
2012年10月27日
稲穂
天照大御神(あまてらすおおみかみ)から授かった、天上の稲穂

神から授かった稲を育て 実りを神に捧げることで 日本人は国を豊かにしました。


古来、日本は稲作を中心に発展し、瑞々しい稲穂がたわわに実る「瑞穂の国」と称されてきました。お米は日本の気候風土でよく育ち、栄養価が高く保存もできるため、日本人にとってはまさに「命の根」(稲の語源)だったのです。日本人がいかにお米を大切にしてきたかは、日本の神話からも紐解くことができます。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から天降(あまくだ)る際、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は天上の田で育てた稲穂を授け、「地上で大切に育て継承しなさい」と命じました(斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅)。つまりお米は、神から授かった聖なる食べ物であるのです。毎年、収穫したお米は神嘗祭(秋祭り)で神々に捧げられます。託された稲が今年も豊かに稔ったことを奉告し、感謝の心でお供えするのです。飽食の時代にあっても、一粒の米に神を感じて感謝する日本人の清らかな心を失いたくないものです。


大神稲荷神社
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

神から授かった稲を育て 実りを神に捧げることで 日本人は国を豊かにしました。


古来、日本は稲作を中心に発展し、瑞々しい稲穂がたわわに実る「瑞穂の国」と称されてきました。お米は日本の気候風土でよく育ち、栄養価が高く保存もできるため、日本人にとってはまさに「命の根」(稲の語源)だったのです。日本人がいかにお米を大切にしてきたかは、日本の神話からも紐解くことができます。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から天降(あまくだ)る際、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は天上の田で育てた稲穂を授け、「地上で大切に育て継承しなさい」と命じました(斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅)。つまりお米は、神から授かった聖なる食べ物であるのです。毎年、収穫したお米は神嘗祭(秋祭り)で神々に捧げられます。託された稲が今年も豊かに稔ったことを奉告し、感謝の心でお供えするのです。飽食の時代にあっても、一粒の米に神を感じて感謝する日本人の清らかな心を失いたくないものです。


大神稲荷神社
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33
2012年10月16日
神無月
神無月(かんなづき、かみなしづき)とは、一般には縁結びの相談のため神々が出雲へ出向くので その地域を鎮護するものがいなくなることからきています。

出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた俗説とされます。また留守神という性格を持つ神も存在し、すべての神が出雲に出向くわけではありません。

出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習がありました。
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もあります。

出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになりました。一般に留守神には恵比須神が宛てられ、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もあります。
鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去において神無月に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されているものがあります。
【 いわし雲 】
鰯の群れのように空に広がる雲。魚の鱗にも似ていることから、鱗雲ともいう。この雲が見られると鰯の群れがやってくるともいう。秋によく見られる。
いわし雲眼下に衝くや古都の鐘 作者 高橋正三


大神稲荷神社
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた俗説とされます。また留守神という性格を持つ神も存在し、すべての神が出雲に出向くわけではありません。

出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習がありました。
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もあります。

出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになりました。一般に留守神には恵比須神が宛てられ、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もあります。
鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去において神無月に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されているものがあります。
【 いわし雲 】
鰯の群れのように空に広がる雲。魚の鱗にも似ていることから、鱗雲ともいう。この雲が見られると鰯の群れがやってくるともいう。秋によく見られる。
いわし雲眼下に衝くや古都の鐘 作者 高橋正三


大神稲荷神社
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2012年08月17日
五山送り火
【 五山送り火とは 】
8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山に、炎で描かれた「大」「妙法」の文字や鳥居、船が次々に浮かび上がる。お盆に迎えた精霊をふたたび冥府に返す精霊送りの意味を持つ、あくまで宗教行事である。市内の川沿いや御所など開けたところから遠望することができ、関係者は静かに手を合わせ先祖に思いを馳せて欲しい、としている。

東山如意ヶ嶽(支峰の大文字山)の「大文字」がもっともよく知られていて、送り火の代名詞になっている。
江戸時代後期には「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)などの字形もあったが、途絶えたといわれている。 京都市北部の地域で現在も行われている「松上げ」と同じような起源を持つと考えられている。 京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)に五山送り火を加え、京都四大行事と呼ばれる。

大文字送り火
京都市東部、東山三十六峰に属する如意ヶ嶽の支峰・大文字山にある。大文字は五山送り火に二山あり、左大文字との対比で右大文字と呼ぶ。山麓には銀閣寺、法然院等の名刹が連なる。
【起源】以下の3つの説が伝わっている。(1)平安時代初期に、弘法大師(空海)が始めたという。 かつて大文字山麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放った。この光明を真似て実施した火を用いる儀式を、弘法大師が大の字形に改めた。(2) 室町時代中期、足利義政が始めたとする説。1489(延徳元)年、足利義政が近江の合戦で死亡した実子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めた、という。大の字形は山の斜面に白布を添え付け、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶・横川景三が眺め定めた。 (3)江戸時代初期に、近衛信尹(のぶただ)により始まったとする説。 1662(寛文2)年に刊行された「案内者」には、「大文字は三☆院(さんみゃくいん)殿(信尹を指す)の筆画にて」との記述がある。信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の三筆といわれた能書家だった。
●松ヶ崎妙法送り火
「妙」「法」から成る。西側に位置する「妙」は万灯籠山(松ヶ崎西山)、東側の「法」は大黒天山(松ヶ崎東山)にそれぞれ浮かび上がる。
【起源】「妙」は鎌倉時代末期、松ヶ崎の村で、日蓮宗の僧・日像が、西の山に向かって「南無妙法蓮華経」の題目から「妙」の字を書き、それを基に地元で山に点火を始めたのが起こりとされる。 一方、「法」は、約350年前の江戸時代初期から行われた、とされる。当時は地域の西側にしか送り火がなかったため、僧の日良が東の山に向かって新たに「法」を書き、これにならって火をともしたのが始まりと伝えられる。
●船形万燈籠送り火
京都市の北東部・西賀茂の明見山にあるが、明見山の真下で船形を見ることは難しい。
【起源】西方寺の開祖、慈覚大師が847(承和14)年、唐留学の帰路で暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱え、無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。
●左大文字送り火
京都市西部、大北山にある。字形は右大文字と酷似しているが、規模から点火手法に至るまですべての面で異なる。西大路通のわら天神交差点を北に越えると視野に入る。ふもとには金閣寺がある。
【起源】1662(寛文2)年刊行の「案内者」に記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられる。大の字に一画加えて「天」とした時代もあった。
●鳥居形松明送り火
京都市西部・北嵯峨の水尾山(曼荼羅山)にある。嵐山・広沢池の近郊にあり、市内で見える場所は限定される。山麓へは新丸太町通を西に向かった後、清滝方面へ北上する。 薪を井桁に組まずに、薪を合わせた松明を燭台に乗せる。親火の所で松明に火を移し、一斉に松明をもって走り各火床に突き立てられるが、あらかじめ各火床に点火準備されていないところが、ほかの四山と異なっている。
【起源】弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられる。鳥居の形から、愛宕神社との関係も考えられている。
五山送り火 【 京都・夏の風物詩 】

大神稲荷神社
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8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山に、炎で描かれた「大」「妙法」の文字や鳥居、船が次々に浮かび上がる。お盆に迎えた精霊をふたたび冥府に返す精霊送りの意味を持つ、あくまで宗教行事である。市内の川沿いや御所など開けたところから遠望することができ、関係者は静かに手を合わせ先祖に思いを馳せて欲しい、としている。

東山如意ヶ嶽(支峰の大文字山)の「大文字」がもっともよく知られていて、送り火の代名詞になっている。
江戸時代後期には「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)などの字形もあったが、途絶えたといわれている。 京都市北部の地域で現在も行われている「松上げ」と同じような起源を持つと考えられている。 京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)に五山送り火を加え、京都四大行事と呼ばれる。

