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2011年10月31日

湯屋

家康が江戸入りした翌年、天正十九年(1591)に 江戸の銭瓶橋(ぜにかめばし)に湯屋の第一号が開業しました。 しかし、この頃の湯屋は蒸し風呂でした。 その後、戸棚風呂というものが一時的に流行します。これは引き戸を開けて中に入り、また閉めるもので、湯の深さも一尺ほどしかなく 、腰から下だけつかるものでした。その後登場するのが石榴口(ざくろぐち)の風呂です。


「千と千尋の神隠し」湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める温泉旅館の湯屋「油屋」

関西では銭湯を風呂といい、江戸では湯屋(ゆうや)といいました。 上方では「大和湯」、「扇湯」、「桜湯」などと店に名がつけられていましたが、江戸では「檜町の湯」、「堀江町の湯」などと町名をつけて呼んでいました。町人や商人の家に風呂はなく、みんな銭湯に行きました。江戸一番の呉服屋「越後屋」でさえ風呂はなかったそうです。

下の絵は鍬形ケイ斎の『近世職人尽絵詞』中の湯屋の図です。画面左手前に番台(高座)、右奥に湯くみの姿が見えます。縞の着物の男は盗難防止用の木札が付いた鋏で爪を切り、画面右手前の男は紐に吊された櫛を使っています。また中央には軽石で踵(かかと)をこする男の姿も見えます。


戸棚風呂
江戸の初期、一時的に流行したのが戸棚風呂です。 引戸を開いて中に入り、また引戸を閉めます。中の湯は一尺(30センチ)ほどしかなく腰から下だけしかつかることが出来ませんでした。中で温まって垢が浮いたところで洗い場へ出て体を洗いました。
『守貞謾稿』には 「戸棚風呂と云ふ物、三都には稀なれども、他国の銭湯には往々これあり。予、兵庫にて入りしことあり。また江戸にて薬湯にて往々これを見る。浴槽はなはだ浅く、湯やうやく尺ばかり。膝をひたすのみなれば、引き違ひ戸を用ひて湯気を洩らさざらしむ。」とあります。

据え風呂
居風呂、または水風呂とも書き、蒸風呂に対する名称です。 江戸では燃料の薪代が高く、それに加え、水を確保するための井戸を掘るのには一基二百両もの費用がかかりました。吉原の遊郭でさえ掘抜井戸が出来たのは享保11年(1726年)、一般の高級町家に掘抜井戸が出来はじめたのは文化年間(1810年頃)になってからだそうです。京坂の据風呂は五右衛門風呂と呼ばれる釜風呂でしたが、江戸では鉄砲風呂が一般的でした。左の図は歌麿の筆による据風呂の図です。図の右端にわずかに見えている黒い部分が「鉄砲」と呼ばれる部分です。鉄、銅製の筒を桶のなかに入れて火を焚くもので、うっかり鉄砲にさわって火傷することもありました。

行水
夏は汗疹(あせも)を防ぐためと湯銭を節約する意味もあって、裏庭に盥(たらい)をおき朝から水を溜め陽気の熱で温まった夕方に湯浴みをしました。浮世絵にも行水をする女性の姿がよく描かれています。

五右衛門風呂
文禄四年(1595)、に捕らえられ、釜ゆでの刑に処された大盗石川五右衛門の説話にちなんで名付けられた据え風呂です。底に板を沈めその上に乗って入ります。入浴者のいない時は、その板が蓋の代用となって湯がさめるのを防ぎます。

辻風呂
水上生活者などのために浴室を設けた舟が巡回して営業しました。これを「湯舟」と呼びました。人目を避けるため、男女の密会にも使われたようです。



吉原も揺るがした湯女風呂
徳川家康が江戸入りし、開発の進む中、建設に従事する労働者にとって砂塵や汗を洗い流す大衆浴場は必要不可欠なものとなりました。 労働者の大半は男ですから、男が集まるところに「女」は付きもので、やがて銭湯にもあやしげな気配が漂ってきます。 それが「湯女風呂」です。 『慶長見聞集』には湯女風呂について次のような記載があります。
「今は町ごとに風呂あり。びた拾五文廿銭ずつにて入る也。湯女といいて、なまめける女ども、廿人、三十人と並びいて、垢をかき、髪をそそぐ。 さてまた、その他に容色よく類なく、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云いて持来りたわむれ、浮世がたりをなす。こうべをめぐらし一度笑めば、百のこびをなして男の心をまよわす。」

湯女をおく風呂屋は朝から始業して、夕は七ッ時(午後4時頃)に一旦仕舞いました。そのあと再び身支度をして、風呂場の洗い場の格子の間を座敷にこしらえ金屏風を立て、灯をともして衣服を着替えた湯女たちが三味線を弾き、小唄を歌って、客を集めました。 『洞房語園抄語』には 「寛永十三年(1636)のころより、町中に風呂屋というもの発興して遊女を抱えおき、昼夜の商売をしたり。これよりして吉原衰微しける。

  


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2011年10月30日

霜月まつり~千と千尋の神隠し

日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。


誕生石 - トパーズ
星座 - 蠍座(11月22日頃まで)、射手座(11月23日頃から)
誕生花 - 椿、クリスマスローズ

霜月まつり
日本の古き良き伝統行事を今に伝える地域・遠山郷。 この地域を代表するお祭りが「霜月祭り」です。 毎年12月に地域内の複数の神社で、神に捧げる舞や祈祷が夜通し催されます。 遠山郷には日本の伝統文化が息づいています。



赤石山地西麓を走る中央構造線に沿って連なる細長いV 字状の峡谷、ここが霜月まつりを伝えている遠山郷です。
遠山郷は西に伊那山脈、東に赤石山脈、それぞれの崩壊土壌によって農耕地が形成され、集落はそれらの斜面や河川の流域に点在しています。
こうした環境と生活の厳しさが、厚い信仰を育み素朴で優雅な霜月まつりを現在に伝える風土をつくりました。

