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2011年11月29日

師走

旧暦の12月を「師走(しわす)」と呼び、現在でも新暦の12月の別名としても用いられています。


御師(おんし、おし)が走る。これが「師走」の語源です。それではこの御師とはどのような人たちだったのでしょうか。
昔の人々は「一生に一度はお伊勢参り」というくらいに、伊勢神宮へ詣でることを憧れ、あの時代にあって年間500万人もの人々が伊勢参りをしたという記録さえ残っています。しかしそれをなし得たのも、人々を伊勢神宮へガイドする職業があったからです。それが「御師」です。


御師は日本最古(世界最古?)の旅行業といわれるように、ただ人々を聖地へ先導するだけではなく、宿泊の手配や食事、土産の買い付けなど、至れり尽くせりのサービスでガイドをしたそうです。そういう意味では純粋な信仰心から「一生に一度はお伊勢参り」というだけではなく、伊勢参りには当時の人々にとってのバケーション旅行の意味合いもあったようです。ただ御師の呼称が「御祈祷師」の略とされているように、彼らはお祓いや神事なども行うことから、今風にいえばスピリチュアル・ガイドという位置づけがふさわしいといえるでしょう。そして、そんな御師が1年で最も忙しいのが師走なのです。

新しい年を迎えると私たちは神社へ参り、そこで新しいお神札をいただき、それまで神棚に収めてあった古いお神札と入れ替えます。そもそもこの神社のお神札を各家庭に掲げたり、神棚に祀るという習慣も、実は伊勢神宮が始まりなのです。

少々、現実的なエピソードとなりますが、その昔伊勢神宮が財政難に陥ったとき、それを打開するために、伊勢神宮のお神札を「神宮大麻」として配ることにしました。それをやがて全国の神社でも同じように、自社のお神札を氏子崇敬者たちに配布するようになったのです。そのような経緯から、日本全国どこの神社の社務所へ行っても、そこの神社のお神札とともに、伊勢の「神宮大麻」は必ず手に入れることが出来るのです。だから、各家庭で複数のお神札を掲げたり、神棚に祀る場合でも、天照大神の依代である「神宮大麻」は必ずその中心に据えることが習わしなのです。



今では私たち自ら神社に出向いていただくお神札も、その昔は御師が年末の慌ただしい中、各家庭に「神宮大麻」を配布していたのです。そして、「師走」という暦の名称になるほどに、御師が各家庭に「神宮大麻」を配布することが、日本では当たり前のことだったのです。またこうしたことからも、昔の人々にとって伊勢神宮が憧れの聖地であると同時に、いかに身近なものであったかということも、お分かりいただけたのではないでしょうか。



誕生石 - ターコイズ(トルコ石)、ジルコン、ラピスラズリ、ブルートパーズ
星座 - 射手座(12月21日頃まで)、山羊座(12月22日頃から)
誕生花 - 水仙、カトレア  


Posted by hidesun(英寸) at 21:03Comments(0)和の暦

2011年11月28日

石田三成

石田三成が活躍した安土桃山時代は、日本の歴史の中で、織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代です。 天下人、豊臣秀吉とのかかわりが大きい人物でもあります。


秀吉との出会い
1560年、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生を受けます。幼名は佐吉と言いました。石田村はそれ以前、石田郷と言い、石田の郷名を苗字としていた土豪だったと推測されます。豊臣秀吉が羽柴秀吉と名乗って織田信長に仕え、1,574年にお生み長浜城の城主となった頃から秀吉の小姓として仕えていました。信長の命令で、秀吉が総司令官として中国征伐に赴いたときにも従軍しました。1,582年に本能寺の変が起こり、織田信長が自刃すると、秀吉は次の天下人として台頭しますが、三成も側近として、徐々に台頭していきます。賤ヶ岳の戦いに従軍したときには、柴田勝家の動向を探る偵察行動と、先駆け集として一番槍の功名を上げています。小牧・長久手の戦いを経て、近江国蒲生郡の検地奉行を務めました。


豊臣政権のもとで
1585年、秀吉が関白になると、従五位下治部少輔に叙任されます。秀吉から、その年末には近江水口4万石の城主に封じられます。翌年、知恵も勇気も兼ね備えていると名高かった名将。島左近を自分が持っている4万石の半分、2万石で召抱えました。誰が説得しても召抱えられなかった左近を、自領の半分も与えたとの事実に秀吉は驚き、また賞賛しました。そして左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋の羽織を与えました。同じ年、三成は越後から秀吉に臣従を誓うために上洛してきた上杉景勝のことも斡旋しています。また、秀吉から堺奉行に任命されています。
1587年、兵糧や武器を運ぶ運送役として急襲征伐に参陣します。九州征伐後は博多奉行となり、博多復興に関わりました。1,588年には九州の島津義久の秀吉との謁見を斡旋します。


秀吉の死後
1598年に秀吉がこの世を去ると、嫡男の豊臣秀頼が後を継ぎました。関東250万石の大老・徳川家康が次の天下人を狙い、徐々に台頭してきます。権力を奪いとろうとする家康は、石田三成と対立関係にある加藤清正、福島正則、黒田長政らと豊臣氏に無断で縁戚関係を結んで行きます。三成は、こうした家康の無断婚姻を『秀吉が生前の文禄4年に制定した無許可縁組禁止の法に違反する』として、前田利家らと相談し、家康に罪を問いただす使者を派遣します。世は豊臣政権でしたので、孤立する不利を悟り、家康は和睦するために利家・三成と誓紙を交わしました。しかし、家康と互角の勢力を持っていた前田利家が病死すると、その直後、石田三成と敵対関係にあった加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明らが石田三成の大坂屋敷を襲います。しかし、事前に佐竹義宣の助けで大坂から逃れていて、伏見城内に三成はいました。前田利家がなくなり、石田三成がこもりがちになってからは、家康の好き勝手ぶりは再び活発になり、一度白紙にしていた無断婚姻や、秀吉が残した命令で、禁止されていた所領配分などもおかまいなしに実施しました。


関が原の戦い
1600年、石田三成は徳川家康を排除するために、上杉景勝、直江兼続らと挙兵の計画を立てます。その後、上杉勢が家康に叛旗を翻し、家康は諸大名を従え、会津征伐に向いました。これを東西から挟み撃ちにして攻撃するチャンスとして石田三成は挙兵を決意します。家康に従って会津征伐に向うに四国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を、近江愛知川に関所を設置して阻止し、強引に西軍に与せました。7月13日、石田三成は大坂城内に、諸大名の妻子を人質として入れるための軍勢を送り込みますが、加藤清正の妻ら、一部には脱出されてしまいます。細川忠興の正室・細川ガラシャを人質に取ろうとしましたが激しく拒絶され、キリシタンであったガラシャは、自害は大罪で天国に行くことができないため、家老の小笠原秀清に胸を突かせて屋敷に火を放つという壮絶な最期を遂げ、人質作戦は失敗に終わりました。

  


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2011年11月27日

伊達政宗

伊達政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。



伊達政宗・独眼竜政宗と言えば、いかにも強そうな感じの名前で印象に残りやすいし、誰もが聞いたことがあるだろう有名人ですが、実際の所どう凄かったのかが一番わかりにくい人ではないかと思います。 その一番の理由はやはり、登場が遅かったからでしょう。 織田信長が桶狭間に今川義元を破った時、政宗はまだ生まれてもおらず、秀吉が天下統一を果たした時で政宗23歳と、時期的に生まれが遅かったために、戦国の有名武将達と渡り合って名勝負を歴史に残すといったことが殆どないので、今一つ業績のようなものがはっきりしないからでは無いかと思います。それ故、才がありながらも生まれが遅かったために活躍できなかったということで、「遅生まれの英雄」といった呼ばれ方をすることが多いみたいです。



東北の英雄
では政宗が何をした人なのか一言でいうと、“奥羽(東北地方)平定”を果たした人です。
奥羽も群雄割拠の様相を呈していましたが、父輝宗の代では伊達家は米沢一国の領主に過ぎなかった所を、政宗が17歳で家督を継いでからは、相馬・畠山・芦名・佐竹といった東北の有力勢力を次々と打ち破り、若干23歳にして奥羽をほぼ掌握したという、武力で言えば戦国時代きっての英傑と言っても過言ではありません。また、政宗は5歳の時疱瘡にかかり右目を失っていたために、人々は政宗のことを「独眼竜」と言って畏れ称えました。

秀吉の目もごまかした策士
1590年、既に天下の大半を手中に収めていた豊臣秀吉が、関東は小田原城に居する北条氏を征伐するために20万もの大軍を率いて来襲しており、その際、東北の諸大名に対しても秀吉に対する臣従の証しとして挨拶に来いと言ってきました。
政宗としては、まだまだ領土拡大の野望は尽きておらず、しかも北条氏と同盟も結んでいたため、どうすべきか進退に悩みました。しかしさすがに、20万の大軍には勝てないと判断し、秀吉に対する臣従の意味も含めて小田原攻めに参陣することにしましたが、タイミング悪く伊達家のお家騒動も重なり、小田原参陣に一ヶ月も遅参するという失態を犯してしまいました。

秀吉の怒りは火を見るより明らかなので、このままでは伊達家は危ないと判断した政宗は、秀吉との謁見の際、白装束(死に装束)で見えると言う策に出ました。白装束=死の覚悟を決めている、という肝の据わった政宗の行動に対し、先手を打たれた秀吉はむしろその政宗の性根に感心し、処遇は一部領土の取り上げのみに収まりました。こうした、相手の性格を見抜き、それに応じた策を講じることが出来るのも政宗の賢かった点です。他にも、一揆扇動が発覚しそうになった時、見破られた際に備えて二種類の花押を前以って用意していたなど、小細工にも長けていた(?)ようです。



