
2011年10月31日
湯屋
家康が江戸入りした翌年、天正十九年(1591)に 江戸の銭瓶橋(ぜにかめばし)に湯屋の第一号が開業しました。 しかし、この頃の湯屋は蒸し風呂でした。 その後、戸棚風呂というものが一時的に流行します。これは引き戸を開けて中に入り、また閉めるもので、湯の深さも一尺ほどしかなく 、腰から下だけつかるものでした。その後登場するのが石榴口(ざくろぐち)の風呂です。

「千と千尋の神隠し」湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める温泉旅館の湯屋「油屋」
関西では銭湯を風呂といい、江戸では湯屋(ゆうや)といいました。 上方では「大和湯」、「扇湯」、「桜湯」などと店に名がつけられていましたが、江戸では「檜町の湯」、「堀江町の湯」などと町名をつけて呼んでいました。町人や商人の家に風呂はなく、みんな銭湯に行きました。江戸一番の呉服屋「越後屋」でさえ風呂はなかったそうです。
下の絵は鍬形ケイ斎の『近世職人尽絵詞』中の湯屋の図です。画面左手前に番台(高座)、右奥に湯くみの姿が見えます。縞の着物の男は盗難防止用の木札が付いた鋏で爪を切り、画面右手前の男は紐に吊された櫛を使っています。また中央には軽石で踵(かかと)をこする男の姿も見えます。

戸棚風呂
江戸の初期、一時的に流行したのが戸棚風呂です。 引戸を開いて中に入り、また引戸を閉めます。中の湯は一尺(30センチ)ほどしかなく腰から下だけしかつかることが出来ませんでした。中で温まって垢が浮いたところで洗い場へ出て体を洗いました。
『守貞謾稿』には 「戸棚風呂と云ふ物、三都には稀なれども、他国の銭湯には往々これあり。予、兵庫にて入りしことあり。また江戸にて薬湯にて往々これを見る。浴槽はなはだ浅く、湯やうやく尺ばかり。膝をひたすのみなれば、引き違ひ戸を用ひて湯気を洩らさざらしむ。」とあります。
据え風呂
居風呂、または水風呂とも書き、蒸風呂に対する名称です。 江戸では燃料の薪代が高く、それに加え、水を確保するための井戸を掘るのには一基二百両もの費用がかかりました。吉原の遊郭でさえ掘抜井戸が出来たのは享保11年(1726年)、一般の高級町家に掘抜井戸が出来はじめたのは文化年間(1810年頃)になってからだそうです。京坂の据風呂は五右衛門風呂と呼ばれる釜風呂でしたが、江戸では鉄砲風呂が一般的でした。左の図は歌麿の筆による据風呂の図です。図の右端にわずかに見えている黒い部分が「鉄砲」と呼ばれる部分です。鉄、銅製の筒を桶のなかに入れて火を焚くもので、うっかり鉄砲にさわって火傷することもありました。
行水
夏は汗疹(あせも)を防ぐためと湯銭を節約する意味もあって、裏庭に盥(たらい)をおき朝から水を溜め陽気の熱で温まった夕方に湯浴みをしました。浮世絵にも行水をする女性の姿がよく描かれています。
五右衛門風呂
文禄四年(1595)、に捕らえられ、釜ゆでの刑に処された大盗石川五右衛門の説話にちなんで名付けられた据え風呂です。底に板を沈めその上に乗って入ります。入浴者のいない時は、その板が蓋の代用となって湯がさめるのを防ぎます。
辻風呂
水上生活者などのために浴室を設けた舟が巡回して営業しました。これを「湯舟」と呼びました。人目を避けるため、男女の密会にも使われたようです。

吉原も揺るがした湯女風呂
徳川家康が江戸入りし、開発の進む中、建設に従事する労働者にとって砂塵や汗を洗い流す大衆浴場は必要不可欠なものとなりました。 労働者の大半は男ですから、男が集まるところに「女」は付きもので、やがて銭湯にもあやしげな気配が漂ってきます。 それが「湯女風呂」です。 『慶長見聞集』には湯女風呂について次のような記載があります。
「今は町ごとに風呂あり。びた拾五文廿銭ずつにて入る也。湯女といいて、なまめける女ども、廿人、三十人と並びいて、垢をかき、髪をそそぐ。 さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云いて持来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべをめぐらし一度笑めば、百のこびをなして男の心をまよわす。」
湯女をおく風呂屋は朝から始業して、夕は七ッ時(午後4時頃)に一旦仕舞いました。そのあと再び身支度をして、風呂場の洗い場の格子の間を座敷にこしらえ金屏風を立て、灯をともして衣服を着替えた湯女たちが三味線を弾き、小唄を歌って、客を集めました。 『洞房語園抄語』には 「寛永十三年(1636)のころより、町中に風呂屋というもの発興して遊女を抱えおき、昼夜の商売をしたり。これよりして吉原衰微しける。

「千と千尋の神隠し」湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める温泉旅館の湯屋「油屋」
関西では銭湯を風呂といい、江戸では湯屋(ゆうや)といいました。 上方では「大和湯」、「扇湯」、「桜湯」などと店に名がつけられていましたが、江戸では「檜町の湯」、「堀江町の湯」などと町名をつけて呼んでいました。町人や商人の家に風呂はなく、みんな銭湯に行きました。江戸一番の呉服屋「越後屋」でさえ風呂はなかったそうです。
下の絵は鍬形ケイ斎の『近世職人尽絵詞』中の湯屋の図です。画面左手前に番台(高座)、右奥に湯くみの姿が見えます。縞の着物の男は盗難防止用の木札が付いた鋏で爪を切り、画面右手前の男は紐に吊された櫛を使っています。また中央には軽石で踵(かかと)をこする男の姿も見えます。

戸棚風呂
江戸の初期、一時的に流行したのが戸棚風呂です。 引戸を開いて中に入り、また引戸を閉めます。中の湯は一尺(30センチ)ほどしかなく腰から下だけしかつかることが出来ませんでした。中で温まって垢が浮いたところで洗い場へ出て体を洗いました。
『守貞謾稿』には 「戸棚風呂と云ふ物、三都には稀なれども、他国の銭湯には往々これあり。予、兵庫にて入りしことあり。また江戸にて薬湯にて往々これを見る。浴槽はなはだ浅く、湯やうやく尺ばかり。膝をひたすのみなれば、引き違ひ戸を用ひて湯気を洩らさざらしむ。」とあります。
据え風呂
居風呂、または水風呂とも書き、蒸風呂に対する名称です。 江戸では燃料の薪代が高く、それに加え、水を確保するための井戸を掘るのには一基二百両もの費用がかかりました。吉原の遊郭でさえ掘抜井戸が出来たのは享保11年(1726年)、一般の高級町家に掘抜井戸が出来はじめたのは文化年間(1810年頃)になってからだそうです。京坂の据風呂は五右衛門風呂と呼ばれる釜風呂でしたが、江戸では鉄砲風呂が一般的でした。左の図は歌麿の筆による据風呂の図です。図の右端にわずかに見えている黒い部分が「鉄砲」と呼ばれる部分です。鉄、銅製の筒を桶のなかに入れて火を焚くもので、うっかり鉄砲にさわって火傷することもありました。
行水
夏は汗疹(あせも)を防ぐためと湯銭を節約する意味もあって、裏庭に盥(たらい)をおき朝から水を溜め陽気の熱で温まった夕方に湯浴みをしました。浮世絵にも行水をする女性の姿がよく描かれています。
五右衛門風呂
文禄四年(1595)、に捕らえられ、釜ゆでの刑に処された大盗石川五右衛門の説話にちなんで名付けられた据え風呂です。底に板を沈めその上に乗って入ります。入浴者のいない時は、その板が蓋の代用となって湯がさめるのを防ぎます。
辻風呂
水上生活者などのために浴室を設けた舟が巡回して営業しました。これを「湯舟」と呼びました。人目を避けるため、男女の密会にも使われたようです。
吉原も揺るがした湯女風呂
徳川家康が江戸入りし、開発の進む中、建設に従事する労働者にとって砂塵や汗を洗い流す大衆浴場は必要不可欠なものとなりました。 労働者の大半は男ですから、男が集まるところに「女」は付きもので、やがて銭湯にもあやしげな気配が漂ってきます。 それが「湯女風呂」です。 『慶長見聞集』には湯女風呂について次のような記載があります。
「今は町ごとに風呂あり。びた拾五文廿銭ずつにて入る也。湯女といいて、なまめける女ども、廿人、三十人と並びいて、垢をかき、髪をそそぐ。 さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云いて持来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべをめぐらし一度笑めば、百のこびをなして男の心をまよわす。」
湯女をおく風呂屋は朝から始業して、夕は七ッ時(午後4時頃)に一旦仕舞いました。そのあと再び身支度をして、風呂場の洗い場の格子の間を座敷にこしらえ金屏風を立て、灯をともして衣服を着替えた湯女たちが三味線を弾き、小唄を歌って、客を集めました。 『洞房語園抄語』には 「寛永十三年(1636)のころより、町中に風呂屋というもの発興して遊女を抱えおき、昼夜の商売をしたり。これよりして吉原衰微しける。

2011年10月29日
宿場
宿場(しゅくば)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された町場をいう。宿駅ともいい、古代、奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていった。また、宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。

堺(Japan Graffiti sakai SIM)場所
近世の宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津迄を53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置された訳ではなく、順次整備されて最後に庄野宿が出来たのは、1624年(寛文元)だった。 宿場では公用人馬継立ての為定められた人馬を常備し、不足の時には助郷を徴するようになった。また、公武の宿泊、休憩の為問屋場、本陣、脇本陣などが置かれた。これらの公用の為の労役、業務については利益を上げる事は難しかったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与等種々の特典を与えるこ事よって、宿場の保護育成に努めた。他に一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店等が立並び、その宿泊、通行、荷物輸送等で利益を上げた。また、高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道開通等によって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。

宿場の諸施設
問屋場 - 人馬の継立、助郷賦課等の業務を行った。
本陣 - 武士や公家用が宿泊・休憩をした。商業的な宿泊施設ではなく、その地の有力旧家の邸宅が本陣として指定される事が多かった。
脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いている時は一般旅行者も泊めた。
旅籠 - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。
木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設。
茶屋 - 旅人向けの休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っている店。
商店 - 旅人向けに商いをする店。
高札場 - 幕府からの禁制や通達事項などを標した高札を掲げた場所。
枡形(ますがた) - 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所。もともとは有事の際に敵を迎え撃つための設備である。
木戸 - 宿場の端(見附付近)に設けられ、木戸と木戸の間(見附と見附の間)が宿場町とされた。木戸の他に常夜灯が設置されている場合もあった。また殆どの場合、夜間は防犯等の目的で閉鎖されていた。

堺(Japan Graffiti sakai SIM)場所
近世の宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津迄を53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置された訳ではなく、順次整備されて最後に庄野宿が出来たのは、1624年(寛文元)だった。 宿場では公用人馬継立ての為定められた人馬を常備し、不足の時には助郷を徴するようになった。また、公武の宿泊、休憩の為問屋場、本陣、脇本陣などが置かれた。これらの公用の為の労役、業務については利益を上げる事は難しかったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与等種々の特典を与えるこ事よって、宿場の保護育成に努めた。他に一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店等が立並び、その宿泊、通行、荷物輸送等で利益を上げた。また、高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道開通等によって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。

宿場の諸施設
問屋場 - 人馬の継立、助郷賦課等の業務を行った。
本陣 - 武士や公家用が宿泊・休憩をした。商業的な宿泊施設ではなく、その地の有力旧家の邸宅が本陣として指定される事が多かった。
脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いている時は一般旅行者も泊めた。
旅籠 - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。
木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設。
茶屋 - 旅人向けの休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っている店。
商店 - 旅人向けに商いをする店。
高札場 - 幕府からの禁制や通達事項などを標した高札を掲げた場所。
枡形(ますがた) - 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所。もともとは有事の際に敵を迎え撃つための設備である。
木戸 - 宿場の端(見附付近)に設けられ、木戸と木戸の間(見附と見附の間)が宿場町とされた。木戸の他に常夜灯が設置されている場合もあった。また殆どの場合、夜間は防犯等の目的で閉鎖されていた。

2011年10月28日
関所
関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。

古代
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。鈴鹿関から東は東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。
三関のほか、東海道の駿河・相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には勿来関、東山道の信濃・上野両国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関、北陸道の越後・出羽両国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。