遠山郷は古来、信濃国伊那郡江儀遠山の庄と言われ、歴史のなかで最初に顔を出すのは、文治二年(1186)に編まれた「吾妻鏡」においてです。南アルプスの山々に雪が白くかかる頃、祭り笛が谷を流れます。里人が待ちわびた年一回の神と人間の出会いの夜です。煮えたぎる神々の湯を浴びて、里人たちは身を清め、春まく種も稔り豊かに、平和で豊かな里であることを祈願するのです。


『千と千尋の神隠し』の原点、遠山霜月まつり


霜月祭りは「神様にお湯を差し上げる」祭りであるといわれます。あえて学問的に言うなら、「湯を浴びて穢れを祓い、清らかな魂を得て生まれ変わる」祭りです。 つまり全国の神々は、一年の垢を落としてリフレッシュしたいがために、手ぬぐい片手にはるばる遠山までやってくるわけです。 神々にとって霜月祭りの舞殿は、まさしく最高の銭湯です。・・・もっとも、湯上りの神様を待っているのは牛乳ではなく、ダイコンもしくは豆腐のカスですが。 千尋は、銭湯「油屋」での体験を経て、たくましく生まれ変わります。 彼女の活躍を見守ったわたしたちも、「良かった~」と感動で顔を上気させながら、スクリーンを後にします。映画館から出てきた直後は、見慣れたはずの町の風景が、なんだか新鮮に感じられます。銭湯・映画館・霜月祭り。どれもみな、一種の「生まれ清まり」の場なのかもしれません。

尋は暗い通路を抜けて、神の世界へと迷い込みます。遠山郷の場合でも、村に入るためには必ずトンネルを抜けなければなりません。 照明がなく片側通行の狭いトンネルもあり、これらは昔ながらに「隧道」と呼んだほうがしっくりきます。こうした隧道たちが、「秘境遠山郷」の演出に一役買っていることは間違いないでしょう。

トンネルは、この世とあの世(=異界)をつなぐ通路。


トンネルのあちらとこちら、どちらがこの世でどちらのあの世かは、人それぞれ違うでしょう。 けれどトンネルがしばしば「産道」にも例えられることを考えれば、日本最大の山脈に抱かれた遠山郷は、母なる大地の「子宮」にあたります。だからこそ、「生まれ清まり」の霜月祭りがこんにちまで伝承されている、のかもしれませんね。

  


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2011年10月29日

宿場

宿場(しゅくば)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された町場をいう。宿駅ともいい、古代、奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていった。また、宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。

堺(Japan Graffiti sakai SIM)場所

近世の宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津迄を53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置された訳ではなく、順次整備されて最後に庄野宿が出来たのは、1624年(寛文元)だった。 宿場では公用人馬継立ての為定められた人馬を常備し、不足の時には助郷を徴するようになった。また、公武の宿泊、休憩の為問屋場、本陣、脇本陣などが置かれた。これらの公用の為の労役、業務については利益を上げる事は難しかったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与等種々の特典を与えるこ事よって、宿場の保護育成に努めた。他に一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店等が立並び、その宿泊、通行、荷物輸送等で利益を上げた。また、高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道開通等によって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。



宿場の諸施設

問屋場 - 人馬の継立、助郷賦課等の業務を行った。
本陣 - 武士や公家用が宿泊・休憩をした。商業的な宿泊施設ではなく、その地の有力旧家の邸宅が本陣として指定される事が多かった。
脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いている時は一般旅行者も泊めた。
旅籠 - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。
木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設。
茶屋 - 旅人向けの休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っている店。
商店 - 旅人向けに商いをする店。
高札場 - 幕府からの禁制や通達事項などを標した高札を掲げた場所。
枡形(ますがた) - 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所。もともとは有事の際に敵を迎え撃つための設備である。
木戸 - 宿場の端(見附付近)に設けられ、木戸と木戸の間(見附と見附の間)が宿場町とされた。木戸の他に常夜灯が設置されている場合もあった。また殆どの場合、夜間は防犯等の目的で閉鎖されていた。

  
タグ :宿場sakaki


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2011年10月28日

関所

関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。


古代

飛鳥時代の646年(大化2年)、改新の詔に「関塞」(せきそこ)を置くことが記されており、これが日本における関所の始まりと考えられている。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が畿内を防御するために特に重視され、これを三関という。鈴鹿関から東は東国または関東と呼ばれた。平安時代中期以後は、愛発関に代わり、逢坂関が三関になった。
三関のほか、東海道の駿河・相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には勿来関、東山道の信濃・上野両国境には碓氷関、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関、北陸道の越後・出羽両国境には念珠関がそれぞれ設置された。このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。



中世

中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家がおのおの独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。
関所は中世の交通における最大の障害であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭を納めた通行者に対して通行の安全を保護する義務を負った。関銭は設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。
戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は否定され、次第に減少していった。天下統一事業を遂行した織田信長・豊臣秀吉は、関所の廃止を徹底して実施した。



近世・近代

江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。主な関所には、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。これらの関所は幕府直営では無く近隣の大名や旗本などに業務委託されていた。関所の番人は陪臣身分ではあったが幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から上方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。これを「入鉄炮出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制されたのである(童謡「通りゃんせ」)。また、芸人や力士などは通行手形の代わりに芸を披露することもあった。
関所破りは重罪とされ、磔刑に処せられた。しかし実際には関所役人も関与した宿場ぐるみでの関所破りが常態化しており、厳罰が適用される例も少なかった。
日本における関所は、1869年(明治2年)に明治政府によって完全に廃止された。
【 関所wiki 】

