ソラマメブログ › 【 黒衣 】 › 和文化

  

Posted by at

2011年08月25日

平安貴族(2)


【 みるきー舞姫公演「MOD女陰陽師画像」】

当時、平安貴族の娘は初対面の男性には、声もかけませんでした。男性と対面するときは、几帳・御簾越しで、姿は見せないのが常識でした。例え、知り合った後でも、会話は全て侍女を通してするのが普通でした。現代のように、直接会って始まる恋は、まず無いと言ってもいいくらいです。たいてい、男が女についての噂を聞き、興味を持った女性に文を送るのが始まりでした。

物語に多く見られる「かいま見」から始まる恋は、現実ではありませんでした。しかし、偶然出会って強引に関係する事もあったようです。当時は一夫多妻制でしたが、女性にも複数の男性がいることがあったようです。そして運悪く男性同士が、かち合う事もあったようです。また、女の方で、飽きられた人は、「夜離れ」を嘆いたのでした。

【結婚】

当時の結婚の大きな特徴は、①婿取り婚(むことりこん)②一夫多妻(いっぷたさい)であったことです。
一夫多妻といっても、正妻はもちろん一人でしたが、妻の実家が夫の面倒を見ていて、生まれた子どもも妻の方で育てていました。ただ、天皇の妻となって宮廷に出仕する(入内~じゅだい~)場合は逆で、妻の方が後宮に自分の部屋をもらい、そこにすみましたが、その生活は、実家の方でまかなっていました。
そのほか、内親王(ないしんのう)が降嫁する場合は、経済面の大半を相手の男性がひきうけなければなりませんでした。相手の女性の身分が低かったり、後ろ盾がない時は男性の家に、同居したりしましたが、この場合、正妻として社会的に認められませんでした。結婚当初は妻の実家に通っても、ずっとではなく、夫婦だけで別のところに、移り住むのが普通でした。

1. 男が仲立ちをたてて、女の家に求婚の手紙を贈ります。
2. 保護者の承諾を得て、吉日を選び三日間ひそかに女のことに通います。この期間は、普通の恋愛と同じ く、男は闇にまぎれて通い、夜明け前に帰らなければならなかったし、帰ったらすぐ恋文(ラブレター)を
贈らなければなりません。
3. 三日目になると、「露顕(ところあらわし)」という披露宴と「三日夜(みかよ)の餅」という夫婦固めの共食が行われ、これで晴れて世間から夫婦と認められます。ちなみにこれらは、全て妻の実家が主催します。

【 MILKYHOUSE 十二単 】



みるきー舞姫 【 MOD女陰陽師 予告編 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:16Comments(0)和文化

2011年08月23日

平安貴族(1)

平安時代になると国風文化が花開き、華やかな固有の衣装が確立しました。


【 衣装 】

貴族にとって衣装はとても大きな関心事でした。というのも、地位によって衣装や持つものも決められていました。いかに衣装をセンスよく選び、自分の株をあげるかが大切だったからです。これが出来ない人は「もののあはれ」の分からない無粋な人と周りから失笑を買い、馬鹿にされたのです。それ位重要なことだったのです。そのほかにもどのような香を衣にたきしめるか、扇を持つか、いかに季節に合わせたものをさりげなく着こなすか、これらもとても大切なポイントでした。
正式の衣装では男女ともに長い布を後ろに垂らすなど、とても動きにくい格好でしたが、儀式や宴に堂々と参列するには立ち居の姿を立派に見せることが重視されました。
また、男女ともに顔に化粧をしていましたが、顔に塗る白粉は水銀が使われていることも多く、お歯黒とともに病気の原因になっていました。そのほかには唇には紅を、眉はすべて抜き目と眉の間を大きくあけて眉墨(まゆずみ)で別に書くのが普通でした。
また、衣装と、季節に合わせたお香(全く自分のオリジナルのもの)を調合して、たきしめているのが、当時の常識でした。ちなみに女性は、女の命と言われた黒髪にもたきしめていました。

【 住宅 】

平安の貴族の住まいは、寝殿造りというもので、平安時代に完成した住宅様式です。南向きの寝殿を中心に左右対称に建物が建っています。

「 MilkyHouse_SIM : 平安の寝殿造りと大きな池のSIMです。」

【 教養 】

男性は官僚貴族として身を立てるため、漢詩文の教養が絶対に必要でした。次に有職故実(ゆうそくこじつ)という、宮中行事の決まりに通じていることも大変重要でした。そのほか、習字、音楽、和歌が一般教養として求められていました。

女性は情操面が重んじられ、和歌、習字、音楽に通じていることが求められました。和歌の上達のため、歌集の暗記も大切でした。そのほか、和歌を書くのにふさわしい紙の色や質、墨の濃淡の工夫、センスよく衣服の色目を選ぶこと、すぐれた香を合わせる能力、普段の立ち居振る舞いについての心得も重要でした。
当時の貴族達は(特に女性)相当にひまを持て余しており、そのため様々な遊びが生まれました。

この頃の世の中では、遊びは貴族の生活そのものともいえ、出来て当たり前の、いわば教養の一種だったのです。主流は室内的な娯楽でした。最も盛んに行われていたのは“遊び”と称された音楽で、日常的に演奏、合奏をしていました。こうした"管弦の遊び"では、管楽器(横笛、笙など)、弦楽器(和琴、琴、筝、琵琶)、打楽器(太鼓、鼓など)を組み合わせて演奏しました。また、"物合(ものあわせ)"も盛んで、主に貝合、絵合、歌合、薫合(かおりあわせ)などが有名です。これらは、互いに優劣を競い合う、一種のコンテストのようなものでした。
このほか、囲碁、双六、舟遊び、絵画の制作や書道、物語の深く味わったりする事などもありました。
男性は屋外の娯楽として蹴鞠(けまり)、鷹狩、弓などがありました。

「 おじゃる丸画像 」


【 みるきー舞姫 2011年9月11日(日)公演予告動画 】

  


