2010年12月13日
徳川将軍家御台所

徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川将軍家の御台所について扱う。御台所とは大臣や将軍の妻に対して用いられる敬称で、江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。
御台所の立場
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、徳川幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)於江(於江与)を迎えた二代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、天皇家、宮家、公家(摂家)から迎えるのが慣例となっていた。十一代徳川家斉御台所・寔子と十三代徳川家定御台所・敬子は島津家出身であるが、両人とも輿入れに先立って近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に将軍家正室としての格式が求められたためになされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった二代秀忠御台所の於江が三代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは天皇家、宮家、公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされる。御台所は大奥の女主人であったにも関わらず、大抵の場合、実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。しかし、六代家宣の時代に改革がなされて、御年寄や側室の住居は「長局向」だけに留められた。更に側室の位置づけがあくまでも臣下とされるようになり、御台所は側室の産んだ子の嫡母の待遇を受けるようになるなど、御台所の扱いは大きく改善されていった。生母に対しても、将軍家内での順位は生母が最も低いため、御台所の権威を生母が揺るがす事はなかった。
夫たる将軍が亡くなった場合は落飾して西丸へと移り、将軍の菩提を弔い余生を過ごす事となっていた。それでも時代によっては、「大御台所」として多大な影響力を保持し続けた例もある。ちなみに正室によっては、立場上の問題や大奥入りしなかったために御台所と呼称されなかった者もいる。
大奥での生活
御台所の住まう場所は、大奥「御殿向き」の北西にある「松御殿」ないし「新御殿」と呼ばれる場所だった。居間に当たるのは「御上段」・「御下段」・「御休息」で、「御切形の間」が寝所に当たる。日常生活において、御台所が手を動かす事と言えば食事の時くらいで、その他の厠、爪切り、お召し替えなどでは全て女中たちが代わりに手を動かしてくれた。一回の食事のためにいつも十人前が用意され、その内二人前はお毒見役のための毒見用である。毒見を通過した御膳の内、御台所が実際に食べるのはわずかに二人前(どの料理にも二箸しか手をつけず、もう一人前がおかわりの分だった)であり、残りの六人前は食事当番の女中が食べた。お召し替えは一日に五回。入浴、朝食前の「お朝召し」、総触れ(毎朝行なわれる将軍への謁見)前の「総触れ召し」、「お昼召し」、「お夕方召し」、「お寝召し」とがあった。
【徳川将軍家御台所wiki】
◆万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内◆
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという平安期からの説があります。
その師走の来週の日曜日21:40より【万華鏡&みるきー舞姫 合同公演】が開催されます。

「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬-
↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。
◆場所 江戸吉原SIM
◆日時 12月19日(日)
◆演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。
※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。
◆場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21

Posted by hidesun(英寸) at 22:05│Comments(0)
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