  


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2011年10月26日

長屋

長屋(ながや)とは集合住宅の一形態である。


堺(Japan Graffiti sakai SIM)長屋 場所

長屋という言葉で一般にイメージされるのは、下町の狭い路地に面して建てられた木造の住宅であろう。歴史的には、伝統的な都市住居として広く見られる形態であった。城郭においては、多門櫓と称す長屋を塁上に造り、防衛の建物として威力を発揮しながら一般の住宅としても活躍していた。とくに御殿女中の居住施設は長局とよばれ、江戸城大奥では、戸別にトイレ・キッチン付2階建てで全長80mもあった。



江戸時代において、中層以上の商家などは表通りに独立した店を構えていたが、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいであった。また、大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。特に江戸時代、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材になった。密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた場合もみられる。



江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度である。路地に共同トイレがあり、風呂は無い(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されていた。入浴は銭湯でする)。水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことであった(現代で言うところの不動産管理会社に近い)。住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたり場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然」などという台詞が聞かれる。狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋(レンタル業に相当)が発達した。1月分の家賃は1日の手間賃で稼げる程安かった。



間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた長屋を九尺二間の長屋と言う。
九尺二間の長屋とは畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさでありそのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的。
棟割長屋は本来、建物の棟方向に壁を造って前後に区分してしまう物を指した。このタイプでは開口部が一方向しか取れないため、通風・採光に難があり、住環境は劣悪になる。
江戸時代の江戸の長屋は火事になることを前提にしており、柱の太さは2寸と建築費が安価で、かつ破壊消火が容易なつくりであった。また、すぐに再建できるようにと、板葺きに下見板という焼屋造りとよばれるつくりが多かった。
【長屋wiki】




  


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2011年10月25日

秋の行事

神嘗祭

神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。五穀豊穣の感謝祭にあたるもので、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が執り行われる。


宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が執り行われる。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦9月17日に奉納していた。明治5年(1872年)の太陽暦改暦以降は新暦9月17日に実施するようになったが、これでは稲穂の生育が不十分な時期になってしまうため、明治12年(1879年)以降は月遅れで新暦10月17日に行われるようになった。
古来より、神嘗祭には皇室から神宮に幣帛使が派遣されていたが、応仁の乱以降は中断されることも多くなった。江戸時代に入り正保4年(1647年)に幣帛使の発遣が復活して以降、今日まで途切れることなく発遣が行われている。
明治4年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われるようになった。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治6年、祝祭日として神嘗祭の行われる日は国定の休暇日とされた。
昭和23年(1948年)からは、国民の祝日に関する法律の施行により、国定の休暇日ではなくなり、宮中三殿と神宮(伊勢神宮)で儀式を執り行っている。神宮へは、皇室から幣帛と、勅使(掌典)が遣わされ、奉幣の儀が奉仕される。
「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われている。「饗え」は食べ物でもてなすという意味の古語である。また、饗は新殻を意味する贄(にえ)の転じたものという説もある。



神宮では、神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。神宮の正月ともいわれる。20年に一度行なわれる神宮の式年遷宮は、実は大規模な神嘗祭だと言われている。式年遷宮後最初に行われる神嘗祭は、神宮では「大神嘗祭」とも呼ばれる。伊勢の民衆は、この祭りを「おおまつり」と呼び、奉祝の各種行事を行う。神宮の神職や伊勢の神領民はこの祭りが終わるまで新穀を口にしないといわれているが、実際に守られているかどうかは定かではない。

新嘗祭(にいなめさい)

日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。 その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。
一時中断されたが、元禄時代の東山天皇の在位中に復活した。1873年の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日に行われていた。
1873年から1947年までは祝祭日となっており、その後も勤労感謝の日として国民の祝日になっている。
新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。
現代では稀であるが、新嘗祭まで新米を口にしない風習も残っている。
【 神嘗祭・新嘗祭wikiより 】





堺(Japan Graffiti sakai SIM)大神稲荷神社 場所  


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2011年10月24日

秋の新作 ”秋麗”

Milky House 秋の新作 ”秋麗”の紹介です。

【 引き振袖 】


【 振袖 】


【 Milkyhouse_SIM 風景 】









Milkyhouseブログ

MilkyHouseSIM本店の場所



( Autumn - 2010 MilkyHouse動画 )  


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2011年10月23日

JIN -仁- (11)

第11話あらすじ 「 タイムスリップの果て・・・時空を超えた物語が今!! 」
【 第一部 最終回 】



突如、刺客に襲われた龍馬(内野聖陽)を助けようとした仁(大沢たかお)は、そのまま龍馬とともに崖から落ちてしまった。ところが、仁が目を覚ました時、龍馬の姿はどこにもなかった。



タイムスリップしてしまった時の記憶が鮮明に蘇る。
あの日、運ばれてきた身元不明の患者は、龍馬だったのか?
勝海舟(小日向文世)らも捜索に奔走するが、龍馬の居場所は依然としてわからぬままであった。



そんなある日、仁のところへやってきた佐分利(桐谷健太)は、自分が乳の岩(乳がん)について調べたという資料を仁に渡し、「もし乳の岩かもしれない患者がいるのなら、調べさせてほしい」と訴える。
佐分利の熱意に動かされ、仁はふたたび野風(中谷美紀)を診ることを決意。しかし、野風の身請け話の行方が恋人・未来(中谷美紀)の存在に関わると考える仁は、明らかに乳がんの兆候が見える野風に対し「悪性かどうかはわからない」と言葉を濁し、手術に踏み切ることができず・・・。

一方、咲(綾瀬はるか)も縁談の話が着々と進み、ついに結納の日を迎えるのだが。



【 JIN-仁- 龍馬さん動画第一部LAST(youtube) 】




堺(Japan Graffiti sakai SIM) 場所
  


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2011年10月22日

JIN -仁- (10)

