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2010年12月02日

大奥-瀧山

瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 明治9年(1876年)1月14日)は江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪。
大奥-瀧山

文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。その後、才覚が認められて将軍付御年寄に任じられた。14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立。家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した。13代将軍・家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去した。
10月24日(11月29日)に14代・家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。実成院はかなりの派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れる事なく騒いでいた。瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。
これまで慶応4年(1868年)の江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをしたと言われてきたがこれより前の慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった後、御年寄職を辞したとする説もある
江戸城開城後は自分に仕えていた局の生家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。明治9年(1876年)、72歳で没。


タグ :瀧山大奥

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Posted by hidesun(英寸) at 22:05│Comments(0)大奥
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