中世
中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。
関所は中世の交通における最大の障害であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭を納めた通行者に対して通行の安全を保護する義務を負った。関銭は設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。
戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長・豊臣秀吉は、関所の廃止を徹底して実施した。

近世・近代
江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。これらの関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた。関所の番人は陪臣身分ではあったが幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から上方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。これを「入鉄炮出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制されたのである(童謡「通りゃんせ」)。また、芸人や力士などは通行手形の代わりに芸を披露することもあった。
関所破りは重罪とされ、磔刑に処せられた。しかし実際には関所役人も関与した宿場ぐるみでの関所破りが常態化しており、厳罰が適用される例も少なかった。
日本における関所は、1869年(明治2年)に明治政府によって完全に廃止された。
【 関所wiki 】
古代
飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。鈴鹿関から東は東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。
三関のほか、東海道の駿河・相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には勿来関、東山道の信濃・上野両国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関、北陸道の越後・出羽両国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。

中世
中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。
関所は中世の交通における最大の障害であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭を納めた通行者に対して通行の安全を保護する義務を負った。関銭は設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。
戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長・豊臣秀吉は、関所の廃止を徹底して実施した。

近世・近代
江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。これらの関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた。関所の番人は陪臣身分ではあったが幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から上方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。これを「入鉄炮出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制されたのである(童謡「通りゃんせ」)。また、芸人や力士などは通行手形の代わりに芸を披露することもあった。
関所破りは重罪とされ、磔刑に処せられた。しかし実際には関所役人も関与した宿場ぐるみでの関所破りが常態化しており、厳罰が適用される例も少なかった。
日本における関所は、1869年(明治2年)に明治政府によって完全に廃止された。
【 関所wiki 】

2011年10月26日
長屋
長屋(ながや)とは集合住宅の一形態である。

堺(Japan Graffiti sakai SIM)長屋 場所
長屋という言葉で一般にイメージされるのは、下町の狭い路地に面して建てられた木造の住宅であろう。歴史的には、伝統的な都市住居として広く見られる形態であった。城郭においては、多門櫓と称す長屋を塁上に造り、防衛の建物として威力を発揮しながら一般の住宅としても活躍していた。とくに御殿女中の居住施設は長局とよばれ、江戸城大奥では、戸別にトイレ・キッチン付2階建てで全長80mもあった。

江戸時代において、中層以上の商家などは表通りに独立した店を構えていたが、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいであった。また、大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。特に江戸時代、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材になった。密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた場合もみられる。

江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度である。路地に共同トイレがあり、風呂は無い(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されていた。入浴は銭湯でする)。水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことであった(現代で言うところの不動産管理会社に近い)。住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたり場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然」などという台詞が聞かれる。狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋(レンタル業に相当)が発達した。1月分の家賃は1日の手間賃で稼げる程安かった。

間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた長屋を九尺二間の長屋と言う。
九尺二間の長屋とは畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさでありそのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的。
棟割長屋は本来、建物の棟方向に壁を造って前後に区分してしまう物を指した。このタイプでは開口部が一方向しか取れないため、通風・採光に難があり、住環境は劣悪になる。
江戸時代の江戸の長屋は火事になることを前提にしており、柱の太さは2寸と建築費が安価で、かつ破壊消火が容易なつくりであった。また、すぐに再建できるようにと、板葺きに下見板という焼屋造りとよばれるつくりが多かった。
【長屋wiki】



堺(Japan Graffiti sakai SIM)長屋 場所
長屋という言葉で一般にイメージされるのは、下町の狭い路地に面して建てられた木造の住宅であろう。歴史的には、伝統的な都市住居として広く見られる形態であった。城郭においては、多門櫓と称す長屋を塁上に造り、防衛の建物として威力を発揮しながら一般の住宅としても活躍していた。とくに御殿女中の居住施設は長局とよばれ、江戸城大奥では、戸別にトイレ・キッチン付2階建てで全長80mもあった。

江戸時代において、中層以上の商家などは表通りに独立した店を構えていたが、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいであった。また、大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。特に江戸時代、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材になった。密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた場合もみられる。

江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度である。路地に共同トイレがあり、風呂は無い(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されていた。入浴は銭湯でする)。水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことであった(現代で言うところの不動産管理会社に近い)。住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたり場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然」などという台詞が聞かれる。狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋(レンタル業に相当)が発達した。1月分の家賃は1日の手間賃で稼げる程安かった。

間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた長屋を九尺二間の長屋と言う。
九尺二間の長屋とは畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさでありそのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的。
棟割長屋は本来、建物の棟方向に壁を造って前後に区分してしまう物を指した。このタイプでは開口部が一方向しか取れないため、通風・採光に難があり、住環境は劣悪になる。
江戸時代の江戸の長屋は火事になることを前提にしており、柱の太さは2寸と建築費が安価で、かつ破壊消火が容易なつくりであった。また、すぐに再建できるようにと、板葺きに下見板という焼屋造りとよばれるつくりが多かった。
【長屋wiki】


2011年10月12日
二階堂酒造
最近、お酒シーリズになっていますが、その中で載せている古いCM映像(Youtube)は、人生を振り返るような味のあるモノ多いです。今回紹介する「大分むぎ焼酎 二階堂さん」の映像も気に入っています。
二階堂酒造(にかいどうしゅぞう)とは大分県速見郡日出町に本社を置く麦焼酎を中心とした酒類醸造会社である。大分麦焼酎の代表的なメーカー。

1866年(慶応2年)に喜和屋(きわや)を屋号とする二階堂酒造場として創業。銘酒『麻地酒』(あさじざけ)を製造するが、第二次世界大戦中に原料不足のため休業を余儀なくされる。

1949年(昭和24年)に焼酎製造に転じて営業を再開。1964年(昭和39年)に組織を現在の二階堂酒造有限会社に改めた。1973年(昭和48年)には麦100%の麦焼酎を開発し、1974年(昭和49年)に発売開始。日本の全国的なブームの一端を担った。2006年(平成18年)の売上高は202億円で、日本の焼酎メーカー全体で6位
1987年(昭和62年)より放送が始まった哀愁とノスタルジーを誘う芸術性が高いテレビ・コマーシャルなどの広告が有名。「二階堂酒造wikiより」
● 大分むぎ焼酎 二階堂CM「消えた足跡」編
● 大分むぎ焼酎 二階堂CM 「文字のかけら」編

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR
二階堂酒造(にかいどうしゅぞう)とは大分県速見郡日出町に本社を置く麦焼酎を中心とした酒類醸造会社である。大分麦焼酎の代表的なメーカー。

1866年(慶応2年)に喜和屋(きわや)を屋号とする二階堂酒造場として創業。銘酒『麻地酒』(あさじざけ)を製造するが、第二次世界大戦中に原料不足のため休業を余儀なくされる。

1949年(昭和24年)に焼酎製造に転じて営業を再開。1964年(昭和39年)に組織を現在の二階堂酒造有限会社に改めた。1973年(昭和48年)には麦100%の麦焼酎を開発し、1974年(昭和49年)に発売開始。日本の全国的なブームの一端を担った。2006年(平成18年)の売上高は202億円で、日本の焼酎メーカー全体で6位
1987年(昭和62年)より放送が始まった哀愁とノスタルジーを誘う芸術性が高いテレビ・コマーシャルなどの広告が有名。「二階堂酒造wikiより」
● 大分むぎ焼酎 二階堂CM「消えた足跡」編
● 大分むぎ焼酎 二階堂CM 「文字のかけら」編

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR
2011年10月11日
トリスウイスキー
トリスウイスキー(Torys Whisky)は、サントリーから発売されているウイスキーブランドの一つである。
発売以来中身は改良を重ねており、現在の製品はモルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンドしたブレンデッド・ウイスキーで、戦後の洋酒ブームの火付け役となった、国産ウィスキーの代表的存在としてその名を知られている。

寿屋の創業者である鳥井信治郎は、1907年(明治40年)に赤玉ポートワインを発売し、同社の土台を築くと共に、海外からさらなる洋酒を国内に広めるべくヒントを得ようとしていた中で、ある時海外からウイスキーとは名ばかりの模造アルコールに近い商品を手にする。当然これでは売り物にならないため、葡萄酒用の樽に寝かせておいた。
数年後、この液体は琥珀色に熟成し、鳥井はそれがウイスキーであることを確信した(ただし、現在の基準ではウイスキーとは認められないものである)。その後、この液体を「トリス」と名付けて売り出したところ、あっという間に売れた。これを機に、鳥井は国産初のウイスキー製造に乗り出す決意を固め、1923年(大正12年)、京都と大阪の境、山崎に蒸留所の竣工に踏み切ることになる。
トリスウイスキーとしての発売は、戦後の1946年である。当初は原酒を5%入れていたが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されている。
ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視されている。従来は、1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。
さらに、2009年頃からのハイボールブームに乗る形で、2010年9月にこれまでのラインナップを刷新し、よりハイボールに合うキレのある味わいに仕上げた「トリス<エクストラ>」と同製品をベースにした「トリスハイボール缶」を発売した。

【 1981年 サントリーウイスキー トリス 「雨と子犬」CM 】
「いろんな命が生きてるんだなぁ 」「元気で とりあえず元気で みんな元気で」
語源のTorysとは、鳥井信冶郎の名に由来し、「鳥井の」という意味を持つ。しかし、最初に発売されたトリスは、模造ウイスキーに近いような品質であったことや、またウイスキー自体が麦を仕込んで、原酒を寝かせてから、発売されるまでに時間が掛かることもあり、戦前に「トリス」の名を冠された製品は、主に紅茶やカレー粉など、ウイスキーとは違うものにブランド名として付けられていた。終戦間もない1946年、終戦直後の混乱期の中で、出どころの知れない粗悪なアルコール類を牽制すべく、ようやくブレンデッド・ウイスキーとしてのトリスウイスキーが誕生することになる。
1950年頃に「うまい」「安い」のキャッチフレーズで発売開始。現在でも根強い人気がある。また、柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクル・トリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。近年、トリススクエアの販売で再び、テレビに登場したのに続き、2010年には「トリス<エクストラ>」のCMで女優の吉高由里子と“共演”したバージョンが製作された。トリスエクストラ及びトリスハイボール缶のCMソングには、往年のバラエティ番組『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)のテーマソング(元歌は『隣組』。たかしまあきひこ編曲)の替え歌で「ド・ド・ドリフの…」の部分を「ト・ト・トリスの…」と替えている。
また、トリスを中心に、サントリーが製造販売しているウイスキーを出す、ウイスキーバーは愛称トリスバーと呼ばれ、気軽な値段の庶民酒場として1960年代を中心に人気を博した。最盛期に比べると、数は減少したものの、現在も各地で営業を続けている。「トリハイ」と呼ばれる、トリスウィスキーを使用したハイボールが人気メニューのひとつであり、食事のメニューはややクラシックな洋食が中心となっている。
1955年 - 1962年には、後楽園球場のレフトフェンス(ポール付近)に「トリスウイスキー」の広告が登場、テレビ放送の草創期であることも相俟って、プロ野球テレビ中継において一塁側スタンド上のカメラがレフトへ飛んだ打球を追う度「トリスウイスキー」の文字が映し出され、大きな宣伝効果をもたらした。なお、1963年からは、新発売された「サントリービール」に取って代わられたが、こちらも東京ドーム開場初期まで続いた。
1961年には、「トリスを飲んで、ハワイへ行こう!!」というCMが放送された。これは、トリスウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものだった(当時は、まだ一般市民の海外渡航には制約があったため)。1964年に、海外旅行の自由化がなされ実施されたものの、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程で、当選者のほとんどは預金証書を旅行に使わず現金化している。
1981年には、当時サン・アドに所属していたコピーライターの仲畑貴志が企画立案した、子犬が京都の町中を駆け巡るCM「雨と子犬」が放映され、話題を呼んだ。このCMは、その年に開催されたカンヌ国際広告映画祭のCM部門で金賞に輝いている。このCMで流れている歌はビリーバンバンの菅原進がソロで歌った「琥珀色の日々」、撮影は宮川一夫。
「Torys」の書体は発売当初から昭和40年頃まではやや筆記体だったが、昭和40年代前半はゴシック文字、後半からしばらくは明朝体に変化していくが、次第に当初から使用された筆記体に戻された。しかし、2010年の「トリス〈エクストラ〉」は再び明朝体が使用されている。ちなみに、ボトルに今でも初代のサントリーのロゴを使用されている。【 トリスウイスキーwikiより 】
発売以来中身は改良を重ねており、現在の製品はモルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンドしたブレンデッド・ウイスキーで、戦後の洋酒ブームの火付け役となった、国産ウィスキーの代表的存在としてその名を知られている。

