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2011年11月05日

年神

年神(としがみ、歳神とも)は、神道の神である。



毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされるようになった。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。有名な話では、正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという話がある。



日本神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
大年神は他に多くの神の父とされている。それだけ重要な神とされていたことがわかる。
「 年神wikiより 」


【 大神稲荷神社 】 堺(Japan Graffiti sakai SIM)  


Posted by hidesun(英寸) at 17:14Comments(0)和文化

2011年11月04日

かみさま日和

突然 職業が巫女になってしまった女性の奮闘記 今年、一押しの神社を舞台とした漫画 「かみさま日和」。


【 堺(Japan Graffiti sakai SIM)大神稲荷画像 場所 】

舞台は九州・福岡。主人公の有坂史美華(24)は再就職で今日からOLだと出社してみればいきなり倒産!
社員寮をアテにしてアパート引き払っちゃったし、財布さえも落として無銭飲食犯になるところを助けてくれたのは天晴神社の神主の矢部。こうして拾われた有坂はOLをやるつもりだったのが、住み込みで巫女として働くようになりました。



有坂史美華(ありさか ふみか)
本作のヒロイン。24歳独身。父親曰く、『中途半端でいい加減』な性格で何をやっても途中でうまくいかず物事が長続きしない。劇中では語りも担当しているという設定である。
本来OLとして働くはずが、出勤初日から会社が倒産してしまい、残りの金も僅かな状況で喫茶店で昼食を取ったものの、今度は財布を失くしたため支払いが出来ず困っていたところを神主の矢部に助けられ[3]、その代償として天晴神社で巫女として働くこととなる。神社とはあまり縁が無かったためか、それらに関する知識は一切持っていない。社員寮目当てで出社当日にアパートを引き払ってしまったため、矢部の家に下宿している。
当初は戸惑いながらも、仲間達の支えや訪れる参拝客との触れ合いによって、ついには「ちょっとした有名人」と呼ばれるほど巷で噂に。そして、氏子総代の名越の推薦で正月の巫女舞に抜擢[4]。期待に応えて奮闘を決意するも、本番前日に事実を知った両親が娘を連れ戻そうと神社に押しかけ、自身は抵抗したものの、父親から「女の力を借りないと何も出来ない奴」と挑発された矢部から「いなくても困らない」と言われたことにショックを受け、図らずも実家へと帰ってしまう。しかし、自分がみんなからまだ必要とされていることに気づき、神社へ戻ることを決意。打ち切り寸前になっていた巫女舞を無事に行い、初日の出と共に一回り成長した姿を見せた。

天晴神社(てんせいじんじゃ)
丘の上にある史美華が働くことになった就職先の神社。従業員は神主と宮大工を含んでたったの5名のみ。そこで勤めている者たちの大半はキャラの濃い者ばかりである。元は寂れた場所であったが、神主の矢部によって立て直されている。約1100年前の平安時代から健在している。モデルとなったのは北九州市の八幡東区にある神社、天疫神社である。

矢部カツミ(やべ カツミ)
先代である父親の跡を継いだ天晴神社の神主。5月5日生まれの32歳。アゴ髭に眼鏡がチャームポイント。喫茶店で昼食を取っていた最中に会社が倒産して失職した史美華を引き取って神社の巫女として雇う。不器用で意地っ張りな性格ではあるが、帰る場所の無い史美華を自分の自宅に居候させるなど、思いやりな一面も持っている。ペットに亀の「もっきゅん」を飼っている。

林田(はやしだ)
天晴神社で働いている巫女仲間の一人で巫女長だが、センスはゼロ。22歳。宮大工の天条にほの字。愛称はリンダ。男勝りな一面もある。

水無月シノ(みなづき シノ)
天晴神社で働いている巫女仲間の一人。17歳で高校2年生[5]と、巫女の中では最年少。常に冷静で人前で笑顔を見せる一面は少ない。巫女舞ができるほどの腕の持ち主であるが、大勢の前だと緊張して固まってしまう。1年前、巫女舞で失敗したことで大恥をかき、それ以来トラウマとなっている。

天条(てんじょう)
天晴神社の宮大工で矢部とは幼なじみ。呑気な性格。大工の傍ら、着ぐるみの制作も得意。



巫女とはどんな職業なのか紹介してるのはもちろん、催事などでの正しいやり方はどうするのかが描かれていて普通にタメになったりします。が、やはり多くは有坂のこと。新人で右も左もわからないヒヨっ子が徐々に能力を蓄えて成長していく姿には応援したくなります。
成長していく有坂は巻末のエピソードによって人々が感動する神事を立派に果たします。これは綺麗と言うか美しいので必見ですよ。神道の知識がない方でも十分楽しめる内容でえす。
神道の知識がある方ならもっと楽しめる内容なので、興味のある方は是非この『かみさま日和』を買って読んでみて下さい。



