
2011年01月12日
妖弧
妖狐(ようこ)とは、狐の妖怪のこと。
狭義には、キツネの化身である「狐霊」(これい)の内、「野狐」(やこ)のみを指す。(wikiより)

【画像:ぬらりひょんの孫 現代に蘇った羽衣狐】
復活する前の羽衣狐は石でした。たぶん殺生石。千年前の羽衣狐は「信田の狐」と呼ばれているので、葛の葉と思われます。羽衣狐は、妖弧のなかでも、白狐(びゃっこ、はくこ)・九尾の狐(きゅうびのきつね)に属すると思います。
※ 殺生石:殺生石(せっしょうせき)は、栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩。鳥羽上皇が寵愛した空想の女性、玉藻前(白面金毛九尾の狐の化身)が正体をあらわし、数万の軍勢によって殺害され、石となったという逸話がある。その後、至徳2年(1385年)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。
※ 葛の葉:葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』、および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。
野狐と善狐
日本においては、狐霊には、大きく野狐(やこ)という、いわゆる野良の狐と、善狐(ぜんこ)という善良(とされる)狐の二つの種類があるとされる。善狐の中でも稲荷神の神使を御先稲荷(おさきとうが)と呼び、神に仕えるもので当然 妖怪ではない。妖狐とは野狐のみを指す。また、野狐で人に危害を加えないものもあれば、善狐で性質のよろしくないものもあり、野狐と善狐は非常に仲が悪いとされる。
玉藻前に化けた白面金毛九尾の狐は、野狐の中でも人に危害を与えるランクの高い妖狐として知られ、悪狐(あっこ)とも呼ばれる。それゆえ九尾の狐を悪狐と呼ぶ場合もあるが、善狐でも尻尾が9本あれば九尾である。
妖弧の種類
赤狐(せきこ)神道系。通常の毛色の狐を「赤毛」と形容する場合もある。
白狐(びゃっこ、はくこ)白い毛色を持ち、人々に幸福をもたらすとされる、善狐の代表格。稲荷神社に祀られている狐も、ほとんどが白狐である。安倍晴明の母親とされている狐も白狐である。神道系。
黒狐(くろこ、こくこ)黒い毛色を持つ。北斗七星の化身と呼ばれている。中国の類書『三才図会』では、北山に住む神獣であり、王者が太平をもたらしたときに姿を現すとされている[1]。
銀狐(ぎんこ)銀の毛色を持ち、月をシンボルとしている。金狐とは同様異質の存在である。仏教系。ダキニ天の化身とも。
金狐(きんこ)金の毛色を持ち、日をシンボルとしている。銀狐とは同様異質の存在である。仏教系。ダキニ天の化身とも。
九尾の狐(きゅうびのきつね)尻尾が9本生えた狐。代表的な九尾の狐として、白面金毛九尾の狐が存在する。九尾の妖狐や、単純に九尾と呼ぶこともある。
天狐(てんこ)1000歳を超え強力な神通力を持ち神格化した狐。尾は4つである。千里眼を持ちさまざまな出来事を見透かす力がある。
空狐(くうこ)3000歳を超え神通力を自在に操れる大神狐。天狐からさらに2000年生きた善狐が成るとされている。尾は0本とされる。
仙狐(せんこ)善狐のなかで、1000年以上生きた狐。中国における狐の分類。
善狐(ぜんこ)善良とされる狐の総称。
野狐(やこ)妖狐の総称。地狐(中狐、宙狐と呼ばれることもある)。『絵本百物語』にも登場する。また禅ではいまだ悟りを得たという確証がないのに、慢心から悟ったとする禅を野狐禅という。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
狭義には、キツネの化身である「狐霊」(これい)の内、「野狐」(やこ)のみを指す。(wikiより)