寿屋の創業者である鳥井信治郎は、1907年(明治40年)に赤玉ポートワインを発売し、同社の土台を築くと共に、海外からさらなる洋酒を国内に広めるべくヒントを得ようとしていた中で、ある時海外からウイスキーとは名ばかりの模造アルコールに近い商品を手にする。当然これでは売り物にならないため、葡萄酒用の樽に寝かせておいた。
数年後、この液体は琥珀色に熟成し、鳥井はそれがウイスキーであることを確信した(ただし、現在の基準ではウイスキーとは認められないものである)。その後、この液体を「トリス」と名付けて売り出したところ、あっという間に売れた。これを機に、鳥井は国産初のウイスキー製造に乗り出す決意を固め、1923年(大正12年)、京都と大阪の境、山崎に蒸留所の竣工に踏み切ることになる。
トリスウイスキーとしての発売は、戦後の1946年である。当初は原酒を5%入れていたが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されている。
ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視されている。従来は、1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。
さらに、2009年頃からのハイボールブームに乗る形で、2010年9月にこれまでのラインナップを刷新し、よりハイボールに合うキレのある味わいに仕上げた「トリス<エクストラ>」と同製品をベースにした「トリスハイボール缶」を発売した。

【 1981年 サントリーウイスキー トリス 「雨と子犬」CM 】
「いろんな命が生きてるんだなぁ 」「元気で とりあえず元気で みんな元気で」
語源のTorysとは、鳥井信冶郎の名に由来し、「鳥井の」という意味を持つ。しかし、最初に発売されたトリスは、模造ウイスキーに近いような品質であったことや、またウイスキー自体が麦を仕込んで、原酒を寝かせてから、発売されるまでに時間が掛かることもあり、戦前に「トリス」の名を冠された製品は、主に紅茶やカレー粉など、ウイスキーとは違うものにブランド名として付けられていた。終戦間もない1946年、終戦直後の混乱期の中で、出どころの知れない粗悪なアルコール類を牽制すべく、ようやくブレンデッド・ウイスキーとしてのトリスウイスキーが誕生することになる。
1950年頃に「うまい」「安い」のキャッチフレーズで発売開始。現在でも根強い人気がある。また、柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクル・トリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。近年、トリススクエアの販売で再び、テレビに登場したのに続き、2010年には「トリス<エクストラ>」のCMで女優の吉高由里子と“共演”したバージョンが製作された。トリスエクストラ及びトリスハイボール缶のCMソングには、往年のバラエティ番組『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)のテーマソング(元歌は『隣組』。たかしまあきひこ編曲)の替え歌で「ド・ド・ドリフの…」の部分を「ト・ト・トリスの…」と替えている。
また、トリスを中心に、サントリーが製造販売しているウイスキーを出す、ウイスキーバーは愛称トリスバーと呼ばれ、気軽な値段の庶民酒場として1960年代を中心に人気を博した。最盛期に比べると、数は減少したものの、現在も各地で営業を続けている。「トリハイ」と呼ばれる、トリスウィスキーを使用したハイボールが人気メニューのひとつであり、食事のメニューはややクラシックな洋食が中心となっている。
1955年 - 1962年には、後楽園球場のレフトフェンス(ポール付近)に「トリスウイスキー」の広告が登場、テレビ放送の草創期であることも相俟って、プロ野球テレビ中継において一塁側スタンド上のカメラがレフトへ飛んだ打球を追う度「トリスウイスキー」の文字が映し出され、大きな宣伝効果をもたらした。なお、1963年からは、新発売された「サントリービール」に取って代わられたが、こちらも東京ドーム開場初期まで続いた。
1961年には、「トリスを飲んで、ハワイへ行こう!!」というCMが放送された。これは、トリスウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものだった(当時は、まだ一般市民の海外渡航には制約があったため)。1964年に、海外旅行の自由化がなされ実施されたものの、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程で、当選者のほとんどは預金証書を旅行に使わず現金化している。
1981年には、当時サン・アドに所属していたコピーライターの仲畑貴志が企画立案した、子犬が京都の町中を駆け巡るCM「雨と子犬」が放映され、話題を呼んだ。このCMは、その年に開催されたカンヌ国際広告映画祭のCM部門で金賞に輝いている。このCMで流れている歌はビリーバンバンの菅原進がソロで歌った「琥珀色の日々」、撮影は宮川一夫。
「Torys」の書体は発売当初から昭和40年頃まではやや筆記体だったが、昭和40年代前半はゴシック文字、後半からしばらくは明朝体に変化していくが、次第に当初から使用された筆記体に戻された。しかし、2010年の「トリス〈エクストラ〉」は再び明朝体が使用されている。ちなみに、ボトルに今でも初代のサントリーのロゴを使用されている。【 トリスウイスキーwikiより 】

2011年10月10日
いいちこ
いいちこは、大分県の酒造メーカー、三和酒類より1979年(昭和54年)から発売されている麦焼酎の銘柄です。

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR
大麦と麦麹を使った、華やかな香りで軽い口当たりの焼酎で、「新本格焼酎」を謳っている。アルコール度数に30度、25度、20度と異なる種類がある他、熟成期間を長くした「いいちこスーパー」、麦麹のみを使用した「いいちこフラスコボトル」、新品種の麦を用いた「西の星」などの銘柄もある。

商品名の「いいちこ」は三和酒類のある大分県の方言で「いいですよ」を意味し、愛称である「下町のナポレオン」とともに地元紙における公募により決定された。

かつての三和酒類は日本酒酒造メーカーで、酒類の生産および消費はともに冬に集中しており、逆に言えば三和酒類も多忙なのは生産期のみであった。昭和40年代に入って大手日本酒酒造メーカーが九州に進出すると日本酒の価格競争が激化してきたため、その苦境から脱するために同社は焼酎製造に参入、当初は苦戦しかなり屈辱的なことであったが、やがて香りがきつく濁りのあった従来の麦焼酎の難点を解消した焼酎の開発に成功する。同社は公募で「いいちこ」と名付けられた焼酎を問屋流通路を基盤に販路を拡大させ、当時起こった焼酎ブームにより人気を博することとなる。

1986年(昭和61年)、焼酎乙類に原料表示が義務付けられた。当時「いいちこ」以外にも焼酎には砂糖が使用されているものが多く、三和酒類も使用を続けるかどうか判断を迫られた。使用を中止するメーカーが出る中、同社は消費者の求める味を変えるべきではないと考え、あえてしばらくの間砂糖を使用し続けた。批判を受けたものの、逆に売り上げが伸びる結果となった。しかし同時に砂糖の代替となるものを開発しようと研究を行った結果、砂糖を使用せずに同様の隠し味を出せるようになり、「フラスコボトル」誕生のきっかけともなった。
【 いいちこCM 曲:今は、このまま 】

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR

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大麦と麦麹を使った、華やかな香りで軽い口当たりの焼酎で、「新本格焼酎」を謳っている。アルコール度数に30度、25度、20度と異なる種類がある他、熟成期間を長くした「いいちこスーパー」、麦麹のみを使用した「いいちこフラスコボトル」、新品種の麦を用いた「西の星」などの銘柄もある。

商品名の「いいちこ」は三和酒類のある大分県の方言で「いいですよ」を意味し、愛称である「下町のナポレオン」とともに地元紙における公募により決定された。

かつての三和酒類は日本酒酒造メーカーで、酒類の生産および消費はともに冬に集中しており、逆に言えば三和酒類も多忙なのは生産期のみであった。昭和40年代に入って大手日本酒酒造メーカーが九州に進出すると日本酒の価格競争が激化してきたため、その苦境から脱するために同社は焼酎製造に参入、当初は苦戦しかなり屈辱的なことであったが、やがて香りがきつく濁りのあった従来の麦焼酎の難点を解消した焼酎の開発に成功する。同社は公募で「いいちこ」と名付けられた焼酎を問屋流通路を基盤に販路を拡大させ、当時起こった焼酎ブームにより人気を博することとなる。

1986年(昭和61年)、焼酎乙類に原料表示が義務付けられた。当時「いいちこ」以外にも焼酎には砂糖が使用されているものが多く、三和酒類も使用を続けるかどうか判断を迫られた。使用を中止するメーカーが出る中、同社は消費者の求める味を変えるべきではないと考え、あえてしばらくの間砂糖を使用し続けた。批判を受けたものの、逆に売り上げが伸びる結果となった。しかし同時に砂糖の代替となるものを開発しようと研究を行った結果、砂糖を使用せずに同様の隠し味を出せるようになり、「フラスコボトル」誕生のきっかけともなった。
【 いいちこCM 曲:今は、このまま 】

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR
2011年10月09日
月桂冠
月桂冠株式会社(げっけいかん)は、日本酒を中心に各種の酒類を製造する酒造会社。同社が製造する日本酒の銘柄名でもある。勝利と栄光を意味する月桂冠を由来として名付けられた。

明治時代以降、急速に全国展開し、灘の白鶴酒造とともに、日本最大の酒造メーカーとなった。戦後、業界に先駆けて、一年を通して醸造可能な「四季醸造蔵」を建設し、大量の酒を供給することに成功したことでも知られる。コーポレートブランドコンセプトは「For Your Lifestyle Taste うるおいをあなたと」で、基本理念は「健をめざし 酒を科学して 快を創る」となっている。


創業が他業界と比べて非常に古いといわれる日本酒業界の中でも、月桂冠の歴史は古く、創業は1637年にまで遡る。1867年の鳥羽・伏見の戦いでは、酒蔵などが被害を受けるものの、本宅が被害を受けずに済み、廃業を免れたという歴史的な経緯もある。明治時代以降は、全国的な清酒メーカーとして発展した。
数十年以上の長きにわたり日本酒メーカーのトップシェアを誇ってきた月桂冠であるが、2002年に白鶴酒造に追い抜かれた。京都における名門企業であり、伝統企業の国際組織である「エノキアン協会」(1981年結成 本部パリ 団体名は旧約聖書に登場するアダムの孫エノックから)に加盟している。協会への入会の条件として、「創業200年以上の歴史」、「同族経営」、「業績良好」の3条件を全て満たさなければならず、日本で条件が満たせたのは月桂冠を含めて5社であった(他には法師、虎屋、岡谷鋼機、赤福)。社長は代々大倉家から出される。また、株式会社ではあるが、サントリーや竹中工務店・ロッテなどと同様に非上場の企業としても有名である。堅実な経営を脈々と続けてきたことで知られ、一貫する経営方針やその経営内容は大企業でも参考にするものが多い。ロゴは月桂樹の葉を環状にしたものが主流であったが、近年CMなどでは、月桂樹の葉を近代的に改良したロゴを使用している。かつては「お酒の王様・月桂冠」(1970年代頃)、「日本の酒・月桂冠」(1980年代頃から)というジングルが流れていたこともある。

月桂冠大倉記念館
昔の酒蔵を改造し伝統的な酒造工程やその用具などを展示する博物館。展示物には京都市の有形民俗文化財に指定されているものもある。館内ではプラムワインや吟醸酒などの試飲をするスペースがあり、また、成人の入館料はお酒のおみやげ一本つきというシステムである。近隣には、十石船の乗り場があり、春・秋のシーズンには、景色を楽しむ観光客で賑わいを見せる。
【 月桂冠wiki 】

【 月桂冠CM 花鳥風月 】

場所:Japan Graffiti sakai SIM

明治時代以降、急速に全国展開し、灘の白鶴酒造とともに、日本最大の酒造メーカーとなった。戦後、業界に先駆けて、一年を通して醸造可能な「四季醸造蔵」を建設し、大量の酒を供給することに成功したことでも知られる。コーポレートブランドコンセプトは「For Your Lifestyle Taste うるおいをあなたと」で、基本理念は「健をめざし 酒を科学して 快を創る」となっている。