●2011年4月16日 1巻 発売 
●2011年12月15日 2巻 発売予定

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:05Comments(0)漫画

2011年11月03日

蕎麦②



蕎麦屋
通常、蕎麦を食わせる店は蕎麦の専門店、もしくは蕎麦とうどんのみを扱う店であることが多く、これを蕎麦屋(そばや)という。蕎麦屋は江戸時代中期ごろから見られる商売で、会席や鰻屋に比べると安価で庶民的とされる。蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だった。
蕎麦屋の起源は不明だが、江戸時代後期に書かれた2種の書物『三省録』・『近世風俗志』にて、寛文4年(1664年)に「慳貪(けんどん)蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在したことが推測できる。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって二八蕎麦・夜鷹蕎麦・風鈴蕎麦などとも呼ばれた。当初は、現在のファーストフードのような小腹を満たす食事であり、その後も軽食といった位置づけが完全に抜けることはないままに推移している。この屋台蕎麦屋の伝統は姿を変えて、現在の立ち食い蕎麦にまで続いていると捉えることも出来る。店を構えた蕎麦屋が増えるのは1700年代後半のことと考えられている。
その一方で、蕎麦を食することを下賎の風習として上流階層が敬遠していたとする史料もある。武家の有職故実の大家だった伊勢貞丈の『貞丈雑記』には蕎麦切りを食することは「古くありし物なれ共、表向などへ出さざる物故、喰様の方式なども記さざるなるべし」と記して、武家や公家などの間では人前で蕎麦を食するものではなかったと解説し、前述の『三省録』でも「下賎のものは買ひて食ひしが、小身にても御旗本の面々調へて(=買って)食ふことなし、近年いつとなく、調へて食う様には成りたり」と記して、かつては生活が苦しい小身旗本でも蕎麦を食べるような事はなかったと記している。
蕎麦屋の特色は、蕎麦を中心に品数があまり多くなく、酒を飲ませることを念頭においているところにある。特に東京ではその傾向が強い。蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称する。現在でも同程度の蕎麦屋とうどん屋を比べると、出す酒の種類は蕎麦屋のほうが多いのが普通である。主なメニューは、各種の蕎麦や酒のほかに、種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する抜き(ヌキ、天麩羅、かしわ、鴨、卵、など、天ぬきの項も参照)や蒲鉾=「板わさ」、わさび芋、焼海苔、厚焼き玉子、はじかみショウガと味噌、また場合によっては親子丼などの丼ものなど。また店によっては、茹でた蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦が品書きにあることもある。これは箸休め、あるいは乾き物として酒肴にされる。
太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外のさまざまな用途があった。まず、町内の人間が湯の帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆくざっかけない店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。
戦後はこうした雰囲気も徐々に薄れてきたが、いまだに味のよい蕎麦と酒を出し、静かな雰囲気で他の料理屋とは違う一種独特な風情を楽しむことができる店も存在する。蕎麦はたんぱく質を最も多く含む穀物で、米と大豆と共に摂ったと同じ栄養バランスがあり、酒と蕎麦の組み合わせは、栄養学的にも優れている。



蕎麦湯
蕎麦を茹でるのに用いたゆで湯の蕎麦湯(そばゆ)を、浸け麺の蕎麦に添えて湯桶で飲用に出す店が多い。この蕎麦湯を残った蕎麦つゆに湯桶から注ぎ入れて割り、最後の締めに飲む。蕎麦を食べ終わる時間を見計らって蕎麦湯の湯桶を時間差で持ってくる店が多いが、蕎麦と同時に持ってくる店もある。蕎麦つゆと割らず蕎麦湯のみを飲む人もいる。残った蕎麦つゆを一旦捨てて、新しい蕎麦つゆと蕎麦湯を割って飲む人もいる。なお、通常温かい蕎麦に蕎麦湯は添えて出されない。
良水を多量に使用する店では蕎麦湯はサラッと薄く、ゆで湯が少なめで使いまわしている店ほど濃くなる傾向にあるが、ドロッと白濁した濃い蕎麦湯を好む客も多く、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客もいるため、わざわざゆで湯を煮詰めたり、そば粉や小麦粉を溶かし込んでわざわざ濃い蕎麦湯を作る店もある。
冷やしの蕎麦つゆはそのまま飲むには味が濃いので、この蕎麦湯をいれて蕎麦つゆの出汁を味わう目的がある。
近年の蕎麦ブームのため、蕎麦喰いが一般的になり、蕎麦湯での塩分のとりすぎに注意する旨の表示も見られ、蕎麦湯のみを飲む(味わう)人が増えてきた。そういうことから、蕎麦湯に残った蕎麦の風味や、ゆで湯の水の味(蕎麦屋では良水をゆで湯使用することが多い)など、蕎麦湯そのものを味わう楽しみにも焦点があてられるようになった。
なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むという説は、蕎麦の茹で時間が30-60秒と極めて短く、溶け出す量は限られること、またルチンは不溶性であること等から考えると、あまり理にかなってはいない。
酒類を提供している蕎麦屋の一部では、焼酎(甲類)を蕎麦湯で割った「蕎麦湯割り」なるメニューがある。