Posted by hidesun(英寸) at 21:38Comments(0)和文化

2011年08月06日

うちわ

うちわ(団扇)とは、手で扇いで風を起こす道具の一種
一般的には扇部と手でそれを支持するための柄を備えるが、柄がなく扇部の端のくりぬいた部分に指を入れて用いる穴開きうちわもある。

( みるきー舞姫夏祭りうちわ )

『 中世 』
中世(飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代)、公家、役人、僧侶の間では威儀具として発展し、伴(とも)にもたせる大型のものや文様を付した豪華なものが作られ、素材も絹、蒲葵(びろう)や芭蕉などの植物繊維、雉(きじ)や鵲(かさらぎ)の鳥の羽など多様に用いられる。庶民の間では軽くて便利な網代網の方扇(ほうせん:四角形の団扇)が使われた。古代以来、構造は中心に柄と一体である「棒」を通し、扇部分の縁を「枠」によって素材を固定する例が多数を占める。

『 戦国時代 』
その後、形態や材質は時代によって変化してゆき、軽くて扇部がへたらない構造として、竹または蒲葵(びろう)や芭蕉の骨と紙を素材とする「現在のかたち」の原型となったのは室町時代末である。また、戦国時代以降、素材に漆塗りの網代団扇や漆塗りの皮、あるいは板や薄い鉄板などを用い堅固につくられた軍配団扇(略称:軍配)が武家の戦いの中で使用された。武将の戦における軍の指揮、一軍の象徴、家紋を示し、矢石を防ぐ武具としての機能も果たした。また、旗指物に大型団扇が使われ、そこには家紋などが示された。

『 用途と機能 』
涼をとる(あおぐ、ひやす)、子どもに風をおくる(自然の風、愛情の風)、乾かす(濡れたもの、傷などの乾燥)、飛ばす(風を送りものを飛ばす)、炊事・起火(風をおくる)、料理など冷ます(あおぐ、さます)、塵を掃う(防塵)。江戸時代、唐箕が普及する以前は脱穀後、選別する籾を箕などに入れて掲げ、人の手による風で籾殻を飛ばし選別していた。
消防用の団扇は、扇部に漆を塗るなどした大団扇で、これをあおぎ火の粉を払い類焼を防いだ。江戸時代の火消組には常備してあった消防用具の一つであった。


風俗的・民俗的には、祓う(災厄、身の汚れを祓う)、示す・正す(威儀)、顔を隠す(威儀)、表す(家紋など、象徴)、かざす(儀式の際)、占う(軍配、差配)、もてなす(客間、作法・礼儀)、贈答、祭(盆踊りなどで持って踊る)、縁起もの(縁日に売られる)、宣伝する(広告)、装う(おしゃれの小道具)、流行にのる(おしゃれ、描かれる模様)、狩る・追う(蛍狩り・追い、遊び)、選別(籾殻を、農耕)、火消し(火の粉を払う、村の共有品、大型のうちわ)

霊力としては、団扇はあおぐことで田畑の害虫を駆除する、悪病を払う、門口に貼ると夏の病を防ぐと信じられている。また地紙に真言が刷り込まれ、寺僧が自ら製作し、団扇撒き会式で参拝者に授与され争奪によって獲得する。災厄を除く呪物のひとつとされてきた。

踊りにおいて使われる例は大変多い。全員がもつ場合は同じ図柄をもつことで集団を表し、踊りの際は拍子などとり、休息時には涼を求めるもの。特定の者がもつ場合は、警護など役がつき踊り全体の差配など行う。大型のものでは、その扇部に組や講中、役名などを大書きして掲げ持ち、所在を表示することが多く、翳的な用法となる。



第一回目 みるきー舞姫 公演 

開催日時 8月 7日(日)
22:00~24:00 予定 (今週の日曜日)
各空間は1話FIX型 オムニバス形式

場所はミルキーハウスシムの舞姫御殿です。
特設会場へ行くテレポータが設置されます。


平安時代、その妖しき時代をモチーフに、日本神話と陰陽師を織り交ぜながら白蛇の間、火龍の間、蒼水の間、竹林の間、黒桜の間、それぞれオムニバス方式でお送りします。

※ 詳細: みるきー舞姫ブログより



『 お試し占い 』
血液型より面白い-「陰陽五行と生年月日でわかる=タイプ10種類  


Posted by hidesun(英寸) at 19:05Comments(0)和文化

2011年07月27日

すだれ

すだれ(簀垂れ、簾)とは糸で竹やよしを編み連ねたもの

【 Japan Graffiti sakai SIM内大神稲荷 】

窓の外や軒先に垂らす。日よけ、目隠し、虫よけなどの目的で使われます。
夏の風物詩でもある。『万葉集』の巻4・488に歌があり、秋の風で簾が動く様が記されています。その為、現存する記述では、奈良時代まで遡る。横方向に垂らすような形で用いる「掛け簾」のほか、縦方向に立て掛ける形で用いる「立て簾(たてす)」と呼ばれる種類もあり、特にヨシを素材として編まれた「葦簀(葭簀、よしず)」は夏季を中心に軒先などに立て掛けて使用されるものです。

神前・宮殿などにかける簾(すだれ)を御簾(みす)といいます。
特に緑色の布の縁取りなどをした簾(すだれ)。「御簾」は「ぎょれん」とも読む。大名や公家などが部屋の中や外を分けるのに使われていました。その歴史は長く、小倉百人一首の人物描写にも「みす」が描かれている。清少納言の「高炉峰の雪は簾を掲げて見る」の逸話における簾(すだれ)は、御簾のことです。
(すだれwiki)

● MOD女陰陽師のご案内 ( みるきー舞姫 )

※ 詳細: みるきー舞姫ブログより

【 みるきー舞姫 2011年夏公演 案内編動画 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube 約3分20秒  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)和文化

2011年07月15日

浴衣


浴衣(ゆかた)とは和服であり長襦袢を着用せず素肌の上に着る略装。

【 MilkyHouse 着物 朝顔 画像

「 着物の歴史 」
平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。湯帷子は平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。この時代、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。
安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった。「ゆかた」の名は「ゆかたびら」の略である。