創業が他業界と比べて非常に古いといわれる日本酒業界の中でも、月桂冠の歴史は古く、創業は1637年にまで遡る。1867年の鳥羽・伏見の戦いでは、酒蔵などが被害を受けるものの、本宅が被害を受けずに済み、廃業を免れたという歴史的な経緯もある。明治時代以降は、全国的な清酒メーカーとして発展した。
数十年以上の長きにわたり日本酒メーカーのトップシェアを誇ってきた月桂冠であるが、2002年に白鶴酒造に追い抜かれた。京都における名門企業であり、伝統企業の国際組織である「エノキアン協会」(1981年結成 本部パリ 団体名は旧約聖書に登場するアダムの孫エノックから)に加盟している。協会への入会の条件として、「創業200年以上の歴史」、「同族経営」、「業績良好」の3条件を全て満たさなければならず、日本で条件が満たせたのは月桂冠を含めて5社であった(他には法師、虎屋、岡谷鋼機、赤福)。社長は代々大倉家から出される。また、株式会社ではあるが、サントリーや竹中工務店・ロッテなどと同様に非上場の企業としても有名である。堅実な経営を脈々と続けてきたことで知られ、一貫する経営方針やその経営内容は大企業でも参考にするものが多い。ロゴは月桂樹の葉を環状にしたものが主流であったが、近年CMなどでは、月桂樹の葉を近代的に改良したロゴを使用している。かつては「お酒の王様・月桂冠」(1970年代頃)、「日本の酒・月桂冠」(1980年代頃から)というジングルが流れていたこともある。

月桂冠大倉記念館
昔の酒蔵を改造し伝統的な酒造工程やその用具などを展示する博物館。展示物には京都市の有形民俗文化財に指定されているものもある。館内ではプラムワインや吟醸酒などの試飲をするスペースがあり、また、成人の入館料はお酒のおみやげ一本つきというシステムである。近隣には、十石船の乗り場があり、春・秋のシーズンには、景色を楽しむ観光客で賑わいを見せる。
【 月桂冠wiki 】

【 月桂冠CM 花鳥風月 】

場所:Japan Graffiti sakai SIM
2011年10月08日
かまど
調理などで煮炊きをする場合、古くは囲いの無い直火に鍋などを加熱する方式によって食品の加熱調理が行われていたが、周辺に熱が放射などの形で逃げる他、煤煙が漂う・火が風で揺らぐなど効率が悪いため、土、石、セメントで作られるかまどが発明された。

これらでは木(薪)といった直接的なバイオマス燃料や、炭などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭や家畜の乾燥させた糞が利用される場合もある。
このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。
更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。
しかし次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えてかまどは姿を消していった。現在の日本では、一部を除いてほとんど利用されなくなっており、地方農村でも埃をかぶるに任せられている。
【 Japan Graffiti sakai SIM 内 】



もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、今日でもキャンプなどの飯盒による調理などでおなじみだが、既に石器時代にはそのような炉が登場していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、地床炉が用いられるケースが多く、弥生時代後期から古墳時代前期までは炉の上におかれた器台のついた台付甕が用いられていた。かまどについては、弥生時代終末期に独自発生した、あるいは、朝鮮半島から技術が伝播したという説もあるが、『古事記』などの仁徳天皇の説話にみられるように古墳時代中期に、いわゆる登り窯(窖窯)に似た構造から、おそらく須恵器の焼成技術とともに伝来したと推定されている。

日本では、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取る事を目的としたかまどが併設されている事がある。さらに釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスで鬼に扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。
「 かまどwikiより 」

これらでは木(薪)といった直接的なバイオマス燃料や、炭などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭や家畜の乾燥させた糞が利用される場合もある。
このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。
更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。
しかし次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えてかまどは姿を消していった。現在の日本では、一部を除いてほとんど利用されなくなっており、地方農村でも埃をかぶるに任せられている。
【 Japan Graffiti sakai SIM 内 】



もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、今日でもキャンプなどの飯盒による調理などでおなじみだが、既に石器時代にはそのような炉が登場していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、地床炉が用いられるケースが多く、弥生時代後期から古墳時代前期までは炉の上におかれた器台のついた台付甕が用いられていた。かまどについては、弥生時代終末期に独自発生した、あるいは、朝鮮半島から技術が伝播したという説もあるが、『古事記』などの仁徳天皇の説話にみられるように古墳時代中期に、いわゆる登り窯(窖窯)に似た構造から、おそらく須恵器の焼成技術とともに伝来したと推定されている。

日本では、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取る事を目的としたかまどが併設されている事がある。さらに釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスで鬼に扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。
「 かまどwikiより 」
2011年10月07日
囲炉裏
囲炉裏とは、伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のこと。主に暖房・調理目的に用いる。数える際には「基」を用いる。古くは、比多岐(ひたき)や地火炉(じかろ)とも言った。

囲炉裏は炊事専門のかまど、属人的な火鉢とともに、日本の伝統家屋の火の座を構成した。日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央である。しかし、地域によっては床敷き部分の土間よりの辺に接して切る場合もある。南部の曲り屋に見られる「踏み込み炉」は土間囲炉裏の典型で、農作業中に土足のまま囲炉裏の周りに腰掛けられる作りとなっている。また、東北地方などの寒冷地には掘り炬燵のように足を下ろせる深い囲炉裏もある。囲炉裏は生活にかかせないものとして発展し各地方特有の形態を持つ。
家によっては複数の囲炉裏が存在し、身分により使う囲炉裏が分けられていた。囲炉裏が2つある場合、薪を燃料とした家族の囲炉裏と木炭を燃料とした客人用の囲炉裏とを使い分けることもあった。また、煙のでない木炭の囲炉裏では贅沢な自在鉤や茶釜を用いることも多かった。 現在では大きな火鉢や木製のテーブルの中央で炭火を熾す座卓を囲炉裏と称することが多いが、本来的に囲炉裏は移動できない設備であり、移動のできるものは火鉢と称する。
地方により特有の形態を持つ囲炉裏は、当然のことながらその呼び名も地方により異なり、相当な数の呼び名があったと思われる。 現在に残るものとして、炉、地炉、ヒジロ、ユル、ユルイ、ユルリ、イナカ、エナカ、ヘンナカ、エンナカ、イリリ、イレ、シタジロ、スブト、ジリュ、などがある。
燃料はかまどと異なり、火力よりも火持ちのよさが重視される。現代家屋では煙の出ない炭火が用いられることが多いが、古くは民家ではコストのかかる炭火はむしろ火鉢専用であり、囲炉裏では大割りした薪が用いられることが多かった。地方によっては切り株を掘り起こしたものを細かく割らずにくべることもあった。山中で無償で入手できる薪に比べ、木炭は貴重な存在であった。
火を扱う場であるため、火の神を祀ることも多かった。
茶室にも囲炉裏に良く似た火の座があるが、茶道では「炉」と称し、畳の間に切る。寸法も一尺四寸(42.42cm)あるいは裏千家の大炉の場合でも一尺八寸(54.54cm)四方で、一般的な囲炉裏よりはるかに小さい。

【 Japan Graffiti sakai SIM 大神稲荷拝殿裏住居内 】場所


暖房
部屋の中央付近に置かれ、部屋中を暖める。
調理
囲炉裏では自在鉤や五徳を用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なった。また魚などの食材を串に刺し火の周囲の灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも多い。徳利を灰に埋めて酒燗することもある。ちなみに北陸地方に竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、それまではあらゆる煮炊きを囲炉裏で行なっていた。温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれている。
照明
火が主要な照明であった近世以前、囲炉裏は安全に部屋を照らすことのできる手段だった。古くは炉辺の明かし台で松明を燃やして手元の明かりとした。また照明専用具として油や蝋燭がありはしたが、いずれも庶民にとっては高価なものであった。
乾燥
火棚を組み、衣類・食料・生木などの乾燥に用いた。また、着物掛けを炉辺に置いて濡れた着物を乾かした。
火種
マッチなどによる着火が容易でない時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や照明具の火種として使われた。
家族のコミュニケーションの中心
食事中、夜間は自然と囲炉裏の回りに集まり、会話が生まれる。通常家族の成員の着座場所が決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能も重要であった。囲炉裏の周囲の着座場所の名称は地方によって異なるが、例えば横座、嬶座 (かかざ)、客座、木尻または下座 (げざ)といったものが挙げられる。この機能は縄文時代の竪穴式住居の中央に設けられた炉以来引き継がれてきた日本の民家の基本構造とも言え、現代建築では炬燵にその機能が一部継承されている部分があるが、今日では家族団欒そのものが衰退しつつあるとする見方もある。
家屋の耐久性向上
部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくなる。また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺屋根、藁屋根の建材に浸透し、防虫性や防水性を高める。ただし、家の中に煙が充満することで眼病などの原因にもなる。
「 囲炉裏wiki 」
囲炉裏は炊事専門のかまど、属人的な火鉢とともに、日本の伝統家屋の火の座を構成した。日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央である。しかし、地域によっては床敷き部分の土間よりの辺に接して切る場合もある。南部の曲り屋に見られる「踏み込み炉」は土間囲炉裏の典型で、農作業中に土足のまま囲炉裏の周りに腰掛けられる作りとなっている。また、東北地方などの寒冷地には掘り炬燵のように足を下ろせる深い囲炉裏もある。囲炉裏は生活にかかせないものとして発展し各地方特有の形態を持つ。
家によっては複数の囲炉裏が存在し、身分により使う囲炉裏が分けられていた。囲炉裏が2つある場合、薪を燃料とした家族の囲炉裏と木炭を燃料とした客人用の囲炉裏とを使い分けることもあった。また、煙のでない木炭の囲炉裏では贅沢な自在鉤や茶釜を用いることも多かった。 現在では大きな火鉢や木製のテーブルの中央で炭火を熾す座卓を囲炉裏と称することが多いが、本来的に囲炉裏は移動できない設備であり、移動のできるものは火鉢と称する。
地方により特有の形態を持つ囲炉裏は、当然のことながらその呼び名も地方により異なり、相当な数の呼び名があったと思われる。 現在に残るものとして、炉、地炉、ヒジロ、ユル、ユルイ、ユルリ、イナカ、エナカ、ヘンナカ、エンナカ、イリリ、イレ、シタジロ、スブト、ジリュ、などがある。
燃料はかまどと異なり、火力よりも火持ちのよさが重視される。現代家屋では煙の出ない炭火が用いられることが多いが、古くは民家ではコストのかかる炭火はむしろ火鉢専用であり、囲炉裏では大割りした薪が用いられることが多かった。地方によっては切り株を掘り起こしたものを細かく割らずにくべることもあった。山中で無償で入手できる薪に比べ、木炭は貴重な存在であった。
火を扱う場であるため、火の神を祀ることも多かった。
茶室にも囲炉裏に良く似た火の座があるが、茶道では「炉」と称し、畳の間に切る。寸法も一尺四寸(42.42cm)あるいは裏千家の大炉の場合でも一尺八寸(54.54cm)四方で、一般的な囲炉裏よりはるかに小さい。

【 Japan Graffiti sakai SIM 大神稲荷拝殿裏住居内 】場所


暖房
部屋の中央付近に置かれ、部屋中を暖める。
調理
囲炉裏では自在鉤や五徳を用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なった。また魚などの食材を串に刺し火の周囲の灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも多い。徳利を灰に埋めて酒燗することもある。ちなみに北陸地方に竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、それまではあらゆる煮炊きを囲炉裏で行なっていた。温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれている。
照明
火が主要な照明であった近世以前、囲炉裏は安全に部屋を照らすことのできる手段だった。古くは炉辺の明かし台で松明を燃やして手元の明かりとした。また照明専用具として油や蝋燭がありはしたが、いずれも庶民にとっては高価なものであった。
乾燥
火棚を組み、衣類・食料・生木などの乾燥に用いた。また、着物掛けを炉辺に置いて濡れた着物を乾かした。
火種
マッチなどによる着火が容易でない時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や照明具の火種として使われた。
家族のコミュニケーションの中心
食事中、夜間は自然と囲炉裏の回りに集まり、会話が生まれる。通常家族の成員の着座場所が決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能も重要であった。囲炉裏の周囲の着座場所の名称は地方によって異なるが、例えば横座、嬶座 (かかざ)、客座、木尻または下座 (げざ)といったものが挙げられる。この機能は縄文時代の竪穴式住居の中央に設けられた炉以来引き継がれてきた日本の民家の基本構造とも言え、現代建築では炬燵にその機能が一部継承されている部分があるが、今日では家族団欒そのものが衰退しつつあるとする見方もある。
家屋の耐久性向上
部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくなる。また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺屋根、藁屋根の建材に浸透し、防虫性や防水性を高める。ただし、家の中に煙が充満することで眼病などの原因にもなる。
「 囲炉裏wiki 」