柔軟な発想
伊達政宗の軍で有名なのが、「鉄砲騎馬隊」です。織田信長が鉄砲を巧みに活用したことにヒントを得て、強力な騎馬隊に鉄砲をミックスした政宗独自の戦法です。騎馬隊各員に鉄砲を持たせ、戦闘の際にはまずその鉄砲で敵部隊を撹乱させ、敵の陣形が乱れたところをそのまま疾風の如く襲いかかるという斬新なもので、強力な部隊として大変怖れられたそうです。
また、イエズス会の宣教師が仙台にやってきた時には布教を許し、南蛮貿易にも目をつけて1613年には支倉常長をスペインやローマに派遣するなど、日本人にありがちな古い思想にとらわれない柔軟なマインドを持っていたことがわかります。

伊達者
今でも使われる“伊達者”という言葉。
  “~はダテじゃない”
  “ダテに~していない”
  “ダテ○○”
など、わかりやすく言うと“カッコつけ”な意味で用いられる“伊達”ですが、その由来は伊達政宗から来ています。 その理由はとにかく、伊達軍といえば信じられないくらい派手で目立つ格好をしていたからだそうです。特に有名なのは朝鮮出兵の時で、京都に現れた伊達軍は、紺の旗に金の日の丸、漆黒の具足に金の日の丸、馬鎧は虎柄・豹柄に孔雀の羽、陣笠は1mもある三角帽子で全て金色。太刀や陣羽織も金色、水玉模様もあったとか無かったとか・・・
想像しただけでも、もはや悪趣味とも思えるような相当派手な格好です。こうしたところから、京都の人々は“伊達軍の男=伊達男=ええカッコしい”となり、それが、ええカッコ、カッコだけ、という意味で“伊達~”という言葉になったそうです。



  


Posted by hidesun(英寸) at 17:05Comments(0)戦国

2011年11月26日

真田幸村

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を追いつめた。江戸期以降、講談や小説などで、真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。


現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは見つかっていない。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しい。

関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。
東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の大軍勢を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数精鋭である真田隊にてこずった徳川秀忠軍は落城攻略を諦めて去ったが、結果として関ヶ原での決戦に間に合わなかった。秀忠軍が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度打って出て夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。
三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった。


大坂城に入城
慶長19年(1614年)、「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという。

大坂冬の陣
慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられず終わる。しかし大坂城に籠城する策と決定すると、真っ先に信繁は大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃を与えて初めてその武名を天下に知らしめる事となる。(真田丸の戦い)。しかし、この真田丸を造る際、大坂方の大野治長を始めとする他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得している 。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。



大坂夏の陣
慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。

ただし道明寺の戦いでは先行した後藤基次隊が真田隊の援軍が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては当日の濃霧であるなど諸説ある。またこのときの指揮権は信繁にはなく、大野治長が持っていた。そのため後藤基次の戦死の責任は信繁だけにあるとは言えないが、所定の時間に付く事ができず、合流した信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と慰め、退却の指揮をとったという。

豊臣方は後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみと直訴したが、豊臣側近衆や母の淀殿に阻まれ秀頼の出陣はならず。豊臣氏の滅亡が濃厚となる最中、信繁は毛利勝永と共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させ、これを迂回させた明石全登の軽騎兵団に横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が独自の判断で射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。そして信繁は、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ!」とつぶやき[10] 、真っ正面から家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、左翼から攻める毛利隊、明石隊らも奮闘し家康本陣に肉薄した。



まず真田隊は越前松平家の松平忠直隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首を授けた。享年49。
信繁討死の翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。しかしその後、大坂では信繁は生きており、秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れたと言われているが、さらに噂では薩摩国の島津家領内に逃隠れし墓もあると言われている。実際に、信繁の子孫と伝えられる真江田家も残されている。
【 真田幸村wiki 】



  


Posted by hidesun(英寸) at 17:14Comments(0)戦国

2011年11月23日

GATE 7

本屋で何気なく手にした漫画 --- GATE7

古都が秘めし 美しき はな -----------

今鮮やかに

ひらくとき ---------

京都を舞台に、異形のものたちと戦う華街の住人とある高校生との交流を描いています。



京都へ旅行中、「裏七軒」のはな、桜、橘の3人と出会った致佳人は異空間の結界内で、異形と戦うはな達の姿を目の当たりにする。その三か月後、京都に転校した致佳人は、彼らと再会。はな達との奇妙な同居生活が始まり、「裏」の世界へと巻き込まれ…!?




真田幸村を仲間に引き込むため、一行は大阪へ。致佳人達が大阪に来ることを察知していた真田は、十勇士を揃えて待っていた。真田は弱い者には仕えないと言い、桜と一対一で勝負することに。真田は隠威・偃月を身に降ろし、一方の桜は、橘の武器を手にする。桜は武具とひとつになる力を持っていた。しかし、陰の桜が陽の武器を使うことは危険なこと…。桜の隠威が傍にいない今、真田に勝つにはそうするしかないのだった。死闘の末、桜の力を認めた真田。真田幸村と十勇士は、秀次が率いる裏七軒の仲間となり、京都へ居を移す。

一方、家光は、十兵衛の囲みの中を見る異能を使って、一部始終を覘いていた。真田が豊臣につくと知ってもなお、家光は不敵な笑みを浮かべ…!?

●発売がされている単行本 1巻・2巻



= 1巻 =
京都にあこがれる普通の高校生・高本 致佳人は、初京都旅行中、謎の異界に入り込んでそまい、異形と戦うはな、桜、橘の三人と遭遇する。致佳人を警戒する桜と橘だったが、はなが思わぬ行動に・・・!?彼らとの出会いが致佳人を、波乱の運命に巻き込んでいく。

= 2巻 =
明智光秀との戦いの最中、窮地のはなを救ったのは伊達政宗だった!そじて次々と現れる戦国の魂を継ぐ者たち。彼らの目的は、信長と共に闇に消えた最強の隠威(オニ)「第六天魔王」を手にすること。さらに徳川家光の不穏な影が致佳人に迫り!?

●主な登場人物

高本 致佳人
高校2年生。都内の高校から、ひとり京都へ転校する。歴史や古都が好きで、幼い頃から京都に憧れていた。力のない者は入れないはずの異空間へ迷い込む。

はな
妙法を操り、異形の物と戦う。麺類が好き。自分と同じ「無」の性質を持った致佳人に縁を感じている。


華街の青年。笑顔を絶やさず優しい性格。陰属の武器生成を担当。


華街の青年。戦いを目撃した致佳人の記憶を消そうとした。陽属の武器生成を担当。

豊臣 秀次
現世の豊臣秀吉の甥「秀次」。神言によると現世の豊臣の血を受け継ぐものとして一番相応しいという。『隠威・神言』と『裏七軒』を受け継いだ。

神言
人と血の約定を結ぶことで、その者に力を与える『隠威』。豊臣秀吉と契約し、現在は秀次を主としている。予知予言が得意。

明智 光秀
秀次と同じく、織田信長の亡骸と共に行方不明となった『隠威・第六天魔王』を欲している者。その為に秀次の神言を狙う。

炎禍
明智に従う隠威。容姿は明智と同じで、火喰鳥と呼ばれる鳥の形をした炎を操る。お菓子が好き。

伊達 政宗
独眼竜・政宗を名乗る者。現在は東京に住んでいる。小6。はなが大好きで、仲のいい致佳人を牽制する。『隠威、倶利伽藍』を持つ。

片倉 小十郎
政宗のお目付け役。政宗の『隠威・倶利伽藍』を体に収め、鞘の役割を持つ。

徳川 家光
見た目は美少年だが、冷酷な面を持つ。現在、徳川で一番強い力があり、隠威『三葉』と血約している。

真田 幸村(信繁)
現世では保育士をしており柔和そうに見えるが、戦い始めると一変。血約する隠威・偃月とひとつに成り、力をふるう。猿飛佐助をはじめとする真田十勇士を従えるほどの力を持っている。





  


Posted by hidesun(英寸) at 20:19Comments(0)漫画

2011年11月20日

明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。


織田家に仕える前
美濃で斎藤道三と斎藤義竜が争ったとき、明智光秀は道三側につき、明智城を攻め落とされ、美濃を退去することになった。この戦いは道三が破れて、美濃一国は義竜が支配することになった。美濃を逐われた光秀は、隣国尾張の織田信長を頼らず、上京して、将軍足利義輝に仕えた。しかし、義輝は、永禄八(1565)年五月十九日、三好義継を擁する松永久秀と三好三人衆の軍勢に攻められ殺害された。
この後、光秀は越前の朝倉家に仕えることになるが、これは後に義輝の弟・義秋(後の十五代将軍義昭)が細川藤孝や一色藤長らを伴って朝倉家を頼って越前に逃れてくることと関係しているのかもしれない。
細川藤孝は、義昭を擁立して幕府を再興するため、朝倉家の軍事力で京都を三好家から奪回しようと画策するが、朝倉家当主の義景は現状の維持以上に望みがなく、上洛を実行するほどの覇気がなかった。光秀は、藤孝に尾張・美濃両国を支配し大大名となった織田信長を頼るようにすすめる。光秀は、美濃の信長のもとへ行き義昭と信長の橋渡し役をした。これは信長室の濃姫と光秀が従兄弟で、光秀は、この縁で信長と面識があったからだ。