大文字送り火
京都市東部、東山三十六峰に属する如意ヶ嶽の支峰・大文字山にある。大文字は五山送り火に二山あり、左大文字との対比で右大文字と呼ぶ。山麓には銀閣寺、法然院等の名刹が連なる。
【起源】以下の3つの説が伝わっている。(1)平安時代初期に、弘法大師(空海)が始めたという。 かつて大文字山麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放った。この光明を真似て実施した火を用いる儀式を、弘法大師が大の字形に改めた。(2) 室町時代中期、足利義政が始めたとする説。1489(延徳元)年、足利義政が近江の合戦で死亡した実子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めた、という。大の字形は山の斜面に白布を添え付け、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶・横川景三が眺め定めた。 (3)江戸時代初期に、近衛信尹(のぶただ)により始まったとする説。 1662(寛文2)年に刊行された「案内者」には、「大文字は三☆院(さんみゃくいん)殿(信尹を指す)の筆画にて」との記述がある。信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の三筆といわれた能書家だった。
●松ヶ崎妙法送り火
「妙」「法」から成る。西側に位置する「妙」は万灯籠山(松ヶ崎西山)、東側の「法」は大黒天山(松ヶ崎東山)にそれぞれ浮かび上がる。
【起源】「妙」は鎌倉時代末期、松ヶ崎の村で、日蓮宗の僧・日像が、西の山に向かって「南無妙法蓮華経」の題目から「妙」の字を書き、それを基に地元で山に点火を始めたのが起こりとされる。 一方、「法」は、約350年前の江戸時代初期から行われた、とされる。当時は地域の西側にしか送り火がなかったため、僧の日良が東の山に向かって新たに「法」を書き、これにならって火をともしたのが始まりと伝えられる。
●船形万燈籠送り火
京都市の北東部・西賀茂の明見山にあるが、明見山の真下で船形を見ることは難しい。
【起源】西方寺の開祖、慈覚大師が847(承和14)年、唐留学の帰路で暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱え、無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。
●左大文字送り火
京都市西部、大北山にある。字形は右大文字と酷似しているが、規模から点火手法に至るまですべての面で異なる。西大路通のわら天神交差点を北に越えると視野に入る。ふもとには金閣寺がある。
【起源】1662(寛文2)年刊行の「案内者」に記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられる。大の字に一画加えて「天」とした時代もあった。
●鳥居形松明送り火
京都市西部・北嵯峨の水尾山(曼荼羅山)にある。嵐山・広沢池の近郊にあり、市内で見える場所は限定される。山麓へは新丸太町通を西に向かった後、清滝方面へ北上する。 薪を井桁に組まずに、薪を合わせた松明を燭台に乗せる。親火の所で松明に火を移し、一斉に松明をもって走り各火床に突き立てられるが、あらかじめ各火床に点火準備されていないところが、ほかの四山と異なっている。
【起源】弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられる。鳥居の形から、愛宕神社との関係も考えられている。
五山送り火 【 京都・夏の風物詩 】

大神稲荷神社
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2012年08月14日
灯篭流し
灯籠流し(とうろうながし)または精霊流し(しょうりょうながし)は、死者の魂を弔って灯籠(灯篭)やお盆の供え物を海や川に流す日本の行事です。

一般的には、お盆の行事送り火の一種である。しかしながら、「お盆」時期についての解釈が地方によって異なることや、特別の追悼行事として行う場合もあり、日本全国で一斉に行われるわけではありません。 また、灯籠流しを行わない地域も多い。
雛祭りの原型とされる流し雛の行事との類似性が指摘されます。


京都 嵐山 灯篭流し動画

画像 : 堺SIM
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一般的には、お盆の行事送り火の一種である。しかしながら、「お盆」時期についての解釈が地方によって異なることや、特別の追悼行事として行う場合もあり、日本全国で一斉に行われるわけではありません。 また、灯籠流しを行わない地域も多い。
雛祭りの原型とされる流し雛の行事との類似性が指摘されます。


京都 嵐山 灯篭流し動画

画像 : 堺SIM
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2012年07月30日
JAPAN DREAM KENJIN
Jpanese Peaceful old TOWN in My Second Life SIM
" JAPAN DREAM KENJIN ” を散歩^^








#PRAY for JAPAN from Virtual world (世界中からの暖かい励ましメッセージ)
場所
http://maps.secondlife.com/secondlife/JAPAN%20DREAM%20KENJIN/209/47/28
" JAPAN DREAM KENJIN ” を散歩^^








#PRAY for JAPAN from Virtual world (世界中からの暖かい励ましメッセージ)
場所
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2012年06月02日
白無垢
白無垢(しろむく)とは、表裏白一色で仕立てた和服です。古来、日本では白を神聖な色として、祭服の色に用いました。
室町時代末期から江戸時代にかけて、花嫁衣裳、出産、葬礼、経帷子(きょうかたびら)、切腹の衣服とされましたた。下着を白無垢にするのは高貴の風です。

【 Milkyhouse 白無垢 】
白い振袖(掛け下)の上に羽織る打掛(うちかけ)という着物も白、小物類も白で統一された全身白い装いを「白無垢」と言います。和装の中では一番格上とされ、室町時代ごろに始まった最も古い婚礼衣装です。
結婚式ではお馴染みの色である白は、純真さや清浄の象徴。白という色は、日本において神事の色、神聖な色とされながら、同時に明治以前は、喪の色でもありました。だから 白無垢 にも、嫁ぐ家の家風に染まる、「一度嫁入りしたら、二度と生家には生きて帰らぬ」といった封建時代の考え方が表れているそうです。結婚に対する決意が込められた装いなんですね。

【 Milkyhouse 白無垢 】
白無垢とは武家(侍)の家に嫁ぐ花嫁の衣裳です。古来日本では、白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされており、平安朝以来、花嫁衣裳に純白が貴ばれるようになります。室町時代に、足利幕府により礼道教育が始まり、小笠原流、伊勢流などの礼道が確立し、婚礼の法式や衣裳が定められます。幸菱文様(さいわいびしもんよう・小花で型どった菱形の幾何学的な文様)の表着に白打掛が着用され、これが白無垢の起源となります。また、婦人は外出の際に小袖を頭から被く(かづく)ようになり、この習慣が婚礼のしきたりにも定められ、白の小袖を被くようになります。これが次第に江戸時代の綿帽子、今の角隠しへと変容していきます。

【 Milkyhouse 白無垢 】
1.綿帽子(わたぼうし)
塵除けや防寒として使われていたのがはじまりで、それが婚礼用になったと言われています。白い布から神聖化する意味や、魔除け、災難を避けることから被る風習など、さまざまな 意味 があります。本来は 白無垢 のときのみ被れるものでしたが、今ではオーガンジーなどで色打掛とお揃いのものもあります。また披露宴では外すのが慣わしです。
2.白打掛
掛け下といわれる振袖の上に掛ける着物のこと。白無垢の場合は当然、白い打掛なので「白打掛」と言います。唐織、錦織といった重厚なものから、なめらかな緞子(どんす)などがあり、そこに松竹梅や鶴などおめでたい文様が描かれます。
3.掛け下(かけした)
掛け下着とも呼ばれる、打掛の下に着る振袖のことです。帯は掛け下帯と言って、もっとも格の高い「丸帯」が使われます。またオシャレとして、「抱え帯(かかえおび)」と言う細い帯を、掛け下帯の下のラインに沿って結んでいます。この抱え帯は元々、打掛を留めるために使っていました。現在では花嫁や七五三の際の装飾用とされています。
4.末広(すえひろ)
扇子です。広げては使いません。「末広がり」という扇子の形と言葉から、行く末に幸せがあるように「末広」と呼ばれるようになったと言われています。
5.筥迫(はこせこ)
今でいう化粧ポーチ。懐紙や白粉などの化粧道具を入れていたそうです。花嫁衣裳の場合はアクセサリー的な要素が強いので、紙ばさみ(懐紙だけが入ったもので、よりスッキリした印象に。)が使用されることも。
6.懐剣(かいけん)
武家の女性が自分の身を守るために持っていた短剣。この風習が身だしなみの1つとして残り、花嫁衣裳のアクセサリーのような役割を果たしています。

【 Milkyhouse 白無垢 】
Milky House本店
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23
Mikky House 堺店 ※大神稲荷神社の西側にあります。
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33
室町時代末期から江戸時代にかけて、花嫁衣裳、出産、葬礼、経帷子(きょうかたびら)、切腹の衣服とされましたた。下着を白無垢にするのは高貴の風です。

