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2011年10月10日

いいちこ

いいちこは、大分県の酒造メーカー、三和酒類より1979年(昭和54年)から発売されている麦焼酎の銘柄です。

場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR 

大麦と麦麹を使った、華やかな香りで軽い口当たりの焼酎で、「新本格焼酎」を謳っている。アルコール度数に30度、25度、20度と異なる種類がある他、熟成期間を長くした「いいちこスーパー」、麦麹のみを使用した「いいちこフラスコボトル」、新品種の麦を用いた「西の星」などの銘柄もある。


商品名の「いいちこ」は三和酒類のある大分県の方言で「いいですよ」を意味し、愛称である「下町のナポレオン」とともに地元紙における公募により決定された。



かつての三和酒類は日本酒酒造メーカーで、酒類の生産および消費はともに冬に集中しており、逆に言えば三和酒類も多忙なのは生産期のみであった。昭和40年代に入って大手日本酒酒造メーカーが九州に進出すると日本酒の価格競争が激化してきたため、その苦境から脱するために同社は焼酎製造に参入、当初は苦戦しかなり屈辱的なことであったが、やがて香りがきつく濁りのあった従来の麦焼酎の難点を解消した焼酎の開発に成功する。同社は公募で「いいちこ」と名付けられた焼酎を問屋流通路を基盤に販路を拡大させ、当時起こった焼酎ブームにより人気を博することとなる。



1986年(昭和61年)、焼酎乙類に原料表示が義務付けられた。当時「いいちこ」以外にも焼酎には砂糖が使用されているものが多く、三和酒類も使用を続けるかどうか判断を迫られた。使用を中止するメーカーが出る中、同社は消費者の求める味を変えるべきではないと考え、あえてしばらくの間砂糖を使用し続けた。批判を受けたものの、逆に売り上げが伸びる結果となった。しかし同時に砂糖の代替となるものを開発しようと研究を行った結果、砂糖を使用せずに同様の隠し味を出せるようになり、「フラスコボトル」誕生のきっかけともなった。

【 いいちこCM 曲:今は、このまま 】



場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR 
  


Posted by hidesun(英寸) at 11:20Comments(0)和文化

2011年10月09日

月桂冠

月桂冠株式会社(げっけいかん)は、日本酒を中心に各種の酒類を製造する酒造会社。同社が製造する日本酒の銘柄名でもある。勝利と栄光を意味する月桂冠を由来として名付けられた。



明治時代以降、急速に全国展開し、灘の白鶴酒造とともに、日本最大の酒造メーカーとなった。戦後、業界に先駆けて、一年を通して醸造可能な「四季醸造蔵」を建設し、大量の酒を供給することに成功したことでも知られる。コーポレートブランドコンセプトは「For Your Lifestyle Taste うるおいをあなたと」で、基本理念は「健をめざし 酒を科学して 快を創る」となっている。





創業が他業界と比べて非常に古いといわれる日本酒業界の中でも、月桂冠の歴史は古く、創業は1637年にまで遡る。1867年の鳥羽・伏見の戦いでは、酒蔵などが被害を受けるものの、本宅が被害を受けずに済み、廃業を免れたという歴史的な経緯もある。明治時代以降は、全国的な清酒メーカーとして発展した。
数十年以上の長きにわたり日本酒メーカーのトップシェアを誇ってきた月桂冠であるが、2002年に白鶴酒造に追い抜かれた。京都における名門企業であり、伝統企業の国際組織である「エノキアン協会」(1981年結成 本部パリ 団体名は旧約聖書に登場するアダムの孫エノックから)に加盟している。協会への入会の条件として、「創業200年以上の歴史」、「同族経営」、「業績良好」の3条件を全て満たさなければならず、日本で条件が満たせたのは月桂冠を含めて5社であった(他には法師、虎屋、岡谷鋼機、赤福)。社長は代々大倉家から出される。また、株式会社ではあるが、サントリーや竹中工務店・ロッテなどと同様に非上場の企業としても有名である。堅実な経営を脈々と続けてきたことで知られ、一貫する経営方針やその経営内容は大企業でも参考にするものが多い。ロゴは月桂樹の葉を環状にしたものが主流であったが、近年CMなどでは、月桂樹の葉を近代的に改良したロゴを使用している。かつては「お酒の王様・月桂冠」(1970年代頃)、「日本の酒・月桂冠」(1980年代頃から)というジングルが流れていたこともある。