2011年10月06日
七輪
七輪(しちりん)は「七厘」とも書く。木炭や豆炭を燃料に使用する調理用の炉である。関西ではかんてきとも言う。

【 Japan Graffiti sakai SIM 火達磨さん 】場所
七輪は軽量かつコンパクトで移動が容易な調理用の炉である。形状は円筒形、四角形、長方形が主で、大きさも様々で、用途に応じて多品種生産されている。原料は主に珪藻土で、微細な中空構造を持ち断熱性が高いため保温効果が極めて高く、本体は熱く焼けないため持ち運びに便利である。赤外線の発生量も多く熱効率が極めて高いため、燃料を節約できるという利点がある。

囲炉裡や火鉢で火の熾った木炭や炭団を、長屋や屋台で携行し、少ない木炭消費で安全に長時間の煮炊きが出来るよう、町人文化の中で生まれ工夫改良されてきたものが日本独特の「七輪」である。燃焼室が皿状で浅い江戸期の七輪の形状を見ても、七輪単体で火熾しすることは当時は前提とされていなかった。
土間や野外などに直接置いて火床を囲う程度の持ち運び可能な土師製の炉は古代よりあったものと考えられるが、高床式木造建築の内部に持ち込み、屋内での使用に堪えうる「置き炉」としては平安時代のものが確認できる。これらは元は香炉や祭壇など宗教的祭具として屋内に持ち込まれたであろうものが、手あぶりなど採暖用途として、そして屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものと考えられる[1]。
現在のものとほぼ同様の構造のものは江戸時代に作られていたといわれ、日本人が通常「七輪」と考える焜炉は珪藻土を焼成して作られたものであるが、珪藻土を使用した円筒形のものが普及したのは戦後であり、江戸時代に日本各地の窯で作られたものは粘土(土師:はじ)製のものが中心であった。江戸では今戸の今戸焼が著名であり、瓦(かわら)焼窯の職人達が副製品として供給し普及したとされる。今戸焼はおおむね箱形であったようである。

円筒形の七輪は炊飯や煮炊きに使いやすく、このころの主流であったが、焼き物が主体となった近年では、横長の長方形の七輪の普及が目立つ。屋内外問わず使用され、近年では七輪を使用した炭火料理店も多い。
昔ながらの製法で珪藻土の塊を切り出し削って作ったものを「切り出し七輪」といい、これに対して珪藻土を粉砕し、粘土状にしたものを金型でプレス成型した「練り物製品」がある。切り出し七輪は職人による加工手間が多く、高価であるのに対し、練り物製品は量産しやすく安価で一般に普及している。特殊な形状として、薪を燃料として利用出来る「薪七輪」がある。通風口とは別に薪を入れるための大きな開口部が空けられている。

【 Japan Graffiti sakai SIM 火達磨さん 】場所
七輪は軽量かつコンパクトで移動が容易な調理用の炉である。形状は円筒形、四角形、長方形が主で、大きさも様々で、用途に応じて多品種生産されている。原料は主に珪藻土で、微細な中空構造を持ち断熱性が高いため保温効果が極めて高く、本体は熱く焼けないため持ち運びに便利である。赤外線の発生量も多く熱効率が極めて高いため、燃料を節約できるという利点がある。

囲炉裡や火鉢で火の熾った木炭や炭団を、長屋や屋台で携行し、少ない木炭消費で安全に長時間の煮炊きが出来るよう、町人文化の中で生まれ工夫改良されてきたものが日本独特の「七輪」である。燃焼室が皿状で浅い江戸期の七輪の形状を見ても、七輪単体で火熾しすることは当時は前提とされていなかった。
土間や野外などに直接置いて火床を囲う程度の持ち運び可能な土師製の炉は古代よりあったものと考えられるが、高床式木造建築の内部に持ち込み、屋内での使用に堪えうる「置き炉」としては平安時代のものが確認できる。これらは元は香炉や祭壇など宗教的祭具として屋内に持ち込まれたであろうものが、手あぶりなど採暖用途として、そして屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものと考えられる[1]。
現在のものとほぼ同様の構造のものは江戸時代に作られていたといわれ、日本人が通常「七輪」と考える焜炉は珪藻土を焼成して作られたものであるが、珪藻土を使用した円筒形のものが普及したのは戦後であり、江戸時代に日本各地の窯で作られたものは粘土(土師:はじ)製のものが中心であった。江戸では今戸の今戸焼が著名であり、瓦(かわら)焼窯の職人達が副製品として供給し普及したとされる。今戸焼はおおむね箱形であったようである。

円筒形の七輪は炊飯や煮炊きに使いやすく、このころの主流であったが、焼き物が主体となった近年では、横長の長方形の七輪の普及が目立つ。屋内外問わず使用され、近年では七輪を使用した炭火料理店も多い。
昔ながらの製法で珪藻土の塊を切り出し削って作ったものを「切り出し七輪」といい、これに対して珪藻土を粉砕し、粘土状にしたものを金型でプレス成型した「練り物製品」がある。切り出し七輪は職人による加工手間が多く、高価であるのに対し、練り物製品は量産しやすく安価で一般に普及している。特殊な形状として、薪を燃料として利用出来る「薪七輪」がある。通風口とは別に薪を入れるための大きな開口部が空けられている。
2011年10月05日
火鉢
形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類がある。材質は陶器や木製、金属製のものが多いが珍しい石製のものもある。大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々ある。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。

【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋LB 】
場所
形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類がある。材質は陶器や木製、金属製のものが多いが珍しい石製のものもある。大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々ある。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。

【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋内火鉢 】
熾し方:最初は火つきのいい黒炭から始める。薪と違い新しい炭は下に、熾っている炭はその上におく。炭の断面より皮側が火が移りやすい。ガス火で火を起こす場合は、2-3本の炭を火おこしに入れて火にかけ、炭全体が赤く色づくまで加熱する。炭が暖まったら、十能に入れて運び、火鉢の中央に適当に間隔をあけて並べる。炭の間に空気の通り道を作ると火持ちがよい。灰の上に火のついていない炭をのせ、固形燃料などを使って火をつける方法もある。火がつきづらい場合は、豆炭を使用すると火をおこしやすい。炭から炎があがる状態よりも、炭が赤く色づいている程度の方が持ちが良い。火力の調整は、炭の量の増減や配置、灰のかぶせ加減を調整することによって行う。火を消す場合は火消し壷に入れる。炭を扱うには火箸を用い、使わないときは火鉢の隅の灰に突き刺すなどしておく。五徳を使う場合は、灰の中に2-3cmほど埋め、鉄瓶などを載せても傾かないようにする。五徳は爪を上に向けて使っても、下に向けて使ってもいい。五徳の上に水を張った鉄瓶等をかけておくと加湿器代わりになる。五徳の上に網を乗せ餅などを焼くことができるが、魚などの臭いのきついものを焼くと灰に臭いがつく。長火鉢の場合、銅壷をいれて湯を沸かしたり酒に燗をつけるためにも使われる。

【 堺の火達磨屋さんに置いてあります火鉢 】
火舎・火屋(ほや・かしゃ)は古くは脚の付いた火鉢や香炉をさした。正倉院には最古の現存の火鉢とされる「大理石製三脚付火舎」が収蔵される。一説には香炉を兼ねたものという。
枕草子には火桶と炭櫃の語が現れる。炭櫃(すびつ)は角火鉢で、方形で脚付きの物や備え付けの大火鉢を指した。一説には炉や囲炉裏の意ともいわれる。火桶(ひおけ)は木製の火鉢。本来は桶の意から円形だが、平安時代には方形のものも火桶と呼称した例もある。また火櫃(ひびつ)は木製の角火鉢。炭櫃で火桶である物ともいえる。
「 火鉢wikiより 」

【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋LB 】
場所
形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類がある。材質は陶器や木製、金属製のものが多いが珍しい石製のものもある。大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々ある。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。

【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋内火鉢 】
熾し方:最初は火つきのいい黒炭から始める。薪と違い新しい炭は下に、熾っている炭はその上におく。炭の断面より皮側が火が移りやすい。ガス火で火を起こす場合は、2-3本の炭を火おこしに入れて火にかけ、炭全体が赤く色づくまで加熱する。炭が暖まったら、十能に入れて運び、火鉢の中央に適当に間隔をあけて並べる。炭の間に空気の通り道を作ると火持ちがよい。灰の上に火のついていない炭をのせ、固形燃料などを使って火をつける方法もある。火がつきづらい場合は、豆炭を使用すると火をおこしやすい。炭から炎があがる状態よりも、炭が赤く色づいている程度の方が持ちが良い。火力の調整は、炭の量の増減や配置、灰のかぶせ加減を調整することによって行う。火を消す場合は火消し壷に入れる。炭を扱うには火箸を用い、使わないときは火鉢の隅の灰に突き刺すなどしておく。五徳を使う場合は、灰の中に2-3cmほど埋め、鉄瓶などを載せても傾かないようにする。五徳は爪を上に向けて使っても、下に向けて使ってもいい。五徳の上に水を張った鉄瓶等をかけておくと加湿器代わりになる。五徳の上に網を乗せ餅などを焼くことができるが、魚などの臭いのきついものを焼くと灰に臭いがつく。長火鉢の場合、銅壷をいれて湯を沸かしたり酒に燗をつけるためにも使われる。

【 堺の火達磨屋さんに置いてあります火鉢 】
火舎・火屋(ほや・かしゃ)は古くは脚の付いた火鉢や香炉をさした。正倉院には最古の現存の火鉢とされる「大理石製三脚付火舎」が収蔵される。一説には香炉を兼ねたものという。
枕草子には火桶と炭櫃の語が現れる。炭櫃(すびつ)は角火鉢で、方形で脚付きの物や備え付けの大火鉢を指した。一説には炉や囲炉裏の意ともいわれる。火桶(ひおけ)は木製の火鉢。本来は桶の意から円形だが、平安時代には方形のものも火桶と呼称した例もある。また火櫃(ひびつ)は木製の角火鉢。炭櫃で火桶である物ともいえる。
「 火鉢wikiより 」
2011年09月26日
屋台
屋台(やたい)は、移動式の簡易店舗。簡単な飲食物や玩具などを売る。似た言葉として露店(ろてん)があるが、露店は移動式とは限らず、歩道上に物を並べて販売したり、建物の1階で物を売る店も含まれる。

正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなど様々な屋台が出店する。屋台店とも呼ばれる。このような祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台は的屋と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多い。
屋台は江戸時代に大きく繁栄し、江戸(後の東京)では、握り寿司や蕎麦切り、天ぷらといったすぐに提供できる食べ物が屋台で初めて提供され、現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。
移動式の屋台ではラーメン屋が多く商われている。これは江戸時代の夜鳴きそばに起源を発し、チャルメラをならしながら夜の街を流すため、別名チャルメラと呼ばれることもある。
夜間にのみ営業し、酒類とともにおでん、焼き鳥やどて焼きなど様々な料理を出して営業する屋台もある。屋台特有の雰囲気に誘われるファンは今も多い。

広い敷地に水道を引き多くの屋台を集めた「屋台村」と呼ばれる常設の施設が各地で見られたこともあったが、昨今はあまり見られなくなった。そんな中でも北海道各所や、青森県八戸の屋台村は観光名所にもなり、盛況である。
近年の東京丸の内近郊をはじめとする各都市部では、ネオ屋台と呼ばれる移動販売車のランチタイム販売が好評を博している。商品は弁当中心でエスニック系のものが多く、清潔感と洒落た雰囲気で、女性客も気軽に買える内容となっている。 出店ポイントをネオ屋台村と称して、主にオフィス街の昼食需要に応えている。

福岡市の博多区中洲・中央区天神・長浜地区など、「屋台街」と呼ばれる歩道上に屋台が集合して商売する場所もある。気候の温暖な九州は常設の屋台が夏を挟んで長期間営業が可能な環境にあり、独自の屋台文化を開花させてきた。メニューは豊富で、ラーメンのほかおでん、もつ鍋、焼き鳥、鉄板焼き、天ぷらといったメニューを掲げる店が多い。これらのメニューをつまみに酒を飲み、最後にラーメンを食べるパターンになることが多い。店によってはカクテル専門・西洋料理専門・沖縄料理専門の店などもある。また、最近は店主の好みによって独自メニューの開発を行なって新たな形態を打ち出す例もあり、一方で従来のメニューを伝統的に守る主義の店も多い。
【 屋台wikiiより 】