幕府再興

朝倉家を辞した光秀は信長に仕えることになる。もちろん義昭近臣の立場のままである。信長は義昭を美濃へ招くと、美濃の隣国武田、尾張の隣国徳川、北近江の浅井と同盟して北伊勢・尾張・美濃の軍勢数万をもって上洛の途についた。信長は、南近江で抵抗した六角承禎を甲賀へ追い、義昭を奉じて入京して畿内の反攻勢力を駆逐した。義昭は、永禄十(1568)年十月十八日、征夷大将軍に補任された。
信長は、十月二十六日に京都から軍勢を伴って岐阜へ帰還するため出発した。このため阿波に逃れていた三好三人衆が京都へ攻め込み義昭を本圀寺に包囲した。光秀は義昭を守護して防戦にあたり、畿内の織田軍が援軍に加わり三好勢を退けた。再び上洛した信長は、義昭のために二条御所を造営した。
このころ光秀は、丹羽長秀・中川重政・木下秀吉らと共に京畿の政務を担当する京都奉行に任命された。
義昭は幕府が再興された以上、諸大名は私戦をやめて将軍の権威の元に秩序を回復するべきだと考えたが、信長は織田家による天下の武力統一を目指し両者の対立関係が始まった。



<一国一城の主>

信長は越前の朝倉討伐のため越前に出陣したが、江北の浅井長政が離反し織田軍の背後から迫った。これを知った信長は、京都へ撤退することを決める。光秀は秀吉・池田勝正と共に殿軍として活躍した。
この後、信長と浅井・朝倉との戦いが続き、元亀元(1570)年九月ごろから反織田勢力が決起して信長は窮地に陥った。信長は、危機的状況を勅命講和で切り抜け比叡山の焼き討ちを行った。宇佐山城代に任じられていた光秀は、この作戦の中心的部隊として準備から焼き討ち実行を任された。この手柄から、光秀は近江志賀郡の支配を命じられる。光秀は、志賀郡の支配にあたり坂本城を築く。光秀は、一国一城の主となったが他の織田家の諸将に先んじての破格の待遇だった。
志賀郡を与えられたといっても、志賀郡全てが織田家の領地というわけではなく、没落した比叡山領や一向一揆の勢力などがあり実力による切り取りが認められたことを意味していた。
光秀は、比叡山領の接収を行い堅田の水軍の掌握に成功し、浅井・一向一揆の勢力を退けて志賀郡全域の支配を確立した。志賀郡は約五万石である。

<義昭追放>
信長に敵対した武田信玄が陣没した後、朝倉義景と浅井長政が滅び、また将軍義昭も信長によって京都から追放された。このため幕府衆が光秀の家臣団に組み込まれた。
信長は、浅井の旧領北近江三郡(伊香郡・東浅井郡・坂田郡)約十二万石を秀吉に与えた。
天正三(1575)年五月、信長は長篠設楽ヶ原で武田勝頼を破って、東方の脅威を除き、西国の経略にとりかかった。光秀は、京都奉行から外され丹波経略を命じられた。
同年七月、信長は朝廷に家臣の改姓任官を要求した。このため武井夕庵が二位法印に、松井友閑が宮内卿法印に、光秀が惟任(これとう)日向守に、塙(ばん)直政が原田備中守に、丹羽長秀が惟住(これずみ)に、秀吉が筑前守に、簗田広正が別次(べつき)右近大夫に、それぞれ改姓あるいは任官した。
同年八月、信長は一向一揆が支配する越前へ攻め込んだ。光秀と秀吉は敦賀から出港し、光秀軍は杉津浦から、秀吉軍は河野浦から上陸し府中へ進軍し龍門寺城を攻め落とした。さらに、光秀軍と秀吉軍が先鋒となって加賀へ攻め込み江沼・能美の二郡を占領した。



<丹波経略>
丹波の地侍は、信長が義昭を奉じて上洛した後は信長に属していた。しかし、信長が義昭と不和になり、信長が義昭を京都から追放してからは織田家から離反して敵対するようになっていた。このうち船井郡と桑田郡は細川藤孝が与えられており織田勢力圏である。 天正三(1575)年十一月、光秀は丹波に出陣し有力国人領主・赤井(荻野)直正を攻めた。赤井直正は、猛将松永甚助(松永久秀の弟)を討ち取ったほどの名将である。
光秀は、但馬の竹田城から丹波に入り直正の立て篭もる黒井城を攻めた(図参照)。この時、氷上郡八上城の波多野秀治など大部分の丹波の国衆が光秀に味方して従軍していたが、波多野秀治が寝返ったため光秀は破れて坂本城へ退却した。光秀は丹波経略を引き続き任されたが、畿内の石山本願寺や松永久秀攻めなどにも従軍し、丹波に全力を傾けることはできなかった。天正五(1577)年十月十六日、光秀は細川藤孝・忠興父子と一緒に丹波に出陣し、亀山城の攻撃を開始し、これを降伏させた。さらに多紀郡の諸城を攻めた。光秀は亀山城を丹波経略の拠点とするため普請をはじめた。
天正六(1578)年三月、光秀は多紀郡八上城の波多野秀治の攻撃を開始した。光秀は、要害八上城を包囲して兵糧攻めの体制を整え、摂津や播磨の援軍を勤めながら攻囲を続行した。
光秀は摂津の荒木村重が謀反したため、これの説得を行った後、天正七(1579)年六月に調略を用いて波多野秀治・秀尚を場外に呼び出し捕らえて安土へ送った。
同年八月、光秀は黒井城を陥落させ(赤井直正は既に死亡していた)丹波一国の制圧に成功した。信長は数国(播磨・但馬・備前など)を切り取った秀吉よりも光秀の働きの方を高く評価した。それだけ丹波攻めが困難と考えられていた。



<近畿管領>
細川藤孝は、船井郡と桑田郡から丹後一国に転封され丹波一国二十九万石は光秀に与えられた。光秀は、近江五万石とあわせて三十四万石の大名になった。
天正八(1580)年正月、秀吉が播磨の三木城を陥落させ、同年閏三月石山本願寺と講和し織田家は畿内周辺の征圧に成功した。信長は重臣筆頭の佐久間信盛父子を追放し、その与力を光秀の傘下に組み込んだ。このとき光秀の与力になったのは、摂津の池田恒興・中川清秀・高山右近、大和の筒井順慶、丹後の細川藤孝・一色義有ら畿内周辺の武将達である。
光秀は織田軍団の近畿軍管区長官兼近衛師団長で、CIA長官を兼務するほどの地位を手に入れた。京都近郊を支配し、親衛隊として信長親征に従軍し、畿内の諜報活動を行い、公家との交渉も行う重要な役目である。
 光秀は、天正九(1581)年二月二十八日に行われた京都馬揃え(軍事パレード)の総括指揮者の役目を果たした。この馬揃えは譲位を拒む正親町天皇に対する信長の威圧である。
天正十(1582)年正月、南信濃の木曽義昌が武田勝頼を裏切って織田家に降伏してきた。信長は、嫡男信忠を総大将に任じ、美濃・尾張の兵を伊那口から、家康を駿河口から、北条氏政を関東口から攻め込ませた。信忠は、破竹の勢いで進軍し、三月二日に勝頼の弟仁科盛信を岩殿山城に攻めて殺した。勝頼の召集に応じるものは少なく、勝頼は新府城での防戦は無理とみて、小山田信茂を頼って落ち延びることにした。だが小山田信茂は勝頼を見捨て、勝頼は自害し武田家は滅亡した。
このころ信長は親衛隊である光秀軍団を率いて安土を出陣し甲斐へ向かった。この軍団は、出陣時期からみて合戦が目的ではなく武田を滅ぼした後の信長の関東見物の護衛にあたるためのものであり、太政大臣の近衛前久も同行していた。甲斐に入った信長は、論功行賞を行い駿河へ向けて出発した。このとき信長は、同行を求める近衛前久に馬上から暴言を吐いた。やむなく前久は信濃経由で京都へ帰った。
天正十(1582)年四月十二日、駿河に入った信長は、遠江・三河を見物し尾張・岐阜を経て安土へ帰還した。朝廷は安土に勧修寺晴豊を派遣し、信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官するよう求めた。信長は明確な返答をしなかった。
五月十五日、徳川家康と穴山梅雪が安土へ御礼言上にやってきた。武田家を裏切った梅雪は本領安堵され、家康は駿河を与えられていた。光秀は二人の接待役を命じられていた。
この日、織田家中国方面軍の秀吉から信長に援軍の要請が入った。信長は武田攻め同様、自ら後詰めとして出陣することを決め、親衛隊である光秀軍団の準備のため光秀を接待役から外した。光秀は、五月十七日には接待役の務めを終え、近江坂本城へ戻り出陣の準備を始めた。

<本能寺の変>
五月二十六日、光秀は丹波亀山城に入り、二十七日に愛宕山の愛宕大権現へ参詣し、参篭を行い、おみくじを二度三度ひいた。
二十八日、愛宕大権現五坊の一つ、威徳院西坊で出陣連歌を興行した。連歌は光秀、連歌師里村紹巴を含め九人で行われた。発句は光秀で
ときは今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)かな
この句の「しる」を「治る」と解釈すると、「治る」は「治天の君」と言うように天皇家に許される用法で、光秀は朝廷のために信長を討ったと考えることもできる。光秀は後醍醐天皇に応じて丹波で幕府を裏切り京都へ攻め込んだ足利尊氏と同じ経路で京都へ進軍し信長が宿泊する本能寺を包囲した。
信長を本能寺で殺した光秀は、次いで信長嫡子信忠を攻めて自害させた。光秀は、この後羽柴秀吉に山崎の合戦で破れて落ち延びる途中、土民の手にかかり致命傷を負い自害した。
  


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2011年11月19日

織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名



織田信長の幼少期
1534年尾張国(現在の愛知県)に産まれた織田信長は 幼児期から青年期にかけ奇矯な行動が多く「うつけ者」(ばか者)と 人々に噂されていた。身分にこだわらず、平民とも遊んだとされている。