【 Milkyhouse 白無垢 】
白い振袖(掛け下)の上に羽織る打掛(うちかけ)という着物も白、小物類も白で統一された全身白い装いを「白無垢」と言います。和装の中では一番格上とされ、室町時代ごろに始まった最も古い婚礼衣装です。
結婚式ではお馴染みの色である白は、純真さや清浄の象徴。白という色は、日本において神事の色、神聖な色とされながら、同時に明治以前は、喪の色でもありました。だから 白無垢 にも、嫁ぐ家の家風に染まる、「一度嫁入りしたら、二度と生家には生きて帰らぬ」といった封建時代の考え方が表れているそうです。結婚に対する決意が込められた装いなんですね。

【 Milkyhouse 白無垢 】
白無垢とは武家(侍)の家に嫁ぐ花嫁の衣裳です。古来日本では、白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされており、平安朝以来、花嫁衣裳に純白が貴ばれるようになります。室町時代に、足利幕府により礼道教育が始まり、小笠原流、伊勢流などの礼道が確立し、婚礼の法式や衣裳が定められます。幸菱文様(さいわいびしもんよう・小花で型どった菱形の幾何学的な文様)の表着に白打掛が着用され、これが白無垢の起源となります。また、婦人は外出の際に小袖を頭から被く(かづく)ようになり、この習慣が婚礼のしきたりにも定められ、白の小袖を被くようになります。これが次第に江戸時代の綿帽子、今の角隠しへと変容していきます。

【 Milkyhouse 白無垢 】
1.綿帽子(わたぼうし)
塵除けや防寒として使われていたのがはじまりで、それが婚礼用になったと言われています。白い布から神聖化する意味や、魔除け、災難を避けることから被る風習など、さまざまな 意味 があります。本来は 白無垢 のときのみ被れるものでしたが、今ではオーガンジーなどで色打掛とお揃いのものもあります。また披露宴では外すのが慣わしです。
2.白打掛
掛け下といわれる振袖の上に掛ける着物のこと。白無垢の場合は当然、白い打掛なので「白打掛」と言います。唐織、錦織といった重厚なものから、なめらかな緞子(どんす)などがあり、そこに松竹梅や鶴などおめでたい文様が描かれます。
3.掛け下(かけした)
掛け下着とも呼ばれる、打掛の下に着る振袖のことです。帯は掛け下帯と言って、もっとも格の高い「丸帯」が使われます。またオシャレとして、「抱え帯(かかえおび)」と言う細い帯を、掛け下帯の下のラインに沿って結んでいます。この抱え帯は元々、打掛を留めるために使っていました。現在では花嫁や七五三の際の装飾用とされています。
4.末広(すえひろ)
扇子です。広げては使いません。「末広がり」という扇子の形と言葉から、行く末に幸せがあるように「末広」と呼ばれるようになったと言われています。
5.筥迫(はこせこ)
今でいう化粧ポーチ。懐紙や白粉などの化粧道具を入れていたそうです。花嫁衣裳の場合はアクセサリー的な要素が強いので、紙ばさみ(懐紙だけが入ったもので、よりスッキリした印象に。)が使用されることも。
6.懐剣(かいけん)
武家の女性が自分の身を守るために持っていた短剣。この風習が身だしなみの1つとして残り、花嫁衣裳のアクセサリーのような役割を果たしています。

【 Milkyhouse 白無垢 】
Milky House本店
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23
Mikky House 堺店 ※大神稲荷神社の西側にあります。
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2012年05月26日
盃
盃(さかずき)は、主に日本酒を飲むために用いる器。

盃の多くは、中心がくぼんだ皿状・円筒状で、皿部分の下に小さな円筒(高台)が付いている形状になっている。材質は、木に漆を塗った漆器製、ガラス製(切子等の装飾入りも)、金・銀・錫(ピューター)などの金属製、陶磁器製、「かわらけ」とも呼ばれる土器製などがあり、大きさは様々である。盃は、通常、酒を飲むために使用される。日常の飲酒から、神道の結婚式や神事などフォーマルな席まで、色々な場面で使用される。また、酒を飲む以外にも黒田節を舞うための道具、優勝した際に渡される賞品(トロフィー)、勲章・褒章などと共に授与される賜杯などとしても用いられる。


大小複数の盃を一組にした盃を組盃という。重ね盃ともいう。一般的なものは三枚一組の三ツ組盃で盃台が付けられている場合が多い。

盃を用いて酒を酌み交わす杯事(さかずきごと)は、血縁の無い人間関係を確認し、強固にするためにも行われる。このため、盃を「絆」の意味で用いることもある。
神道の結婚式では、夫婦となる男女が神前で3種の盃を用いて酒を飲む三々九度と、列席した親族が共に盃で酒を飲む親族固めの杯の儀式が行われる。これにより、新たに作られる夫婦とその夫婦を取り巻く親戚関係が作られ、その結束を確認する意味を持つ。また、日本の暴力団では、兄弟や親子など家族を模した関係が形成され、これを確認するために行われる杯事が重視される。さらに、命をかけた関係を形成する場合や、後に死に別れて会うことが出来ないことが予測される場面などでは、酒ではなく水を酌み交わす水杯(みずさかずき)が行われることもある。江戸時代に行われた一揆では、結束を確認するため、各人が署名した起請文を神前で燃やし、その灰を盃に入れた水に溶いて飲む一味神水が行われた。近代においても第二次世界大戦中、特別攻撃隊の出撃前には水杯が酌み交わされた。

長野県の北信地方の一部には、「北信流」(真田十万石流ともいう)と呼ばれる宴席における盃事の風習がある。これは宴席において主宰者の功労をねぎらい、祝意を表するものである。
宴席で場が暖まりお開きが近い頃を見計らい、参会者の中の年長者や主賓から「盃を差し上げたい」などと北信流を行おうという旨の動議が出され、同時に指名を一任する事の同意が求められる。参会者の賛同を得られたら、盃を受ける人とお酌をする人が指名され、謡の心得のある人が一人「お肴役」に指名される。お酌をする人とされる人は一組とは限らず、同時に複数で行なわれることもある。お酌の指名を受けた人はその日の功労者や主宰者(主に宴席の幹事など)に盃を持参し、お酌をする。そして「お肴」として宴席にふさわしい謡が披露される。「お肴」が終わると注がれた酒を飲み干し、その盃にはもう一度お酌がされ、これも飲み干す。そして今度は注いでもらった側が「盃返し」として、同様にお酌を受ける。


JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

盃の多くは、中心がくぼんだ皿状・円筒状で、皿部分の下に小さな円筒(高台)が付いている形状になっている。材質は、木に漆を塗った漆器製、ガラス製(切子等の装飾入りも)、金・銀・錫(ピューター)などの金属製、陶磁器製、「かわらけ」とも呼ばれる土器製などがあり、大きさは様々である。盃は、通常、酒を飲むために使用される。日常の飲酒から、神道の結婚式や神事などフォーマルな席まで、色々な場面で使用される。また、酒を飲む以外にも黒田節を舞うための道具、優勝した際に渡される賞品(トロフィー)、勲章・褒章などと共に授与される賜杯などとしても用いられる。

大小複数の盃を一組にした盃を組盃という。重ね盃ともいう。一般的なものは三枚一組の三ツ組盃で盃台が付けられている場合が多い。

盃を用いて酒を酌み交わす杯事(さかずきごと)は、血縁の無い人間関係を確認し、強固にするためにも行われる。このため、盃を「絆」の意味で用いることもある。
神道の結婚式では、夫婦となる男女が神前で3種の盃を用いて酒を飲む三々九度と、列席した親族が共に盃で酒を飲む親族固めの杯の儀式が行われる。これにより、新たに作られる夫婦とその夫婦を取り巻く親戚関係が作られ、その結束を確認する意味を持つ。また、日本の暴力団では、兄弟や親子など家族を模した関係が形成され、これを確認するために行われる杯事が重視される。さらに、命をかけた関係を形成する場合や、後に死に別れて会うことが出来ないことが予測される場面などでは、酒ではなく水を酌み交わす水杯(みずさかずき)が行われることもある。江戸時代に行われた一揆では、結束を確認するため、各人が署名した起請文を神前で燃やし、その灰を盃に入れた水に溶いて飲む一味神水が行われた。近代においても第二次世界大戦中、特別攻撃隊の出撃前には水杯が酌み交わされた。