「 和を追求するSIM : sakai風景 」

正月の寺社や縁日など大きな行事の場所にはたこ焼き、焼きそば、綿菓子、磯辺焼、おもちゃなど様々な屋台が出店する。屋台店とも呼ばれる。このような祭りの縁日等大きなイベントに出店する屋台は的屋と呼ばれる人たちによって営まれている場合が多い。
屋台は江戸時代に大きく繁栄し、江戸(後の東京)では、握り寿司や蕎麦切り、天ぷらといったすぐに提供できる食べ物が屋台で初めて提供され、現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。
移動式の屋台ではラーメン屋が多く商われている。これは江戸時代の夜鳴きそばに起源を発し、チャルメラをならしながら夜の街を流すため、別名チャルメラと呼ばれることもある。
夜間にのみ営業し、酒類とともにおでん、焼き鳥やどて焼きなど様々な料理を出して営業する屋台もある。屋台特有の雰囲気に誘われるファンは今も多い。

広い敷地に水道を引き多くの屋台を集めた「屋台村」と呼ばれる常設の施設が各地で見られたこともあったが、昨今はあまり見られなくなった。そんな中でも北海道各所や、青森県八戸の屋台村は観光名所にもなり、盛況である。
近年の東京丸の内近郊をはじめとする各都市部では、ネオ屋台と呼ばれる移動販売車のランチタイム販売が好評を博している。商品は弁当中心でエスニック系のものが多く、清潔感と洒落た雰囲気で、女性客も気軽に買える内容となっている。 出店ポイントをネオ屋台村と称して、主にオフィス街の昼食需要に応えている。

福岡市の博多区中洲・中央区天神・長浜地区など、「屋台街」と呼ばれる歩道上に屋台が集合して商売する場所もある。気候の温暖な九州は常設の屋台が夏を挟んで長期間営業が可能な環境にあり、独自の屋台文化を開花させてきた。メニューは豊富で、ラーメンのほかおでん、もつ鍋、焼き鳥、鉄板焼き、天ぷらといったメニューを掲げる店が多い。これらのメニューをつまみに酒を飲み、最後にラーメンを食べるパターンになることが多い。店によってはカクテル専門・西洋料理専門・沖縄料理専門の店などもある。また、最近は店主の好みによって独自メニューの開発を行なって新たな形態を打ち出す例もあり、一方で従来のメニューを伝統的に守る主義の店も多い。
【 屋台wikiiより 】


「 和を追求するSIM : sakai風景 」
2011年09月25日
おでん
おでん(御田)は、日本料理のうち、煮物料理の一種。鍋料理にも分類される。出汁を醤油等で味付けしたつゆに、大根、竹輪、コンニャク、ゆで卵など様々な具材を入れて煮込んだ料理である。具材の種類は地域や家庭によって異なる。

室町時代に出現した味噌田楽が原型である。田楽と呼ばれた料理には具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた「煮込み田楽」があり、煮込み田楽は上方では具を昆布だしの中で温め甘味噌をつけて供したが、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになった江戸では、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で煮込むようになり、女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになって、単に田楽といえば味噌田楽をさすようになった。江戸では振売や屋台で売られたが、焼き田楽より予め温めてある煮込み田楽が、味噌をつける味噌田楽よりおでんの方が、江戸の町民には好まれたという。
江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが上方に伝わり「関東炊き」や「関東煮(かんとだき)」と呼ばれるようになった。関東煮の語源については「かんとうふ煮」説や中国の煮込み料理に由来する「広東煮」説もある。「関東煮」は昆布・鯨・牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に変化していった。
その後、関東のおでんは廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが一時期主流となった。そのため、現在東京でも老舗とされる店の中で、薄味の店も少なく無い。1937年(昭和12年)発行の大日本帝国陸軍の調理教本「軍隊調理法」では、本項で述べるおでんが「関東煮」と表記されており、別途「肉味噌おでん」として田楽風の料理が記載されている。
通常のおでんとは異なった種類のおでんとして、コンニャクのみを具とする「こんにゃくおでん」(「味噌おでん」とも呼ばれる)がある。だし汁ではなく湯で煮込んで熱くしたコンニャクに甘い味噌ダレを付けて食べる淡白な食品で、古い時代の煮込み田楽の遺風を残している。

日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に東日本では醤油味の濃い色合い、西日本では薄い色合いが好まれる(ちなみに実際の塩分濃度は醤油の色の濃薄とは無関係)。したがって、おでんに関しても基本的には同様である。ただし、上記のような複雑な発展の経緯があったために、関東で関西風のだしが好まれたり、関西でも濃口醤油を用いたりすることがある。また、関西では、濃い色合いのものを関東煮、薄い色合いのものをおでんと呼び分ける傾向もある。薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方では、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。
北海道
北海道のおでんは、2種存在する。現在、一般的な物は、北海道産のコンブを用いた薄い醤油味。地域特色として海の幸(コンブ・タチ(タラの精巣)・カニ・ツブなど)・山菜(フキ・ネマガリダケなど)がある。縁日の屋台・海の家・雪祭りの飲食店の定番品である生姜風味の甘辛い味噌だれを串おでん(ダイコン・揚げかまぼこ(角天・マフラーなど)・白こんにゃく・ゆでたまご)にかけたものがある。串おでんの具材は、出汁ではなく水で茹でた物に味噌だれをかけた単純なものである。
以前は、手軽に食される串おでんが主流であったがコンビニのおでんの登場により薄い醤油味のものが定番となった。別添えに生姜味噌・和からしの小袋が付属する。現在、生姜風味の甘辛い味噌だれをかけた串おでんは、コンビニおでんでは、販売されない(但し、味噌味の串おでんのレトルト品は、存在する。ファミリーマートでは、「ちび太のおでん」(おでん串)は販売される)。
青森県青森市
ツブ貝、ネマガリダケ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。
静岡県静岡市
静岡市のおでんは濃口醤油を使い鶏ガラ(および牛すじ)でだしを取った長年継ぎ足しの黒いつゆを使用する。はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺し、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。これは「静岡おでん」と呼ばれ、発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」である。葵区にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。また季節を問わず食されており、夏場のプールなどでも販売しており、店によっては冬場より売れる所も存在する。おやつ、酒の肴、おかずと幅広く食されている。
長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。具は豆腐が良く食べられる。
富山県 塩と昆布やかつお節でとっただし汁に、玉子、大根、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこ、すりみなどを入れて煮込み、「白とろろ昆布」や練りからしを添えて食べる。昆布の消費量(一人当たり)日本一の県として、この「白とろろ昆布をのせて召し上がる」を「富山おでん会」としては、「富山おでん」の定義にしているが、富山県で一般的に食されているというわけではない。
愛知県
「味噌おでん」は、八丁味噌をベースとした甘めの汁でダイコン、こんにゃく等の具を煮込む。味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。
兵庫県姫路市
薄味だが、「関東煮(かんとだき)」ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。
香川県
おでんには白味噌ベースの甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。 「うどん店」では、必ずと言っても良いほど副食としてセルフサービス販売されている。
愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。 また、県内の一部の地域ではラーメン屋で提供され、ラーメンの出来上がりを待つ間に食べられている。
鹿児島県
鹿児島県のおでん(味噌おでん)については、味噌おでん (鹿児島風)を参照。
沖縄県
沖縄のおでんは、てびち(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられる。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共にてびちやソーキも具材として採用されている。 また、おでんに沖縄そばを入れる例もしばしばみられ、沖縄ファミリーマートやローソン沖縄では「おでんそば」も販売されている。 薬味には他の地域で一般的な和からしではなく、アメリカ製のマスタードが用いられることも多い。


和の海画像 : sakai_SIM南

室町時代に出現した味噌田楽が原型である。田楽と呼ばれた料理には具を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、具を茹でた「煮込み田楽」があり、煮込み田楽は上方では具を昆布だしの中で温め甘味噌をつけて供したが、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになった江戸では、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛い汁で煮込むようになり、女房言葉で田楽の「でん」に接頭語「お」を付けた「おでん」と呼ばれるようになって、単に田楽といえば味噌田楽をさすようになった。江戸では振売や屋台で売られたが、焼き田楽より予め温めてある煮込み田楽が、味噌をつける味噌田楽よりおでんの方が、江戸の町民には好まれたという。
江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃い出汁で煮た「おでん」が作られるようになり、それが上方に伝わり「関東炊き」や「関東煮(かんとだき)」と呼ばれるようになった。関東煮の語源については「かんとうふ煮」説や中国の煮込み料理に由来する「広東煮」説もある。「関東煮」は昆布・鯨・牛すじなどで出汁をとったり、薄口醤油を用いたりと独自に変化していった。
その後、関東のおでんは廃れていくが、関東大震災(1923年)の時、関西から救援に来た人たちの炊き出しで「関東煮」が振る舞われたことから東京でもおでんが復活することになる。しかし本来の江戸の味は既に失われていたために、味付けは関西風のものが一時期主流となった。そのため、現在東京でも老舗とされる店の中で、薄味の店も少なく無い。1937年(昭和12年)発行の大日本帝国陸軍の調理教本「軍隊調理法」では、本項で述べるおでんが「関東煮」と表記されており、別途「肉味噌おでん」として田楽風の料理が記載されている。
通常のおでんとは異なった種類のおでんとして、コンニャクのみを具とする「こんにゃくおでん」(「味噌おでん」とも呼ばれる)がある。だし汁ではなく湯で煮込んで熱くしたコンニャクに甘い味噌ダレを付けて食べる淡白な食品で、古い時代の煮込み田楽の遺風を残している。

日本では麺類のつゆに代表されるように、一般的に東日本では醤油味の濃い色合い、西日本では薄い色合いが好まれる(ちなみに実際の塩分濃度は醤油の色の濃薄とは無関係)。したがって、おでんに関しても基本的には同様である。ただし、上記のような複雑な発展の経緯があったために、関東で関西風のだしが好まれたり、関西でも濃口醤油を用いたりすることがある。また、関西では、濃い色合いのものを関東煮、薄い色合いのものをおでんと呼び分ける傾向もある。薬味は全国的に練り辛子が主流だが、味噌だれやネギだれなどを用いる地域もある。名古屋を中心とする中部地方では、こんにゃくや豆腐などに八丁味噌をベースにしたたれを付けて焼いたり、それらを湯掻いて味噌だれをつけて食べる田楽(味噌田楽)も健在である。
北海道
北海道のおでんは、2種存在する。現在、一般的な物は、北海道産のコンブを用いた薄い醤油味。地域特色として海の幸(コンブ・タチ(タラの精巣)・カニ・ツブなど)・山菜(フキ・ネマガリダケなど)がある。縁日の屋台・海の家・雪祭りの飲食店の定番品である生姜風味の甘辛い味噌だれを串おでん(ダイコン・揚げかまぼこ(角天・マフラーなど)・白こんにゃく・ゆでたまご)にかけたものがある。串おでんの具材は、出汁ではなく水で茹でた物に味噌だれをかけた単純なものである。
以前は、手軽に食される串おでんが主流であったがコンビニのおでんの登場により薄い醤油味のものが定番となった。別添えに生姜味噌・和からしの小袋が付属する。現在、生姜風味の甘辛い味噌だれをかけた串おでんは、コンビニおでんでは、販売されない(但し、味噌味の串おでんのレトルト品は、存在する。ファミリーマートでは、「ちび太のおでん」(おでん串)は販売される)。
青森県青森市
ツブ貝、ネマガリダケ、大角天(薩摩揚げの一種)など独特の具が入ったおでんに生姜味噌だれをかけて食べる。
静岡県静岡市
静岡市のおでんは濃口醤油を使い鶏ガラ(および牛すじ)でだしを取った長年継ぎ足しの黒いつゆを使用する。はんぺんは焼津産の黒はんぺん、すべての具に竹串を刺し、上に「だし粉」と呼ばれるイワシの削り節や鰹節、青海苔をかけて食べる。これは「静岡おでん」と呼ばれ、発音は静岡市周辺での「静岡」の読み方にならって「しぞーかおでん」である。葵区にはおでん店だけが軒を連ねる飲食店街があり、多くの駄菓子屋でもおでんを販売している。また季節を問わず食されており、夏場のプールなどでも販売しており、店によっては冬場より売れる所も存在する。おやつ、酒の肴、おかずと幅広く食されている。
長野県飯田地方
醤油の出汁で煮た一般的なおでんに、ネギダレ(みじん切りにしたネギを醤油に漬け込みネギのエキスにより粘り気の出たタレ)をかけて食べる。具は豆腐が良く食べられる。
富山県 塩と昆布やかつお節でとっただし汁に、玉子、大根、焼きちくわ、焼き豆腐、かまぼこ、すりみなどを入れて煮込み、「白とろろ昆布」や練りからしを添えて食べる。昆布の消費量(一人当たり)日本一の県として、この「白とろろ昆布をのせて召し上がる」を「富山おでん会」としては、「富山おでん」の定義にしているが、富山県で一般的に食されているというわけではない。
愛知県
「味噌おでん」は、八丁味噌をベースとした甘めの汁でダイコン、こんにゃく等の具を煮込む。味噌の煮汁には豚のモツやバラ肉を入れてどて煮にしたり、味噌カツのたれにされることも多い。また、だし汁ではなく湯で茹でた後、味噌をつけて食する味噌田楽もある。醤油味の汁のおでんについては「関東煮(かんとに)」と呼び、おでんといえば味噌おでんや味噌田楽を指す場合が珍しくなかった。また、具材でも薩摩揚げのことを「はんぺん」と呼ぶことが一般的だったが、最近ではテレビメディアや全国展開するコンビニなどの影響で、関東煮(かんとに)をおでんと言い換え、わずかながらも薩摩揚げとはんぺんを区別するようになった。しかし全てが同じという訳ではなく、通常の醤油味のおでんにも甘い味噌だれを付けて食べることもあるため、コンビニではからしの他に甘い味噌だれの小袋を付けて販売している。
兵庫県姫路市
薄味だが、「関東煮(かんとだき)」ともいう。からしは使わず、しょうが醤油に付けて食べる。きざみ葱を散らすこともある。
香川県
おでんには白味噌ベースの甘い味噌だれ、黄色い辛子味噌などを添える。 「うどん店」では、必ずと言っても良いほど副食としてセルフサービス販売されている。
愛媛県
からしの代わりにおでん用の味噌を付けて食べる。 また、県内の一部の地域ではラーメン屋で提供され、ラーメンの出来上がりを待つ間に食べられている。
鹿児島県
鹿児島県のおでん(味噌おでん)については、味噌おでん (鹿児島風)を参照。
沖縄県
沖縄のおでんは、てびち(豚足)をメインとしており、旬の葉物野菜が添えられる。 コンビニでは本土と同様の一般的なおでんと共にてびちやソーキも具材として採用されている。 また、おでんに沖縄そばを入れる例もしばしばみられ、沖縄ファミリーマートやローソン沖縄では「おでんそば」も販売されている。 薬味には他の地域で一般的な和からしではなく、アメリカ製のマスタードが用いられることも多い。