第10話あらすじ 「 坂本龍馬、暗殺・・・ 」


忘れかけていた頭痛に襲われ、突如意識を失ってしまった仁(大沢たかお)。
その数日後、目を覚ました仁は"自分がタイムスリップしてしまった時のこと"を思い返し、正体不明のあの患者についても考えるのだが、その謎は解けぬままだった。



そんな中、野風(中谷美紀)の身請けの話が決まる。野風の強い希望によって最後の診察をすることになった仁は、咲(綾瀬はるか)と共に吉原へと向かうのだが、そこには身請け先の藩医も同席していた。
仁は、診察の途中で野風の体に"ある異変"を感じるが、現代に残してきた恋人・未来(中谷美紀)の身を案ずるあまり、その事実を伝えることが出来ない。



そして、仁を想う気持ちが日に日に強くなっていく咲もまた、自分に縁談の話がきている事実を仁に打ち明けられずにいた。咲は、自分の気持ちをある人物に相談することを決意して・・・。

そんな矢先、仁と龍馬、二人の運命を揺るがす衝撃の出来事が起こる!!



【 JIN-仁- 10話あらすじ(youtube) 】


【 JIN-仁- 龍馬さん動画⑥(youtube) 】




堺(Japan Graffiti sakai SIM) 場所
  


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2011年10月22日

JIN -仁- (9)

第9話あらすじ 「 残酷な神の裁定 ]


突如、野風(中谷美紀)にやってきた身請け話。女郎という身分が故、身請け話を断ることができないことを知りながらも、野風の仁(大沢たかお)に対する気持ちは日に日に強くなっていくばかりだった。



一方、仁は、佐分利(桐谷健太)らが作った新たな医療器具に感心していたのだが、その医療器具を見たある一人の爺は、鼻で笑い、仁の医療を真っ向から否定する。その爺とは火消し「を組」の親分・新門辰五郎(中村敦夫)であった。その素性を知らず、辰五郎にひるむことなく意見した仁は、次に火事があった時、火事場で治療することを約束してしまう。


ある日、野風からの手紙を受け取った仁は、一緒にいた龍馬(内野聖陽)と共に吉原へ向かう。野風の下へと向かう仁に、咲(綾瀬はるか)は切なさを募らせていた。
"相談がある"とのことで仁を呼び出した野風だったが、それは単なる口実であり、吉原を訪れた仁たちを待っていたのは、野風をはじめとする花魁たちによる宴であった。酔いつぶれる龍馬をよそに、ついに野風と二人きりになった仁は、野風が顔ばかりでなくその心までも未来(中谷美紀)と似ていることに気付き・・・。



【JIN-仁- 9話あらすじ(youtube)】


【 JIN-仁- 龍馬さん動画⑤(youtube) 】



堺(Japan Graffiti sakai SIM) 場所  


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2011年10月21日

JIN -仁- (8)

第8話あらすじ 「 歴史の針が変わる ]


大きな支えとなってくれた洪庵(武田鉄矢)を亡くし、今まで以上に強く生きることを決心した仁(大沢たかお)は『仁友堂』という病院を開院し、より薬効の強いペニシリンを作るために咲(綾瀬はるか)と日々実験を繰り返していた。しかし、従来のものより薬効の強いペニシリンを作るには莫大な金が必要であり、援助を濱口(石丸謙二郎)に依頼するも、その答えはとても期待できるようなものではなかった。



それを聞いた龍馬(内野聖陽)は、なぜか仁を吉原に連れて行く。半分呆れながらも、護衛の恭太郎(小出恵介)と共に3人で吉原を訪れると、野風(中谷美紀)が一人の武士らしき男に詰め寄っていた。男がその場を去ったのち、人だかりの中に仁の姿を見つけた野風は、病に苦しむ花魁・初音(水沢エレナ)を診察してほしいと懇願する。



初音は客の子を孕み、中絶したことによって敗血症を引き起こしていた。瀕死の状態に陥る初音がうわ言で人気女形・澤村田之助(吉沢悠)の名前をつぶやいているのを知った恭太郎は、自らの感情を抑え、田之助に金の援助を求めてはどうかと仁に提案して・・・


【JIN-仁- 8話あらすじ(youtube)】




堺(Japan Graffiti sakai SIM) 場所  


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2011年10月20日

JIN -仁- (7)

第7話あらすじ 「 生きる遺言・・・ 」



佐分利(桐谷健太)が発端となって起きた西洋医学所を揺るがす騒動は、仁(大沢たかお)が自ら医学所を去るという形で収まったかに見えた。しかし、西洋医学所には依然として仁のことをよく思わぬ医師たちが存在し、仁の医術を支持する洪庵(武田鉄矢)たちにもその影響は及んでいた。



ある日、茶屋の娘・茜(橋本真実)が誤って油をかぶり、大怪我を負ったことを知った仁は、咲(綾瀬はるか)と共に茜の家へ急行する。「治すには皮膚移植をするしかない」と判断した仁は、必要となる大量のペニシリン生産を洪庵に依頼。快く引き受ける洪庵だったが、「その手術を自分の知人にも見せたい」と、仁に申し出る。
そして、洪庵とその知人である濱口(石丸謙二郎)が見守る中、茜の皮膚移植の手術が始まった。
手術は順調に進み、その医術を目の当たりにした濱口も驚きを隠せない。



しかしこの後、仁たちを待ち受けていたのは、予想もしない出来事だった。



【JIN-仁- 7話あらすじ(youtube)】




堺(Japan Graffiti sakai SIM) 場所  


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2011年10月19日

JIN -仁- (6)