【画像:ぬらりひょんの孫 現代に蘇った羽衣狐】
復活する前の羽衣狐は石でした。たぶん殺生石。千年前の羽衣狐は「信田の狐」と呼ばれているので、葛の葉と思われます。羽衣狐は、妖弧のなかでも、白狐(びゃっこ、はくこ)・九尾の狐(きゅうびのきつね)に属すると思います。
※ 殺生石:殺生石(せっしょうせき)は、栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩。鳥羽上皇が寵愛した空想の女性、玉藻前(白面金毛九尾の狐の化身)が正体をあらわし、数万の軍勢によって殺害され、石となったという逸話がある。その後、至徳2年(1385年)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したという。
※ 葛の葉:葛の葉(くずのは)は、伝説上のキツネの名前。葛の葉狐(くずのはぎつね)、信太妻、信田妻(しのだづま)とも。また、葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』、および翻案による同題の歌舞伎も通称「葛の葉」と呼ばれる。
野狐と善狐
日本においては、狐霊には、大きく野狐(やこ)という、いわゆる野良の狐と、善狐(ぜんこ)という善良(とされる)狐の二つの種類があるとされる。善狐の中でも稲荷神の神使を御先稲荷(おさきとうが)と呼び、神に仕えるもので当然 妖怪ではない。妖狐とは野狐のみを指す。また、野狐で人に危害を加えないものもあれば、善狐で性質のよろしくないものもあり、野狐と善狐は非常に仲が悪いとされる。
玉藻前に化けた白面金毛九尾の狐は、野狐の中でも人に危害を与えるランクの高い妖狐として知られ、悪狐(あっこ)とも呼ばれる。それゆえ九尾の狐を悪狐と呼ぶ場合もあるが、善狐でも尻尾が9本あれば九尾である。
妖弧の種類
赤狐(せきこ)神道系。通常の毛色の狐を「赤毛」と形容する場合もある。
白狐(びゃっこ、はくこ)白い毛色を持ち、人々に幸福をもたらすとされる、善狐の代表格。稲荷神社に祀られている狐も、ほとんどが白狐である。安倍晴明の母親とされている狐も白狐である。神道系。
黒狐(くろこ、こくこ)黒い毛色を持つ。北斗七星の化身と呼ばれている。中国の類書『三才図会』では、北山に住む神獣であり、王者が太平をもたらしたときに姿を現すとされている[1]。
銀狐(ぎんこ)銀の毛色を持ち、月をシンボルとしている。金狐とは同様異質の存在である。仏教系。ダキニ天の化身とも。
金狐(きんこ)金の毛色を持ち、日をシンボルとしている。銀狐とは同様異質の存在である。仏教系。ダキニ天の化身とも。
九尾の狐(きゅうびのきつね)尻尾が9本生えた狐。代表的な九尾の狐として、白面金毛九尾の狐が存在する。九尾の妖狐や、単純に九尾と呼ぶこともある。
天狐(てんこ)1000歳を超え強力な神通力を持ち神格化した狐。尾は4つである。千里眼を持ちさまざまな出来事を見透かす力がある。
空狐(くうこ)3000歳を超え神通力を自在に操れる大神狐。天狐からさらに2000年生きた善狐が成るとされている。尾は0本とされる。
仙狐(せんこ)善狐のなかで、1000年以上生きた狐。中国における狐の分類。
善狐(ぜんこ)善良とされる狐の総称。
野狐(やこ)妖狐の総称。地狐(中狐、宙狐と呼ばれることもある)。『絵本百物語』にも登場する。また禅ではいまだ悟りを得たという確証がないのに、慢心から悟ったとする禅を野狐禅という。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月11日
鏡開き
【 鏡開き 】
鏡開き(かがみびらき)・鏡割り(かがみわり)とは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げ、雑煮や汁粉で食べる行事である。年中行事のひとつです。(wikiより)