「 現代の浴衣 」
浴衣はもともと白地の木綿を藍で染抜くのが原則で柄も大胆なものが多かったが(右図参照)近年では洋服のようなデザインが好まれつつあり、華やかな色合いと柄のものなども多くなっている。生地も浴衣本来の木綿ではなく、麻を混ぜたものやポリエステルなどを用いたものも多い。
浴衣の多様化によってかつては一目瞭然であった浴衣以外の着物との境界は極めて曖昧になっており、柄によっては単の着物として着用できるものも現れている。近年、女性用ではミニスカートのように裾が膝より高いタイプも存在する(ただし正式な和服ではなく、あくまでコスプレ的な意味合いが強い)。
現代の日本の生活で浴衣が多く着用されるのは、主に花火大会・縁日・盆踊りなどの夏の行事である。日本舞踊や演劇などの稽古着として使用されることもある。
日本独特の風習として旅館やホテルに寝巻きとして客用の浴衣が用意してある場合が多いが、多くは簡略化されたものである。温泉宿やそれに類するホテル等では、備え付けの浴衣を着用したままで館内施設を利用したり、外出したりすることは問題ない。しかし、一般的なシティホテル等では、着用して室外に出ることは認められていない。
外出用として作られた浴衣は色鮮やかで、下駄が生じる音も好まれるため、祭り・温泉とも華やかな雰囲気になるとして好まれる場合が多い。デパートや商業施設、観光関係やサービス業の従業員などが、夏の制服として着用する例も多くなった。
またレストランや遊園地・テーマパーク、スポーツの試合などでも、夏に浴衣を着用して入場すると特典がある施設が増えており、都市部の夏の外出着として定着している。
最近では温泉街や祭りなどを鮮やかにするため、みんなで気軽に浴衣姿になってもらうため「旅館で宿泊客に浴衣と下駄を貸し出したりプレゼントする」「観光施設で浴衣を貸し出し、着付けのサービスもする」等のキャンペーンも多く、浴衣が一種のリゾートウェアとなっている。
和服のなかでは比較的安価であることから別誂えの反物を染めて歌舞伎役者などが贔屓への配りものとすることも多かったが、最近ではこうした風習も徐々に少なくなりつつある。角界にはまだかろうじて、関取が自分の名前の入った浴衣生地を贔屓筋や他の相撲部屋に贈るという風習が残っている。もちろん、自分の気に入った柄でオリジナルな浴衣を仕立てる力士もある。ちなみに関取か否かを問わず現役力士は浴衣が夏の正装であり、浴衣を着ずに外出してはならない規定がある。
乞巧奠(きっこうてん)の慣習と織女祭に因み、日本ゆかた連合会により7月7日が「ゆかたの日」と制定されている。
着付も普通の和服に比べて比較的安易でかつ安価であることから、民族衣装として手頃なお土産物や通販などで外国人にも人気がある。そしてもちろん、日本人に現在も愛され続ける伝統文化の一つである。
【 浴衣wikiより 】

※ 場所 : MilkyHouse本店

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:21Comments(0)和文化

2011年07月06日

線香花火

江戸時代の俳諧選集である洛陽集には、葦やよしよりもう少し細い藁(わら)の先に火薬を付けた花火を香炉に立てて遊んでいる女性の様が詠まれていますが、香炉や火鉢に立てた花火の格好が仏壇に供えた線香に似ているところから「線香花火」の名前がついたと言われています。


線香花火は2種類あります。
一つは葦や藁の管の中に火薬を入れたもので、遊び方も手に持って上方45度に向けたり、火鉢などに立てて楽しむ 「スボ手牡丹」 と呼ばれるものです。それに対して「長手牡丹」 と呼ばれる線香花火は、藁ではなく和紙を使い、そこに火薬を付けて縒ったもので、下に垂らして燃やします。
スボ手牡丹は、細い葦や藁の入手が容易ではないためか江戸ではやがて廃れていきますが、関西では今も線香花火といえばスボ手のほうがなじみが深い ほど深く文化として浸透していきます。
「スボ手牡丹」が廃れていった江戸でやがて人気を集めていくのが「長手牡丹」で、江戸の長手、上方のスボと分かれるのも文化の違い、風土の違いなのでしょう。(すぼ手は西日本に、長手は東日本に多いです)


線香花火の使用の段階は4段階に分けられ名前がついています。
牡丹:先に「玉」ができる。
松葉:玉が激しく火花を発する。
:火花が低調になる。
散り菊:消える直前。

玉は、溶融した硫黄や各種不純物が表面張力で球状になったものである。玉は落ちやすく、落ちてしまったら終わりなので、極力動かしてはならない。主に男の子の遊び方として、消えるまで玉を落とさずにいられるかを競うことがあります。

【 みるきー舞姫 2011年夏公演告知動画 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:04Comments(0)和文化

2011年06月19日

浴衣LB

平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。湯帷子は平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。この時代、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。(浴衣wikiより)

【 着物屋 菟月さん 】


※ 着物屋 菟月さんLB 

安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった。「ゆかた」の名は「ゆかたびら」の略である。


【 着物屋 菟月さん①より 】

通常は木綿地の単物で、和服の中で最も単純かつ基本的な構造となる。このため、家庭科の授業では浴衣を縫うことも多く行われている。着用の場合には本来は素肌の上に直接着るものである。近年では下着を着用することが多くなったが、それでも和装用スリップや肌襦袢程度である。
生地が薄く開放的で風通しがよく、長襦袢なども着用しないことから、もっぱら夏場の外出や湯上り、あるいは寝巻きとしての用途が主である。
男子は三尺帯、女子は半幅帯で着ることが行われてきたが、着付けの簡略性もあり、兵児帯(へこおび)を用いることもある。さらに最近では男子は角帯を用いることも多い。角帯は元来は浴衣には合わせないものとされていたが、この意識は薄れつつあるように見受けられる。事実、浴衣と角帯のセットで販売されることも珍しくない。