第6話あらすじ「生きてこそ…」 


江戸時代にはなかった「ペニシリン」を作り上げ、梅毒治療に一石を投じた仁(大沢たかお)。その神懸り的な医術は、江戸の町に次々と広まり、南方大名神という護符まで出回るほどの大評判となっていた。そんな噂を聞き入れてか、仁は医学館の奥医師との対面を申し込まれる。
医学館の奥医師である多紀(相島一之)と対面した仁は、多紀からその素性について問いただされる。護衛についてきた龍馬(内野聖陽)や恭太郎(小出恵介)も一緒になって、仁の素性をうまくはぐらかそうとするが、医学館の仁への不信感はますます強くなっていった。

そんな時、同席していた医学館の福田玄孝(佐藤二朗)が突然腹痛を訴え倒れてしまう。福田を診察し、胃潰瘍穿孔の可能性が強いと判断した仁は、急遽医学館にて手術を行う。医学館の面々が見つめる中でも、仁は臆することなく手術を進めていった。
しかし手術後、佐分利(桐谷健太)が、西洋医学所を揺るがす事件を引き起こしていたことが発覚。そして、この事件が思いもよらない事態を引き起こす。
一方、吉原では、仁についての信じられない噂が野風(中谷美紀)の耳に入ってきて・・・。



【 JIN-仁- 6話あらすじ(youtube) 】


【 JIN-仁- 龍馬さん動画④(youtube) 】




堺(Japan Graffiti sakai SIM)大神稲荷神社内場所  


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2011年10月18日

JIN -仁- (5)

第5話あらすじ「神に背く薬の誕生」


野風(中谷美紀)からの頼みにより、仁(大沢たかお)はもう一人の患者を診察することになった。その患者とは、野風の先輩花魁である夕霧(高岡早紀)で、夕霧は重度の梅毒に侵されており、江戸時代の医術では手の施しようがない状態であった。
なんとか救ってほしいと野風から懇願された仁だが、特効薬である「ペニシリン」がない今、自分でも治すことはできないと告げる。


一緒にいた洪庵(武田鉄矢)からも何かできることがないかと言われた仁は、花魁たちに梅毒の検診を申し入れるが、あっさりと拒否されてしまう。
仁はどうにかしてペニシリンの製造方法を思い出そうとするが、なかなか思い出せずにいた。そんなもどかしい日々を過ごしていた仁だったが、あることがきっかけでついにペニシリンの製造方法を思い出す。すぐさま西洋医学所に走り、洪庵たちにペニシリンの作り方を説明する仁。しかし夕霧の容態は更に悪化しており、ペニシリンの製造が急務になっていた。



ペニシリン作りはなかなか思ったように進まず、もはやこれまでかと思った瞬間、ついにペニシリンの薬効が確認され、すぐさま夕霧にペニシリンを投与する。すると危篤状態だった夕霧に意識が戻り、夕霧は劇的な回復を見せるのだが…



【 JIN-仁- 5話あらすじ(youtube) 】



堺(Japan Graffiti sakai SIM)大神稲荷神社内場所
  


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2011年10月17日

JIN -仁- (4)

第4話あらすじ「運命と悲劇の再会」


月日は流れ、龍馬(内野聖陽)は勝(小日向文世)に入門することになった。
一方、仁(大沢たかお)は洪庵(武田鉄矢)の肝煎りで西洋医学所で講義をするようになり、医師や医学生に熱心に医術を教えている。
ある日、仁の下を訪れた龍馬は、以前助けた「鈴屋」の廊主の下へ行くために、仁を吉原へと連れ出す。
帰ろうとする仁に龍馬は、「どうしても会ってほしい人がいる」と言うとそこに、鈴屋の「呼び出し」である最上級の花魁・野風(中谷美紀)が現れた。



呆然とする仁。

なんと野風は未来(中谷美紀)の生き写しにしか思えないほど、未来と瓜二つの顔立ちをしていたのだ。しかし、野風は二人には全く興味を示すことなくその場を立ち去ってしまう。
そんな中、鈴屋の廊主である彦三郎(六平直政)が原因不明の病に犯されていると、女将(水沢アキ)から聞いた仁は、彦三郎を診察し、一刻も早く手術しなければ助からないと告げた。



困惑する女将の前に野風が現れ、何としても彦三郎を救ってほしいと懇願する。
手術を行うことを決めた仁は、持ち前の医術で彦三郎を無事に救い出した。
そんな仁に興味を抱き始めた野風は、もう一人どうしても診てもらいたい人がいると仁に告げる。
仁が目にしたその患者は、梅毒に犯された花魁・夕霧(高岡早紀)だった。

【JIN-仁- 4話あらすじ(youtube)】




堺(Japan Graffiti sakai SIM)着物屋 菟月屋敷内場所  


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2011年10月16日

JIN -仁- (3)

第3話あらすじ「未来との決別」


ついに、コロリが江戸で猛威を振るい始めた。
コロリに感染し、苦しむ喜市(伊澤柾樹)や山田純庵(田口浩正)を見て病魔と戦う決意をした仁(大沢たかお)は、緒方洪庵(武田鉄矢)や佐分利祐輔(桐谷健太)らにコロリの治療法を細かく説明。より効果的にコロリの治療をするためには、当時の江戸にはない「点滴」の技術が必要だと感じ、専用の道具を作ってもらえるように依頼する。



程なくして点滴道具も揃い、まさに全員総出でのコロリとの戦いが始まった。仁の効果的な点滴治療や、龍馬(内野聖陽)らの協力もあり、コロリ患者たちは順調に回復。そして、勝海舟(小日向文世)の働きかけにより、幕府も全力でコロリ対策に乗り出すことも決定した。