長野県の北信地方の一部には、「北信流」(真田十万石流ともいう)と呼ばれる宴席における盃事の風習がある。これは宴席において主宰者の功労をねぎらい、祝意を表するものである。
宴席で場が暖まりお開きが近い頃を見計らい、参会者の中の年長者や主賓から「盃を差し上げたい」などと北信流を行おうという旨の動議が出され、同時に指名を一任する事の同意が求められる。参会者の賛同を得られたら、盃を受ける人とお酌をする人が指名され、謡の心得のある人が一人「お肴役」に指名される。お酌をする人とされる人は一組とは限らず、同時に複数で行なわれることもある。お酌の指名を受けた人はその日の功労者や主宰者(主に宴席の幹事など)に盃を持参し、お酌をする。そして「お肴」として宴席にふさわしい謡が披露される。「お肴」が終わると注がれた酒を飲み干し、その盃にはもう一度お酌がされ、これも飲み干す。そして今度は注いでもらった側が「盃返し」として、同様にお酌を受ける。


JAPAN GRAFFITI Sakai1574 SIM 東高台の神社【 大神稲荷神社 】
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33
2012年04月06日
花祭(はなまつり)
花祭りは、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われる。

釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づく。
灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)の別名もある。

北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする。

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たす。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する。宗派に関係なくどの寺院でも行う。甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもする。
俗に言う「花まつり」の名称は、明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の4月8日が、関東地方以西で桜が満開になる頃である事から、浄土真宗の僧・安藤嶺丸が提唱した。それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。お寺が経営している幼稚園や保育園では、こちらの名称の方がよく知られている。子どもたちにとっては、甘茶をいただく日。又、稚児行列を出す寺も多い。仏教系の学校でも行う場合が多い。
失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現するが、一説によるとこれは灌仏会に因むとされる。すなわち、江戸の鍛冶職人の隠語として、あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」→「四月八日だ」→釈迦の誕生日、というつながりで成立したとされる。
2012/3 MilkyMAIHIME公演
大江戸あやかし舞姫伝
場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※当日舞台の舞楽曲ではなく、舞姫伝イメージ利用許可楽曲を使用しています。
http://chouchouholic.blogspot.com/
IN Second Life

釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づく。
灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)の別名もある。
北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする。

日本では、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たす。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝う。甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来する。宗派に関係なくどの寺院でも行う。甘茶は参拝者にもふるまわれ、甘茶で習字をすれば上達すると言われたり、害虫よけのまじないを作ったりもする。
俗に言う「花まつり」の名称は、明治時代にグレゴリオ暦が導入され、灌仏会の日付の読み替えが行われた後の4月8日が、関東地方以西で桜が満開になる頃である事から、浄土真宗の僧・安藤嶺丸が提唱した。それ以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。お寺が経営している幼稚園や保育園では、こちらの名称の方がよく知られている。子どもたちにとっては、甘茶をいただく日。又、稚児行列を出す寺も多い。仏教系の学校でも行う場合が多い。
失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現するが、一説によるとこれは灌仏会に因むとされる。すなわち、江戸の鍛冶職人の隠語として、あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」→「四月八日だ」→釈迦の誕生日、というつながりで成立したとされる。
2012/3 MilkyMAIHIME公演
大江戸あやかし舞姫伝
場所:Trenza .::CAFE Orion::. Japanese上空の特設ステージ
楽曲 Chouchou
空知らぬ雨、空に知られぬ雪
紫苑
※当日舞台の舞楽曲ではなく、舞姫伝イメージ利用許可楽曲を使用しています。
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IN Second Life
2012年04月02日
東海道中膝栗毛
『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九の滑稽本である。後続の『続膝栗毛』は、1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行された。大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。

『栗毛』は栗色の馬。『膝栗毛』とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。
江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)が、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐる。道中の二人は、狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

登場人物
弥次郎兵衛(やじろべえ)
東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。屋号は「栃面屋」。肥っていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌や漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養程度の高い人物として描かれる。駿河国府中(現静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げし「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と身の上を詠んでいる。江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生活していたが妻と死別し、つまらぬ身の上に飽き果て旅に出ることを決意する。
喜多八(または北八・きたはち)
出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に夜逃げしてくる。ある商家に使用人として奉公するが、使い込みが露見したことと、女主人に言い寄ろうとして不興を買い解雇されて行き場を失い、弥次郎兵衛とともに旅立つ。




『栗毛』は栗色の馬。『膝栗毛』とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。
江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)が、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐる。道中の二人は、狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

登場人物
弥次郎兵衛(やじろべえ)
東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。屋号は「栃面屋」。肥っていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌や漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養程度の高い人物として描かれる。駿河国府中(現静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げし「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と身の上を詠んでいる。江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生活していたが妻と死別し、つまらぬ身の上に飽き果て旅に出ることを決意する。
喜多八(または北八・きたはち)
出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に夜逃げしてくる。ある商家に使用人として奉公するが、使い込みが露見したことと、女主人に言い寄ろうとして不興を買い解雇されて行き場を失い、弥次郎兵衛とともに旅立つ。



2012年03月30日
舞妓
舞妓 (まいこ)は年少芸妓、芸子(芸妓)の見習い、修行段階の者を指す。舞妓は京都(大阪、奈良などでも)の呼称である。東京など関東地域でいう『半玉』もしくは『おしゃく』に相当する。芸者は江戸での呼び方なので、区別する必要がある。

京都の舞妓
古くは『舞子』と書き、かつては9~12歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していたが、戦後児童福祉法と労働基準法の改正にともない現在は中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2~3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1~4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えの時期は20歳前後の場合が多い。

年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装はかならず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。ぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であるといえるかもしれない。座敷では主に立方を勤め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるがごとくあつかわれることも多い。

本業は茶屋や、料亭、旅館などにおいての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。近年「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も、徐々に門戸を開いており、京都市観光協会が観光イベントとして協賛し2009年1月より祇園の料理旅館で 京料理と舞妓の夕べ なども定期的に開催されるようになり、また、「おおきに財団」(京都伝統伎芸振興財団)が、お茶屋でお座敷遊びのイベントを開催することもあり、一般の観光客にも花街文化を体験できる機会が増えている。
現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒の五花街である。

【 舞妓wikiより 】

京都の舞妓
古くは『舞子』と書き、かつては9~12歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していたが、戦後児童福祉法と労働基準法の改正にともない現在は中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2~3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1~4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えの時期は20歳前後の場合が多い。

年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装はかならず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。ぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であるといえるかもしれない。座敷では主に立方を勤め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるがごとくあつかわれることも多い。

本業は茶屋や、料亭、旅館などにおいての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。近年「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も、徐々に門戸を開いており、京都市観光協会が観光イベントとして協賛し2009年1月より祇園の料理旅館で 京料理と舞妓の夕べ なども定期的に開催されるようになり、また、「おおきに財団」(京都伝統伎芸振興財団)が、お茶屋でお座敷遊びのイベントを開催することもあり、一般の観光客にも花街文化を体験できる機会が増えている。
現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒の五花街である。

【 舞妓wikiより 】
2012年01月08日
大神稲荷(成人式)
成人式(せいじんしき)とは、日本の地方公共団体などが、成人式を行う年度内に成人に達する人々を招き、激励・祝福する行事です。今日は、青空の下、近所の神社では着物姿の成人女性とその家族が参拝と拝殿前で記念写真を撮られている風景を見ることが出来ました。

【 MilkyHouse初春: 十二単 】
Milky House本店
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23
成人を祝う儀礼は古くからあり、男子には元服・褌祝、女子には裳着・結髪などがあった。文化人類学や民俗学では、こうしたものを通過儀礼の一つとして扱います。
※裳着とは
裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代(皇族、貴族は明治時代)にかけて女子の成人を示すものとして行われた通過儀礼(男子の元服に相当)。成人した女子にはじめて裳を着せるもので、着裳(ちゃくも)とも称する。年齢は一定しないが概ね12-16歳(ただし戦国時代に於いては政略結婚に備えて8-10歳位に繰り上がった)。
一人前の女性になったことを示すもので、結婚させるべき親の意思表示である。裳を着せる役の者を腰結(こしゆい)と称し、徳望のあるものから選ばれる。また、日取りは吉日が選ばれ、裳の腰紐を結び、髪上げをする。また、「かねつけ親」の立ち会いのもと、初めてお歯黒を付け、眉を剃り、厚化粧をして殿上眉を描く(引眉)。これ以降、小袖は白、袴は緋(ただし江戸時代以降は結婚まで引き続き濃紫)となる。江戸時代以降、武家と庶民は男性同様元服と称し、年齢も、18-20歳位、または結婚と同時に行うようになった。
※通過儀礼とは
出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。人生儀礼ともいう。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。通過儀礼を広義に取り、人生儀礼を下位概念とする分け方もある。 イニシエーションとして古来から行われているものとしては割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものである事が多い。
近世日本の武家階級では、元服というものがあり、服装、髪型や名前を変える、男子は腹掛けに代えてふんどしを締める(褌祝)、女子は成人仕様の着物を着て厚化粧する、といったしきたりもあった。地域・社会によっては男子の場合、米俵1俵(60キログラムから80キログラム)を持ち上げることができたら一人前とか、地域の祭礼で行われる力試しや度胸試しを克服して一人前、1日1反の田植えができたら一人前などという、年齢とは別の成人として認められる基準が存在した例もある。女子の場合には子供、さらに言うならば家の跡継ぎとなる男子を出産して、ようやく初めて一人前の女性として周囲に認めてもらえる場合もあった。通過儀礼を観光化・娯楽化したものとしては、バヌアツ共和国のバンジージャンプなどが有名である。
【 MilkyHouse 着物 】