【 着物屋 菟月さん②より 】

現代の日本の生活で浴衣が多く着用されるのは、主に花火大会・縁日・盆踊りなどの夏の行事である。日本舞踊や演劇などの稽古着として使用されることもある。
和服のなかでは比較的安価であることから別誂えの反物を染めて歌舞伎役者などが贔屓への配りものとすることも多かったが、最近ではこうした風習も徐々に少なくなりつつある。角界にはまだかろうじて、関取が自分の名前の入った浴衣生地を贔屓筋や他の相撲部屋に贈るという風習が残っている。もちろん、自分の気に入った柄でオリジナルな浴衣を仕立てる力士もある。ちなみに関取か否かを問わず現役力士は浴衣が夏の正装であり、浴衣を着ずに外出してはならない規定がある。

【 着物屋 菟月さん③より 】

乞巧奠(きっこうてん)の慣習と織女祭に因み、日本ゆかた連合会により7月7日が「ゆかたの日」と制定されている。着付も普通の和服に比べて比較的安易でかつ安価であることから、民族衣装として手頃なお土産物や通販などで外国人にも人気がある。そしてもちろん、日本人に現在も愛され続ける伝統文化の一つである。

※ ***Japan Graffiti sakai1574*** 着物屋 菟月さんの場所  


【 懐しい金曜ロードショ-・オープニング 】
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:12Comments(0)和文化

2011年04月28日

行灯

行灯、行燈(あんどん)は照明器具の一つ。持ち運ぶもの、室内に置くもの、壁に掛けるものなど様々な種類がある。もともとは持ち運ぶものだったため「行灯」の字が当てられ、これを唐音読みして「あんどん」となった。携行用は後に提灯に取って代わられた為、据付型が主流となった。

一般的に普及したのは江戸時代である。それまでは火皿が覆われていなかった。竹、木、金属などで作られた枠に和紙を貼り、風で光源の炎が消えないように作られている。光源は主に灯明(とうみょう)で中央に火皿をのせる台がある。石もしくは陶製の皿に油を入れ、木綿などの灯心に点火して使用する。蝋燭を使用するものもあったが当時は高価であったため、主に菜種油などが使用された。庶民はさらに安価だが、燃やすと煙と異臭を放つ鰯油(魚油)などを使っていた(化け猫が行灯の油をなめるという伝説は猫が脂肪分を効率よく摂取するためにこれらをよく舐めていたことに由来すると考えられている)。さらに下層では「暗くなったら寝る」という有様だった。
照明器具とはいっても現在のものとは比較にならないほど暗いもので、電球の50分の1程度といわれている。

置行灯(おきあんどん)
最も一般的な室内型。多くは縦長の箱型をしており、内部には灯明をおく台、上部には持ち運び用の取っ手が付いている。下部に引き出しなどを備えたものもあり、灯心、蝋燭などを収納した。小型のものは雪洞(ぼんぼり・せっとう)とも呼ばれる。
掛行灯(かけあんどん)
店の軒先などに掛け、屋号や商品名を書いて看板としたもの。夜間も店を開けている飲食店などに多かった。
遠州行灯(えんしゅうあんどん)
置行灯の一種。円筒形をしているが完全に囲わず、一部が空いている。ここから点火・消火の操作を行ったり、行灯自体を回して光量の調節ができる。一説には小堀遠州の発明による名称とも。
有明行灯(ありあけあんどん)
小型の行灯で、就寝時、枕元に置いて使用する。こうしておかないと用を足しに立ったり何か突発的な事態が発生した時に即応できない。窓が付いており、光量を調節できるものが多かった。名前は「夜が明けて有明の月が出てもまだ点いている」ことから。 【行灯wiki】


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:20Comments(0)和文化

2011年04月27日

提灯

提灯(ちょうちん)は、照明器具の一つ。内部に明かりを灯し、紙などの風防を通して周囲を照らします。

「提」は手にさげるという意味で、携行できる灯りを意味する。いわば昔の懐中電灯で、中に蝋燭を点して持ち歩いたが、現在では祭礼の際を除くと、日常の場でこのように使われることはほとんどない。近年は、竹ひごや紙の代わりにプラスチックのシートを使い、蝋燭の代わりに電球を使って、主に祭りなどのイベントや看板として使用されることが多い。

提灯について書かれた最も古い文書は、1085年(応徳2年)に書かれた『朝野群載』、絵画は1536年(天文5年)の『日蓮聖人註画讃(巻第五)』とされている。当時の提灯も折りたたみ可能な構造であったが、張輪は付いていなかった。
江戸時代以前は、上流階級において宗教的な祭礼や儀式に使われた。江戸時代以降は蝋燭が普及したため、庶民も照明器具として使うようになった。

竹ひごを多数組み合わせて筒状に組み、その周囲に障子紙を張って、中に蝋燭を立てられるようにしてある。
中国のものは、布を貼ることが多い。蝋燭に火を点すと明かりが障子を通し外を照らす。夜にこれを持ちながら歩くと道中の明かり取りになる。手に持たず、家の前にかけておくと外灯にもなる。外に貼った紙には折り目がつけられており、使用しない時は上下方向に折りたたむことができる。周りに障子紙が貼られているので、風で火が消えることはほとんどないが、上下に穴が空いて空気を通るようにしているため酸素不足で火が消えることもない。殆どには上下に曲げわっぱと呼ばれる木製またはプラスチックの皿と蛇腹状の紙で作成されている。【提灯wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月26日

漆器

漆器(しっき)は、木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。


漆はウルシノキ等から採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。ウルシノキから樹液をとることを「漆掻き」「漆を掻く」という。現在では、国産の漆の生産量はごく僅かで、大半を中国から輸入している。
製造工程は漆の精製から素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)の加工、下地工程、塗り工程などに大きく分けられるが、細かな工程を挙げると30から40もあり複雑である。工程の違いにより、漆塗にもさまざまな種類がある。漆の工芸品は中国、インドシナなど東アジアで広く見られる。
当時英語で、磁器をchinaと呼ぶのに対して漆器をjapanと呼んだことからも判るように、欧米では日本の特産品と考えられていた。 漆器という区分けより漆塗のものの範疇として中国や欧米で捉えられている。
製品として完成後は、木地や下地の状態が分かりづらいので購入の際には注意したい。 名のある店舗でも廉価な製品は輸入品であったり、簡略化した技法で製作されている場合がある。 また、値段を高く設定し高級品だと思わせる商法も僅かだが健在である。制作した職人や作家の名前が分かるものが望ましい。 良いものであれば修理して何年も使えるので無闇に廃棄しないよう心掛けたい。

