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2010年11月08日

文明開化

源氏物語14帖まで綴りましたが、一時休憩です。15帖以降は後程。
さて、時間を一気に進ませてみます。

文明開化
ROMAN(大正浪漫)SIM

日本の開国-それは、世界史的にもめずらしい強烈な文化的ショックとしてとらえることができる。二百五十年にわたる鎖国のあと突如として、日本のまえには「世界」があらわれてきたのだ。それは、暗黒からいきなり白昼の光線のなかにとび出したようなものだった、といってもよい。日本にとって、「世界」は、まぶしかった。
「世界」からの使者として、「西洋人」がやってきた。かれらは、めずらしい風俗や、製品や、習慣を日本にもってきた。もちろん、桃山時代に日本人は、すでに「西洋人」を見たことがあった。そのころ、「西洋人」に教えられたいくつもの文物を、鎖国期間中ももちつづけ、日本的に洗練させたりもしてきた。たとえば-てんぷら、かるた。
しかし、「西洋人」がこんなに堂々と日本の首府の周辺にあらわれた、というのは、はじめての経験であった。しかも、かれらのもってきたすべてのものは、かつての日本人が知っていた南蛮の文物とはくらべものにならないほど精巧で、おどろくべき性能をもっていた。かつて織田信長は、南蛮渡来の鉄砲をいち早く採用し、それによって長篠の合戦に大勝利をおさめ、そこから天下統一への第一歩をふみ出したのであったが、いま、日本人のまえには、蒸気でうごく巨大な軍艦や、汽車や、電気や、その他もろもろの機械類があった。それは、桃山期における鉄砲があたえたショックの数十倍のショックであったというべきであろう。
日本人は、直観的に、そして無条件に、「西洋」のほうが日本よりすぐれている、という事実をみとめた。すくなくとも、その力において、日本は西洋にかなわない、という事実をみとめた。なすべきことはただひとつ。「西洋」のもっているものを、一刻も早く日本がもつことである。そのためには、大至急に「西洋」のすべてを学ばなければならない。
明治政府は、その発足と同時に、世界史に類例のない、閣僚の「半舷上陸」をおこなった。すなわち岩倉具視以下百人あまりの重要人物が、明治四年から二年間にわたって欧米視察の旅行に出かけたのである。三条実美らが日本にとどまる留守部隊だが、日本の政治の半分は、新政府発足とともに、日本をはなれてしまったのだ。「西洋」を、かけ足で日本にとりこむための大英断というべきであろう。
 視察旅行の収穫は大きかった。「西洋」の途方もない偉大さがわかってきた。とにかく、「西洋」のもっているすべてのものを、とりこむべきだ、という方針が立てられ、政治組織も軍隊も経済組織も、おどろくべきスピードで、西洋式に切りかえられていった。欧化時代のはじまりである。
その欧化時代の極点をよきにつけあしきにつけ、象徴するのは、鹿鳴館であろう。鹿鳴館は明治十六年に完成した二階建の煉瓦の建物、その場所は、ちょうど現在の帝国ホテルから二百メートルほど田村町に寄ったところであった。
文明開化
鹿鳴館は、日本の新上流社会と、欧米外交官などの利用する社交クラブであった。そしてそこに出入りする日本人は、その服装・作法など、ことごとく西洋に倣うのであった。つい十数年まえまでは、刀を差し、ちょんまげを結っていた明治の元勲が鹿鳴館では西洋式の礼服を身につけ、洋酒をすすり、ダンスをした。外国人と交際しなければならない、というので、外国語の会話練習もさかんになった。
鹿鳴館完成の翌年、すなわち明治十七年には、ヤンソンという人物がダンス教師となり、日本の貴顕淑女にダンスを教えた。有名な鹿鳴館の仮装舞踏会がおこなわれたのは明治二十年のことであった。



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Posted by hidesun(英寸) at 21:47│Comments(0)歴史
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