和の海画像 : sakai_SIM南
2011年09月24日
燗酒
燗酒(かんざけ)とは、加熱した酒のことである。なお、酒自体を加熱する行為のことを、燗(かん)を付ける、お燗(おかん)するなどと言う。ただし、お湯を加えることで酒の温度を上げる行為を燗とは言わず、その場合は、お湯割り(おゆわり)と呼んで区別される。基本的に、燗を行う時、加水(お湯も含む)は行われない。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
燗は、普通、日本酒、または、中国酒の一部を飲む際に行われます。日本酒を加熱したものを燗酒と呼ぶこともありますが、燗が行われるのは日本酒だけではありません。ただし、基本的には醸造酒でしか燗は行われません。また、暑い時期にはあまり行われず、寒い時期に多く行われる傾向にあります。燗は、日本や中国では古くから行われてきた行為であり、現在でも行われる行為ですが、世界的に見ると珍しい行為です。対して、酒のお湯割りは、世界中で行われる行為です。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
【 燗酒の歴史 】
お酒を温めて飲む「燗」は日本酒の特徴の一つですが、お酒を温めたと思われる「暖酒料炭一斛」という記載が、平安時代の延喜式(927年)にあります。また同じ延喜式に、お酒を温めた鍋だとされる「土熬堝(どこうなべ)」という文字も見られます。おそらく直接火にかける「直燗」用の鍋だと思われますが、どのような形をしていたのかは判りません。 平安時代に貴族の間で広く読まれた、中国の白楽天(はくらくてん)の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」には「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という有名な詩句がありますし、「万葉集」の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」には「・・・すべもなく寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒うちすすろいて・・・」と塩をなめながら、お湯でといた酒粕をすすって暖をとる、庶民の姿が歌われています。
また10世紀の「宇津保物語」の蔵開き下の巻に「酒樽に入れて据えてまがり(鋺:えん)して沸しつつ飲む」とあります。お鋺とは貝の器だったらしく、これに酒を入れて火にかけて燗をしたようです。
このようにお酒を温めて飲む習慣は、かなり古くから行われていたようですが、昔は、旧暦の菊の節句(新暦10月初旬頃)より、桃の節句(新暦4月上旬)まで酒を温めて飲んだ、と記載があります。
燗酒を飲んだ主な理由は、暖房器具が現在ほど多くなく、燗酒で簡単に暖を取ったからだと思われます。
二次的な理由として、江戸時代の酒は現在ほど米を精白することができなかったために、温めることで、酒質の悪さをごまかしたのだともいわれています。
そして一年中燗酒を飲む習慣は、燗徳利が酒席に登場した江戸時代後半から一般的になったようです。
【 日本酒の燗における温度 】

【 燗に適した酒 】
味の深い「味吟醸」、「ひやおろし(夏越し)の酒」、「古酒」など、熟成香が少しあり、味がまろやかなものが燗によいとされています。酒を燗すると、味わいを引き立たせ幅を持たせるので、味や香りがよくわかり、熟成した旨味を楽しめます。
逆に生酒や吟醸酒を燗すると、香りがつんつんし、味はピリピリと舌を刺激するなど違和感を感じることがあります。吟醸酒のような香りの高い高級酒は、50度を超す「熱燗」(あつかん)ではせっかくの香味が台無しになります。「人肌燗」から「ぬる燗」にするか、冷やしてその微妙な風味を味わって下さい。
「燗酒wiki他より」

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 場所
※ 今回の画像の徳利、熱燗セットは、りょーさん作 SIM内好評販売中!
【 舞姫・奉納舞動画 2011.1月 】

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
燗は、普通、日本酒、または、中国酒の一部を飲む際に行われます。日本酒を加熱したものを燗酒と呼ぶこともありますが、燗が行われるのは日本酒だけではありません。ただし、基本的には醸造酒でしか燗は行われません。また、暑い時期にはあまり行われず、寒い時期に多く行われる傾向にあります。燗は、日本や中国では古くから行われてきた行為であり、現在でも行われる行為ですが、世界的に見ると珍しい行為です。対して、酒のお湯割りは、世界中で行われる行為です。

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 社務所内
【 燗酒の歴史 】
お酒を温めて飲む「燗」は日本酒の特徴の一つですが、お酒を温めたと思われる「暖酒料炭一斛」という記載が、平安時代の延喜式(927年)にあります。また同じ延喜式に、お酒を温めた鍋だとされる「土熬堝(どこうなべ)」という文字も見られます。おそらく直接火にかける「直燗」用の鍋だと思われますが、どのような形をしていたのかは判りません。 平安時代に貴族の間で広く読まれた、中国の白楽天(はくらくてん)の詩集「白氏文集(はくしもんじゅう)」には「林間に酒を煖めて紅葉を焚く」という有名な詩句がありますし、「万葉集」の山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」には「・・・すべもなく寒くしあれば、堅塩を取りつづしろひ、糟湯酒うちすすろいて・・・」と塩をなめながら、お湯でといた酒粕をすすって暖をとる、庶民の姿が歌われています。
また10世紀の「宇津保物語」の蔵開き下の巻に「酒樽に入れて据えてまがり(鋺:えん)して沸しつつ飲む」とあります。お鋺とは貝の器だったらしく、これに酒を入れて火にかけて燗をしたようです。
このようにお酒を温めて飲む習慣は、かなり古くから行われていたようですが、昔は、旧暦の菊の節句(新暦10月初旬頃)より、桃の節句(新暦4月上旬)まで酒を温めて飲んだ、と記載があります。
燗酒を飲んだ主な理由は、暖房器具が現在ほど多くなく、燗酒で簡単に暖を取ったからだと思われます。
二次的な理由として、江戸時代の酒は現在ほど米を精白することができなかったために、温めることで、酒質の悪さをごまかしたのだともいわれています。
そして一年中燗酒を飲む習慣は、燗徳利が酒席に登場した江戸時代後半から一般的になったようです。
【 日本酒の燗における温度 】

【 燗に適した酒 】
味の深い「味吟醸」、「ひやおろし(夏越し)の酒」、「古酒」など、熟成香が少しあり、味がまろやかなものが燗によいとされています。酒を燗すると、味わいを引き立たせ幅を持たせるので、味や香りがよくわかり、熟成した旨味を楽しめます。
逆に生酒や吟醸酒を燗すると、香りがつんつんし、味はピリピリと舌を刺激するなど違和感を感じることがあります。吟醸酒のような香りの高い高級酒は、50度を超す「熱燗」(あつかん)ではせっかくの香味が台無しになります。「人肌燗」から「ぬる燗」にするか、冷やしてその微妙な風味を味わって下さい。
「燗酒wiki他より」

※ 画像:Japan Graffiti sakai1574 SIM内大神稲荷神社内 場所
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【 舞姫・奉納舞動画 2011.1月 】
2011年09月21日
台風
今年は、自然の猛威よる爪痕被害が大きな年ですね。今週も台風が暴れています。
台風は、太平洋や南シナ海に存在する熱帯低気圧のうち、最大風速(10分間平均)が34ノット(17.2m/s)以上のものを指す。主に北緯2度~北緯40度付近の海上で発生する。

日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称する。フィリピンでは「バギョ(bagyo)」と呼ばれる。
江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書「颶風新話」)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。現在の台風という名は、1956年の同音の漢字による書きかえの制定にともなって、颱風と書かれていたのが台風と書かれるようになったものであるが、その由来には諸説がある。
WMOによる国際分類の定義では、日本の台風とは異なり、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものをタイフーン(typhoon)と呼ぶ。
同様の気象現象は世界各地にあり、それぞれの地方により呼び名が違う。国際分類では、大西洋北部・太平洋北東部・太平洋北中部では、ハリケーン(Hurricane)と呼び、インド洋北部・インド洋南部・太平洋南部では、サイクロン(Cyclone)と呼ぶ。
台風が、国際分類上、熱帯低気圧をハリケーンやサイクロンと呼ぶ区域に進んだ場合には、台風ではなくそれぞれの区域の名称で呼ばれることになる。東経180度より東(西経)に進んだ場合、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものはハリケーンと呼ばれ、34ノット以上64ノット未満のものをトロピカルストーム (Tropical Storm) と呼ばれる。また、マレー半島以西に進んだ場合、サイクロンと呼ばれる。

台風の中心が最も天気が荒れていると考えがちだが、中心付近は暴風が吹き荒れるものの風向きが乱れているために互いに打ち消し合い、最も荒れているわけではない。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなる。
台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上では台風の右側半分を危険半円と呼ぶ。逆に台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために比較的風は弱く、可航半円と呼ぶ。しかし、「可航半円」はかつて帆船が台風の進路方向の左側に入っている場合には右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(帆船が台風の進路方向の右側に入っている場合には右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないように保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
【 台風wikiより 】
「 祈り 第二幕 」2009年舞台動画
台風は、太平洋や南シナ海に存在する熱帯低気圧のうち、最大風速(10分間平均)が34ノット(17.2m/s)以上のものを指す。主に北緯2度~北緯40度付近の海上で発生する。

日本では、古くは野の草を吹いて分けるところから、野分(のわき、のわけ)といい、11世紀初頭の『枕草子』『源氏物語』などにもその表現を見ることが出来る。沖縄のウチナーグチでは「カジフチ(風吹き)」または「テーフー(台風)」と称する。フィリピンでは「バギョ(bagyo)」と呼ばれる。
江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって颶風(ぐふう)と訳した文献(伊藤慎蔵によってオランダ語から翻訳された日本初の気象学書「颶風新話」)があるが、明治の初めにはタイフーンまたは大風(おおかぜ)などと表していた。現在の台風という名は、1956年の同音の漢字による書きかえの制定にともなって、颱風と書かれていたのが台風と書かれるようになったものであるが、その由来には諸説がある。
WMOによる国際分類の定義では、日本の台風とは異なり、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものをタイフーン(typhoon)と呼ぶ。
同様の気象現象は世界各地にあり、それぞれの地方により呼び名が違う。国際分類では、大西洋北部・太平洋北東部・太平洋北中部では、ハリケーン(Hurricane)と呼び、インド洋北部・インド洋南部・太平洋南部では、サイクロン(Cyclone)と呼ぶ。
台風が、国際分類上、熱帯低気圧をハリケーンやサイクロンと呼ぶ区域に進んだ場合には、台風ではなくそれぞれの区域の名称で呼ばれることになる。東経180度より東(西経)に進んだ場合、最大風速(1分間平均)が64ノット以上のものはハリケーンと呼ばれ、34ノット以上64ノット未満のものをトロピカルストーム (Tropical Storm) と呼ばれる。また、マレー半島以西に進んだ場合、サイクロンと呼ばれる。