紀元前13世紀の棺桶の塗料として用いられているものが中国発見されている。 中国の殷(いん)(3600~3000年前)の遺跡から漆器の一部が発掘されていたので、漆器は中国が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9000年前の縄文時代前期の漆器が見つかり、また漆木のDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認された。このことから、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いている。日本では垣ノ島B遺跡の出土品に次いで約6000年前の朱塗りの櫛(鳥浜遺跡)も発掘されている。現在、中国で最古の物は長江河口にある河姆渡遺跡から発掘された約7000年前の漆椀である。(日本で縄文時代に作られていた漆器は朱のみ。黒の漆器は弥生時代以降)
 【漆器wikii】


【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)和文化

2011年04月25日

箸は、材質や形状などに様々なバリエーションがあるが、同じ長さの2本の棒状のものが1組になっている点はほぼ全ての箸に共通している。多くの場合、模様や装飾の類も左右対称または合わせて一つの模様になるよう2本に同じ物が施されている。
また、箸には通常「先」がある。基本的に棒のどちらか一端のみが食べ物に接触することが前提となっている。これは棒の一端が細くなっていること、装飾などがないこと、などによって見分けられる。

日本において、食事に用いられる箸の典型は、短い木に漆・合成樹脂を塗ったもので、塗り箸と呼ばれる。漆を塗り重ねた箸には独特の光沢があり慶事などに用いられる。一方、木目の美しさを出すために表面に漆などによる塗りを施さない箸もある。日本の箸は、片方のみ、先が細くなっているものが多い(例外として、祝箸は両端ともに端に向かって細くなっている。また、塗りを施していない箸には木目の美しさを強調するために後端を片面に向かって鋭角に切り落とす「天削げ」と呼ばれる加工を施したものがあり、近年では塗り箸にも装飾のために天削げの加工を施したものがある)。日本の箸の先が細くなっているのは、骨付きの魚を食べる際、骨と身をより分けやすくするためである。日本の箸は、塗り箸など木製が古来から主流であり、次いで竹製が使われる。現代では子供用や一部の食堂などでプラスチック製もよく使われる。塗り箸の主なものに、若狭塗と輪島塗があり、その他に津軽塗、会津塗、秀衡塗、江戸塗、鎌倉塗、村上堆朱塗、木曾塗、飛騨春慶塗、籃胎塗などがある。この他にも種々の民芸箸、創作箸があり、日本各地の神社仏閣でも夫婦箸や長寿箸といった各種の授与箸が配布されている。

古い時代の箸が発見されにくいのは、木や竹でできた箸は腐りやすく、また単なる木切れか箸かの区別もしにくいためと考えられる。最古例としては、殷墟(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)からの青銅製の長さ26cm、太さ1.1~1.3cmの箸6本の出土が報告されているが、食事用ではなく菜箸のような調理器具であったとされる。

日本では、弥生時代末期の遺跡から1本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、食べ物を口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる。三国志巻30魏書30東夷伝にある魏志倭人伝によるいわゆる邪馬台国においては「食飲用籩豆手食」と手で飲食しているとあり箸の使用は記述されていない。2本で1膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に仏教とともに百済から伝来してからとも言われるが、朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された小野妹子一行が持ち帰った箸と匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる。

箸は通常、他の食器と共に食卓の上におかれる。
「箸置き」と呼ばれる箸の先をもたせかけるための小物の上に置くこともあり、レストランなどではナプキンの上に置く場合もある。箸袋もこの一種とみなすことができる。外食チェーン店などでは箸立てや大型の箸箱がテーブルに置かれることもある。
食事中は利き手に持つ。1本を鉛筆を持つ要領で持ち(親指・人差指・中指で抓んだ状態)、もう1本を中指と薬指の間に挟む(主に親指の付け根と薬指の先の2点で固定する)と、伝統的で正しいとされている箸の持ち方になる。親指・人差指・中指で持っている方を動かし、薬指で支えている方は動かさない。
伝統的で正しいとされている持ち方をした場合、2本が2 - 3cmの隙間を隔てたまま平行に出来、掌側の箸同士は常に間隔が空いた状態となる。また、2本を大きく開かない限りは接触しない。伝統的で正しいとされている持ち方が出来ているかどうかは、鶏の卵を掴み、垂直に持ち上げられるかどうかや、鶉の卵大のものを掴んだ際、2本が平行に近い形となっているかでも概ね判断できる。
なお、箸を使う国の中で、箸のみを使って食事をする作法が確立されているのは日本だけといわれる。和食では椀に直接口をつけて汁を飲むことが許容されているため汁物を箸だけで食べるが、中華料理では汁物を食べる際にレンゲを使用し、韓国料理ではごはんには匙を、おかず等副菜をつまんだり麺類を食べたりする時に箸を使うのが一般的である。【箸wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月24日

和傘

和傘が主に紙(油紙…防水加工した和紙)や竹を材料とします。

540~570年の時代に、当時の先進国が存在した中国大陸から朝鮮半島西岸勢力の百済を経由して伝来した輸入品目であり、導入当初から「唐傘(からかさ)」と呼称されたとの説が一般的であるが、日本において独自に開閉式に改良されたものを、唐繰傘(唐繰は絡繰と同義語)と呼称したことから略して「唐傘」と呼称されるようになったともされる。
和傘はおもに竹を材料として軸と骨を製作し、傘布に柿渋、亜麻仁油、桐油等を塗って防水加工した油紙を使用した。
和傘には番傘(ばんがさ)、蛇の目傘(じゃのめがさ)、端折傘(つまおれがさ)などの種類があり、この内、蛇の目傘は、傘の中央部と縁に青い紙、その中間に白い紙を張って、開いた傘を上から見た際に蛇の目模様となるようにした物で、外側の輪を黒く塗ったり、渋を塗るなどのバリエーションも見られる。