大神稲荷神社 場所
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

"The Times" Milky House Collection2010 動画

【 MilkyHouse初春: 十二単 】
Milky House本店
http://maps.secondlife.com/secondlife/Milky%20House/126/159/23
成人を祝う儀礼は古くからあり、男子には元服・褌祝、女子には裳着・結髪などがあった。文化人類学や民俗学では、こうしたものを通過儀礼の一つとして扱います。
※裳着とは
裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代(皇族、貴族は明治時代)にかけて女子の成人を示すものとして行われた通過儀礼(男子の元服に相当)。成人した女子にはじめて裳を着せるもので、着裳(ちゃくも)とも称する。年齢は一定しないが概ね12-16歳(ただし戦国時代に於いては政略結婚に備えて8-10歳位に繰り上がった)。
一人前の女性になったことを示すもので、結婚させるべき親の意思表示である。裳を着せる役の者を腰結(こしゆい)と称し、徳望のあるものから選ばれる。また、日取りは吉日が選ばれ、裳の腰紐を結び、髪上げをする。また、「かねつけ親」の立ち会いのもと、初めてお歯黒を付け、眉を剃り、厚化粧をして殿上眉を描く(引眉)。これ以降、小袖は白、袴は緋(ただし江戸時代以降は結婚まで引き続き濃紫)となる。江戸時代以降、武家と庶民は男性同様元服と称し、年齢も、18-20歳位、または結婚と同時に行うようになった。
※通過儀礼とは
出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。人生儀礼ともいう。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。通過儀礼を広義に取り、人生儀礼を下位概念とする分け方もある。 イニシエーションとして古来から行われているものとしては割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものである事が多い。
近世日本の武家階級では、元服というものがあり、服装、髪型や名前を変える、男子は腹掛けに代えてふんどしを締める(褌祝)、女子は成人仕様の着物を着て厚化粧する、といったしきたりもあった。地域・社会によっては男子の場合、米俵1俵(60キログラムから80キログラム)を持ち上げることができたら一人前とか、地域の祭礼で行われる力試しや度胸試しを克服して一人前、1日1反の田植えができたら一人前などという、年齢とは別の成人として認められる基準が存在した例もある。女子の場合には子供、さらに言うならば家の跡継ぎとなる男子を出産して、ようやく初めて一人前の女性として周囲に認めてもらえる場合もあった。通過儀礼を観光化・娯楽化したものとしては、バヌアツ共和国のバンジージャンプなどが有名である。
【 MilkyHouse 着物 】









大神稲荷神社 場所
http://slurl.com/secondlife/JAPAN%20GRAFFITI%20Sakai1574/150/122/33

"The Times" Milky House Collection2010 動画
2012年01月05日
大神稲荷(鏡餅)
鏡餅(かがみもち)とは、現在大小2つの平たい円餅を重ねて神仏に供える正月飾りです。 また、地域によっては餅を三枚重ねたり、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたもの、餅の替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸め、とぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々なバリエーションが存在します。

「 堺SIMオーナーryoさん作品 鏡餅 」
堺SIM 大神稲荷神社
鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。

【 大神稲荷神社 社務所に鏡餅設置 】
歴史をひもといてみると、そもそも鏡餅とは神様と人を仲介するものであり、1年間の幸せを願う「晴れの日」に神前に捧げた餅をみんなで分け合って食べることで、神様からの祝福を受けようという信仰・文化の名残りなのです。つまり、鏡餅は神様にお供えしてからいただく尊い餅。「お供え」が鏡餅の別名となっているのはこうしたことに由来しています。 では、なぜ重ねた餅を鏡餅と呼ぶようになったのでしょうか。 ひとつには、丸い餅の形が昔の銅鏡に似ていることから。古来から、鏡は神様が宿るところとされていました。また、鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」。つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかり、「かんがみもち」とよぶ音がしだいに変化して鏡餅になったのだとも言われています。 さらに、鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には1年をめでたく重ねるという意味もあるそうです。 鏡餅の起源は、はっきりとした記録はありませんが、元禄年間のものといわれる書に、丸餅と角餅を重ねた絵が残されており、この頃ではないかといわれています。 いずれにせよ、祈りと1年無事であったことを感謝する気持ちを込めて飾る行為は、非常に歴史のある日本人固有の文化なのです。


「 堺SIMオーナーryoさん作品 鏡餅 」
堺SIM 大神稲荷神社
鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降である。

【 大神稲荷神社 社務所に鏡餅設置 】
歴史をひもといてみると、そもそも鏡餅とは神様と人を仲介するものであり、1年間の幸せを願う「晴れの日」に神前に捧げた餅をみんなで分け合って食べることで、神様からの祝福を受けようという信仰・文化の名残りなのです。つまり、鏡餅は神様にお供えしてからいただく尊い餅。「お供え」が鏡餅の別名となっているのはこうしたことに由来しています。 では、なぜ重ねた餅を鏡餅と呼ぶようになったのでしょうか。 ひとつには、丸い餅の形が昔の銅鏡に似ていることから。古来から、鏡は神様が宿るところとされていました。また、鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」。つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかり、「かんがみもち」とよぶ音がしだいに変化して鏡餅になったのだとも言われています。 さらに、鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には1年をめでたく重ねるという意味もあるそうです。 鏡餅の起源は、はっきりとした記録はありませんが、元禄年間のものといわれる書に、丸餅と角餅を重ねた絵が残されており、この頃ではないかといわれています。 いずれにせよ、祈りと1年無事であったことを感謝する気持ちを込めて飾る行為は、非常に歴史のある日本人固有の文化なのです。

2012年01月03日
大神稲荷(初夢)
初夢(はつゆめ)とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習があります。
新年最初に見る夢とされることは少なく、現代では元日(1月1日)から2日の夜、または、2日から3日の夜に見る夢とされることが多いです。

初夢の初出は、鎌倉時代の『山家集』である。そこでは、暦上の新年とは無関係に、節分から立春の夜に見る夢を初夢としている。この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かった。
その後、暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、江戸時代には「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れた。「元日から2日」は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされる。「2日から3日」の由来ははっきりしないが、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われる。江戸時代後期には「2日から3日」が主流となったが、明治の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなった。
「 大神稲荷神社 本殿 集会場画像 」



室町時代ごろから、良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。
初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざに「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」というものがある。 江戸時代に最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた。
みなさんは、今年の初夢覚えてますか?
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新年最初に見る夢とされることは少なく、現代では元日(1月1日)から2日の夜、または、2日から3日の夜に見る夢とされることが多いです。

初夢の初出は、鎌倉時代の『山家集』である。そこでは、暦上の新年とは無関係に、節分から立春の夜に見る夢を初夢としている。この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かった。
その後、暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、江戸時代には「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れた。「元日から2日」は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされる。「2日から3日」の由来ははっきりしないが、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われる。江戸時代後期には「2日から3日」が主流となったが、明治の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなった。
「 大神稲荷神社 本殿 集会場画像 」



室町時代ごろから、良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。
初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざに「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」というものがある。 江戸時代に最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた。
みなさんは、今年の初夢覚えてますか?