蕎麦文化
東京
蕎麦専門店だけではなく、うどんも提供する店もありこのような店も「蕎麦屋」と呼ぶ。立ち食い店も多い。蕎麦と酒を楽しむ趣向もある。
古く江戸では、うどんも盛んに食べられていた。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、白米を多食する人に見られ「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる。
蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、意外な資料価値がある。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。
以後、江戸→東京では、蕎麦を手繰ることに一種の「粋」を見出す高い価値付けさえ生じるようになり、「夕方早くに蕎麦屋で独り、種物の蕎麦を肴に酒を飲む」ことが、スノッブ(俗物根性)さも臭わせる趣味として横行するまでに至る。江戸では、蕎麦を食べることを「手繰る」(たぐる)ともいう。このような言葉を使うこと自体、一つの気取りと言える。
蕎麦つゆに蕎麦をたっぷりと浸すのは田舎者であり、江戸っ子はさっとつけて啜り込むのを粋とする、という風潮もあったことは、10代目金原亭馬生が落語『そば清』に、江戸っ子が「一度でいいから蕎麦をつゆにたっぷりつけて食ってみたかった」と言い残して事切れる、という有名な枕を付け加えているほどに顕著なことであった。



関西
関西における蕎麦処の筆頭は兵庫県豊岡市出石町(出石城下町)で、皿そば「出石そば」は広く知られている。これは江戸時代に蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主仙石政明が出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて来て以来の伝統とされる。このためか兵庫県では出石や丹波篠山など地元の蕎麦のほかに全国各地の蕎麦を出す店が多く存在する。
京都は古くからの蕎麦屋が多い。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためである。また、有名なニシンそばは幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ている。全体的に見れば、大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるが、大阪のようにそば屋がうどんを提供する場合は極めて稀である。
大阪では「そば」より「うどん」の方が一般的に好まれるとされ、立場が東京とは全く逆である。うどん屋が利用者のニーズに応えて「そば」も出しているという概念が強く、蕎麦屋であってもうどんを提供する店も存在する。また、出汁は元来うどんに用いる前提で作られた、淡口醤油を基調とした透き通ったものを用いることが多い。しかし、それによって生まれた文化もあり、たぬき(油揚げの乗ったそば)やとろろ昆布が乗ったこぶそばは大阪が発祥である。また、そばは産地の関係か一般に黒そば、田舎そばなどとと呼ばれる殻ごと碾いたものが好まれる傾向にある。

  
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Posted by hidesun(英寸) at 17:05Comments(0)和文化

2011年11月02日

蕎麦①

蕎麦(そば)は、穀物のソバの実を原料として加工した、日本の麺類の一種、および、それを用いた料理である。今日、単に「蕎麦(そば)」と呼ぶ場合、通常は蕎麦切り(そばきり)を指す。中華そばなどと区別して日本蕎麦(にほんそば)とも呼ばれる。歴史は古く、うどんや寿司、天麩羅と並ぶ代表的な日本料理である。この蕎麦の調味として作られる「蕎麦つゆ」や「蕎麦汁」は、主に西と東では色・濃さ・味になどに明らかな違いがあり、その成分も各地によって好みが分かれる。なお、蕎麦をゆでたゆで湯は蕎麦湯として飲用に供される。


歴史
ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無い。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明している。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。


  
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Posted by hidesun(英寸) at 20:44Comments(0)和文化

2011年11月01日

七五三

七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力である。



男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁より)。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多い。地方によっては男の子の3歳を行わない所もある。現在では北海道を除いた全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。



旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっている。北海道等、寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行なう場合が多い。3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。現代では行事に正装に準じた衣装(晴れ着)で臨み、洋服の場合もあるが和服の方が多い。少女(極稀に少年)は、この時に初めて化粧(厚化粧の場合が多い)をして貰う場合が多い。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。



七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされている。



千歳飴の製法には地方ごとに形状や色が異なる。
関東の千歳飴は水飴と砂糖を材料とし、鍋の中で140度程度の熱に達するまで煮詰めたのち鍋から取り出して平たく展ばして冷却する。硬化しはじめて柔らかい塊状にまとまった飴に均等に空気を混ぜるために飴の塊を棒に引っ掛け、引き伸ばしながら何層にも折り返す製白機と呼ばれる機械に掛ける。この工程により透明の飴に中に無数の空気の細い隙間が生じ乱反射して白く見えるようになり、千歳飴独特の舌触りの食感が生まれる。触ると火傷するほど熱を帯びた飴の塊を製白機から外し、手または機械で細長く伸ばし、平たい台の上で転がして均等な太さに成形し、適当な長さで切り口が欠けないように包丁を用いて叩くようにして切断する。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べる。  


Posted by hidesun(英寸) at 20:06Comments(0)和の暦