月桂冠大倉記念館
昔の酒蔵を改造し伝統的な酒造工程やその用具などを展示する博物館。展示物には京都市の有形民俗文化財に指定されているものもある。館内ではプラムワインや吟醸酒などの試飲をするスペースがあり、また、成人の入館料はお酒のおみやげ一本つきというシステムである。近隣には、十石船の乗り場があり、春・秋のシーズンには、景色を楽しむ観光客で賑わいを見せる。
【 月桂冠wiki 】



【 月桂冠CM 花鳥風月 】



場所:Japan Graffiti sakai SIM   


Posted by hidesun(英寸) at 17:21Comments(0)和文化

2011年10月08日

かまど

調理などで煮炊きをする場合、古くは囲いの無い直火に鍋などを加熱する方式によって食品の加熱調理が行われていたが、周辺に熱が放射などの形で逃げる他、煤煙が漂う・火が風で揺らぐなど効率が悪いため、土、石、セメントで作られるかまどが発明された。


これらでは木(薪)といった直接的なバイオマス燃料や、炭などのバイオマス加工燃料が固形の燃料として用いられる。また地域によっては石炭や家畜の乾燥させた糞が利用される場合もある。
このかまどの発達により、調理者は裸火による直接的な放射熱に晒されなくてすみ、より高温の炎で調理することが出来るため調理時間の短縮にも繋がり、また調理方法も様々なバリエーションを生むようになり、今日ある調理方法のほとんどは、このかまどによってその原型が確立された。
更に言えば、かまどの発達は文明の発達に大きく寄与したとも考えられる。調理の一極化や専門化を生み、かまどを中心に人が集中するようになり、従来の炉が調理に手間が掛かっていたために食が賄える人の数はそれほど多くなかったのに対し、かまどでは高温での連続集中調理で多くの人の食事が賄え、これにより人口の集中が発生、そこに文明が育まれた。
しかし次第に文明が発達していく中で、調理用の熱源としてガスコンロのような他の燃料による簡便な調理用の炉が利用されるようになると、次第にその役目を終えてかまどは姿を消していった。現在の日本では、一部を除いてほとんど利用されなくなっており、地方農村でも埃をかぶるに任せられている。

【 Japan Graffiti sakai SIM 内 】







もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、今日でもキャンプなどの飯盒による調理などでおなじみだが、既に石器時代にはそのような炉が登場していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、地床炉が用いられるケースが多く、弥生時代後期から古墳時代前期までは炉の上におかれた器台のついた台付甕が用いられていた。かまどについては、弥生時代終末期に独自発生した、あるいは、朝鮮半島から技術が伝播したという説もあるが、『古事記』などの仁徳天皇の説話にみられるように古墳時代中期に、いわゆる登り窯(窖窯)に似た構造から、おそらく須恵器の焼成技術とともに伝来したと推定されている。



日本では、神社やお堂などの公共の場に祭事の炊き出しや暖を取る事を目的としたかまどが併設されている事がある。さらに釜で沸かした湯で邪気を払う「湯立神事」のため、かまどを設ける場合もある。愛知県の奥三河地方や長野県の伊那地方には鎌倉時代より伝統的な祭り「花祭」が伝承されている。祭りの際はかまどを築いて湯を沸かし、クライマックスで鬼に扮した踊り手が舞う中、湯が振り撒かれ、邪気を払う。
「 かまどwikiより 」  


Posted by hidesun(英寸) at 15:49Comments(0)和文化

2011年10月07日

囲炉裏

囲炉裏とは、伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のこと。主に暖房・調理目的に用いる。数える際には「基」を用いる。古くは、比多岐(ひたき)や地火炉(じかろ)とも言った。


囲炉裏は炊事専門のかまど、属人的な火鉢とともに、日本の伝統家屋の火の座を構成した。日本の伝統的な民家は床敷きの部位と土間の部位が大黒柱を軸に結合した形態を取り、囲炉裏が切られるのは多くの場合床敷きの部位の中央である。しかし、地域によっては床敷き部分の土間よりの辺に接して切る場合もある。南部の曲り屋に見られる「踏み込み炉」は土間囲炉裏の典型で、農作業中に土足のまま囲炉裏の周りに腰掛けられる作りとなっている。また、東北地方などの寒冷地には掘り炬燵のように足を下ろせる深い囲炉裏もある。囲炉裏は生活にかかせないものとして発展し各地方特有の形態を持つ。