2011年12月12日
花札
花札(はなふだ)は、日本の伝統的カードゲームの一種であり「花かるた」とも呼ばれた。今では一般に花札といえば八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。
48枚の由来は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。二人で遊ぶこいこい、二人以上で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。そのほかにも、日本各地に独特な遊び方がある。

日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代。宣教師が鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたとされる。ちなみに日本の「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。天正時代(1573~91)にはすでに国産のかるたが作られており、当時の札が一枚だけ現存する。時の為政者がカードゲーム禁止令を出すと、その禁止令を逃れるためにデザインを変えるといういたちごっこもあいまって、様々なデザインの札がつくられた。そして「花札」もその流れの中から誕生する。
賭博という閉鎖性と当時の物品流通の実態から、日本全国に普及したカードゲームは、各地で様々なローカルルールを生み出し、そのローカルルールにふさわしいように札のデザインも変えていった。それらの札を「地方札」という。
もともと歌かるたは上流階級の遊びであったため、幕府は下流階級の商人や町人が使用することを禁じた。そのため人々は幕府の目を盗んで賭博行為をするため、店の奥に賭博場を用意した。店に入った最初に「鼻(ハナ=花札)をこする合図」をすると店主が「奥へどうぞ」と賭博場へ案内してくれたという。賭博行為で使用するという後ろめたさから、隠語的表現で花札の販売店には花=ハナ=鼻として「天狗」の面が掛けられていたことからパッケージにもイラストが描かれることになった。現在、花札を製造している企業は、「任天堂」「田村将軍堂」「大石天狗堂」の3社である。2009年夏まで、「松井天狗堂」が日本唯一の手摺り花札を製造していたが、職人の高齢化や後継者不在などの理由で現在では製造を辞めている。

「花札」が誕生したのは田沼意次の禁止令のためであるといわれている。それまで12枚×4スートであったものを、数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタをモチーフとした。
明治期に入ると、花札を解禁する代わりに「骨牌税」が課税され地方札を生産していた日本各地のかるた屋は倒産し、地方札は廃れていき、各地に伝わる遊び方も滅びていった。なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有しており、発注も可能である(もちろん、相応の発注単位である必要がある)。同社サイトで、地方札原版がファイルに収められている様子が確認できる。
「花札」の原意は、花鳥がデザインされているからというのみならず本カルタ(南蛮系・天正系を源流にするもの)に対する代用品という意味もこめられている。花電車・花相撲などに使われている「花」の意味である。
【花札WIKI】
【サマーウォーズ】花札シーン
48枚の由来は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。二人で遊ぶこいこい、二人以上で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。そのほかにも、日本各地に独特な遊び方がある。

日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代。宣教師が鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたとされる。ちなみに日本の「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。天正時代(1573~91)にはすでに国産のかるたが作られており、当時の札が一枚だけ現存する。時の為政者がカードゲーム禁止令を出すと、その禁止令を逃れるためにデザインを変えるといういたちごっこもあいまって、様々なデザインの札がつくられた。そして「花札」もその流れの中から誕生する。
賭博という閉鎖性と当時の物品流通の実態から、日本全国に普及したカードゲームは、各地で様々なローカルルールを生み出し、そのローカルルールにふさわしいように札のデザインも変えていった。それらの札を「地方札」という。
もともと歌かるたは上流階級の遊びであったため、幕府は下流階級の商人や町人が使用することを禁じた。そのため人々は幕府の目を盗んで賭博行為をするため、店の奥に賭博場を用意した。店に入った最初に「鼻(ハナ=花札)をこする合図」をすると店主が「奥へどうぞ」と賭博場へ案内してくれたという。賭博行為で使用するという後ろめたさから、隠語的表現で花札の販売店には花=ハナ=鼻として「天狗」の面が掛けられていたことからパッケージにもイラストが描かれることになった。現在、花札を製造している企業は、「任天堂」「田村将軍堂」「大石天狗堂」の3社である。2009年夏まで、「松井天狗堂」が日本唯一の手摺り花札を製造していたが、職人の高齢化や後継者不在などの理由で現在では製造を辞めている。

「花札」が誕生したのは田沼意次の禁止令のためであるといわれている。それまで12枚×4スートであったものを、数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタをモチーフとした。
明治期に入ると、花札を解禁する代わりに「骨牌税」が課税され地方札を生産していた日本各地のかるた屋は倒産し、地方札は廃れていき、各地に伝わる遊び方も滅びていった。なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有しており、発注も可能である(もちろん、相応の発注単位である必要がある)。同社サイトで、地方札原版がファイルに収められている様子が確認できる。
「花札」の原意は、花鳥がデザインされているからというのみならず本カルタ(南蛮系・天正系を源流にするもの)に対する代用品という意味もこめられている。花電車・花相撲などに使われている「花」の意味である。
【花札WIKI】
【サマーウォーズ】花札シーン
2011年12月11日
百人一首
百人一首
100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった和歌集(詞華集)。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだという小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだといわれる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙といわれる。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半という。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したといわれる由来から「小倉百人一首」という通称が定着した。

室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた私撰集である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれたといわれる。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因といわれる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。
【百人一首wiki】

小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人
【百人一首 / 全100首を一気に読める】
100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった和歌集(詞華集)。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだという小倉百人一首(おぐら ひゃくにん いっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだといわれる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙といわれる。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半という。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したといわれる由来から「小倉百人一首」という通称が定着した。

室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた私撰集である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれたといわれる。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因といわれる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。
【百人一首wiki】

小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。100首はいずれも『古今和歌集』『新古今集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人
【百人一首 / 全100首を一気に読める】
2011年11月16日
お守り
お守り(おまもり、御守)とは、狭義の意味では、日本の社寺・境内で参詣人に販売・授与される、紐で口を閉じ吊り下げられるようにした平たく小さい袋型の縁起物。守札のこと。

通常「お守り」と呼ばれる守札というものがある。よいことがあるように(開運、招福)、あるいは悪いことがおきないように(厄除け、魔除け)と願って持つ。同じ目的を有するいわゆる「お札(ふだ)」は家庭や会社などその場から動かない一種の固定閉鎖空間の加護であるのに対し、「守札」は身に着けて持ち歩くという性質から、個人あるいは動く空間の加護を願うものである。身に着け持ち歩くことが前提であるので、たいていは、根付(ねつけ)のように小さなものから片手の中にすっぽり収められるまでのサイズである。移動する電車や自動車につけるようなものはもう少し大きいこともある。
錦などで作られた袋に、紙・木・布・金属等で出来た内符(神体あるいは経文あるいは白紙など)を入れ、紐でその口を閉じた状態で頒布されている。袋の上端左右の角が落とされているのは絵馬の形と関連があるともいうがはっきりしない。中身は見えないようになっており、紐で閉じるのも、身に着けやすくすると同時に力を持つ存在を中に閉じ込めている意味もある。それを持ち歩いて自身の力を増幅させることで身の回りにある危険を克服するのだという。
だたし、形態はさまざまで、以前はそれほど多くはなかったが、袋状ではなく内符の正面を覗かせるようにして錦で左右から包み、中央を紐で閉じたものも多い。札や経文を敢えて見せることでそれに恐れをなした災いが寄ってこないようにするのだという。

神社のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)は神体で、神の名前や祝詞などを記してある神札、神像やその持ち物や使いをかたどったものなど。
寺のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)はその寺の本尊や開祖の御影を象ったものであったり、経文の記された紙片など。密教系の寺であれば密教法具を象ったお守りもある。

