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2012年05月14日

土方歳三

土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日(1835年5月31日) - 明治2年5月11日(1869年6月20日))は、新選組副長、幕末期の幕臣。諱は義豊。雅号は豊玉。新選組「鬼の副長」として恐れられた。戊辰戦争では旧幕府陸軍指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮し、いわゆる「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任した。家紋は左三つ巴。
【 土方 歳三wikiより 】

※ 土方衣装・HIJKATA座りポーズでの画像

●土方歳三の生涯については、長くなりますのでwikiに載っています逸話の紹介です。

幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたといいます。その柱は土方歳三資料館に現在でも残っています。
甥(佐藤彦五郎の3男・為吉)が庭先で転んで額を切った時にはすぐさま駆け付けて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたといいます。
天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していません。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったようです。しかし、実戦では滅法強かったと言われています(斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したりなど、縦横無尽に戦闘をしていたという)。
後の洋装の写真などから、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来の懐中時計なども持っていたといいます。また、戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させたり、二股口を守備した時も、味方が敗走を続ける中で勝利を重ねるなど、近代戦術にも理解を示して実践し、成果を上げている中で、隊内の気の置けない仲間には、「自分は、信長の生まれ変わりだろう」と言ったことがあります。


【 新選組!!より 】

陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ、普段は冷酷な人物とされます。しかし、箱館戦争にまで従った新選組隊士中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、母のように慕われていた」といいます。この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったとも言われています。ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げるための、計算の上であったとする説もあります。
もともと色白で引き締まった顔立ちをしており(当時としては)長身であった為、京都にて新選組副長として活動していた時などは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどでありました。
上洛間もない頃、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛て大きな荷物が届きます。京土産でも送って来たかと開けてみると、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という和歌が手紙に添えられていたといいます。


【 新選組!!より 】

宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)閏4月頃から7月頃(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していました。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官の望月光蔵が訪ねて来ましたが、歳三は寝ころんだまま「俺達と共に戦え」と言いました。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦う事はできない」と拒否をします。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなた達は宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」。望月にそう言われた歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。この時歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたそうです。



死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否をします。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放ちます。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振りました。日野に旅立つ時、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく土方さんだったのだと思います」と語り残しています。その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届けています。
和歌や俳諧などを嗜むなど風流人の面もあった。書き溜めた句は自らまとめており、「豊玉発句集」として残されています。

【 新選組!より 】 演:山本耕史
副長。多摩の出身。近藤とは幼なじみで「かっちゃん」「トシ」と呼び合う無二の親友。極度の女好きで、秀二郎がひでの男装であったのを見抜けず、相当悔しがっていたこともある。作戦立案や組織造りなどに抜群の才を発揮する知恵者。
一時は行商の道を志し家伝の石田散薬の行商をしていたりしたが、剣の道を志し天然理心流に入門する。一時は「剣は総司がいる。頭(知恵)は山南がついている」と考え、自分は近藤には必要ないのではないかと自信喪失するが、周斎に「山南の知恵は書物で学んだ知恵だ。お前の知恵は生きた知恵だ」と諭される。京に上ると近藤を大名にすることを狙うが、「八月十八日の政変」で自分たちが時勢の蚊帳の外にいることを痛感、近藤を日本一の侍にするために鬼になることを誓った。以後、近藤のために嫌われ役に徹し組織統制に辣腕をふるい多くの隊士を粛清したことから「鬼の副長」といわれる。一方で山南や河合ら不本意ながら切腹させないといけなくなった場合は人知れず涙を流した。江戸に帰った後は洋装になり、関東敗走後は内藤隼人の変名を使用。流山で近藤と訣別した後も宇都宮、会津、函館と新政府軍を相手に死場所を求めて戦い続ける。


JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
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Posted by hidesun(英寸) at 20:33Comments(0)新撰組