欧米では園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。日本での別名・方言は千以上が知られている。
また、韓国では夏水仙のことを花と葉が同時に出ることはないから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼ぶのに、彼岸花も同じく花と葉が同時に出ることはないので彼岸花も相思花と呼ぶことが多い。日本では上記の「花と葉が同時に出ることはない」という理由から「葉見ず花見ず」とも言われる。【 彼岸花wikii 】

【 地獄少女画像 】
【 地獄少女 二籠ED あいぞめ 】
2011年09月17日
秋雨
秋雨(あきさめ)とは、日本において9月中旬から10月上旬にかけて降る長雨のこと(年により差があり、8月下旬や9月上旬でも生じる場合もある)。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨ともいう。

8月中旬から9月上旬ごろになると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。早いときには8月中旬、普通は8月下旬から9月上旬ごろに寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

9月中旬から下旬ごろになると、寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。10月になると、太平洋高気圧は日本の東から小笠原諸島にかけての海上に完全に後退する。秋雨前線の停滞はまだ続くが、偏西風が日本の上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、晴れも増えてくる。10月中旬から下旬になると、秋雨前線は日本の東海上に抜け、途切れ途切れになって弱まる。このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、からっとした晴れと雨が交互に訪れる、典型的な秋の天気となる。

梅雨とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や温暖前線になったり、前線として現れない気圧の谷となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。
特に秋雨の時期は秋の台風シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって湿暖気流が流れ込み、積乱雲が発達して大雨となり、大規模な水害を引き起こす場合がある。また、上空に寒気が流れ込んだり、収束線が通過したり、低気圧が発達して前線が発達したりすると、大雨になることがある。
また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、正反対となっている。
秋雨前線の場合は通過後に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数℃~十数℃低下して急に冷え込むことがある。また、高山や寒冷地では霙や霰、雪が降ることもある。
梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。
梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、東南アジアから東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺にのみ見られる現象である。
【 秋雨wiki 】

Stabat Mater 2010年夏の終わり動画

8月中旬から9月上旬ごろになると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。早いときには8月中旬、普通は8月下旬から9月上旬ごろに寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

9月中旬から下旬ごろになると、寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。10月になると、太平洋高気圧は日本の東から小笠原諸島にかけての海上に完全に後退する。秋雨前線の停滞はまだ続くが、偏西風が日本の上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、晴れも増えてくる。10月中旬から下旬になると、秋雨前線は日本の東海上に抜け、途切れ途切れになって弱まる。このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、からっとした晴れと雨が交互に訪れる、典型的な秋の天気となる。

梅雨とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や温暖前線になったり、前線として現れない気圧の谷となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。
特に秋雨の時期は秋の台風シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって湿暖気流が流れ込み、積乱雲が発達して大雨となり、大規模な水害を引き起こす場合がある。また、上空に寒気が流れ込んだり、収束線が通過したり、低気圧が発達して前線が発達したりすると、大雨になることがある。
また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、正反対となっている。
秋雨前線の場合は通過後に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数℃~十数℃低下して急に冷え込むことがある。また、高山や寒冷地では霙や霰、雪が降ることもある。
梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。
梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、東南アジアから東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺にのみ見られる現象である。
【 秋雨wiki 】

Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
2011年09月16日
秋の雲
うろこ雲・いわし雲・さば雲はどれも秋の季語である。低緯度から高緯度まで広い地域でほぼ年中見られるが、日本では、秋は台風や移動性低気圧が多く近づくため特に多く見られ、秋の象徴的な雲だとされる。

巻積雲(けんせきうん)は雲の一種。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れをなし、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした雲。絹積雲とも書く。また、鱗雲(うろこ雲)、鰯雲(いわし雲)、さば雲などとも呼ばれる。
巻積雲の雲形は、高積雲のそれとよく似ており、判別が難しい。巻積雲と高積雲の見分け方としては以下のようなものが挙げられる。
・雲のできる高さ(巻積雲の方が高い所にできる)
・一つ一つの雲の大きさ(巻積雲の方が小さい。おおむね、天空上での見かけの大きさ(視角度)が1度より小さいものを巻積雲とする。)
・雲の薄さ、光の透過具合(巻積雲の方が薄く、太陽の光が透けるので、影ができない)
巻積雲は、その形によってさらに細かく層状雲、レンズ雲、塔状雲、房状雲に分類されることがある。