お守りの持ち方
お守りは、肌身離さず持つことが大事。昔の人は首からさげて、胸ポケットにお守りを入れたりしていました。それがいちばん心臓に近い持ち方、つまり命を守ってもらえる持ち方です。お守りに感謝する気持ちを忘れないで、大事に扱いましょう。
また、肌身離さず持つのは難しいから、お財布やポーチに入れておくのもいいと思います。お守り袋には神様の魂が宿っているので、入れる場所はキレイにしおきましょう。
家の中では、に神棚があったら、そこに置くのがおすすめです。神棚がなかったら、本棚などの高い位置に白いハンカチや白い紙をひいてその場を清めてから置きましょう。
通常「お守り」と呼ばれる守札というものがある。よいことがあるように(開運、招福)、あるいは悪いことがおきないように(厄除け、魔除け)と願って持つ。同じ目的を有するいわゆる「お札(ふだ)」は家庭や会社などその場から動かない一種の固定閉鎖空間の加護であるのに対し、「守札」は身に着けて持ち歩くという性質から、個人あるいは動く空間の加護を願うものである。身に着け持ち歩くことが前提であるので、たいていは、根付(ねつけ)のように小さなものから片手の中にすっぽり収められるまでのサイズである。移動する電車や自動車につけるようなものはもう少し大きいこともある。
錦などで作られた袋に、紙・木・布・金属等で出来た内符(神体あるいは経文あるいは白紙など)を入れ、紐でその口を閉じた状態で頒布されている。袋の上端左右の角が落とされているのは絵馬の形と関連があるともいうがはっきりしない。中身は見えないようになっており、紐で閉じるのも、身に着けやすくすると同時に力を持つ存在を中に閉じ込めている意味もある。それを持ち歩いて自身の力を増幅させることで身の回りにある危険を克服するのだという。
だたし、形態はさまざまで、以前はそれほど多くはなかったが、袋状ではなく内符の正面を覗かせるようにして錦で左右から包み、中央を紐で閉じたものも多い。札や経文を敢えて見せることでそれに恐れをなした災いが寄ってこないようにするのだという。

神社のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)は神体で、神の名前や祝詞などを記してある神札、神像やその持ち物や使いをかたどったものなど。
寺のお守り
内符(いわゆるお守りの中身のこと)はその寺の本尊や開祖の御影を象ったものであったり、経文の記された紙片など。密教系の寺であれば密教法具を象ったお守りもある。
お守りの持ち方
お守りは、肌身離さず持つことが大事。昔の人は首からさげて、胸ポケットにお守りを入れたりしていました。それがいちばん心臓に近い持ち方、つまり命を守ってもらえる持ち方です。お守りに感謝する気持ちを忘れないで、大事に扱いましょう。
また、肌身離さず持つのは難しいから、お財布やポーチに入れておくのもいいと思います。お守り袋には神様の魂が宿っているので、入れる場所はキレイにしおきましょう。
家の中では、に神棚があったら、そこに置くのがおすすめです。神棚がなかったら、本棚などの高い位置に白いハンカチや白い紙をひいてその場を清めてから置きましょう。
2011年11月13日
甘酒
甘酒(あまざけ、カンシュ、醴)は日本の伝統的な甘味飲料の一種で、見た目はどぶろく(濁酒)に類似する。

甘酒の起源は古墳時代に遡り、日本書紀に甘酒の起源とされる天甜酒(あまのたむざけ)に関する記述がある。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」と呼ばれた。
かつては夏に、冷やしたものまたは熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的だとして、江戸時代には夏の風物詩だった[1]。甘酒を飲んで江戸の人々は夏の暑さをしのいだとも考えることもできる。事実、当時の江戸幕府は低所得者対策として甘酒の価格を最高で四文に制限している。甘酒には、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、葉酸、食物繊維、オリゴ糖や、システイン、アルギニン、グルタミンなどのアミノ酸、そして大量のブドウ糖が含まれているが、これらの栄養はいわゆる栄養剤としての点滴とほぼ同じ内容であることから、「飲む点滴」と称されることもある。ブドウ糖以外は製法(後述)による差異も少ない。現在は冬に温めて飲むのが一般的であり、健康的な飲料としても好まれている。
正月には、初詣客に有料または無料で甘酒を振る舞ったり、自宅に持ち帰る甘酒を初詣客に販売する寺社が多い。また、米農家が収穫を感謝するため、甘酒を造ったり、祭りに甘酒を供える風習が残っている土地もある。
武士の内職として作られていて『甘酒売り』という職業もあった。

「酒」の名は付くが、実際にはアルコール飲料ではなく、未成年者でも飲用が許されている。しかし、原料に含有され、あるいは製造過程で生成されることでアルコールが含まれることがあり、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う可能性がある。
酒粕が甘酒の原料に使用されることがあるが、酒粕には、日本食品標準成分表によるとアルコール分が約8%程度残存している。このことから、アルコール飲料としての清酒と同様の扱いをして、本来アルコール飲料でないにもかかわらず、ドライバーが出席する場や未成年の集まる集会での振る舞いが見送られることが多い。
マクロビオティックでは砂糖の代わりに甘味料として使われることが多い。
「ジャパニーズヨーグルト」として海外での需要も高まっている。
山陰地方では「甘粥(アマガユ)」と言う所もある。
冬季に飲まれることが多いため、体が温まるように、あるいは風邪の予防として、甘酒を熱くしショウガ汁を入れて飲まれることがある。缶入りにもショウガ入りの製品がある。
【 甘酒wiki 】


甘酒の起源は古墳時代に遡り、日本書紀に甘酒の起源とされる天甜酒(あまのたむざけ)に関する記述がある。古くは「一夜酒(ひとよざけ)」または「醴酒(こさけ、こざけ(「濃い酒」の意))」と呼ばれた。
かつては夏に、冷やしたものまたは熱したものを暑気払いに飲む習慣があり、俳句では現在でも夏の季語となっている。夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的だとして、江戸時代には夏の風物詩だった[1]。甘酒を飲んで江戸の人々は夏の暑さをしのいだとも考えることもできる。事実、当時の江戸幕府は低所得者対策として甘酒の価格を最高で四文に制限している。甘酒には、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、葉酸、食物繊維、オリゴ糖や、システイン、アルギニン、グルタミンなどのアミノ酸、そして大量のブドウ糖が含まれているが、これらの栄養はいわゆる栄養剤としての点滴とほぼ同じ内容であることから、「飲む点滴」と称されることもある。ブドウ糖以外は製法(後述)による差異も少ない。現在は冬に温めて飲むのが一般的であり、健康的な飲料としても好まれている。
正月には、初詣客に有料または無料で甘酒を振る舞ったり、自宅に持ち帰る甘酒を初詣客に販売する寺社が多い。また、米農家が収穫を感謝するため、甘酒を造ったり、祭りに甘酒を供える風習が残っている土地もある。
武士の内職として作られていて『甘酒売り』という職業もあった。
「酒」の名は付くが、実際にはアルコール飲料ではなく、未成年者でも飲用が許されている。しかし、原料に含有され、あるいは製造過程で生成されることでアルコールが含まれることがあり、酒に弱い者(特に幼児)が大量に飲むと酔う可能性がある。
酒粕が甘酒の原料に使用されることがあるが、酒粕には、日本食品標準成分表によるとアルコール分が約8%程度残存している。このことから、アルコール飲料としての清酒と同様の扱いをして、本来アルコール飲料でないにもかかわらず、ドライバーが出席する場や未成年の集まる集会での振る舞いが見送られることが多い。
マクロビオティックでは砂糖の代わりに甘味料として使われることが多い。
「ジャパニーズヨーグルト」として海外での需要も高まっている。
山陰地方では「甘粥(アマガユ)」と言う所もある。
冬季に飲まれることが多いため、体が温まるように、あるいは風邪の予防として、甘酒を熱くしショウガ汁を入れて飲まれることがある。缶入りにもショウガ入りの製品がある。
【 甘酒wiki 】

タグ :甘酒
2011年11月05日
年神
年神(としがみ、歳神とも)は、神道の神である。

毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされるようになった。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。有名な話では、正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという話がある。

日本神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
大年神は他に多くの神の父とされている。それだけ重要な神とされていたことがわかる。
「 年神wikiより 」

【 大神稲荷神社 】 堺(Japan Graffiti sakai SIM)

毎年正月に各家にやってくる来方神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされるようになった。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。有名な話では、正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという話がある。

日本神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
大年神は他に多くの神の父とされている。それだけ重要な神とされていたことがわかる。
「 年神wikiより 」