織田信長の台頭
1560年駿河(現在の静岡県)などを 支配する今川義元を桶狭間の戦いで破りしだいにその頭角をあらわしていく。
織田信長は隣の三河の松平元康(のちの徳川家康)と手を組み、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に墨俣(すのまた)の地に城を建てさせ、2国に接している美濃に攻め入った。
これにより1567年美濃を制圧し1568年足利義昭を奉じ、京都へ上り全国統一に乗り出した。
これを機に天下布武を宣言し、琵琶湖湖畔の安土に安土城を築き、楽市・楽座令をだし市座の特権を廃止した。
城下ではだれでも税を払わなくても商売ができるようになった。また、流通の妨げとなっていた各地の関所を撤廃。このように織田信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた。

それがうつけ者と言われる所以だったのだろうか。



長篠の戦い
当時、最強と言われていた甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を織田信長は3000丁もの鉄砲と西洋のよろいで迎え撃った。これを長篠の戦いという。このように織田信長は西洋から来る新しいもの・珍しいものを進んで取り入れたことでも知られている。

革新的
織田信長は権威や常識にとらわれず、新しい試みを次々と試した。家柄などにとらわれず、農民などでも有能な人材を家臣として使った。羽柴藤吉郎(のちの豊臣秀吉)もその中の1人である。また、明智光秀はもと足利義昭に仕えていた家臣であった。
政策も今までのものを打破するようなものが多く、天下布武 ・仏教弾圧 ・楽市令などがその例である。

南蛮貿易
新しいものに興味のあった織田信長は南蛮貿易を盛んに行った。ワインを楽しんだという話もある。時には南蛮人が連れてきた黒人の肌が本当に黒いのか確かめるために体を洗わせたという話もある。長篠の戦いでは貿易によって手に入れた鉄砲と西洋の鎧を有効に利用し勝利している。



織田信長の仏教弾圧
当時、僧侶の横暴がひどく、一向一揆が盛んに起こっていた。宗教に対し否定的だったわけではなかったが織田信長の仏教に対する弾圧はすさまじく、比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えをもとに、武装し抵抗する一向一揆を徹底的に抑えた。
顕如(本願寺第11世)率いる石川本願寺とは11年もの間、戦い、退去させ全山を焼き尽くした。また、仏教勢力に対抗させるためキリスト教を優遇した。
しかし、その一方では安土城の天守閣の天井や壁画には儒教・仏教・道教をテーマにした絵画が描かれていた。さらに、延暦寺や浄土真宗の活動は禁止していなかった。このことより、宗教を否定するのではなく天下布武政策 のひとつとして 政教分離を図り、武家に権力を持たせようとしたものであると考えられている。



織田信長と本能寺の変
1582年6月、中国の毛利氏を打つ準備をしているさなか、織田信長の家臣である明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で織田信長が自害した。あと一歩のところで天下統一を達成できなかった。
諸説はあるが一般的な解釈として明智光秀が 重職に登用されない不満を主君へ抱き、織田信長が小姓らのみで本能寺へ滞在している事を知っていた明智光秀が豊臣秀吉援護のために集結された1万3000 人の兵士を連れ襲い織田信長を自害に追い込んだ。秀吉援護に集められた兵士を前にし「敵は本能寺にあり」と宣言したことも有名なくだり。
なぜ明智光秀が主君織田信長に反旗を翻したのか?その理由は明らかになっていないが、一般的には信長による虐めが原因との説がある。また、仏教弾圧など、急進的な日本社会の改革に対する反動とも言われている。その真相は明らかでない。

明智光秀は美濃(岐阜県)の守護だった土岐氏の一族と、言われている。本能寺の変の数日前の連歌会で「時は今、天が下しる 五月(さつき)かな」と詠んだ。これは「時」に「土岐をかけ」、土岐氏である自分が天下をとることを決意したものとされている。なお、明智光秀は本能寺の変のわずか11日後、豊臣秀吉によって返り討ちされている。



織田信長の名言

死のうは一定、 しのび草には何をしよぞ、 一定かたりをこすよの
尾張に住む、天沢(てんたく)という天台宗の高僧が、武田信玄と面会した時の事。天沢は信玄に信長の趣味を聞かれ、舞と小唄と答えました。更にそれはどのようなものかと聞かれ、この小唄を答えたそうです。ちなみに信玄は天沢に信長の真似をさせてうたわせたといいます。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
幸若舞の「敦盛」の一節です。「桶狭間の戦い」の出陣前に舞ったと『信長公記』にあります。また、上記の天沢と信玄のエピソードでも出てきています(舞の方)。
「 人間界の五十年は天界では一昼夜程の長さでしかなく、まさに夢や幻のようだ。この世に生まれ、滅びぬものなどいない。 」

  


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2011年11月19日

KIMONO Show2011 again (花鳥風月)

今夜、KIMONOショーの再演が【MK Tokyo SIM】で行われる予定です。


先日ご紹介しましたMilkyHouse新作着物六点を是非ごらんください。

会場 : MK Tokyo SIM特設会場

開催日時: 11月19日(土)24時 (日本時間) 

:::: 会場に展示されている和傘 ::::


【 前回11/13ショー MilkyHouse新作着物 画像 】









※ MilkyHouse 他の新作着物 : ・・・ * MilkyHouse ブログ

 MilkyHouseSIM 本店 場所




  


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2011年11月18日

雷神(RAIZEEN)

雷神(らいじん)は、日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。


【 Raizeen & RossoRosso 画像】
●Asuka_ SIMが復活しています。なんと五代目「club雷神」 場所

【 主なイベント 】
●Club雷神にて毎週月曜日22時よりラジオとUstreamでお届けしている公開生番組
  
「 ASUKA Music Stream@雷神 」パーソナリティーはLucy Takakuraさん
海外の注目アーティストとその楽曲を紹介する音楽番組です。使用楽曲はオンエア通知を条件にインターネットで放送できるポッドキャストのスタイルで、著作権はすべてクリアされています。
会場へ来てくださった皆さんのお知らせコーナーもあります。情報不足のSLのなかで、Ustreamを通じて宣伝・告知が、できます。
NoteCardに詳細を書いてLucyさんに渡してください。


Raizeenでは、他にも毎週、沢山のイベントが開催しています。
ご紹介は、またの機会に。


【 Raizeenの先端にあるCafe&Bar: Rosso Rosso 】





雷神民間伝承
菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人のヘソをとると言い伝えられている。日本の子どもは夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる。
雷さまから逃れるための方法は、蚊帳に逃げ込む、桑原(くわばら:菅原道真の亡霊が雷さまとなり、都に被害をもたらしたが、道真の領地の桑原には雷が落ちなかったと言う伝承から由来)と唱える、などが伝えられる。
対になる存在としては風神が挙げられる。

寺社の祭神
賀茂神社(賀茂別雷神社) - 賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
天満宮 - 菅原道真(火雷天神、からいてんじん)の天神信仰による
塩竈神社 - 建御雷神(たけみかづち)
雷電神社 - 火雷神(ほのいかづちのかみ)・大雷神(おおいかづちのかみ)・別雷神(わけいかづちのかみ) など
加波山神社本宮・中宮・親宮 - 「八雷神(やついかつちのかみ)」
冨士神社(封込神社)―雷神(らいじん)配祀神


  


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2011年11月17日

お市

お市の方(おいちのかた、天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日(1583年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性です。

【 戦国バサラ画像より 】

織田信長の妹。戦国随一の美女と謳われました。永禄10年(1567年)に浅井長政に嫁ぐ。長政との夫婦仲はすこぶる良く、周囲から羨まれるほどのおしどり夫婦であったといいます。二人の間には茶々(淀殿)、初、江の三人の娘と、万福丸、万寿丸という二人の息子が生まれました。

兄の信長が朝倉義景を攻めると、朝倉家と古い同盟関係にあった浅井家当主長政は、織田家と朝倉家どちらにつくかで非常な苦悩に置かれました。
結局古い同盟を優先して義理立てし、織田信長との同盟を破棄し、朝倉側についた。信長は長政を高く評価していたらしく、幾度も降伏勧告をしたが、長政は聞き入れず、居城の小谷城で自害しました。享年29歳。(1573年9月1日)
お市は夫と運命を共にするつもりであったようだが、長政に諫められ、娘3人とともに信長に保護されることとなった。因みにこのとき長男の万福丸を木下秀吉(後の豊臣秀吉)に惨殺されたため、お市は生涯秀吉を恨み、許さなかったといいます。



その後、信長の庇護の下ですごしていたが、信長が本能寺の変で亡くなり、羽柴秀吉の斡旋で柴田勝家と再婚しました。
柴田勝家が秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、越前北ノ庄城内は秀吉軍に包囲された。秀吉はお市をことのほか気に入っており、このときも再三にわたって投降を勧告したものの、お市は夫勝家と運命を共にすることを選びました。享年37歳。
落城の際、お市は三人の娘に(浅井の血を絶やしてはならぬ)と諭したといいます。



戦国随一の美女と謳われた母、お市の方の気質と美貌を受け継いだ長政の娘達はいずれも戦国乱世の中で数奇な運命をたどることとなります。浅井家の血は崇源院(江、江与または小督とも)によって徳川幕府264年の礎となり、現在に至るまで受け継がれています。
茶々(淀殿)・・・・・ 豊臣秀吉正室
初(常高院)・・・・・ 京極高次正室
江(崇源院)・・・・・ 徳川秀忠正室

  