高積雲(こうせきうん)は雲の一種。小さな塊状の雲片が群れをなして、斑状や帯状の形をつくり、白色で一部灰色の陰影をもつ雲のこと。まだら雲、ひつじ雲、叢雲(むら雲)とも言う。
巻積雲よりも塊が大きく、はっきりとした白色をしており、下部が灰色になる。雲片の大きさは巻積雲より大きく、天空上の見かけの大きさ(視角度)が約1〜5度の範囲内にあるものを高積雲と分類する。発達して空を広く覆うと、太陽光が遮られて薄暗くなることが多い。

高度 2 〜 7 km 程度にでき、雲を構成する粒は大抵氷の結晶からなるが、巻積雲と違って水滴の場合もある。【 巻積雲・高積雲wikiより 】
Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
巻積雲(けんせきうん)は雲の一種。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れをなし、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした雲。絹積雲とも書く。また、鱗雲(うろこ雲)、鰯雲(いわし雲)、さば雲などとも呼ばれる。
巻積雲の雲形は、高積雲のそれとよく似ており、判別が難しい。巻積雲と高積雲の見分け方としては以下のようなものが挙げられる。
・雲のできる高さ(巻積雲の方が高い所にできる)
・一つ一つの雲の大きさ(巻積雲の方が小さい。おおむね、天空上での見かけの大きさ(視角度)が1度より小さいものを巻積雲とする。)
・雲の薄さ、光の透過具合(巻積雲の方が薄く、太陽の光が透けるので、影ができない)
巻積雲は、その形によってさらに細かく層状雲、レンズ雲、塔状雲、房状雲に分類されることがある。
高積雲(こうせきうん)は雲の一種。小さな塊状の雲片が群れをなして、斑状や帯状の形をつくり、白色で一部灰色の陰影をもつ雲のこと。まだら雲、ひつじ雲、叢雲(むら雲)とも言う。
巻積雲よりも塊が大きく、はっきりとした白色をしており、下部が灰色になる。雲片の大きさは巻積雲より大きく、天空上の見かけの大きさ(視角度)が約1〜5度の範囲内にあるものを高積雲と分類する。発達して空を広く覆うと、太陽光が遮られて薄暗くなることが多い。

高度 2 〜 7 km 程度にでき、雲を構成する粒は大抵氷の結晶からなるが、巻積雲と違って水滴の場合もある。【 巻積雲・高積雲wikiより 】
Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
2011年09月15日
稲荷神
稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つ。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれる。

稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社となっている。 稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神を祀る、赤い鳥居と白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた。 720年、既に『日本書紀』に日本武尊を助ける白狐が登場している。
711年に、最初の稲荷神が登場する。 宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。 時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになった。
江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がった。 またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。 また仏教系の神である荼枳尼天は金狐・銀狐(きんこ・ぎんこ)という眷属を持ち、稲荷神と同一視される原因となったが、正確には稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物といわれる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。

稲荷神社では、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われる。これは、伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午だったからと言われる。これに際し東京では、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を街頭に飾ることがある。
稲荷神には大別して2系統あり、片方は伏見稲荷大社などに祀られる稲荷神(篠村八幡宮、祐徳稲荷神社等)。もう一つは狐神として祀られ庶民の間から派生した稲荷神である。
【 稲荷神wikiより 】

※ 肩乗り巫女
大神稲荷 場所
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社となっている。 稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神を祀る、赤い鳥居と白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた。 720年、既に『日本書紀』に日本武尊を助ける白狐が登場している。
711年に、最初の稲荷神が登場する。 宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。 時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになった。
江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がった。 またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。 また仏教系の神である荼枳尼天は金狐・銀狐(きんこ・ぎんこ)という眷属を持ち、稲荷神と同一視される原因となったが、正確には稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物といわれる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。