【 JIN-仁- 龍馬さん動画③(youtube)】




堺(Japan Graffiti sakai SIM)和のSIMのくねった道場所  


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2011年10月15日

JIN -仁- (2)

JIN-仁- テレビドラマ第一期 あらすじを綴ってみます。


第1話あらすじ 時空を超えた愛と命の感動物語
東都大学付属病院の脳外科医、南方仁(大沢たかお)。
彼には、自分の手術によって植物状態になってしまった婚約者・友永未来(中谷美紀)がいた。どうすることもできない現実に苛まれる日々。
ある日、当直だった仁は、救急で運ばれてきた身元不明の男を手術する。手術は無事に終わったのだが、あろうことかその患者が逃げ出してしまい、その患者を捕まえた仁はそのまま階段から落ちて気絶してしまう。
ふと気がつくと、そこは林の中。歩き回っていると、ちょんまげ姿の武士が斬り合いをしている。その事態に巻き込まれ、自身も斬られそうになるが、橘恭太郎(小出恵介)らに助けられ何とかその場を逃れる仁。
しかし、仁をかばった恭太郎が、頭に大きな傷を負ってしまう。
仁は急遽、恭太郎の自宅で緊急手術を行うことを決意。手術道具もままならない状況だったが、もてる医術を駆使して瀕死の恭太郎を救い出した。そんな仁に、恭太郎の妹である橘咲(綾瀬はるか)は、次第に興味を持ち始める。あろうことか、江戸時代に「タイムスリップ」してしまったことを確信した仁。なぜ江戸時代に来てしまったのかわからないまま、どうにかして現代に戻ろうとする仁の前に、一人の男(内野聖陽)が現れた。その男とは、幕末の英雄と呼ばれた"あの"男だった。



第2話あらすじ 命を救う事の悲劇
幕末の江戸へタイムスリップしてしまった仁(大沢たかお)は、謎の男の正体がかの英雄・坂本龍馬(内野聖陽)であることを知り、あ然とする。
そんな中、江戸の町では「コロリ」という名の死の伝染病が、再び猛威を振るおうとしていた。
江戸が"死の都"になることを恐れた西洋医学所の頭取・緒方洪庵(武田鉄矢)は、佐分利祐輔(桐谷健太)の口から仁の体得している進んだ医療技術について聞きつけ、橘家を訪問。仁に、「コロリの治療法を指導してほしい」と頭を下げる。だが、「自分がこの時代で生きることは、誰かの運命を変えてしまうことになるのかもしれない」と不安を抱きはじめていた仁は、「コロリという病気を知らない」と嘘をつく。
その矢先、咲(綾瀬はるか)と共に訪れたタエ(戸田菜穂)の家で、喜市(伊澤柾樹)が激しく嘔吐し倒れてしまった。コレラに苦しむ人々の姿を目の当たりにした仁は・・・!?

【 JIN-仁- 龍馬さん動画②(youtube)】





堺(Japan Graffiti sakai SIM)和の長屋 場所  


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2011年10月14日

JIN -仁- (1)

去年から今年にかけて、出演者ひとりひとりの人間性・生き方に共感させ、ツボをくすぐるような人気テレビドラマがありました。
そのドラマの名前は「JIN -仁-」
「現代の医師が、もし幕末にタイムスリップしたらどうなるか?」を描かれています。西暦2000年の現代から幕末の日本にタイムスリップした脳外科医・南方仁が、過去の人間の運命を変えていることを自覚しつつも、人々を救う為、現代から持ち込んだ知識と幕末の人々の協力により、近代医療を実現していきます。その過程で南方仁は、日本の歴史自体にも、大きな関わりを持つようになっていきます。


●テレビドラマ第一期 2010年10月~12月

自分を知るものが誰ひとりいない孤独、歴史を変えてしまうかもしれない葛藤、現代の恋人とうり二つの女性との出会いが描かれた重厚な歴史スペクタクル、ヒューマンラブストーリー。
主演は連続ドラマへの出演が大沢たかお、ヒロインの綾瀬はるか。一人二役のヒロインを演じるのは中谷美紀。
脳外科医の南方仁(大沢たかお)は、ある日突然、幕末の江戸へタイムスリップ。満足な医療道具もない中、人々の命を救っていき、さらに坂本龍馬(内野聖陽)、勝海舟(小日向文世)、緒方洪庵(武田鉄矢)らと交流を深め、歴史の渦の中に巻き込まれていく。

●テレビドラマ第二期 2011年4月~6月

仁の頭の痛みは何だったのか。仁はタイムスリップして再び現代に戻るのか、それとも江戸で生きるのか。咲の想いは届くのか。吉原を離れた野風のその後は?現代の未来は果たして、そして刻々と近づく坂本龍馬暗殺という史実。果たして仁は坂本龍馬を救うことができるのか!?

【出演】大沢たかお、中谷美紀、綾瀬はるか、小出恵介、桐谷健太、武田鉄矢、小日向文世、六平直政、内野聖陽、他



●主な登場人物

南方仁(みなかた じん)
本作の主人公。東都大学附属病院脳外科医局長。34歳(2000年当時)。頭蓋骨内に奇形腫瘍を持っていた謎の男性患者との接触により文久2年(1862年)の江戸にタイムスリップ。歴史を変えることになると自覚しつつも、医者としての使命感から江戸の人々を近代医療で救う。西洋医学所と虎狼痢の対策を行ったり、原始的な方法によるペニシリンの抽出・精製を行ったりと、幕末の医療技術を飛躍的に進歩させたことで、蘭方医だけでなく漢方医や外国人医師達、幕閣や雄藩の武士層からも一目置かれる存在となっている。緒方洪庵死後、医学所と距離を置き仁友堂を開業した。数多くの難病の治療を成功させ続けたが、その一方で彼の存在と功績を妬み、恐れる者もおり、何度も妨害に遭ったり命を狙われている。やがて、歴史を変えてしまう事に躊躇しつつも、親友である坂本龍馬の命を救う為に奔走する。