日本の日傘をもつフランスの舞台女優サラ・ベルナール (1844年-1923年)
洋傘の骨が数本程度に対して、和傘の場合サイズにもよるが数十本の骨が用いられる。これは洋傘と傘の展開方法が異なるためで、余った被膜を張力で張るのではなく、竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているためである。窄めた際に和紙の部分が自動的に内側に畳み込まれる性質を持つ。
和傘は防水性には大変優れているが、耐久性に優れているとは言えず、また自然素材を多用した結果、洋傘に比べて重いという欠点がある。そのため、上向きに展開するには重量が過大で、過度な力がろくろや骨にかかることを避けるよう、展開の際には一般的に下向きに展開し、その後上に向ける。洋傘のように逆さに傘を立てて保管すると雨水が頭頂部に溜まり、浸水により破損する危険があるため、天井や軒先からつるす様に保管する必要がある。和紙を多用するため、虫食い、湿気による侵食、多雨時の防水性にも問題が生じる。また、長期で利用すると素材の特性で色が移り変わる。雨傘の場合、長期使用しないと防水用の油がくっつき、展開に手間取る場合がある。

東洋では、傘はまず、魔除などの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、その後、古墳時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済王)から貢物として日本に献上され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。

元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。
しかし、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。【傘wiki】

【 みるきー舞姫 2010葉月公演 熾天舞 】


● キャプチャソフト : Frasp / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年8月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月23日

足袋

足袋(たび)とは日本固有の伝統的な衣類で、足に履く一種の下着である。木綿の布でできたものが一般的。日本の伝統的な履物である草履・下駄・雪駄などを履く際に用いるため、親指と人差し指の部分で袋が2つに分かれている(叉割れ)。

文献上は11世紀ごろに「足袋」の記載が見られるが現在の足袋と同様の物であるかは不明で、発音も「たび」と呼ばれていたのかは分からない。明確な起源は分かっていないが、平安時代の貴族が履いていた下沓(しとうず)と呼ばれる靴下か、当時の猟師が履いていたとされる皮製の靴下が源流であると考えられている。初期の足袋は足首部分に紐が縫い付けてあり、紐を結ぶことで脱げ落ちないように留めていた。
明暦3年(1657年)に起きた振袖火事によって皮が品不足となり高騰したことから、木綿製のものが急速に普及していったと言われている。木綿製足袋の普及と同時に、紐止め式からボタン止め式へと足袋を留める方式も変化していった。現在の足袋は「こはぜ」(甲馳、牙籤、甲鉤、骨板)と呼ばれる金属製の金具(ホック)を「受け糸」(または掛け糸)と呼ばれる糸のループに引っ掛けて留めるようになっているが、この方式は江戸後期から明治前期にかけて普及したものである。

皮足袋
足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。布製の足袋が登場するにいたって皮足袋は姿を消し、現在ではごく特殊な場合を除いて見かけることはないが狂言の舞台で用いる黄色い足袋(狂言足袋)は皮製の足袋の外見を真似て考案されたものである。
白足袋
白足袋は主として改まった服装の際や慶弔等の行事ごとの際に用いられる。殊に儀式用・正装用というわけではないが、黒足袋・色足袋が平服にしか合わせられないのに対し、白足袋は平服から礼服まで広汎に着用することができる点に特色がある。特に茶人や僧侶、能楽師、歌舞伎役者、芸人などはほとんどの場合白足袋をはいており、こうした人々を総称して「白足袋」と称するならいがある。
能舞台、所作板、弓道場などは白足袋着用でなければあがれないことが多く、土俵上でも白足袋以外の着用は認められない。これらの例からもわかるように白足袋は清浄を示す象徴であり、ほかの足袋とは性格の異ったものとして扱われている。
黒足袋
男性が平服の際にのみ用いる。一説には白足袋のように汚れが目立たず経済的であるところから考案されたとも言い、江戸時代には勤番武士が多く黒繻子の足袋を履いていたことから、こうしたことを理由として黒足袋を嫌う人も多い。なお弔事に黒足袋を用いるとするのは俗説もしくは明治時代以降のきわめて特殊な慣習であって、本来慶弔にかかわらず正装の際には白足袋しか用いることはできない。
からす足袋と呼ばれる紺木綿黒底足袋などは表生地/底生地に紺や黒の生地を使用し舞台の黒子が動いたときに白い部分が目立たないようなものも有る。
色足袋・柄足袋
白黒以外の色や柄ものの足袋。女性が通常使用するもの。男性の場合、昔はごく一部の伊達者のみが使用していたが、現代では女性同様に着物の柄に合わせて選ぶことも珍しくない。【足袋wiki】

●フクスケ (福助足袋)

創業者の辻本福松が、1882年(明治15年)に大阪・堺で足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業させる。しかし丸に福を入れただけの商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに挿絵化、1900年に「福助印堺足袋」として商標登録をおこなう。またその間の1895年には足袋用のミシンを開発し、足袋の大量生産化を成功させる。


【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月20日

下駄

呼び名の成立は戦国時代と推測され、下は地面を意味し、駄は履物を意味する。それ以前は「アシダ」と呼称された。

日本には緒を用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や樹皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、緒が踵まで覆い足から離れないように踵の後ろで結ぶ草鞋(わらじ)の3つがある。下駄は中国及び朝鮮半島にもあるが、日本語の下駄にあたる言葉はなく、木靴まで含めて木履という。