稲荷神社では、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われる。これは、伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午だったからと言われる。これに際し東京では、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を街頭に飾ることがある。
稲荷神には大別して2系統あり、片方は伏見稲荷大社などに祀られる稲荷神(篠村八幡宮、祐徳稲荷神社等)。もう一つは狐神として祀られ庶民の間から派生した稲荷神である。
【 稲荷神wikiより 】

※ 肩乗り巫女
大神稲荷 場所
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33
2011年09月14日
秋
秋(あき)は、四季の1つであり夏の後、冬の前に位置する。

日本では夏の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚えたり、吹いてくる風に爽やかさを感じたりする。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、運動会や文化祭がある。稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾る。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が永く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には露が置き、木々は紅葉してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。

気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。

秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、果実が生じる。これは夏ほど暑くない、好適な気温の季節であること、それに冬を迎えるために多年生の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして生活史の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。
「秋wikiより」
※ 秋になると一番思い出す曲 「ちいさい秋みつけた」かな?
※ MOD竹取物語予告: みるきー舞姫秋公演動画(2010年)です。

日本では夏の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚えたり、吹いてくる風に爽やかさを感じたりする。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、運動会や文化祭がある。稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾る。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が永く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には露が置き、木々は紅葉してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。

気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。

秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、果実が生じる。これは夏ほど暑くない、好適な気温の季節であること、それに冬を迎えるために多年生の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして生活史の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。
「秋wikiより」
※ 秋になると一番思い出す曲 「ちいさい秋みつけた」かな?
※ MOD竹取物語予告: みるきー舞姫秋公演動画(2010年)です。
2011年09月13日
紅葉
紅葉(こうよう、もみじ)とは、主に落葉広葉樹が落葉の前に葉の色が変わる現象。
葉の色が赤変することだけを紅葉(こうよう)と呼ぶ。

一般に落葉樹のものが有名であり、秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。また、同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あり、いまだ明らかになっていない。

日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶ。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。ただし、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
紅葉や黄葉が進行する条件は、日最低気温が10℃以下になると進み色付き始めて、さらに5℃以下になると一気に進むとされる。美しい紅葉の条件には「昼夜の気温の差が大きい」「夏が暑く日照時間が長い」「夏に充分な雨が降る」「湿気が少なく乾燥している」などの条件が必要。紅葉の名所にはこの条件をよく満たす山間部が多い。

「もみじ」(旧仮名遣い: もみぢ)の名は、通説として、秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づく、「揉み出るもの」の意(「揉み出づ」の転訛「もみづ」の名詞形)であるという。なお、鹿肉のことを「紅葉肉」と呼ぶのは、獣肉全般の精肉を生業とする「百々獣爺」からきている。
日本では、紅葉の季節になると紅葉を見物する行楽、紅葉狩り(もみじがり)に出かける人が多い。紅葉の名所と言われる箇所は(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)は行楽客であふれる。紅葉をめでる習慣は平安の頃の風流から始まったとされ、特に京都市内では多くの落葉樹が植樹されている。また、「草紅葉」の名所としては四万十川や尾瀬、秋吉台等がある。なお、この場合の「狩り」というのは「草花を眺めること」の意味をさし、平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法があった。
(紅葉wikiより)
「 Milky House - Autumn - 2010より 動画 」
葉の色が赤変することだけを紅葉(こうよう)と呼ぶ。

一般に落葉樹のものが有名であり、秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。また、同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あり、いまだ明らかになっていない。

日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶ。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。ただし、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
紅葉や黄葉が進行する条件は、日最低気温が10℃以下になると進み色付き始めて、さらに5℃以下になると一気に進むとされる。美しい紅葉の条件には「昼夜の気温の差が大きい」「夏が暑く日照時間が長い」「夏に充分な雨が降る」「湿気が少なく乾燥している」などの条件が必要。紅葉の名所にはこの条件をよく満たす山間部が多い。