台風の中心が最も天気が荒れていると考えがちだが、中心付近は暴風が吹き荒れるものの風向きが乱れているために互いに打ち消し合い、最も荒れているわけではない。台風の中心付近の下降気流となっている風や雲がほとんどない区域を台風の目と呼び、勢力が大きい台風ほど明瞭に表れるが、勢力が衰えると判然としなくなる。
台風の目の周囲付近は中心に向かって周囲から吹き込んだ風が強い上昇気流をつくっており積乱雲が壁のように取り囲んでいる(内側降雨帯)。そして、その外周には外側降雨帯が取り囲んでいる。また、台風本体から数百キロ程度離れた場所に先駆降雨帯が形成されることがあり、さらに、この位置に前線が停滞していると前線の活動が活発になり大雨となる。
なお、台風は一般的にその中心よりも進行方向に対して右側(南東側)のほうが風雨が強くなる。これは、台風をめがけて吹き込む風と台風本体を押し流す気流の向きが同じであるために、より強く風が吹き荒れるためである。気象学上では台風の右側半分を危険半円と呼ぶ。逆に台風の左側半分は吹き込む風と気流の向きが逆になるために比較的風は弱く、可航半円と呼ぶ。しかし、「可航半円」はかつて帆船が台風の進路方向の左側に入っている場合には右舷船尾に追い風を受けながら避航できたこと(帆船が台風の進路方向の右側に入っている場合には右舷前側に向かい風を受けながら中心に引き込まれないように保針しなければならなくなる)の名残であり、あくまでも右側半分と比較して風雨が弱いだけであり、可航半円の範囲といえども風雨は強いため警戒を要する。
【 台風wikiより 】
「 祈り 第二幕 」2009年舞台動画
2011年09月17日
秋雨
秋雨(あきさめ)とは、日本において9月中旬から10月上旬にかけて降る長雨のこと(年により差があり、8月下旬や9月上旬でも生じる場合もある)。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、すすき梅雨ともいう。

8月中旬から9月上旬ごろになると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。早いときには8月中旬、普通は8月下旬から9月上旬ごろに寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

9月中旬から下旬ごろになると、寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。10月になると、太平洋高気圧は日本の東から小笠原諸島にかけての海上に完全に後退する。秋雨前線の停滞はまだ続くが、偏西風が日本の上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、晴れも増えてくる。10月中旬から下旬になると、秋雨前線は日本の東海上に抜け、途切れ途切れになって弱まる。このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、からっとした晴れと雨が交互に訪れる、典型的な秋の天気となる。

梅雨とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や温暖前線になったり、前線として現れない気圧の谷となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。
特に秋雨の時期は秋の台風シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって湿暖気流が流れ込み、積乱雲が発達して大雨となり、大規模な水害を引き起こす場合がある。また、上空に寒気が流れ込んだり、収束線が通過したり、低気圧が発達して前線が発達したりすると、大雨になることがある。
また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、正反対となっている。
秋雨前線の場合は通過後に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数℃~十数℃低下して急に冷え込むことがある。また、高山や寒冷地では霙や霰、雪が降ることもある。
梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。
梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、東南アジアから東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺にのみ見られる現象である。
【 秋雨wiki 】

Stabat Mater 2010年夏の終わり動画

8月中旬から9月上旬ごろになると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。
これが秋雨の始まりである。早いときには8月中旬、普通は8月下旬から9月上旬ごろに寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。

9月中旬から下旬ごろになると、寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。10月になると、太平洋高気圧は日本の東から小笠原諸島にかけての海上に完全に後退する。秋雨前線の停滞はまだ続くが、偏西風が日本の上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、晴れも増えてくる。10月中旬から下旬になると、秋雨前線は日本の東海上に抜け、途切れ途切れになって弱まる。このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、からっとした晴れと雨が交互に訪れる、典型的な秋の天気となる。

梅雨とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や温暖前線になったり、前線として現れない気圧の谷となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。
特に秋雨の時期は秋の台風シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって湿暖気流が流れ込み、積乱雲が発達して大雨となり、大規模な水害を引き起こす場合がある。また、上空に寒気が流れ込んだり、収束線が通過したり、低気圧が発達して前線が発達したりすると、大雨になることがある。
また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、正反対となっている。
秋雨前線の場合は通過後に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数℃~十数℃低下して急に冷え込むことがある。また、高山や寒冷地では霙や霰、雪が降ることもある。
梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。
梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、東南アジアから東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺にのみ見られる現象である。
【 秋雨wiki 】

Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
2011年09月16日
秋の雲
うろこ雲・いわし雲・さば雲はどれも秋の季語である。低緯度から高緯度まで広い地域でほぼ年中見られるが、日本では、秋は台風や移動性低気圧が多く近づくため特に多く見られ、秋の象徴的な雲だとされる。

巻積雲(けんせきうん)は雲の一種。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れをなし、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした雲。絹積雲とも書く。また、鱗雲(うろこ雲)、鰯雲(いわし雲)、さば雲などとも呼ばれる。
巻積雲の雲形は、高積雲のそれとよく似ており、判別が難しい。巻積雲と高積雲の見分け方としては以下のようなものが挙げられる。
・雲のできる高さ(巻積雲の方が高い所にできる)
・一つ一つの雲の大きさ(巻積雲の方が小さい。おおむね、天空上での見かけの大きさ(視角度)が1度より小さいものを巻積雲とする。)
・雲の薄さ、光の透過具合(巻積雲の方が薄く、太陽の光が透けるので、影ができない)
巻積雲は、その形によってさらに細かく層状雲、レンズ雲、塔状雲、房状雲に分類されることがある。

高積雲(こうせきうん)は雲の一種。小さな塊状の雲片が群れをなして、斑状や帯状の形をつくり、白色で一部灰色の陰影をもつ雲のこと。まだら雲、ひつじ雲、叢雲(むら雲)とも言う。
巻積雲よりも塊が大きく、はっきりとした白色をしており、下部が灰色になる。雲片の大きさは巻積雲より大きく、天空上の見かけの大きさ(視角度)が約1〜5度の範囲内にあるものを高積雲と分類する。発達して空を広く覆うと、太陽光が遮られて薄暗くなることが多い。

高度 2 〜 7 km 程度にでき、雲を構成する粒は大抵氷の結晶からなるが、巻積雲と違って水滴の場合もある。【 巻積雲・高積雲wikiより 】
Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
巻積雲(けんせきうん)は雲の一種。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れをなし、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした雲。絹積雲とも書く。また、鱗雲(うろこ雲)、鰯雲(いわし雲)、さば雲などとも呼ばれる。
巻積雲の雲形は、高積雲のそれとよく似ており、判別が難しい。巻積雲と高積雲の見分け方としては以下のようなものが挙げられる。
・雲のできる高さ(巻積雲の方が高い所にできる)
・一つ一つの雲の大きさ(巻積雲の方が小さい。おおむね、天空上での見かけの大きさ(視角度)が1度より小さいものを巻積雲とする。)
・雲の薄さ、光の透過具合(巻積雲の方が薄く、太陽の光が透けるので、影ができない)
巻積雲は、その形によってさらに細かく層状雲、レンズ雲、塔状雲、房状雲に分類されることがある。
高積雲(こうせきうん)は雲の一種。小さな塊状の雲片が群れをなして、斑状や帯状の形をつくり、白色で一部灰色の陰影をもつ雲のこと。まだら雲、ひつじ雲、叢雲(むら雲)とも言う。
巻積雲よりも塊が大きく、はっきりとした白色をしており、下部が灰色になる。雲片の大きさは巻積雲より大きく、天空上の見かけの大きさ(視角度)が約1〜5度の範囲内にあるものを高積雲と分類する。発達して空を広く覆うと、太陽光が遮られて薄暗くなることが多い。

高度 2 〜 7 km 程度にでき、雲を構成する粒は大抵氷の結晶からなるが、巻積雲と違って水滴の場合もある。【 巻積雲・高積雲wikiより 】
Stabat Mater 2010年夏の終わり動画
2011年09月13日
紅葉
紅葉(こうよう、もみじ)とは、主に落葉広葉樹が落葉の前に葉の色が変わる現象。
葉の色が赤変することだけを紅葉(こうよう)と呼ぶ。

一般に落葉樹のものが有名であり、秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。また、同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あり、いまだ明らかになっていない。

日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶ。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。ただし、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
紅葉や黄葉が進行する条件は、日最低気温が10℃以下になると進み色付き始めて、さらに5℃以下になると一気に進むとされる。美しい紅葉の条件には「昼夜の気温の差が大きい」「夏が暑く日照時間が長い」「夏に充分な雨が降る」「湿気が少なく乾燥している」などの条件が必要。紅葉の名所にはこの条件をよく満たす山間部が多い。

「もみじ」(旧仮名遣い: もみぢ)の名は、通説として、秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づく、「揉み出るもの」の意(「揉み出づ」の転訛「もみづ」の名詞形)であるという。なお、鹿肉のことを「紅葉肉」と呼ぶのは、獣肉全般の精肉を生業とする「百々獣爺」からきている。
日本では、紅葉の季節になると紅葉を見物する行楽、紅葉狩り(もみじがり)に出かける人が多い。紅葉の名所と言われる箇所は(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)は行楽客であふれる。紅葉をめでる習慣は平安の頃の風流から始まったとされ、特に京都市内では多くの落葉樹が植樹されている。また、「草紅葉」の名所としては四万十川や尾瀬、秋吉台等がある。なお、この場合の「狩り」というのは「草花を眺めること」の意味をさし、平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法があった。
(紅葉wikiより)
「 Milky House - Autumn - 2010より 動画 」
葉の色が赤変することだけを紅葉(こうよう)と呼ぶ。

一般に落葉樹のものが有名であり、秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(こうよう、おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。また、同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あり、いまだ明らかになっていない。

日本における紅葉は、9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶ。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。ただし、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
紅葉や黄葉が進行する条件は、日最低気温が10℃以下になると進み色付き始めて、さらに5℃以下になると一気に進むとされる。美しい紅葉の条件には「昼夜の気温の差が大きい」「夏が暑く日照時間が長い」「夏に充分な雨が降る」「湿気が少なく乾燥している」などの条件が必要。紅葉の名所にはこの条件をよく満たす山間部が多い。

「もみじ」(旧仮名遣い: もみぢ)の名は、通説として、秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づく、「揉み出るもの」の意(「揉み出づ」の転訛「もみづ」の名詞形)であるという。なお、鹿肉のことを「紅葉肉」と呼ぶのは、獣肉全般の精肉を生業とする「百々獣爺」からきている。
日本では、紅葉の季節になると紅葉を見物する行楽、紅葉狩り(もみじがり)に出かける人が多い。紅葉の名所と言われる箇所は(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)は行楽客であふれる。紅葉をめでる習慣は平安の頃の風流から始まったとされ、特に京都市内では多くの落葉樹が植樹されている。また、「草紅葉」の名所としては四万十川や尾瀬、秋吉台等がある。なお、この場合の「狩り」というのは「草花を眺めること」の意味をさし、平安時代には実際に紅葉した木の枝を手折り(狩り)、手のひらにのせて鑑賞する、という鑑賞方法があった。
(紅葉wikiより)
「 Milky House - Autumn - 2010より 動画 」
2011年08月27日
水墨画
水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。

日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。
墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。
平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。

室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺の画僧・明兆(みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿(もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。
(水墨画wikiより)

【 大神 アマテラス画像 】

2011年9月11日(日)22:00 みるきー舞姫公演開催

日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。
墨一色で表現した絵画は、日本では正倉院宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。
平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。

室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよいであろう。足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出した。また、東福寺の画僧・明兆(みんちょう)は、濃彩の仏画から水墨画まで幅広い作品を制作した。8代将軍足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿(もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれていたことが、20世紀後半以降の研究で明らかになっている。
(水墨画wikiより)

【 大神 アマテラス画像 】

2011年9月11日(日)22:00 みるきー舞姫公演開催