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2011年11月16日

お守り

お守り(おまもり、御守)とは、狭義の意味では、日本の社寺・境内で参詣人に販売・授与される、紐で口を閉じ吊り下げられるようにした平たく小さい袋型の縁起物。守札のこと。


通常「お守り」と呼ばれる守札というものがある。よいことがあるように(開運、招福)、あるいは悪いことがおきないように(厄除け、魔除け)と願って持つ。同じ目的を有するいわゆる「お札(ふだ)」は家庭や会社などその場から動かない一種の固定閉鎖空間の加護であるのに対し、「守札」は身に着けて持ち歩くという性質から、個人あるいは動く空間の加護を願うものである。身に着け持ち歩くことが前提であるので、たいていは、根付(ねつけ)のように小さなものから片手の中にすっぽり収められるまでのサイズである。移動する電車や自動車につけるようなものはもう少し大きいこともある。
錦などで作られた袋に、紙・木・布・金属等で出来た内符(神体あるいは経文あるいは白紙など)を入れ、紐でその口を閉じた状態で頒布されている。袋の上端左右の角が落とされているのは絵馬の形と関連があるともいうがはっきりしない。中身は見えないようになっており、紐で閉じるのも、身に着けやすくすると同時に力を持つ存在を中に閉じ込めている意味もある。それを持ち歩いて自身の力を増幅させることで身の回りにある危険を克服するのだという。
だたし、形態はさまざまで、以前はそれほど多くはなかったが、袋状ではなく内符の正面を覗かせるようにして錦で左右から包み、中央を紐で閉じたものも多い。札や経文を敢えて見せることでそれに恐れをなした災いが寄ってこないようにするのだという。


神社のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)は神体で、神の名前や祝詞などを記してある神札、神像やその持ち物や使いをかたどったものなど。
寺のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)はその寺の本尊や開祖の御影を象ったものであったり、経文の記された紙片など。密教系の寺であれば密教法具を象ったお守りもある。



お守りの持ち方
お守りは、肌身離さず持つことが大事。昔の人は首からさげて、胸ポケットにお守りを入れたりしていました。それがいちばん心臓に近い持ち方、つまり命を守ってもらえる持ち方です。お守りに感謝する気持ちを忘れないで、大事に扱いましょう。
また、肌身離さず持つのは難しいから、お財布やポーチに入れておくのもいいと思います。お守り袋には神様の魂が宿っているので、入れる場所はキレイにしおきましょう。
家の中では、に神棚があったら、そこに置くのがおすすめです。神棚がなかったら、本棚などの高い位置に白いハンカチや白い紙をひいてその場を清めてから置きましょう。  
タグ :お札守札


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2011年11月15日

狩衣:MilkyHouse

狩衣(かりぎぬ)は平安時代以降の公家の普段着。もともとは狩の時に着用したのでこの名前がつきましたが、活動的であることから次第に普段着として定着しました。その後、時代を経るに従って公服としての色彩を増し、直垂に継ぐ武家(従四位下侍従・所司代クラス)の礼服ともなりました。ただし、狩衣姿での参内(御所への出入り)は一切認められませんでした。現在では、神職の常装となっています。


MilkyHouse新作の「狩衣(かりぎぬ)」です。

狩衣はもともと都の中産階級の人々のお洒落着であった布衣に由来します。布と言う字からも解るとおりもともと麻布製の素朴なものでしたが、動きやすさを好まれて貴族が鷹狩りなどの衣装として採用し、平安初期には上皇以下の貴族の日常着になりました。







撮影場所 「 大神稲荷神社 」 場所








  


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2011年11月14日

新作:Milky House 着物

昨夜、KIMONO Show 2011( 花鳥風月 )が、開催されました。

開催会場 : MK Tokyo SIM


” MilkyHouse新作 華牡丹(振袖) ”

花鳥風月(かちょうふうげつ)とは?

美しい自然の風景や、それを重んじる風流を意味する四字熟語

== 参加ブランド ==

・LA DULCE VIDA -moda-
・Milky House
・NONKO romankan
・Sakka's studio
・*:..Silvery K..:*
・tomoto,

【 KIMONO Show 2011 (花鳥風月) 】







● MilkyHouse 新作着物 : これからの季節に。













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* MilkyHouse_SIM
  


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2011年11月13日

甘酒

甘酒(あまざけ、カンシュ、醴)は日本の伝統的な甘味飲料の一種で、見た目はどぶろく(濁酒)に類似する。


甘酒の起源は古墳時代に遡り、日本書紀に甘酒の起源とされる天甜酒(あまのたむざけ)に関する記述がある。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」と呼ばれた。
かつては夏に、冷やしたものまたは熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的だとして、江戸時代には夏の風物詩だった[1]。甘酒を飲んで江戸の人々は夏の暑さをしのいだとも考えることもできる。事実、当時の江戸幕府は低所得者対策として甘酒の価格を最高で四文に制限している。甘酒には、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、葉酸、食物繊維、オリゴ糖や、システイン、アルギニン、グルタミンなどのアミノ酸、そして大量のブドウ糖が含まれているが、これらの栄養はいわゆる栄養剤としての点滴とほぼ同じ内容であることから、「飲む点滴」と称されることもある。ブドウ糖以外は製法(後述)による差異も少ない。現在は冬に温めて飲むのが一般的であり、健康的な飲料としても好まれている。
正月には、初詣客に有料または無料で甘酒を振る舞ったり、自宅に持ち帰る甘酒を初詣客に販売する寺社が多い。また、米農家が収穫を感謝するため、甘酒を造ったり、祭りに甘酒を供える風習が残っている土地もある。
武士の内職として作られていて『甘酒売り』という職業もあった。



「酒」の名は付くが、実際にはアルコール飲料ではなく、未成年者でも飲用が許されている。しかし、原料に含有され、あるいは製造過程で生成されることでアルコールが含まれることがあり、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う可能性がある。
酒粕が甘酒の原料に使用されることがあるが、酒粕には、日本食品標準成分表によるとアルコール分が約8%程度残存している。このことから、アルコール飲料としての清酒と同様の扱いをして、本来アルコール飲料でないにもかかわらず、ドライバーが出席する場や未成年の集まる集会での振る舞いが見送られることが多い。
マクロビオティックでは砂糖の代わりに甘味料として使われることが多い。
「ジャパニーズヨーグルト」として海外での需要も高まっている。
山陰地方では「甘粥(アマガユ)」と言う所もある。
冬季に飲まれることが多いため、体が温まるように、あるいは風邪の予防として、甘酒を熱くしショウガ汁を入れて飲まれることがある。缶入りにもショウガ入りの製品がある。
【 甘酒wiki 】



  
タグ :甘酒


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2011年11月12日

ぼたもち・おはぎ

ぼたもち(牡丹餅)とは、うるち米ともち米を混ぜて炊き、米粒が残る程度について小ぶりの俵状にまるめ、あんをまぶした食べ物である。甘味を口にする機会の少ない時代にはごちそうであり、来客のもてなしや田植えの後の寄り合い、子供のおやつ、また法要の際などに供された。小豆あんのほか、きな粉、青海苔、ゴマ、ずんだ等も使われる。表面にあんをまぶす以外のものでは、握り飯の具材のように中にあんを詰めることもある。


おはぎとの関係
同じ食べ物を、はぎのもち(萩の餅)、またはおはぎ(御萩)とも呼ぶ。呼び名の由来については後述の通りだが、小売店等では春に「おはぎ」、秋に「ぼたもち」として販売していることも珍しくはなく、ぼたもちとおはぎとの区別は次第に薄れている。 また、地方によって
小豆あんをまぶしたものをぼたもち、きな粉を用いたものをおはぎ
こしあんを使ったものをぼたもち、つぶあんや煮た小豆そのままを使ったものをおはぎ(逆の場合もあり)
あんではなく中の米の状態によって区別し、完全にもちの状態までついたもの(皆殺し)をぼたもち、ついた米の粒が残っているもの(半殺し)をおはぎ
季節によって呼び分け、春夏はぼたもち、秋冬はおはぎ
とするなど、さまざまの場合がある。
また女房言葉でぼたもちを「おはぎ」(他には「おべたべた」)と呼んだとする説もある



通常、「ぼたもち」は春に「牡丹餅」、秋に「御萩」と呼ばれる。しかし、実際には(現代ではほとんど使われていないものの)夏と冬にも正式な呼び名が存在する。ここでは季節ごとの「ぼたもち」の呼び名とその由来を挙げる。
春 牡丹餅
牡丹の花が咲く季節、すなわち春の彼岸に、神仏や先祖への供物とされた小豆あんの様子を、牡丹の花に見立てたことから。和漢三才図会には「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」と記されている。
夏 夜船
ぼたもちは、もちと作り方が異なるため、「ペッタン、ペッタン」のような音を出さずに作ることができる。だから、隣に住む人には、いつ搗(つ)いたのか分からない。そこで、
「搗き知らず」→「着き知らず」
と言葉遊びをして、夜は暗くて船がいつ着いたのかわからないことから。
秋 御萩
牡丹餅と同じく、小豆あんの様子を秋の彼岸の時期に咲く萩の花に見立てたことから。
冬 北窓
夜船と同じように、
「搗き知らず」→「月知らず」
と言葉遊びをして、月を知らない、つまり月が見えないのは北側の窓だ、ということから。

  


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2011年11月11日

えびす講

えびす講(えびすこう)は、おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼または民間行事


神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある。えびす祭やえべっさんとも言われる。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末社として祀っている社寺でもおこなわれる。
講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著である。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。
商業従事者や商業者団体がえびす講に合わせて安売りをおこなうこともあり、近年にはこの安売りイベント・商業祭というイベントとしてえびす講をおこなう地域もある。
えびす講の日には市が立ち、魚や根菜など青物が売られる。兵庫県西宮市の西宮神社では、えびす講に際して招福マグロが奉納されるのが恒例となっている。またたくさんの縁起物を飾った福笹あるいは熊手が販売される。この縁起物は神社から授与されるもので「吉兆」とも呼ばれる。
【えびす講wiki】