「もみじ」(旧仮名遣い: もみぢ)の名は、通説として、秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づく、「揉み出るもの」の意(「揉み出づ」の転訛「もみづ」の名詞形)であるという。なお、鹿肉のことを「紅葉肉」と呼ぶのは、獣肉全般の精肉を生業とする「百々獣爺」からきている。
日本では、紅葉の季節になると紅葉を見物する行楽、紅葉狩り(もみじがり)に出かける人が多い。紅葉の名所と言われる箇所は(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)は行楽客であふれる。紅葉をめでる習慣は平安の頃の風流から始まったとされ、特に京都市内では多くの落葉樹が植樹されている。また、「草紅葉」の名所としては四万十川や尾瀬、秋吉台等がある。なお、この場合の「狩り」というのは「草花を眺めること」の意味をさし、平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法があった。
(紅葉wikiより)
「 Milky House - Autumn - 2010より 動画 」
2011年09月11日
22:00開催
みるきー舞姫スタッフ 画像

【 みるきー舞姫公式ブログより】
9月11日は『MOD女陰陽師』の最終公演となります。前回のMODシリーズは竹取物語で約1時間の二回公演でした。今回の女陰陽師は約2時間の三回公演。舞台美術などを直したり演目自体も変更してきたりしてます。特に今回は、白蛇の間(第一話)の構成を『それなり』に変更しております。
開演直後の演目ですので『間に合わなかった><』 『はいれなかったorz』 とかコメントをいただきます。過去2回22時定刻で開始しております。『それなり』に興味をお持ちでしたら特設会場は1時間前に入れるようになっておりますので早めにご入場いただければと思います。
舞姫御殿前入口よりテレポーターにて進んでいただくと待合室に到着をします。待合室には、各物語のパネルが置かれていますので待ち時間を利用して物語を知っていただくとより楽しめると思われます。
公演当日は、沢山の方のお越しをお待ちしております。
【 2011年 MOD女陰陽師 第一話 白蛇の間 動画 】
※ 過去の二回の公演模様
【 MOD女陰陽師 会場のご案内 】
女陰陽師会場は、こちら

●下記のLMでお越しいただくとMIlkyHouse_SIMのこの辺りに到着します。舞姫御殿へ向かいご案内パネルがある場所へ進んでください。


●御殿前の箱の中(当日、箱は消えています)に3基の空中会場行きテレポーターがあります。ご案内ノートとステージ明るさ最適化グッズを忘れずに受け取りましょう。

●会場の待合室に到着しますと5会場(5話分)の説明パネルがございます。

●空中会場 画像 ※ こんな構造です。

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【 みるきー舞姫公式ブログより】
9月11日は『MOD女陰陽師』の最終公演となります。前回のMODシリーズは竹取物語で約1時間の二回公演でした。今回の女陰陽師は約2時間の三回公演。舞台美術などを直したり演目自体も変更してきたりしてます。特に今回は、白蛇の間(第一話)の構成を『それなり』に変更しております。
開演直後の演目ですので『間に合わなかった><』 『はいれなかったorz』 とかコメントをいただきます。過去2回22時定刻で開始しております。『それなり』に興味をお持ちでしたら特設会場は1時間前に入れるようになっておりますので早めにご入場いただければと思います。
MOD女陰陽師 公演開始時刻 9月11日(日)21:00開場 22:00開演
舞姫御殿前入口よりテレポーターにて進んでいただくと待合室に到着をします。待合室には、各物語のパネルが置かれていますので待ち時間を利用して物語を知っていただくとより楽しめると思われます。
公演当日は、沢山の方のお越しをお待ちしております。
【 2011年 MOD女陰陽師 第一話 白蛇の間 動画 】
※ 過去の二回の公演模様
【 MOD女陰陽師 会場のご案内 】
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●御殿前の箱の中(当日、箱は消えています)に3基の空中会場行きテレポーターがあります。ご案内ノートとステージ明るさ最適化グッズを忘れずに受け取りましょう。