家によっては複数の囲炉裏が存在し、身分により使う囲炉裏が分けられていた。囲炉裏が2つある場合、薪を燃料とした家族の囲炉裏と木炭を燃料とした客人用の囲炉裏とを使い分けることもあった。また、煙のでない木炭の囲炉裏では贅沢な自在鉤や茶釜を用いることも多かった。 現在では大きな火鉢や木製のテーブルの中央で炭火を熾す座卓を囲炉裏と称することが多いが、本来的に囲炉裏は移動できない設備であり、移動のできるものは火鉢と称する。

地方により特有の形態を持つ囲炉裏は、当然のことながらその呼び名も地方により異なり、相当な数の呼び名があったと思われる。 現在に残るものとして、炉、地炉、ヒジロ、ユル、ユルイ、ユルリ、イナカ、エナカ、ヘンナカ、エンナカ、イリリ、イレ、シタジロ、スブト、ジリュ、などがある。
燃料はかまどと異なり、火力よりも火持ちのよさが重視される。現代家屋では煙の出ない炭火が用いられることが多いが、古くは民家ではコストのかかる炭火はむしろ火鉢専用であり、囲炉裏では大割りした薪が用いられることが多かった。地方によっては切り株を掘り起こしたものを細かく割らずにくべることもあった。山中で無償で入手できる薪に比べ、木炭は貴重な存在であった。
火を扱う場であるため、火の神を祀ることも多かった。
茶室にも囲炉裏に良く似た火の座があるが、茶道では「炉」と称し、畳の間に切る。寸法も一尺四寸(42.42cm)あるいは裏千家の大炉の場合でも一尺八寸(54.54cm)四方で、一般的な囲炉裏よりはるかに小さい。


【 Japan Graffiti sakai SIM 大神稲荷拝殿裏住居内 】場所





暖房
部屋の中央付近に置かれ、部屋中を暖める。
調理
囲炉裏では自在鉤や五徳を用いて鍋を火にかけ、炊飯をはじめあらゆる煮炊きを行なった。また魚などの食材を串に刺し火の周囲の灰に立てたり、灰の中に食材を埋めて焼くことも多い。徳利を灰に埋めて酒燗することもある。ちなみに北陸地方に竈(かまど)が作られるのは昭和30年代が中心で、それまではあらゆる煮炊きを囲炉裏で行なっていた。温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれている。
照明
火が主要な照明であった近世以前、囲炉裏は安全に部屋を照らすことのできる手段だった。古くは炉辺の明かし台で松明を燃やして手元の明かりとした。また照明専用具として油や蝋燭がありはしたが、いずれも庶民にとっては高価なものであった。
乾燥
火棚を組み、衣類・食料・生木などの乾燥に用いた。また、着物掛けを炉辺に置いて濡れた着物を乾かした。
火種
マッチなどによる着火が容易でない時代、囲炉裏の火は絶やされることなく、竈(かまど)や照明具の火種として使われた。
家族のコミュニケーションの中心
食事中、夜間は自然と囲炉裏の回りに集まり、会話が生まれる。通常家族の成員の着座場所が決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能も重要であった。囲炉裏の周囲の着座場所の名称は地方によって異なるが、例えば横座、嬶座 (かかざ)、客座、木尻または下座 (げざ)といったものが挙げられる。この機能は縄文時代の竪穴式住居の中央に設けられた炉以来引き継がれてきた日本の民家の基本構造とも言え、現代建築では炬燵にその機能が一部継承されている部分があるが、今日では家族団欒そのものが衰退しつつあるとする見方もある。
家屋の耐久性向上
部屋中に暖かい空気を充満させることによって、木材中の含水率を下げ、腐食しづらくなる。また薪を燃やすときの煙に含まれるタール(木タール)が、梁や茅葺屋根、藁屋根の建材に浸透し、防虫性や防水性を高める。ただし、家の中に煙が充満することで眼病などの原因にもなる。
「 囲炉裏wiki 」
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年10月06日