えびす講と酉の市

基本的には成立も違い、神社も違い、祭日も違うので関係なかろうと思います。
えびす(蛭子神)は西宮に寄り付いた客神とされ海の幸をもたらす漁業神でしたが、傀儡師などが神徳を宣伝した事から、
のちに市の神ともなり七福神にも取り入れられ、商売の神・福の神となっています。蛭子・戎の漢字は悪字なので、福の神として恵比寿・恵比須とも書きます。
関西では、年明けの初えびすを十日戎・えべっさんとし、非常に盛んです。
このとき、商売人は熊手を買いますが、これは福をかき寄せるという語呂から来た物で、酉の市との共通点というより、縁起物の起源に関わるのではないでしょうか。
講の本来の意味は、目的のための集まり(同村・知り合い)ということで、伊勢参りの伊勢講・富士を霊山とし参詣する富士講や、頼母子講・二十三夜講などの月待講・妙見講などさまざまな講がありました。頼母子講は別ですが、信仰・民俗に由来するものが多いです。
【 知恵袋より 】
  


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2011年11月10日

酉の市



酉の市(とりのいち)・酉の祭(とりのまち)・大酉祭(おおとりまつり)・お酉様(おとりさま)は、例年11月の酉の日に行われる「祭礼」。関東地方だけではなく名古屋市大須の稲園山七寺(長福寺)・大阪府大鳥大社など日本各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われている年中行事である。
鷲神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰される。
大鳥大社(大阪府堺市西区)または鷲宮神社(埼玉県久喜市)が鷲神社の本社とされる。鷲宮神社の祭神は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命である。日本武尊が東征の際、この神社で戦勝を祈願したとされる。古くからこの神社を中心に「酉の日精進」の信仰が広まり、12月の初酉の日には大酉祭が行われる。
江戸時代には、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑)にある大鷲神社(鷲大明神)が栄え、「本酉」と言われた。この花又鷲大明神を産土神とする近在住民の収穫祭が江戸酉の市の発端といわれている。現在の大鷲神社の祭神は日本武尊で、東征からの帰還の際、同地で戦勝を祝したとされる。江戸時代には、大鷲神社の本尊(本地)は鷲の背に乗った釈迦とされた。大鷲神社の酉の市は、15世紀初めの応永年間に始まるとされ、参詣人は、鶏を献納して開運を祈り、祭が終了した後浅草観音堂前(浅草寺)に献納した鶏を放った。
江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山長国寺(じゅざいさん・ちょうこくじ、法華宗本門流)境内の鷲大明神社(東京都台東区千束)で行われた酉の市である。「本酉」「大酉」と呼ばれた花又の酉の市に対して「新酉」と呼ばれた。当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩(みょうけんだいぼさつ。)とも呼ばれて、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。鷲大明神社は「鷲宮(わしのみや)」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。明治初年には神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに引き分けられた。現在の鷲神社の祭神は、天日鷲命と日本武尊。


「 菜 :わたせせいぞう画像より 」

酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされる。
神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われる。また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。
仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。1265年(文永2年)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、明星(金星)が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後1771年(明和8年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった。
実際は、花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が江戸酉の市の発端といわれる。鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれ当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み、社家は鶏卵さえ食べない。近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのである。このように鶏を神とも祀った社は、綾瀬川に面しているため水運による人、物の集合に好適であった。そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり、そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳されたが安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微する。
かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草長国寺に安置された鷲ノ巣の妙見菩薩へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至るのである。また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であった。時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、今では関東の多くの寺社で開催されるようになった。
このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのである。



熊手守りと縁起熊手 [編集]「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与され、福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。酉の市の縁起物は、江戸時代より熊手の他に「頭の芋(とうのいも)」(唐の芋)や粟でつくった「黄金餅(こがねもち)」があった。頭の芋は頭(かしら)になって出世する、芋は子芋を数多く付ける事から子宝に恵まれるとされ、黄金餅は金持ちになれるといわれた。しかし幕末頃から売られるようになった「切り山椒」が黄金餅に変わって市の縁起物となり現在にいたっている。本格的な寒さを迎えるこの時期、これを食べれば風邪を引かないといわれる。

縁起物の代表である熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれ、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められている。熊手は熊手商と買った(勝った)、まけた(負けた)と気っ風の良いやり取りを楽しんで買うものとされ、商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる(商品額をまけさせて、その差し引いた分を店側に「ご祝儀」として渡すことを「粋な買い方」とする人もおり、手締めはこの「ご祝儀」を店側が受け取った場合に行われる場合が多い。つまり、この方法でいくと結局は定額を支払っているわけだが、ご祝儀については明確に決まっているわけではなく、差し引き分以上の場合もあれば、小銭程度であったりと買い手側の意思に大きく依存されているようである)。熊手は年々大きくしてゆくものとされ、大小様々なものが売られている。
 【 酉の市wiki 】  


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2011年11月08日

もののけ姫(3)

もののけ姫の思想


ギルガメシュ

『もののけ姫』制作に当たって宮崎監督が最も意識した物語がある。それは五千年にメソポタミアで書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』である。
ウルクの王ギルガメシュは、親友と共に人間の世界を広げるためにレバノン杉の原生林を伐る。怒った半身半獣の森の神・フンババは、凶暴な姿になってギルガメシュを襲うが、ついには首を刈られてしまう。それを可能にした最強兵器こそ、金属―青銅の斧だった。神退治の代償として親友を失ったギルガメシュは、死の世界へと旅立つが、何の成果も得られず絶望の果てに故国に戻って来る。
ギメガメシュは、神を殺して人間だけの王国を作ろうとした己の傲慢さを恥じ、自然破壊や生命操作は破滅の道だと遺言して果てる。 この物語には、自然破壊と人間の破滅という現代的テーマが鋭く打ち出されている。宮崎監督は、ここに「自然と人間」という大テーマの普遍性を見たのではないか。金属の武器による神退治が破滅を招くという構造は、作品と深く共通する。五千年の時を越えた物語の共振とでも言うべきか。



照葉樹林文化

「自然」という概念は抽象的である。作中では様々な自然の形態を緻密に描き分けている。実は、これが判別出来ないと、作品のテーマを正確に把握することは難しい。
本来の「自然」とは、天然の「原生林」である。これは数千・数万年を生きた大樹が生い茂る暗く恐ろしい森である。当然人の手など遠く及ばない世界である。
一方、人の手が加わった田畑を含む「里山」や、植林された「二次林」は、明るく懐かしい森である。通常我々は、このような、人が作り換えた森も「自然」と呼んでいる。
 『となりのトトロ』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』など、スタジオジブリの諸作品では、後者の「自然」が繰り返し描かれて来た。今回は、これを突破して原生自然を描くという大挑戦を敢行している。かつての日本には、我々が知らない暗い原生林が広がっていたのである。その森を刈り尽くし、人口の自然や村や都市を作り上げて来たのが人間の歴史である。
太古の昔、日本の南半分は照葉樹林(クス・カシなど)が覆っていた。この照葉樹林地帯は、中国南部を経てヒマラヤ山脈の麓に至るまで広大なベルト地帯を形成していた。この地域には、風習・食文化・伝説・衣裳などに深い共通性があった。同じ原生林が良く似た文化を産んだのである。これを「照葉樹林文化論」として、民族を越えた日本人の根源に迫る学説を提唱したのが、中尾佐助氏であった。宮崎監督は、中尾氏の諸著作に深い影響を受けたと何度も語っている。
照葉樹林は、温暖な気候と豊富な水分を含む肥沃な土質の地にしか発生しない。その最大の特徴は、森の蘇生力である。いくら樹を伐っても砂漠化せず、人間が手を加えなければ、数十年で元の森林に戻ってしまうのだ。「産業や文明が崩壊した後に森になる」という『風の谷のナウシカ』以降の宮崎監督作品のイメージは、ここに原点がある。
「原生自然とそれを破壊する人間を描く」壮大な物語は、この照葉樹林文化論に着想を得たものと考える。神聖なシシ神の森は、堂々たる太古の照葉樹林であり、ラストの再生した森は明るい里山である。物語は、取り返しのつかない自然の変質(同時に人間の変質)を描いたものでもあるのだ。 なお、蝦夷の村の衣裳・風俗には照葉樹林文化の北端であるブータンの高地民を参照にしていることも興味深い。


縄文時代の生命倫理

宮崎監督は、縄文人のアニミズムに通底する独特の生命倫理を持っている。「人間はドブ川にわくユスリカの幼虫と同じ」と語る監督の生命観とは、動植物と人間の生命の重さを等価と見る一種の平等主義である。ここから、他の生物への礼儀作法を重く見る。つまり、動植物を殺して喰らい、環境と生態系をブチ壊して農耕と文明を広げるのが、人間の生来の「業」であるなら、せめて他の生命を奪う痛みや苦しみを味わって最小限度の被害に留める努力をしようと。どれほど人心が荒廃して政治が没落しようとも、この礼儀作法を貫くことで、自然環境との共生の展望を見い出したい―という願いである。それは、森の崇拝を文化の根源に据えていた縄文文化とその末裔たる山民への憧れでもある。
この観点から見ると、蝦夷の少年や山犬に育てられた少女が主人公であること、その風俗が森との共生の智恵に満ちており、人間の業を背負うに足る賢い人物であることなどがよく分かる。つまり、作中の人物たちの目線は、はるか彼方を見ているわけである。もし、彼らに対して、従来の宮崎監督作品にない親しみにくさを感じてしまうとすれば、それは自己の利害や即物的欲求にしか理解を示せない我々自身の問題でもあるのかも知れない。