正月十一日には、飾ってあった鏡もちを開く鏡開きが行なわれる。元来が武家社会の風習で「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」とし、ハッカが刃柄と通じるところから、二十日に行なわれてきた。それが十一日に行なわれるようになったのは、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を忌日として避けて十一日になったといわれている。
正月中に重々しく飾られていた鏡もちを割るということは、大正月の終わりと、その年の仕事始めを意味する。武士は、具足櫃(ひつ)開きをし、主家の鏡もちを君臣ともども分け合って主従固めをし、商家では、蔵開きをし、農村では田打ち正月をして、一年の出発とした。
鏡もちは一月十日まで飾って、十一日に飾りをとくと同時にもちを食べるのがしきたりであるが、20日の小豆粥(あずきがゆ)に入れることもある。
武家の風俗が始まりであっただけに、切るをきらって、包丁などの刃物で切るのは禁物で、手で割り砕くか、金づちで割り開くようにする。歳神へのお供え物をいただくことによって、一年の一家一族の無事息災が約束されるという意味もあり、また食べ物をたいせつにする心がけを見ることもできる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
鏡開き(かがみびらき)・鏡割り(かがみわり)とは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げ、雑煮や汁粉で食べる行事である。年中行事のひとつです。(wikiより)

正月十一日には、飾ってあった鏡もちを開く鏡開きが行なわれる。元来が武家社会の風習で「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」とし、ハッカが刃柄と通じるところから、二十日に行なわれてきた。それが十一日に行なわれるようになったのは、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を忌日として避けて十一日になったといわれている。
正月中に重々しく飾られていた鏡もちを割るということは、大正月の終わりと、その年の仕事始めを意味する。武士は、具足櫃(ひつ)開きをし、主家の鏡もちを君臣ともども分け合って主従固めをし、商家では、蔵開きをし、農村では田打ち正月をして、一年の出発とした。
鏡もちは一月十日まで飾って、十一日に飾りをとくと同時にもちを食べるのがしきたりであるが、20日の小豆粥(あずきがゆ)に入れることもある。
武家の風俗が始まりであっただけに、切るをきらって、包丁などの刃物で切るのは禁物で、手で割り砕くか、金づちで割り開くようにする。歳神へのお供え物をいただくことによって、一年の一家一族の無事息災が約束されるという意味もあり、また食べ物をたいせつにする心がけを見ることもできる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月10日
陰陽道①
陰陽道(おんみょうどう)は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つ。これら道の呼称は大学寮における儒学を教える明経道、律令を教える明法道等と同じ。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた自然科学と呪術の体系。「おんようどう」、「いんようどう」とも読む。陰陽道に携わる者を陰陽師といい、陰陽師集団のことも陰陽道と呼ぶ。

5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。
日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。
『 陰陽道wikii 』
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷

5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わったとき、陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。このような技術は、当初はおもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃から陰陽師があらわれ始めた。
7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
平安時代以降は、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていった。
日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた。8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受ける。
10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった。
平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏の宗家土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
幕藩体制が確立すると、江戸幕府は陰陽師の活動を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興させて諸国陰陽師を支配させようとした。やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。江戸時代には、陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していった。
明治維新後の1872年(明治5年)に至り、新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村(現 香美市)に伝わるいざなぎ流を除けば、暦などに名残をとどめるのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。
『 陰陽道wikii 』
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月09日
五行思想
五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は『互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する』という考えが根底に存在する。

五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん。騶は{馬芻}。鄒衍と表記する場合もある,紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。
春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
五行
木(木行)
木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)
光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)
植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)
土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)
泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、残った陰気が西に移動して金行を生じた。
そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷

五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん。騶は{馬芻}。鄒衍と表記する場合もある,紀元前305年頃 - 紀元前240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。
春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
五行
木(木行)
木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行)
光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行)
植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行)
土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行)
泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。
五行の生成とその順序
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、残った陰気が西に移動して金行を生じた。
そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
そのため五行に数を当てはめる場合五行の生成順序に従って、水行は生数が1で成数が6、火行は生数が2で成数が7、木行は生数が3で成数が8、金行は生数が4で成数が9、土行は生数が5で成数が10、となる。
【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月08日
干支(えと)