七輪

七輪(しちりん)は「七厘」とも書く。木炭や豆炭を燃料に使用する調理用の炉である。関西ではかんてきとも言う。


【 Japan Graffiti sakai SIM 火達磨さん 】場所

七輪は軽量かつコンパクトで移動が容易な調理用の炉である。形状は円筒形、四角形、長方形が主で、大きさも様々で、用途に応じて多品種生産されている。原料は主に珪藻土で、微細な中空構造を持ち断熱性が高いため保温効果が極めて高く、本体は熱く焼けないため持ち運びに便利である。赤外線の発生量も多く熱効率が極めて高いため、燃料を節約できるという利点がある。



囲炉裡や火鉢で火の熾った木炭や炭団を、長屋や屋台で携行し、少ない木炭消費で安全に長時間の煮炊きが出来るよう、町人文化の中で生まれ工夫改良されてきたものが日本独特の「七輪」である。燃焼室が皿状で浅い江戸期の七輪の形状を見ても、七輪単体で火熾しすることは当時は前提とされていなかった。

土間や野外などに直接置いて火床を囲う程度の持ち運び可能な土師製の炉は古代よりあったものと考えられるが、高床式木造建築の内部に持ち込み、屋内での使用に堪えうる「置き炉」としては平安時代のものが確認できる。これらは元は香炉や祭壇など宗教的祭具として屋内に持ち込まれたであろうものが、手あぶりなど採暖用途として、そして屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものと考えられる[1]。

現在のものとほぼ同様の構造のものは江戸時代に作られていたといわれ、日本人が通常「七輪」と考える焜炉は珪藻土を焼成して作られたものであるが、珪藻土を使用した円筒形のものが普及したのは戦後であり、江戸時代に日本各地の窯で作られたものは粘土(土師:はじ)製のものが中心であった。江戸では今戸の今戸焼が著名であり、瓦(かわら)焼窯の職人達が副製品として供給し普及したとされる。今戸焼はおおむね箱形であったようである。



円筒形の七輪は炊飯や煮炊きに使いやすく、このころの主流であったが、焼き物が主体となった近年では、横長の長方形の七輪の普及が目立つ。屋内外問わず使用され、近年では七輪を使用した炭火料理店も多い。

昔ながらの製法で珪藻土の塊を切り出し削って作ったものを「切り出し七輪」といい、これに対して珪藻土を粉砕し、粘土状にしたものを金型でプレス成型した「練り物製品」がある。切り出し七輪は職人による加工手間が多く、高価であるのに対し、練り物製品は量産しやすく安価で一般に普及している。特殊な形状として、薪を燃料として利用出来る「薪七輪」がある。通風口とは別に薪を入れるための大きな開口部が空けられている。  
タグ :七輪sakai


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年10月05日

火鉢

形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類がある。材質は陶器や木製、金属製のものが多いが珍しい石製のものもある。大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々ある。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。

【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋LB 】
場所

形状により長火鉢、角火鉢、六角火鉢、丸火鉢などの種類がある。材質は陶器や木製、金属製のものが多いが珍しい石製のものもある。大きさも数人がかりで動かす大名火鉢から、手あぶりと呼称される小形火鉢まで様々ある。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された唐金(金属)製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られた。


【 Japan Graffiti sakai SIM 両替屋内火鉢 】

熾し方:最初は火つきのいい黒炭から始める。薪と違い新しい炭は下に、熾っている炭はその上におく。炭の断面より皮側が火が移りやすい。ガス火で火を起こす場合は、2-3本の炭を火おこしに入れて火にかけ、炭全体が赤く色づくまで加熱する。炭が暖まったら、十能に入れて運び、火鉢の中央に適当に間隔をあけて並べる。炭の間に空気の通り道を作ると火持ちがよい。灰の上に火のついていない炭をのせ、固形燃料などを使って火をつける方法もある。火がつきづらい場合は、豆炭を使用すると火をおこしやすい。炭から炎があがる状態よりも、炭が赤く色づいている程度の方が持ちが良い。火力の調整は、炭の量の増減や配置、灰のかぶせ加減を調整することによって行う。火を消す場合は火消し壷に入れる。炭を扱うには火箸を用い、使わないときは火鉢の隅の灰に突き刺すなどしておく。五徳を使う場合は、灰の中に2-3cmほど埋め、鉄瓶などを載せても傾かないようにする。五徳は爪を上に向けて使っても、下に向けて使ってもいい。五徳の上に水を張った鉄瓶等をかけておくと加湿器代わりになる。五徳の上に網を乗せ餅などを焼くことができるが、魚などの臭いのきついものを焼くと灰に臭いがつく。長火鉢の場合、銅壷をいれて湯を沸かしたり酒に燗をつけるためにも使われる。