【 大神稲荷神社 】 堺(Japan Graffiti sakai SIM)
2011年11月03日
蕎麦②

蕎麦屋
通常、蕎麦を食わせる店は蕎麦の専門店、もしくは蕎麦とうどんのみを扱う店であることが多く、これを蕎麦屋(そばや)という。蕎麦屋は江戸時代中期ごろから見られる商売で、会席や鰻屋に比べると安価で庶民的とされる。蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だった。
蕎麦屋の起源は不明だが、江戸時代後期に書かれた2種の書物『三省録』・『近世風俗志』にて、寛文4年(1664年)に「慳貪(けんどん)蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在したことが推測できる。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって二八蕎麦・夜鷹蕎麦・風鈴蕎麦などとも呼ばれた。当初は、現在のファーストフードのような小腹を満たす食事であり、その後も軽食といった位置づけが完全に抜けることはないままに推移している。この屋台蕎麦屋の伝統は姿を変えて、現在の立ち食い蕎麦にまで続いていると捉えることも出来る。店を構えた蕎麦屋が増えるのは1700年代後半のことと考えられている。
その一方で、蕎麦を食することを下賎の風習として上流階層が敬遠していたとする史料もある。武家の有職故実の大家だった伊勢貞丈の『貞丈雑記』には蕎麦切りを食することは「古くありし物なれ共、表向などへ出さざる物故、喰様の方式なども記さざるなるべし」と記して、武家や公家などの間では人前で蕎麦を食するものではなかったと解説し、前述の『三省録』でも「下賎のものは買ひて食ひしが、小身にても御旗本の面々調へて(=買って)食ふことなし、近年いつとなく、調へて食う様には成りたり」と記して、かつては生活が苦しい小身旗本でも蕎麦を食べるような事はなかったと記している。
蕎麦屋の特色は、蕎麦を中心に品数があまり多くなく、酒を飲ませることを念頭においているところにある。特に東京ではその傾向が強い。蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称する。現在でも同程度の蕎麦屋とうどん屋を比べると、出す酒の種類は蕎麦屋のほうが多いのが普通である。主なメニューは、各種の蕎麦や酒のほかに、種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する抜き(ヌキ、天麩羅、かしわ、鴨、卵、など、天ぬきの項も参照)や蒲鉾=「板わさ」、わさび芋、焼海苔、厚焼き玉子、はじかみショウガと味噌、また場合によっては親子丼などの丼ものなど。また店によっては、茹でた蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦が品書きにあることもある。これは箸休め、あるいは乾き物として酒肴にされる。
太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外のさまざまな用途があった。まず、町内の人間が湯の帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆくざっかけない店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。
戦後はこうした雰囲気も徐々に薄れてきたが、いまだに味のよい蕎麦と酒を出し、静かな雰囲気で他の料理屋とは違う一種独特な風情を楽しむことができる店も存在する。蕎麦はたんぱく質を最も多く含む穀物で、米と大豆と共に摂ったと同じ栄養バランスがあり、酒と蕎麦の組み合わせは、栄養学的にも優れている。
蕎麦湯
蕎麦を茹でるのに用いたゆで湯の蕎麦湯(そばゆ)を、浸け麺の蕎麦に添えて湯桶で飲用に出す店が多い。この蕎麦湯を残った蕎麦つゆに湯桶から注ぎ入れて割り、最後の締めに飲む。蕎麦を食べ終わる時間を見計らって蕎麦湯の湯桶を時間差で持ってくる店が多いが、蕎麦と同時に持ってくる店もある。蕎麦つゆと割らず蕎麦湯のみを飲む人もいる。残った蕎麦つゆを一旦捨てて、新しい蕎麦つゆと蕎麦湯を割って飲む人もいる。なお、通常温かい蕎麦に蕎麦湯は添えて出されない。
良水を多量に使用する店では蕎麦湯はサラッと薄く、ゆで湯が少なめで使いまわしている店ほど濃くなる傾向にあるが、ドロッと白濁した濃い蕎麦湯を好む客も多く、サラッと薄い蕎麦湯に文句を言う客もいるため、わざわざゆで湯を煮詰めたり、そば粉や小麦粉を溶かし込んでわざわざ濃い蕎麦湯を作る店もある。
冷やしの蕎麦つゆはそのまま飲むには味が濃いので、この蕎麦湯をいれて蕎麦つゆの出汁を味わう目的がある。
近年の蕎麦ブームのため、蕎麦喰いが一般的になり、蕎麦湯での塩分のとりすぎに注意する旨の表示も見られ、蕎麦湯のみを飲む(味わう)人が増えてきた。そういうことから、蕎麦湯に残った蕎麦の風味や、ゆで湯の水の味(蕎麦屋では良水をゆで湯使用することが多い)など、蕎麦湯そのものを味わう楽しみにも焦点があてられるようになった。
なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むという説は、蕎麦の茹で時間が30-60秒と極めて短く、溶け出す量は限られること、またルチンは不溶性であること等から考えると、あまり理にかなってはいない。
酒類を提供している蕎麦屋の一部では、焼酎(甲類)を蕎麦湯で割った「蕎麦湯割り」なるメニューがある。

蕎麦文化
東京
蕎麦専門店だけではなく、うどんも提供する店もありこのような店も「蕎麦屋」と呼ぶ。立ち食い店も多い。蕎麦と酒を楽しむ趣向もある。
古く江戸では、うどんも盛んに食べられていた。しかし、江戸時代中期以降、江戸での蕎麦切り流行に伴って、うどんを軽んずる傾向が生じたという。江戸でうどんよりも蕎麦が主流となった背景には、白米を多食する人に見られ「江戸わずらい」と呼ばれた脚気を、ビタミンB1を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる。
蕎麦とうどんの抗争を酒呑童子退治になぞらえた安永期の珍品黄表紙『化物大江山』(恋川春町作)は、当時の江戸人の蕎麦・うどんへの価値観の一面を描いていて、意外な資料価値がある。源頼光役は蕎麦、悪役の酒呑童子はうどんである。なぜか、「ひもかわうどん」だけは蕎麦側についており、蕎麦一色だった江戸でも例外的に人気があったようだ。
以後、江戸→東京では、蕎麦を手繰ることに一種の「粋」を見出す高い価値付けさえ生じるようになり、「夕方早くに蕎麦屋で独り、種物の蕎麦を肴に酒を飲む」ことが、スノッブ(俗物根性)さも臭わせる趣味として横行するまでに至る。江戸では、蕎麦を食べることを「手繰る」(たぐる)ともいう。このような言葉を使うこと自体、一つの気取りと言える。
蕎麦つゆに蕎麦をたっぷりと浸すのは田舎者であり、江戸っ子はさっとつけて啜り込むのを粋とする、という風潮もあったことは、10代目金原亭馬生が落語『そば清』に、江戸っ子が「一度でいいから蕎麦をつゆにたっぷりつけて食ってみたかった」と言い残して事切れる、という有名な枕を付け加えているほどに顕著なことであった。

関西
関西における蕎麦処の筆頭は兵庫県豊岡市出石町(出石城下町)で、皿そば「出石そば」は広く知られている。これは江戸時代に蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主仙石政明が出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて来て以来の伝統とされる。このためか兵庫県では出石や丹波篠山など地元の蕎麦のほかに全国各地の蕎麦を出す店が多く存在する。
京都は古くからの蕎麦屋が多い。これは背後に控える丹波地方でそば作りが盛んだったためである。また、有名なニシンそばは幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ている。全体的に見れば、大阪と同じくうどんの方が好まれる傾向にあるが、大阪のようにそば屋がうどんを提供する場合は極めて稀である。
大阪では「そば」より「うどん」の方が一般的に好まれるとされ、立場が東京とは全く逆である。うどん屋が利用者のニーズに応えて「そば」も出しているという概念が強く、蕎麦屋であってもうどんを提供する店も存在する。また、出汁は元来うどんに用いる前提で作られた、淡口醤油を基調とした透き通ったものを用いることが多い。しかし、それによって生まれた文化もあり、たぬき(油揚げの乗ったそば)やとろろ昆布が乗ったこぶそばは大阪が発祥である。また、そばは産地の関係か一般に黒そば、田舎そばなどとと呼ばれる殻ごと碾いたものが好まれる傾向にある。
2011年11月02日
蕎麦①
蕎麦(そば)は、穀物のソバの実を原料として加工した、日本の麺類の一種、および、それを用いた料理である。今日、単に「蕎麦(そば)」と呼ぶ場合、通常は蕎麦切り(そばきり)を指す。中華そばなどと区別して日本蕎麦(にほんそば)とも呼ばれる。歴史は古く、うどんや寿司、天麩羅と並ぶ代表的な日本料理である。この蕎麦の調味として作られる「蕎麦つゆ」や「蕎麦汁」は、主に西と東では色・濃さ・味になどに明らかな違いがあり、その成分も各地によって好みが分かれる。なお、蕎麦をゆでたゆで湯は蕎麦湯として飲用に供される。

歴史
ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無い。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明している。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。


歴史
ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無い。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明している。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。