台の下に付けるのが歯で、通常は前後2個だが、1個のもの、3個のものもある。一つの木から台と歯を作るものを、連歯下駄(俗称くりぬき)、別に作った歯を台に取り付けるのを差し歯下駄という。歯が一本の「一本歯下駄(高下駄)」は、天狗や修験者が履くイメージが強い。そのため、山での修行に使うとも言われる。「舟形」あるいは「右近」と呼ばれる、歯が無いものもある。 歯の材は樫、欅、朴(ほお)など。特に朴は樹種の中では高硬度で歩行時の摩耗が比較的少なく、下駄の寿命が長く、重宝された。『朴歯の下駄』という題名の小説や、バンカラ学生が履くのは朴歯の下駄、という時代もあった。
台には3つの穴を穿つ。前に1つ、後ろに左右並んで2つ。これを眼という。後ろの眼の位置は地域によって異なり、関東では歯の前、関西では歯の後ろが一般的である。
眼に通す紐を、緒または鼻緒という。鼻緒はもと、緒の先端部の足指がかかるところを意味したが、今では緒の全体を指すようになった。緒の材質は様々で、古くは麻、棕櫚、稲藁、竹の皮、蔓、革などを用い、多くの場合これを布で覆って仕上げた。色とりどりの鼻緒があることから「花緒」とも書く。

基本的に和服で履くが、正装ではなく、普段着の和服と組み合わせることが多い。浴衣の際は素足に下駄が基本である。また、洋装に下駄を履く場合もある。男子学生がファッションとして崩れた洋服(学生服)などに下駄を履いていることをバンカラと呼ぶ。現代の日本では、和服が着られる機会が少ないのと同様に、一般的には履かれることは少なくなった。

木製であるため、歩くと特徴的な音がする。「カラコロ」あるいは「カランコロン」と表現されることが多い。そのため、祭りや花火の日に浴衣姿で歩く場合や、温泉街の街歩きなどでは雰囲気を出す音であっても、現代の町中では騒音と受け取られることも多く、(床が傷むことも含め)「下駄お断り」の場所も少なからずある。この対策として、歯にゴムを貼った下駄も販売されている。【下駄wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月19日


日本の江戸時代以前には、髷(まげ)の形を崩さないよう、頭ではなく首を木製の小さな台に乗せる(箱枕)のが、枕として一般的であった。
枕は、ほとんど全ての文化で用いられており、頻繁に出土品として発見され、古代エジプトの墳墓からも発見されている。1924年に南アフリカでアウストラロピテクスの頭蓋骨の下に人為的に砕かれた石が敷かれていたのが発見されたが、祭司的な意味で敷かれたのか、それとも実際に使われていたのか定かではない。
染色と裁縫の技術の進歩に伴い、枕は重要な工芸品になり、まず中国で丹念に刺繍された枕が広まり、中世ヨーロッパでも広く貴重品として売買された。貧しい人の間では、粗い布を縫い合わせたものに藁を詰めたものが広く用いられていたが、地域により骨や木、時には石が枕に用いられた。産業革命以後は、安価に大量生産された布を使い、様々な枕が作られるようになり、現在にいたる。
枕は、そのまま用いずに薄い布(木綿やポリエステルなど)でできた枕カバーで包んで使われることが多い。枕カバーは定期的に洗い、清潔に保つ必要がある。それでも埃やゴミを溜め込んでしまうため、定期的に天日か陰干しを行い、乾燥、消毒させることが必要である。
枕は長く使用していると、ダニが発生することが多い。ダニはアレルギーを引き起こす場合がある。これは特にアトピーや喘息を持つ人の場合には深刻な問題である。アレルギーの原因としてダニの糞・死骸などが主なアレルゲンであり、除去方法として枕に掃除機をかけ、洗濯機で丸洗いが効果的とされている。このような問題を防止するため、最近では、防ダニ加工や、抗菌加工が施されたアレルギー対策枕も販売されている。アレルギー対策枕は、詰め物にポリエステル、布にポリプロピレンなどが使われる。
「人間は、もともと反射的・力学的に体にとって楽な姿勢をとろうとするもので、枕も、人間が体を健康に保つツールとし必然的に発生したもの」という。最近では、ただ頭だけを支えるだけではなく、首の形を整えて頭を支えるものと言われている。また首や頭の形状は、体型、年齢、性差などで千差万別であるし、マットレスや敷き布団との相性もあり、誰にでも合う万能枕はなかなかお目にかかれない。

語源: 様々な文化で枕は、生や死と密接に結び付けられている。日本語のまくらは、たまくら、つまり魂の倉が語源であるとする説がある。また英語では一般的に"pillow"と綴られるが、最近では"baby"と綴ることが多い。 【枕wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月18日

畳の板状の芯材をの畳床(たたみどこ)、その表面を覆うイグサを編み込んで出来た敷物状のものを畳表(たたみおもて)、畳の縁に付けられる帯状のものを畳縁(たたみべり)という。

畳には縦横比が2:1になっている長方形の一畳サイズと、これを横半分にした正方形の半畳サイズの2種類がある(以下の記述は特に断らない限り一畳サイズに関するもの)。大きさは3尺×6尺(910mm×1820mm)のものが基本となるが、部屋の寸法に合わせて注文生産される場合が一般的なのでサイズは一定していない。一般的な規格としては、京間(本間)、中京間(三六間)、江戸間(関東間、田舎間、五八間)、団地間(公団サイズ、五六間)の四種類が有名である。この他にも地域ごとに様々な規格が存在する

畳は、世界に類がない日本固有の文化である。 現代の畳に近づくのは平安時代に入ってからであり、厚みが加わるとともに大きさの規格化が進められている。延喜式では、階級により大きさや縁の色が定められている。平安時代までは板床に敷くクッションの一種の様な感覚で使われていたが、室町時代に入ると、書院造の登場によって部屋全体に畳が敷かれる様式があらわれ、茶道の拡大に伴い、正座と共に普及していった。江戸時代に入ると、畳そのものが重要な建築物の要素として見なされるようになり、城や屋敷の改修工事を司る役職として畳奉行が任命される例も見られた。
最近は生活の洋風化に伴い畳を敷き詰めるのではなく、平安時代のようにクッションとして1枚から数枚程度板間に置く、という形が復活しつつある。

畳のサイズに違いが出たのは、もともと一間(いっけん)という、年貢米を明確にするための検地における寸法の違いの影響が大きい。秀吉の時代(太閤検地)には、これが6尺3寸であったが、江戸時代には6尺として、事実上の増税となった。当時は、この一間の検地竿(間竿)を基準にして建物を造ったと考えられ、殆どの造作物がこの竿の長さを一つの単位とすることになる。これによって、畳もおおよその平均が出来、○○間といわれるサイズが多くなった。なお、江戸時代に6尺と短くされた背景には、面積あたりの米の収穫量が高まったことがあるとも言われている。
【畳wiki】