干支(えと)」とは、正確には「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせです。今年の場合、十干は「辛(かのと)」、十二支はご存知の「卯」なので、干支は「辛卯(かのとう・しんぼう)」となります。今では、干支(えと)といえばネズミ、トラ、ウサギなどの十二支、と思うほうが話が通じやすくなっています。
十干(じっかん)
干支(えと)の「干」は「十干」のことで、以下の10種類です。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸
<日本語の読み>
甲:きのえ、乙:きのと、丙:ひのえ、丁:ひのと、戊:つちのえ、
己:つちのと、庚:かのえ、辛:かのと、壬:みずのえ、 癸:みずのと、
<音読み>
甲:こう、乙:おつ、丙:へい、丁:てい、戊:ぼ、
己:き、庚:こう、辛:しん、壬:じん、 癸:き、
十干は、陰陽五行説に基づいて「木・火・土・金・水」の五行と、「陰・陽」の「兄(え)・弟(と)」に分けたものです。
木(き)は甲・乙、火(ひ)は丙・丁、土(つち)は戊・己、金(かね)は庚・辛、水(みず)は壬・癸。木は、陽である甲が「木の兄(きのえ)」、陰である乙が「木の弟(きのと)」、火は、陽である丙が「火の兄(ひのえ)」。
※「兄(え)」の年と「弟(と)」の年が交互に繰り返していくことから「えと」と呼ばれるようになったといわれます。
十二支(じゅうにし)
干支(えと)の「支」は「十二支」のことで、以下の12種類です。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
<日本語の読み>
子:ね、丑:うし、寅:とら、卯:う、辰:たつ、巳:み、
午:うま、未:ひつじ、申:さる、酉:とり、戌:いぬ、亥:い、
<音読み>
子:し、丑:ちゅう、寅:いん、卯:ぼう、辰:しん、 巳:し、
午:ご、未:び、申:しん、酉:ゆう、戌:じゅつ、亥:がい、
古代中国で、天球を約12年で1周する木星の運行を目安として、12の方角に分けて名前を付け、1年12ヶ月の暦をあらわしたのが十二支の成立であるといわれます。
十二支にも陰・陽があり、「子・寅・辰・申・午・戌」が陽、「丑・卯・巳・未・酉・亥」は陰で、陰陽が交互に割り当てられています。
【 十二支の動物に関しての逸話 】
そのいきさつとしては次の2通りの逸話がある。
お釈迦様のもとに新年の挨拶に来た順番に動物を割り当てた。
十二支の動物を指定日に挨拶に来た順番に決定する、というお釈迦様の招集により集まった。
そして次のような結果がもたらされたという話になっている。
牛は足が遅いので早めに行ったものの、一番乗りしたのは牛の背中に乗っていた鼠だった。
鶏が猿と犬の間になったのは仲の悪い両者を仲裁していたため。
鼠は猫に挨拶に行く日を尋ねられた際に嘘をつき、実際よりも一日遅い日を教えたため、猫は十二支に入ることができなかった。それを根に持った猫は鼠を追いかけるようになった。
猫は鼠の嘘を信じて一日遅れて挨拶に行ったため、お釈迦様から「今まで寝ていたのか。顔を洗って出直して来い。」と言われ、それからよく顔を洗うようになった。
13番目であったために十二支に入れなかったイタチをかわいそうに思ったお釈迦様は、毎月の最初の日を「ついたち」と呼ぶことにした。ただし実際の「ついたち」の語源はこの逸話からではない。また、13番目の動物はカエルやシカであったという逸話もある。
干支(えと)
十干と十二支を組み合わせたものが本来の「干支」です。
十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」の組み合わせ「甲子(きのえね)」から始まり、「乙丑」「丙寅」「辛卯」・・・と続き、「癸亥(みずのとい)」まで60種類あります。干支がひとまわりして同じ干支が巡ってくると「還暦」です。
※「壬申の乱」「戊辰戦争」「辛亥革命」など、歴史上の大事件の呼び方に干支が使われています。

【 Japan Graffiti sakai1574 SIM内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月07日
巫女舞