●会場の待合室に到着しますと5会場(5話分)の説明パネルがございます。

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2011年09月11日
21時開場 女陰陽師最終公演

【 みるきー舞姫公式ブログより】
9月11日は『MOD女陰陽師』の最終公演となります。前回のMODシリーズは竹取物語で約1時間の二回公演でした。今回の女陰陽師は約2時間の三回公演。舞台美術などを直したり演目自体も変更してきたりしてます。特に今回は、白蛇の間(第一話)の構成を『それなり』に変更しております。
開演直後の演目ですので『間に合わなかった><』 『はいれなかったorz』 とかコメントをいただきます。過去2回22時定刻で開始しております。『それなり』に興味をお持ちでしたら特設会場は1時間前に入れるようになっておりますので早めにご入場いただければと思います。
MOD女陰陽師 公演開始時刻 9月11日(日)21:00開場 22:00開演
舞姫御殿前入口よりテレポーターにて進んでいただくと待合室に到着をします。待合室には、各物語のパネルが置かれていますので待ち時間を利用して物語を知っていただくとより楽しめると思われます。
公演当日は、沢山の方のお越しをお待ちしております。
【 2011年 MOD女陰陽師 第五話奉納舞 黒桜の間 動画 】
※ 過去の二回の公演模様
【 MOD女陰陽師 会場のご案内 】
女陰陽師会場は、こちら

●下記のLMでお越しいただくとMIlkyHouse_SIMのこの辺りに到着します。舞姫御殿へ向かいご案内パネルがある場所へ進んでください。


●御殿前の箱の中(当日、箱は消えています)に3基の空中会場行きテレポーターがあります。ご案内ノートとステージ明るさ最適化グッズを忘れずに受け取りましょう。

●会場の待合室に到着しますと5会場(5話分)の説明パネルがございます。

●空中会場 画像 ※ こんな構造です。

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みるきー舞姫スタッフ 画像

2011年09月11日
今宵女陰陽師・最終公演
みるきー舞姫スタッフ 画像

【 みるきー舞姫公式ブログより】
9月11日は『MOD女陰陽師』の最終公演となります。前回のMODシリーズは竹取物語で約1時間の二回公演でした。今回の女陰陽師は約2時間の三回公演。舞台美術などを直したり演目自体も変更してきたりしてます。特に今回は、白蛇の間(第一話)の構成を『それなり』に変更しております。
開演直後の演目ですので『間に合わなかった><』 『はいれなかったorz』 とかコメントをいただきます。過去2回22時定刻で開始しております。『それなり』に興味をお持ちでしたら特設会場は1時間前に入れるようになっておりますので早めにご入場いただければと思います。
舞姫御殿前入口よりテレポーターにて進んでいただくと待合室に到着をします。待合室には、各物語のパネルが置かれていますので待ち時間を利用して物語を知っていただくとより楽しめると思われます。
公演当日は、沢山の方のお越しをお待ちしております。
【 2011年 MOD女陰陽師 第一話 白蛇の間 動画 】
※ 過去の二回の公演模様
【 MOD女陰陽師 会場のご案内 】
女陰陽師会場は、こちら

●下記のLMでお越しいただくとMIlkyHouse_SIMのこの辺りに到着します。舞姫御殿へ向かいご案内パネルがある場所へ進んでください。


●御殿前の箱の中(当日、箱は消えています)に3基の空中会場行きテレポーターがあります。ご案内ノートとステージ明るさ最適化グッズを忘れずに受け取りましょう。

●会場の待合室に到着しますと5会場(5話分)の説明パネルがございます。

●空中会場 画像 ※ こんな構造です。

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【 みるきー舞姫公式ブログより】
9月11日は『MOD女陰陽師』の最終公演となります。前回のMODシリーズは竹取物語で約1時間の二回公演でした。今回の女陰陽師は約2時間の三回公演。舞台美術などを直したり演目自体も変更してきたりしてます。特に今回は、白蛇の間(第一話)の構成を『それなり』に変更しております。
開演直後の演目ですので『間に合わなかった><』 『はいれなかったorz』 とかコメントをいただきます。過去2回22時定刻で開始しております。『それなり』に興味をお持ちでしたら特設会場は1時間前に入れるようになっておりますので早めにご入場いただければと思います。
MOD女陰陽師 公演開始時刻 9月11日(日)21:00開場 22:00開演
舞姫御殿前入口よりテレポーターにて進んでいただくと待合室に到着をします。待合室には、各物語のパネルが置かれていますので待ち時間を利用して物語を知っていただくとより楽しめると思われます。
公演当日は、沢山の方のお越しをお待ちしております。
【 2011年 MOD女陰陽師 第一話 白蛇の間 動画 】
※ 過去の二回の公演模様
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