橘咲(たちばな さき)
本作のヒロイン。旗本橘家の娘。兄・恭太郎の命を救った仁に興味を持つ。やがて麻疹にかかり仁に命を救われたのを機に看護婦となり、虎狼痢(コロリ)にかかった仁を救うなど、公私共になくてはならない存在になる。仁が未来から来たことは本人から直接告げられている。旗本との縁談(後妻)が進んでいたが、結納の当日土壇場でこれを破棄し野風の手術に駆けつけたため栄から勘当され、仁友堂に身を寄せる。その後、楠本いね(楠本伊篤)との出会いから女医を志すようになる。

橘恭太郎(たちばな きょうたろう)
咲の兄。徳川旗本の剣客の武士。美青年ながら性格的に堅物。勝海舟に洋学を学ぶなど向上心が高い。そのため攘夷派浪人達に襲われ前頭部に重傷を負うが、タイムスリップしてきた仁の近代医療により命を救われる。その剣の腕前で、幾度も仁の危機を救い、戦乱の幕末に仁らの用心棒役を勤める。

橘栄(たちばな えい)
恭太郎と咲の母。恭太郎の命を救った仁を屋敷に住まわせる。咲の結納の破談後、体調を崩し「脚気」の為、生命の危機に瀕する。親不孝をした咲や、その原因を作った仁に怒りつつも、幸せになってほしいと願っている。 

坂本龍馬
実在の人物。史実通りに、倒幕・海外貿易に仁を巻き込みつつ活躍する。
勝を通じて仁と知り合う。当初は仁の正体を訝るが、すぐに打ち解け親友となる。仁と吉原の遊郭に行った際に、野風に一目惚れする。物語の後半は、龍馬の暗殺阻止がメインに話が展開する。

野風(のかぜ)
吉原の鈴屋彦三郎抱えの呼び出し花魁。鈴屋の命を救った仁に心酔するも、彼の心に咲がいることを悟り身を引く。さる大名の隠居に落籍される予定だったが、乳癌の手術により破談となる。術後は吉原を出て仁友堂の雑用をこなしていたが、仁が投獄された際にツル(牢屋で慣例化されていた賄賂)を工面するため、フランス人貿易商ジャン・ルロンに身受けされ、仁友堂を去る。その後は横浜で元遊女達の為のホスピスを開くなどの慈善活動を展開。ルロンとの新婚旅行のため日本を発つが、転移した癌で長くないことを自覚している。後に男児(ドラマでは女児)を出産。

友永未来(ともなが みき)
テレビドラマ版における仁の婚約者。見た目は野風と瓜二つ。優秀な小児科医だったが、仁がタイムスリップの2年前に執刀した脳腫瘍摘出手術で植物状態になってしまい、この出来事が仁のトラウマとなっている。仁にとっては江戸にタイムスリップしてからも非常に重要な存在であり、歴史を変える時には彼女への影響を常に気にしている。原作でも現代に仁の恋人は存在するが、仁のタイムスリップ前にプロポーズを断っているため、物語にはほとんど関係していない。テレビドラマ内では医学生時代に天然ペニシリンを研究し仁に研究成果を話している。が原作では医学生時代の友人でペニシリン製造の回想で出て来る男性が友永と書かれている

勝麟太郎(勝海舟)
市井の噂や恭太郎との繋がりから仁と知己を得る。その後、神戸海軍操練所の設立で江戸を離れるが、要所で重要人物と仁との縁を取り持つ。本妻・民子は仁によるクモ膜下出血の手術を受けた。仁から「未来から来た」との告白を受け、最初は笑っていたものの「冗談には聞こえない」と半ば信じるかのような態度も見せる。

緒方洪庵
西洋医学所頭取。仁の医療技術が江戸に広まるよう協力する。仁の正体(未来から来たこと)を半ば見抜いていたが、その秘密を他人に漏らさぬままこの世を去った。



【 JIN-仁- 龍馬さん動画①(youtube) 】
※ 主人公 南方仁の坂本龍馬との出会い


【 JIN-仁-完結編咲さんからの手紙動画(youtube)】
 ※ 毎回見ていた人にはドラマを集結するシーンの動画です。



JINの世界で登場するような長屋
場所:堺 長屋  


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2011年10月12日

二階堂酒造

最近、お酒シーリズになっていますが、その中で載せている古いCM映像(Youtube)は、人生を振り返るような味のあるモノ多いです。今回紹介する「大分むぎ焼酎 二階堂さん」の映像も気に入っています。

二階堂酒造(にかいどうしゅぞう)とは大分県速見郡日出町に本社を置く麦焼酎を中心とした酒類醸造会社である。大分麦焼酎の代表的なメーカー。



1866年(慶応2年)に喜和屋(きわや)を屋号とする二階堂酒造場として創業。銘酒『麻地酒』(あさじざけ)を製造するが、第二次世界大戦中に原料不足のため休業を余儀なくされる。


1949年(昭和24年)に焼酎製造に転じて営業を再開。1964年(昭和39年)に組織を現在の二階堂酒造有限会社に改めた。1973年(昭和48年)には麦100%の麦焼酎を開発し、1974年(昭和49年)に発売開始。日本の全国的なブームの一端を担った。2006年(平成18年)の売上高は202億円で、日本の焼酎メーカー全体で6位
1987年(昭和62年)より放送が始まった哀愁とノスタルジーを誘う芸術性が高いテレビ・コマーシャルなどの広告が有名。「二階堂酒造wikiより」