巫女装束・服(非売品)MilkyHouse
古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。前者(「神がかり系」)においては古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多い。
『古事記』・『日本書紀』において天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)はいずれも巫女舞であったと推定されている。『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する。
巫子舞、御子舞、神子舞などとも書き、巫女神楽(かぐら)ともいう。もと神に仕える巫女が神がかりして託宣するために舞をまった。巫女舞はこうした神がかりの舞が洗練され様式化されたもので、のちには社頭における鈴を振りながらの祈祷(きとう)の奉納舞にもなった。また湯立(ゆだて)をつかさどったのも多くは巫女で、湯立に伴う湯清めの舞をまった。古代には記紀にみえる天岩屋戸(あめのいわやど)の天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして俳優(わざおぎ)したのや、『古語拾遺』に「さる女君(めのきみ)ノ氏ハ神楽ノ事ニ供ヘ」とある神楽も、ともに巫女舞であったと考えられる。
一方、中世に法者(ほうしゃ)や修験(しゅげん)者と連携した巫女は法者の誦(よ)む祭文につれて巫女が神がかりし、死霊鎮めの舞をまった。
巫女舞の基本は、鈴、榊(さかき)、笹(ささ)、幣(みてぐら)、扇などを採物(とりもの)として回って回り返す旋回運動にあるが、全国各地の巫女舞には美しくまうだけの形式的な舞が多い。託宣の形を残すものには、秋田県の保呂羽(ほろは)山の霜月(しもつき)神楽の神子舞や岩手県宮古市の黒森神社の神子舞と湯立託宣などがあり、神がかり風な舞は島根県の隠岐(おき)神楽の巫女舞に残っている。巫女舞をはやす楽器は、笛、太鼓、銅子(どうばつし)の所が多く、琴や笏拍子(しゃくびょうし)などがつく所もあり、神歌(かみうた)も歌われる。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月07日
天鈿女命(アメノウズメ)
アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神です。(wikiより)

「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説や、「髻華(ウズ)」を結った女性(巫女の装束)の意とする『稜威道別』(イツノチワキ)説、折口信夫が『若水の話』で出した、「マナを指すヲチの音便で、魂をヲチふらせる意」説などがある。
笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出した物としてあげた(『狂笑の論理』)、天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである。カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。
神話での記述
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷

「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説や、「髻華(ウズ)」を結った女性(巫女の装束)の意とする『稜威道別』(イツノチワキ)説、折口信夫が『若水の話』で出した、「マナを指すヲチの音便で、魂をヲチふらせる意」説などがある。
笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出した物としてあげた(『狂笑の論理』)、天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである。カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。
神話での記述
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
その一環として、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月04日
天照大神(2)

『 (1)より続き 』
太陽神に隠れられてはたまりません。世の中真っ暗闇になってしまいました。そこで困った神々は一計を案じ、岩戸の前に八尺勾玉をさげ、八咫鏡(やたのかがみ)をぶらさげて、天宇受売神(あめのうずめのかみ)がその前で踊りを踊りました。その踊りが余りおかしかった為、居ならぶ神様はどっと吹き出します。
その笑い声を聞いた天照大神は「いったい何事?」と少し岩戸を開けて様子を見ようとしました。すると天宇受売神が「あなた様よりもっと尊い神様がいらっしゃったのです」といいます。そして天児屋命と布刀玉命が鏡をそばに寄せますと、そこに映った自分の姿が輝いて見えます。どんな神なのかと思い、もう少しよく見ようと岩戸をもう少し開けますと、そこで控えていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出し、布刀玉命(ふとだまのみこと)がサッとしめ縄を渡して中に戻れないようにしました。かくして高天原に光が戻ったのです。
天照大神は現在伊勢神宮に祭られています。その時の八咫鏡も天皇家の三種の神器の一つとして、そこに祭ってあります。八尺勾玉は皇居に祭られています。
天照大神の信仰が日本書紀に最初に登場するのは崇神天皇の巻で、天皇の娘である豊鍬入姫が天照大神を大和の笠縫邑に祀ったという記事があります。そして次の垂仁天皇の代になって、今度は垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)が天照大神を祀るのにふさわしい場所を探して各地を尋ね歩く話が出てきます。
倭姫は宇陀の篠幡、近江の国、美濃、とめぐった後で伊勢に入りますが、その時「ここは辺鄙な土地だけど波が打ち寄せる美しい国である。私はここに留まりたい」という神託があります。そこで倭姫はそこに宮を建てて天照大神をお祭りしました。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 Flash画像×16枚 】
撮影場所:大神稲荷
2011年01月03日
天照大神(1)
天照大神(あまてらす・おおみかみ)は日本の神様の中で最高神の地位を占める神様で、太陽の神であり、高天原(たかまがはら)の主宰神です。