【 堺の火達磨屋さんに置いてあります火鉢 】

火舎・火屋(ほや・かしゃ)は古くは脚の付いた火鉢や香炉をさした。正倉院には最古の現存の火鉢とされる「大理石製三脚付火舎」が収蔵される。一説には香炉を兼ねたものという。
枕草子には火桶と炭櫃の語が現れる。炭櫃(すびつ)は角火鉢で、方形で脚付きの物や備え付けの大火鉢を指した。一説には炉や囲炉裏の意ともいわれる。火桶(ひおけ)は木製の火鉢。本来は桶の意から円形だが、平安時代には方形のものも火桶と呼称した例もある。また火櫃(ひびつ)は木製の角火鉢。炭櫃で火桶である物ともいえる。
「 火鉢wikiより 」  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年10月04日

亥の子

亥の子は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面をついて回る、などがある。



歴史的には、古代中国で旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説や、古代における朝廷での事件からという伝承もある。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる。

【 亥の子餅 】
旧暦10月亥の日亥の刻に食べる。餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある。



旧暦10月の亥の日の夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たちが集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さも1kg~10kg程度と地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦10月10日に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる。 石を搗いた後は各家庭の庭先に石の形に半球の穴がのこり、大きいほど喜ばれた。またその風景が初冬の風物詩であったが、近年はコンクリートなどで舗装している場合がほとんどで、小さな畳を持ち運びその上で搗いたり、空中で搗く動作だけを行ったり、引き合うことでこすったりする地方もある。

  


Posted by hidesun(英寸) at 20:47Comments(0)和の暦

2011年10月02日

秋の堺(sakai)

2011年秋のJapan Graffiti sakai SIM風景です。

SIM全体が色深く、和の歴史の深さを感じさせてくれる場所です。南北の海側には、遊郭を思わせる街並と古いお寺が建築中です。

大神稲荷神社画像


大神稲荷神社 東側


堺南海側に制作中のお寺①


堺南海側に制作中のお寺②


茶屋・着物屋「菟月さん」の庭


大神稲荷神社①


大神稲荷神社②


大神稲荷神社③


堺 長屋風景


堺 繁華街?w


堺 小川付近


堺 着物通り


大神稲荷神社と菟月さんの間の小道


大神稲荷神社 東側


撮影場所 : Japan Graffiti sakai SIM  


Posted by hidesun(英寸) at 20:43Comments(0)

2011年10月01日

神無月

日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、現在では新暦10月の別名としても用いる。



醸成月(かみなんづき): 新穀で新酒を醸す月
神嘗月(かんなめづき): 新嘗(にいなめ)の準備をする月
神な月(かみなづき):「神の月」の意
雷無月(かみなしづき):雷のない月



神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」とする事である。
また、出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めたと俗説とされる。
出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。
旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われる。その後、旧暦10月11日から17日まで出雲大社で会議が行われるとして、その間「神在祭」が行われる。旧暦10月18日には、各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われる。出雲大社の荒垣内には、神々の宿舎となる「十九社」がある。日御碕神社(出雲市大社町)・朝山神社(出雲市朝山町)・万九千神社(斐川町)・神原神社(雲南市)・佐太神社(松江市鹿島町)・売豆紀神社(松江市雑賀町)・神魂神社(松江市大庭町)・多賀神社(松江市朝酌町)でも神在祭にまつわる神事が行われる。出雲地方のほかに神在月とする地域が一ヶ所あり、諏訪大社の周辺となっている。これは伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。



出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習があった。
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある。出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになった。一般に留守神には恵比須神が宛てられ、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある。鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去において神無月に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されているものがある。



誕生石 - オパール、トルマリン
星座 - 天秤座(10月23日頃まで)、蠍座(10月24日頃から)
誕生花 - 菊、コスモス、ガーベラ、クルクマ




場所:Japan Graffiti sakai SIM   


Posted by hidesun(英寸) at 20:10Comments(0)和の暦