【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月17日

絵巻物

絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。

【 大神画像より 】

最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。
平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。
物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。
鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵巻』・『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される。

源氏物語絵巻


信貴山縁起


伴大納言絵巻


鳥獣人物戯画


【 みるきー舞姫 2010霜月公演 不夜城 】


● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影月 : 2010年11月  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化

2011年04月15日


瓦が葺かれた屋根を「瓦葺(かわらぶき)」、「瓦葺屋根」、「甍(いらか)」とも言う。日本の甍は天辺が水平なものが多い。瓦を屋根に施工することを瓦を葺くといい、その施工に携わる業者を瓦葺き職人と呼ぶことがある。
粘土瓦以外に、別の材料を用いて造られた瓦型をした建材も「瓦」に瓦の材料名を冠したものを名称として用い、歴史的にも石瓦や銅瓦等と付けられ用いられている。現在でも、セメントや金属などの材料も使われ、通常の粘土瓦が使用できない寒さの厳しい地域や個人の好み等によって粘土瓦の代わりに葺かれることがある。

初めて瓦が登場するのはおよそ2800年前の中国とされる。日本にはおよそ1420年前の西暦588年、百済から仏教と共に伝来。飛鳥寺で初めて使用されたとされる。仕様は平瓦を並べ、そのジョイント上に丸瓦を並べた現在でも使われている本瓦葺きとほぼ同じである。飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみである。現存日本最古の瓦は飛鳥時代のもので、元興寺の極楽坊本堂と禅室に葺かれている瓦とされる。
7世紀末に建設された藤原京では、大極殿などの宮殿は瓦葺きで建てられていることが考古学的に確認されていることから、初めて寺院以外で瓦が使用されたとみられている。この頃の瓦窯遺構としては宗吉瓦窯(現在の香川県三豊市三野町吉津)の17号窯がある。しかし、地方においては、8世紀中頃以前は瓦葺きは寺院に限られると見てよい。
奈良時代、平安時代にはいると、瓦は寺院、宮殿の他、官衙にも用いられるようになる。特に、地方でも国府や国分寺といった国家権力を象徴する建物にも用いられるようになる。しかし、絵画史料から、貴族の邸宅は桧皮葺で、瓦は公的な建物にしか用いなかったことがわかる。各地には瓦屋(がおく)と呼ばれる瓦を生産、供給する役所が設けられ、決められた寺院や役所に瓦を納品していた。
中世になると、再び、寺院以外の天皇や将軍の御所の屋根も桧皮で葺かれることが多くなる。

伏見城の金箔瓦
近世に入ると、瓦は、それまでは仮設建物が多かった城郭の建築物へも用いられるようになる。特に、安土桃山時代には鯱瓦や鬼瓦、軒瓦に金箔を施したもの(金箔瓦)もあった。江戸時代前後には屋根の軽量化を図るために銅や鉛の金属で作られた瓦(金属瓦)も用いられ始めた。また、延宝4年(1674年)に瓦職人西村半兵衛が丸瓦を必要としない桟瓦を開発したと言われている。これにより、瓦を用いる量が減り、瓦を用いるための建物強度のハードルが低くなった。さらに、太平の世の課題として火事対策が幕府や藩の急務となり、耐火建築用品として瓦の使用が奨励され、一般にも普及することになった。
ただし、日本海側の積雪地帯を中心とする寒冷地では、粘土瓦は内部の水分が凍結して破損、剥落することが多く、屋根の積雪への対策もあり、瓦葺きはあまり普及しなかった。これは現代でもみられる現象で、北日本の家屋では金属板葺き(瓦棒・平板(一文字など)など)、スレート葺きなどが多い。
近代、明治時代には、洋瓦の開発や輸入が行われ始め、また、桟瓦を改良した引掛桟瓦が開発された。1926年以降、引掛桟瓦は当時の内務省の奨励により瓦葺きに用いる標準的なものとして現在も用いられている。【瓦wiki】

【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land  


Posted by hidesun(英寸) at 21:33Comments(0)和文化

2011年04月14日

障子

障子(しょうじ)は、日本家屋における扉、窓に用いる建具の一つで、明かりを通すように木枠に紙張り(主に和紙、今では「化繊入り紙」もある)になっているものは明障子(あかりしょうじ)ともいいます。

扉を閉じたまま採光できるという機能により広く使われるようになった。ガラスやカーテンが普及するようになって使用は減ったものの、ガラス併用の障子なども作られ消滅することはなかった。一部がガラスになっていて障子部分が開け閉めできるものを雪見障子という。

明障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光という矛盾した機能を併せもつ明障子の発明は、画期的なことであった。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。

現在のような薄紙を貼った明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。

その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。
隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂では、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。
『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。
平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描かれている。この時代の明障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。

明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。【障子wikii】


【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land  


Posted by hidesun(英寸) at 20:51Comments(0)和文化

2011年04月12日

襖(ふすま)は、和室の仕切りに使う建具のひとつ。木製の枠組みの両面に紙または布を張ったもの。「襖障子」(ふすましょうじ)または「唐紙障子」(からかみしょうじ)と呼ばれることもある。単に「唐紙」と呼ばれることもある。

障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾(ふすま)障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた。

「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が正しいとされている。ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦(ぜんきん) は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことである。寝殿造で多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり)などの縁取にも使用されている。几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていた。帳は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情を作っていた。

「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用された。襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられる。この衝立てを改良して、框かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図った。この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われる。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていた。「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りであった。このため「襖障子」と称された。のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていく。
一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようである。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案された。今日の障子である。【襖wiki】


【 みるきー舞姫睦月公演 奉納舞 】

● キャプチャソフト : Bandcam / HD youtube動画
● 撮影日 : 1月30日(日)
● 撮影場所 : Eleanor's land  


Posted by hidesun(英寸) at 21:32Comments(0)和文化