古来より男性神説と女性神説とがありましたが近年は女性神説が有力です。その根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神を「姉」と呼んでいるところによります。(古事記には性別を匂わす記述はありません)また弟の乱暴に起こって天岩戸(あまのいわと)に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的です。
男性神説を取る人たちは、これを推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造したものである、と主張しているようです(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらなかったため、飯豊皇女が事実上の天皇として執務なさったことがあります。またそれ以前に神功皇后の例もあります)。まぁ男性中心主義者の「最高神が女だとはけしからん」調の議論は論外ですが。しかし、もともと日本は農耕民族で女系社会ですので、私は最高神が女性神であるのはむしろ自然なことではないかと考えます。
天照大神はイザナギの神から生まれました。この話はイザナギの神の所にも出ましたが、イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも、結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。この三柱の神を三貴子といいます。そしてイザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになります。しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいといいます。イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げてから根の国に行くと行って高天原におもむきます。ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただします。
これに対して須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いといいます。そして子供をもうけてその証を立てましょうということになり、細かい話は省略しますが、須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許されます。
ところが須左之男命は元々荒っぽい神である為、高天原滞在中にたんぼの畦道は壊すわ、神殿に糞はするわ、乱暴な行ないを続けます。最初は天照大神も弟のことだからいろいろとかばっていましたが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴のために事故死するに至って、とうとう機嫌を損ねて、天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまいます。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 画像 】
両替屋さんの角を東に折れると鳥居がございます。

西の路地よりおでん屋さんの脇を進んでも行けます。

連なった鳥居をくぐり抜けます。

階段を昇ります。

神使のキツネがみえます。

お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷

古来より男性神説と女性神説とがありましたが近年は女性神説が有力です。その根拠の一つは日本書紀の神代(上)の巻で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神を「姉」と呼んでいるところによります。(古事記には性別を匂わす記述はありません)また弟の乱暴に起こって天岩戸(あまのいわと)に閉じ篭ってしまうというエピソードも女性的です。
男性神説を取る人たちは、これを推古天皇即位をスムーズに行なうために「こんな偉い女性の神様がいるのだから女性が天皇になってもいい」という論理を持ち出すため蘇我一族あたりが捏造したものである、と主張しているようです(ただし推古天皇以前にも清寧天皇崩御の後、顕宗天皇と仁賢天皇が互いに譲り合って天皇が定まらなかったため、飯豊皇女が事実上の天皇として執務なさったことがあります。またそれ以前に神功皇后の例もあります)。まぁ男性中心主義者の「最高神が女だとはけしからん」調の議論は論外ですが。しかし、もともと日本は農耕民族で女系社会ですので、私は最高神が女性神であるのはむしろ自然なことではないかと考えます。
天照大神はイザナギの神から生まれました。この話はイザナギの神の所にも出ましたが、イザナギ神が亡き妻イザナミ神を慕って黄泉の国に行くも、結局逃げ帰り、その時戻ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。この三柱の神を三貴子といいます。そしてイザナギ神の指示で天照大神は高天原を治め、月読尊は夜の世界を治め、須左之男命は海を治めることになります。しかし須左之男命は泣いてばかりいて全く仕事をせず、イザナギ神に自分はイザナミ神のいる根の国に行きたいといいます。イザナギ神が呆れて須左之男命を海から追放すると、須左之男命は姉に別れを告げてから根の国に行くと行って高天原におもむきます。ところがこの時の須左之男命の勢いが凄まじかったため、天照大神は須左之男命が高天原を乗っ取りに来たのかと武装して待ち受け、須左之男命に対峙して「何をしに来たのだ」と問いただします。
これに対して須左之男命は自分は単に別れを言いに来ただけで他意は無いといいます。そして子供をもうけてその証を立てましょうということになり、細かい話は省略しますが、須左之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)から宗像の三柱の女神、天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)から天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命の五柱の男神が生まれたため、須左之男命はこの誓約(うけい)に勝ったことになり、高天原にしばらく滞在を許されます。
ところが須左之男命は元々荒っぽい神である為、高天原滞在中にたんぼの畦道は壊すわ、神殿に糞はするわ、乱暴な行ないを続けます。最初は天照大神も弟のことだからいろいろとかばっていましたが、やがて天照大神の配下の機織娘が須左之男命の乱暴のために事故死するに至って、とうとう機嫌を損ねて、天岩戸(あまのいわと)に引き篭ってしまいます。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 画像 】
両替屋さんの角を東に折れると鳥居がございます。