「生きろ」のメッセージ

『もののけ姫』は、一見楽観的にも見える結末で幕を閉じる。しかし、その後の展開を予想すれば、すさまじく厳しい時代を迎えてしまうことになる。あの後すぐ、戦国時代に突入し、戦禍が各地に及ぶ。タタラ場争奪は熾烈化するであろうし、身分差別も激化する。火縄銃が登場し、石火矢ではかなわない。神々を失った獣は狩られ、森の破壊も各地で進むことであろう。蝦夷の村も無事とは思えない。アシタカとサンの共生に向けた必死の努力など、時代の渦に飲み込まれてしまうかも知れない。
これは、来るべき困難な二十一世紀ともよく符合する。人口増大と自然破壊による資源の枯渇は、早晩全人類的規模の危機をもたらすと言う。しかし、特別な処方箋はない。にも関わらず、宮崎監督は作品に「生きろ」と銘打ち、主人公にも「生きろ」と語らせている。どんなに困難な時代にも健やかであれと。それは、手近な終末観やニヒリズムに陥り、安易な憎悪や殺戮にカタルシスを求める凡百の映画とは、根本的に異なる楽観主義である。あらゆる惨禍も業も、「曇りなき眼で見つめ」なおかつ絶望せずに生きること。 宮崎監督は、アニメーション作家として蓄積した三十余年の経験と技術の全てを注ぎ込んで、次世代に力強いメッセージを伝えたのである。


【 もののけ姫 - 予告 - 】  


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2011年11月07日

もののけ姫(2)

もののけ姫 「神々の世界」


シシ神とディダラボッチ
太古の照葉樹林の森に棲む神々の頂点に立つ半身半獣の神がシシ神である。設定には「生命の生死を司り、新月に生まれ月の満ち欠けと共に生死を繰り返す」とある。逆に言えば「光満る満月に死ぬ」という意味か。とすれば、闇多き森(つまり原生林)にしか生まれない神とも解釈出来る。
ディダラボッチは、シシ神の夜の姿である。青白く輝く半透明の巨人である。唐草紋らしき文様が全身に見える。
シシ神は人間との抗争には超然たる傍観者である。自ら攻撃に出ることはなく、首を狙ったエボシの銃に芽を吹かせる程度である。しかし、首を刈られた後のディダラは、天を覆う巨大な闇となってドロドロの塊を振りまき、森を破壊しながら首を求めてタタラ場に迫る。
アシタカとサンの活躍によって、首を返還されたディダラは、朝陽を浴びて倒壊し、一陣の風と共に、砕けた破片が地下に浸透して一帯に緑が再生する。同じドロドロがシシ神の意志次第で、破壊も再生も生み出すのである。
しかし、もし人の手でシシ神に首を返還出来ず、自力で復活したとしたら、憎悪による破壊を続れて朝陽に果てたのか、あるいはタタラ場も原生林に覆われて、人間はこの地から追いやられてしまったかも知れない。アシタカとサンが命がけで尽くした礼儀が、シシ神の憎悪を消しタタラ場を救ったのだ。アシタカの呪いが解けたことも、同様に解釈出来る。シシ神は、共生の意志ある人間の行動を認めたのだ。
しかし一方では、朝陽を浴びて去勢されてしまったシシ神には、そもそも本来の力がなく原生林を蘇生するまでには至らなかった、という絶望的解釈も成り立つ。タタラ場と禿山を覆った緑は、言わば牙を抜かれた自然であり、穏やかで明るい「里山」であった。

神を殺して得た里山を「人間と自然の共生の象徴」と理解するのは簡単であるが、事はそんなに単純ではない。構造的には人間側に森の主導権が移ってしまったのである。原住生物たちにとっては「シシ神の死んだ」森で、君臨する神としてでなく、狩られる獣として暮らさねばならないのだ。しかし、アシタカは、それでも「共に生きよう」と訴える。それは、互いに礼を尽くし、生かし生かされる構造を保つという生命平等主義の立場である。それは余りにも厳しく困難な共生への道である。
 なお、ディダラボッチの伝説は全国各地にある。東京都世田谷区「代田」の地名は、ディダラがかけた橋に由来すると言う。

山犬・モロ一族ともののけ姫・サン

作中には、山犬神「モロの君」とその一族が登場する。
古来、山犬または狼を土地神として祀る風習は日本各地にあった。田畑を荒らす害獣を退治する智恵ある獣として慕われた反面、人間を襲う凶暴な獣として恐れられてもいた。西欧童話の狼が間抜けな悪役であるのに比して、日本では狼を高貴な神とする伝承が多い。
猪や鹿を獲物として来た山犬が、作中のように猪一族と険悪な関係なのは当然である。
もののけ姫・サンは、村から神鎮めの生贄としてモロに捧げられた。その原因は、おそらく人間による森林破壊であったろう。モロは、破壊の許可を求めるために赤子をよこした人間のエゴを蔑んだことであろう。しかし、にも関わらず、モロはサンに二足歩行と人語を教え、衣服・靴・装飾品を与え(作らせ)、入れ墨まで施している。これは何故か。
モロはサンを人間として育てたとしか思えない。ただし、憎き敵の現世の人間文化を与えず、自然との共生関係を保っていた縄文人の文化を与えたのである。サンの呪術的な土面や装束、食物・習俗などは、全て縄文人のものである。神は縄文人を認めていたのだ。
サンとアシタカの出会いは、北方と南方の縄文人の末裔同士の出会いでもあったのだ。

乙事主・ナゴの守と猪一族

冒頭タタリ神としてアシタカの村を襲ったのが、シシ神の森に棲む猪一族の長「ナゴの守」である。ナゴの守は、エボシ御前に鉛玉を撃ち込まれ、死の恐怖と闘い切れず、怨みの塊たるタタリ神と化したのであった。シシ神に与えられる安楽な自然死ではタタリ神となることはない。つまり、タタリとは、神が卑しい人間によって強制的に殺される立場に転落したことに対して抱く、やり場のない憎悪と恐怖が生み出す現象なのだ。
これは、人間が神をも殺戮出来る兵器を開発し、神の支配を覆す時代となったことに対する神の逆襲だが、高貴な心を捨てて凶悪かつ醜悪な破壊神と化したその姿は悲しい。
白内障を煩っている「乙事主」は、猪神信仰の盛んな鎮西(九州)を治める齢五〇〇歳の巨大な猪神である。エボシ・ジコ連合に対し、出雲・鎮西連合の猪族を率いて「猪突猛進」の特攻を敢行するが、悉く玉砕する。
この特攻に際し、猪たちの群は泥水に浸かって体をくねらせ、互いの体に泥の白丸を描く。これは、沖縄・宮古島の島尻部落に伝わる祭を原典としたものと思われる。ここでは神聖な泥水に浸かった男が、里に降りて幸福をもたらすと言う。その泥水を「ニタ(ニッジャ)」と呼ぶ。ニタとは、古来、猪が虱を取るために浸かる(「ニタをうつ」と言う)場所を指す言葉である。つまり、あの白丸は、神がかりの特攻のための隈取り化粧なのだ。

コダマ


作中には、「コダマ」と呼ばれる不思議な精霊の群が登場する。いわゆる山彦のことではなく、豊かな森に宿る「樹の精」らしい。人間に対する敵意はなく、アシタカには大変親しげである。 
これは、宮崎監督が木々の生命をヴィジュアル化したものと考える。森を破壊することは、莫大なコダマを殺すことにもなるのだ。作中のクライマックスで、まるでマリンスノーのように次々と死んで降り注ぐコダマたちは、森の生命の急速な衰退を物語る。人間中心主義の視点しか持たない私たちには、木々が伐り倒される映像よりも、擬人化されたコダマが殺されて降り注ぐシーンの方がはるかに生命の重さを感じてしまう。
ラストシーンで、破壊の爪痕残る森の深部には、一人ぼっちのコダマがいる。これは、森の生命がこれから復興するのか、衰退するのかは人間次第という暗示ではないか。
なお、大樹や森に生じる音の精霊を「コダマ」として信仰する伝承も、かつては日本各地にあった。

猩々

作中には、「猩々」と呼ばれる不気味な猿の一族が登場する。一族は、夜な夜なタタラ場周辺の禿山に出没しては樹を植えている。直接山犬族や猪族と共に人間と闘うことはせず、最後には絶望して森を去る。かつては「森の賢者」とも呼ばれていたそうだが、その容姿と赤く光る眼は異様で、地獄の餓鬼のようでもある。
猩々とは、古代中国の伝説上の怪物である。大型の類人猿であり、学術的にはオラン・ウータンを示す。日本にも古くから猩々の伝説があり、それによれば「全身赤毛で、人語を解し、酒が大好き」とのことだ。能にも「猩々」という演題があり、酒酔いを示す赤い面をつけて踊る。また、猩々の血で染めた「猩々緋」と呼ばれる赤い染物もあった。
ちなみに、「ショウジョウバエ」の語源は、「猩々のように酒に群がる蝿」の意味である。




【アシタカとサン】  


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2011年11月06日

もののけ姫(1)

映画 『もののけ姫』
猛烈な速度で駆け抜ける画面には、その隅々に至るまで、新しい歴史観、新しい民俗学・考古学的視点、そして生命の倫理が貫かれている。また、物語は緻密かつ重層的に構築されており、画面には直接登場しない組織や人物たちによる文字通りの暗闘が背後にある。「人間の世界」として、一つの異民族と四つの政治勢力が描かれる。そして、四つの勢力と対立する「神々の世界」がある。