● 大分むぎ焼酎 二階堂CM「消えた足跡」編



● 大分むぎ焼酎 二階堂CM 「文字のかけら」編






場所:Japan Graffiti sakai SIM 切支丹BAR   


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2011年10月11日

トリスウイスキー

トリスウイスキー(Torys Whisky)は、サントリーから発売されているウイスキーブランドの一つである。
発売以来中身は改良を重ねており、現在の製品はモルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンドしたブレンデッド・ウイスキーで、戦後の洋酒ブームの火付け役となった、国産ウィスキーの代表的存在としてその名を知られている。


寿屋の創業者である鳥井信治郎は、1907年(明治40年)に赤玉ポートワインを発売し、同社の土台を築くと共に、海外からさらなる洋酒を国内に広めるべくヒントを得ようとしていた中で、ある時海外からウイスキーとは名ばかりの模造アルコールに近い商品を手にする。当然これでは売り物にならないため、葡萄酒用の樽に寝かせておいた。
数年後、この液体は琥珀色に熟成し、鳥井はそれがウイスキーであることを確信した(ただし、現在の基準ではウイスキーとは認められないものである)。その後、この液体を「トリス」と名付けて売り出したところ、あっという間に売れた。これを機に、鳥井は国産初のウイスキー製造に乗り出す決意を固め、1923年(大正12年)、京都と大阪の境、山崎に蒸留所の竣工に踏み切ることになる。
トリスウイスキーとしての発売は、戦後の1946年である。当初は原酒を5%入れていたが、徐々に原酒の配合割合を上げる営業策が取られ、やがて10%に引き上げられて二級ウイスキーとして発売されている。
ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であり、またロングセラーのブランドとして重視されている。従来は、1960年代に若者であった層に愛飲者が多かったが、2003年にラインナップを一新したことにより、新たな若者層にも愛飲者を拡大させている。
さらに、2009年頃からのハイボールブームに乗る形で、2010年9月にこれまでのラインナップを刷新し、よりハイボールに合うキレのある味わいに仕上げた「トリス<エクストラ>」と同製品をベースにした「トリスハイボール缶」を発売した。


【 1981年 サントリーウイスキー トリス 「雨と子犬」CM 】


「いろんな命が生きてるんだなぁ 」「元気で とりあえず元気で みんな元気で」

語源のTorysとは、鳥井信冶郎の名に由来し、「鳥井の」という意味を持つ。しかし、最初に発売されたトリスは、模造ウイスキーに近いような品質であったことや、またウイスキー自体が麦を仕込んで、原酒を寝かせてから、発売されるまでに時間が掛かることもあり、戦前に「トリス」の名を冠された製品は、主に紅茶やカレー粉など、ウイスキーとは違うものにブランド名として付けられていた。終戦間もない1946年、終戦直後の混乱期の中で、出どころの知れない粗悪なアルコール類を牽制すべく、ようやくブレンデッド・ウイスキーとしてのトリスウイスキーが誕生することになる。

1950年頃に「うまい」「安い」のキャッチフレーズで発売開始。現在でも根強い人気がある。また、柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクル・トリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。近年、トリススクエアの販売で再び、テレビに登場したのに続き、2010年には「トリス<エクストラ>」のCMで女優の吉高由里子と“共演”したバージョンが製作された。トリスエクストラ及びトリスハイボール缶のCMソングには、往年のバラエティ番組『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)のテーマソング(元歌は『隣組』。たかしまあきひこ編曲)の替え歌で「ド・ド・ドリフの…」の部分を「ト・ト・トリスの…」と替えている。
また、トリスを中心に、サントリーが製造販売しているウイスキーを出す、ウイスキーバーは愛称トリスバーと呼ばれ、気軽な値段の庶民酒場として1960年代を中心に人気を博した。最盛期に比べると、数は減少したものの、現在も各地で営業を続けている。「トリハイ」と呼ばれる、トリスウィスキーを使用したハイボールが人気メニューのひとつであり、食事のメニューはややクラシックな洋食が中心となっている。
1955年 - 1962年には、後楽園球場のレフトフェンス(ポール付近)に「トリスウイスキー」の広告が登場、テレビ放送の草創期であることも相俟って、プロ野球テレビ中継において一塁側スタンド上のカメラがレフトへ飛んだ打球を追う度「トリスウイスキー」の文字が映し出され、大きな宣伝効果をもたらした。なお、1963年からは、新発売された「サントリービール」に取って代わられたが、こちらも東京ドーム開場初期まで続いた。
1961年には、「トリスを飲んで、ハワイへ行こう!!」というCMが放送された。これは、トリスウィスキーを購入すると抽せん券が同封されており、当せん者は所定のあて先に応募すると、ハワイ旅行の資金(積立預金証書)が贈呈されるというものだった(当時は、まだ一般市民の海外渡航には制約があったため)。1964年に、海外旅行の自由化がなされ実施されたものの、実際に旅行に行った人は100名の当選者のうち30名程で、当選者のほとんどは預金証書を旅行に使わず現金化している。
1981年には、当時サン・アドに所属していたコピーライターの仲畑貴志が企画立案した、子犬が京都の町中を駆け巡るCM「雨と子犬」が放映され、話題を呼んだ。このCMは、その年に開催されたカンヌ国際広告映画祭のCM部門で金賞に輝いている。このCMで流れている歌はビリーバンバンの菅原進がソロで歌った「琥珀色の日々」、撮影は宮川一夫。
「Torys」の書体は発売当初から昭和40年頃まではやや筆記体だったが、昭和40年代前半はゴシック文字、後半からしばらくは明朝体に変化していくが、次第に当初から使用された筆記体に戻された。しかし、2010年の「トリス〈エクストラ〉」は再び明朝体が使用されている。ちなみに、ボトルに今でも初代のサントリーのロゴを使用されている。【 トリスウイスキーwikiより 】

  


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