人間の世界

●エミシの村
異民族とは、冒頭に描かれたアシタカの村、つまり「蝦夷」のことである。蝦夷は、大和朝廷との戦争に破れ、絶滅寸前の民である。物語ではアシタカ以外の民が、登場した他の勢力と関わることはないが、縄文人の末裔たる蝦夷は、基本的に森との対立関係になく、共生関係を保っていたと考えられる。
青森県の山内丸山遺跡の発見に明かなごとく、縄文時代の東北地方には日本最古の文明があった。縄文人は、「ナラ林文化」と呼ばれる山内の豊富な資源の採集、サケ・マスなどの漁撈、熊・鹿の猟などで食文化を形成し、様々な部族が共同体的小国を成していた。その根幹は、「我らは山に生かされている」という自然崇拝のアニミズム文化であった。蝦夷は、その血を引き継ぐ山の民であったと言われる。
一方、弥生時代に渡来人が南方で興した豪族国家は、武力制圧と共に水田稲作を食資源とする文化を各地に広めて行った。この動向は、大和朝廷成立によって更に加速し、東北地方侵略に至る。蝦夷の一部は従属・奴隷化し、一部は徹底抗戦を選択した。七七四年~八一一年に至る熾烈な三八年戦争の末、蝦夷の長アテルイはついに降伏し、斬殺された。
かくて蝦夷の残党は、山内深く隠れ里にひっそりと暮らすより他はなかった。そこには、古の因習や独特の文化が残っていたと思われる。宮崎氏によれば、アシタカは勇者アテルイの部族の末裔であると言う。

●エボシ御前とタタラ場の人々

人間の政治勢力の第一は、主要な舞台となるタタラ場の製鉄民たちである。エボシ御前率いる通称「エボシタタラ」は、城塞都市のごとき風貌の製鉄・加工プラントであり、俗世と隔絶された小国のごとき自治体といった印象である。これは当時実際にあった製鉄民の特権制度を膨らませた設定である。
タタラ製鉄とは、砂鉄から鋼塊を作り出す独特の製鉄法である。太古の昔から明治初期まで、タタラは日本の製鉄技術の主流であった。タタラで作り出された鉄は、世界的な貴重品と言われるほど高い純度と質を持っていた。
タタラ製鉄は、莫大な労力を要する作業であるため、数十人規模の大所帯による共同体を構成しなければ稼働出来なかった。また、武器・鎧・農具の元となる鉄は最大の必需品であるため、各地の大名や寺院が特権を与えて保護していたのだ。
タタラ製鉄の元は何より山である。まず、徹底的に森を伐って木炭を作る。同時に山を崩して、土を水と共にトヨに流し、水流で砂鉄を洗い出す。この為、下流域の農民は泥まみれの鉄砲水や山崩れの被害に合う。製鉄民は農民の敵であり、平地に住めないならず者の仕事とも言われた。「タタラ者」とは製鉄民の蔑称でもあった。
タタラ場では以下のような作業を行う。
まず「高殿」と呼ばれる特殊な建物の中で、木炭を焚き続けて地下まで地盤を乾燥させ、その上に粘土で炉を築く。ここで火を焚き、砂鉄と木炭を交互に振り入れる。この間、炉の左右に設けられた板踏み式の送風装置(「踏み吹子」と言う)を稼働させ、一五〇〇度前後の高温を保つ。これを三日四晩続けて、ようやく鉄塊(「ケラ」と言う)を取り出すことが出来る。この際、粘土の炉は壊す。
タタラがどれほどすさまじい重労働であるかは、以下の操業凡例に明かである。一回の操業で使用した砂鉄十九トン、木炭十五トン(基礎部乾燥には更に一五〇トン)、得られた鉄五トン。操業数回で山一つ消滅したと言う。
 物語は、タタラが最も盛んであった出雲(島根県)で展開されているが、実際に出雲の地形は製鉄によって著しく変化したと言われている。弥生時代に、日本の原生林が多く消失していることも、渡来人による製鉄の開始が原因と言われている。作中、タタラ場の周囲はすでに禿山となっており、更に伐り進む必要性を物語っている。
ところで、タタラ場には女人禁制の掟があった。タタラの神が女性なので同性を嫌ったとか、血(月経や出産など)を嫌ったとか諸説あるが、詳しくは不明である。エボシ御前は、これを真っ向から否定してタタラ場を女性の職場にしてしまっている。これは宮崎監督らしい創作だが、実際に室町中期までは、たくましい女性職人が活躍していたのだ。宮崎監督は、室町期の絵巻「職人歌合(『職人尽絵』とも言う)」に描かれた数十人の女性職人に注目し、その気風を学んだと言う。
 なお、作中のタタラ炉は実に巨大であり、吹子踏みも四日五晩続けると語られることから、出雲でも最大規模のタタラ場であったと分かる。このため操業人員・資材発掘・運搬人員が大量に描かれているのは当然である。
また、エボシタタラは、「天朝」の保護下にあり、「師匠連」から砲術プロ「石火矢衆」四〇名を借り受け、シシ神退治にあっては「唐傘」の指示も受けていた。ただし、これらの諸勢力とは、完全な友好関係ではなく、一時的な契約共闘関係であり、最終的には破綻する。一方、タタラの経営権を狙う「アサノ公方」率いる地侍たちとは敵対関係にあり、アサノの使者も撃退されている。

●天朝と大和朝廷
第二の勢力は、天朝(天皇)の大和朝廷である。南北朝の戦乱を経た室町時代において、朝廷の権威は衰退していたものの、職人たちの特権(自由通行権・免田給付など)を認めた「供御人制度」は健在であった。額面通りには、天朝の威光を借りることは、他者の侵略を退けることにもなるのだ。
天朝はジコ坊を通じてエボシ御前に密書を届けるが、直接登場はせず、書面の内容も不明である。察するに密書は「シシ神の首を刈ったならば、タタラ場の自治的経営権を認める」という類のものではなかったか。シシ神退治の計画は、単に「不老不死の力を得る」というまじない的意味だけでなく、台頭しつつあった戦国大名たちに朝廷の権威を知らしめるため、あるいは新兵器「石火矢」の威力誇示のためにも必要であったと考えられる。朝廷にとっては死活を賭けた一大計画であったのかも知れない。

●謎の組織・師匠連

第三の勢力は、謎の組織・師匠連である。
ジコ坊はこの一員であるが、僧侶らしい布教活動や修行とは無縁の術策士といった風貌である。配下に「唐傘」と呼ばれる戦闘指揮官、砲術士「石火矢衆」などの特殊部隊を従え、狩人や「ジバシリ」と呼ばれる山の民なども動員出来るネットワークを持つ。朝廷とは主従関係にあるらしく、「シシ神退治」に於けるタタラ場の指揮を任されている。
その実体を単純に推察すれば、「石火矢」を日本に持ち込んだ中国(明)か朝鮮の渡来人と思われる。深読みすれば、古代日本に製鉄技術を持ち込んだ渡来人(「韓鍛冶」)の末裔とも、朝廷に新型兵器の売り込みをアピールする「死の商人」とも、さらには朝廷をも闇で支配しようと画策していた陰謀集団とも考えられる。彼らの当面の目的も、「シシ神退治」の見返りとして、朝廷からエボシタタラの独占経営―兵器工場としての機能確保を任されることにあったのではないか。
なお、「石火矢」とは実在した世界最古の金属製銃器「手把鋼銃(ハンドカノン)」の和名である。中国では十四世紀頃、朝鮮では十五世紀頃から実用化されていた。着火装置は「指火式」と呼ばれ、小枝や棒で直に薬室に点火するスタイルである。何故か種子島の火縄銃伝来以前に日本に輸入された痕跡がなく、幻の銃とされている。作中の旧式石火矢は、中国に残されている最古の青銅製ハンドカノンを真似ている。
日本では戦国時代に新式石火矢が開発され、「国崩」「佛郎機」などの名で呼ばれた。これが、エボシ御前や女たちが使う薬室カートリッジ型銃(「子母式銃」と言う)に当たる。しかし、この新型は火縄の実用性にかなわず、ついに普及はしなかった。
宮崎監督の設定は、ポルトガルからの火縄銃伝来(一五四三年)以前に隣国から石火矢が輸入され、子母式銃まで作られていたという、現実性のある仮説に基づくものである。

●アサノ公方と地侍

第四の勢力は、これも本人が登場しない「アサノ公方」の軍勢である。おそらく下克上の成り上がり大名か、悪党の親玉侍であり、統率の取れない地侍たちを集めて仮の勢力を築いていると思われる。武器の源たるエボシタタラの経営権を狙っており、度々侵攻を試みているが、石火矢の威力の前に撃退されている。その新兵器強奪への渇望もあってか、最後にはエボシ御前と男衆の留守を狙って一斉攻撃を仕掛ける。
しかし、これは「シシ神退治」の情報漏洩抜きには考えられないタイミングの攻撃である。タタラ場の徹底した監視体制を敷いていたか、アサノと大和朝廷、乃至は師匠連が密通していた可能性が考えられる。つまり両者共謀の上、シシ神退治とエボシタタラ強奪を同時進行させる作戦だったのではないか。そう考えると、アサノ軍がシシ神退治に無関心であることもよく分かる。
各勢力が各々の野望に燃えて一時的な共闘・共謀を行うものの、やがて「昨日の味方が今日の敵」という泥沼的抗争へと至る。まさに血で血を購う時代である。 なお、戦国時代の尾張(愛知県)に「浅野氏」は実在している。



  
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Posted by hidesun(英寸) at 16:03Comments(0)アニメ