西の路地よりおでん屋さんの脇を進んでも行けます。

連なった鳥居をくぐり抜けます。

階段を昇ります。

神使のキツネがみえます。

お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷
2011年01月02日
稲荷
稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の1つ。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれます。

稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社となっている。
総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。
稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神を祀る、赤い鳥居と白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた。 720年、既に『日本書紀』に日本武尊を助ける白狐が登場している。
711年に、最初の稲荷神が登場する。 宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。 時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになった。
江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がった。 またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。 また仏教系の神である荼枳尼天は金狐・銀狐(きんこ・ぎんこ)という眷属を持ち、稲荷神と同一視される原因となったが、正確には稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物といわれる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 画像 】
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お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷

稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼ぶ。京都市伏見区にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社となっている。
総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神を主祭神として、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。
稲荷と表記するのが基本だが、稲生や稲成とする神社も存在する。稲荷神を祀る、赤い鳥居と白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。
狐は古来より日本人にとって神聖視されてきた。 720年、既に『日本書紀』に日本武尊を助ける白狐が登場している。
711年に、最初の稲荷神が登場する。 宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。 時代が下ると、稲荷狐は命婦の格(朝廷の屋敷の出入りが可能となる格。)を受け、命婦神あるいは白狐神として上下社に祀られるようになった。
江戸時代に入り、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めると共に、稲荷狐が稲荷神という誤解が一般に広がった。 またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。 また仏教系の神である荼枳尼天は金狐・銀狐(きんこ・ぎんこ)という眷属を持ち、稲荷神と同一視される原因となったが、正確には稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物といわれる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。

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お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷
2011年01月01日
初詣
新年あけましておめでとうございます。
『 初詣 』
元々は「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣であった。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。江戸時代末期までは氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でること(恵方詣り)が多かったのだが、明治以降では氏神や恵方とは関係なく有名な寺社への参詣が普通になっている。また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
寺社へ参拝を行って、社務所でお守り、破魔矢、風車、熊手などを買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年がよい年であるよう祈る。昨年のお守りや破魔矢などは、このときに寺社に納めて焼いてもらう。また境内では甘酒や神酒が振るわれ、飲むと厄除けになるとされる。
初詣の対象は神社・寺院のいずれでもかまわないとされている。これは明治時代初期に神仏分離が行われる前は、神道と大乗仏教、ならびに祖霊信仰が一体化した神仏習合による信仰が一般化していたためである。つまり、初詣に限らず寺社への参詣に神道・仏教の区別は無いとされていたことの名残である。
初詣には、特に定められた規定は無い。一般的に、正月三が日に参拝するのを初詣といっているが、1月中に参拝すれば特に問題はないともいう。また、回数に関する規定も無い。多数の神社仏閣に参詣すれば色々なご利益があるという説もあり、その場合神社・仏閣を特に問わない。

【 堺町内神社 : 大神稲荷 画像 】
両替屋さんの角を東に折れると鳥居がございます。

西の路地よりおでん屋さんの脇を進んでも行けます。

連なった鳥居をくぐり抜けます。

階段を昇ります。

神使のキツネがみえます。

東側の通りからも鳥居がございます。

お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷
『 初詣 』
元々は「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣であった。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。江戸時代末期までは氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でること(恵方詣り)が多かったのだが、明治以降では氏神や恵方とは関係なく有名な寺社への参詣が普通になっている。また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
寺社へ参拝を行って、社務所でお守り、破魔矢、風車、熊手などを買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年がよい年であるよう祈る。昨年のお守りや破魔矢などは、このときに寺社に納めて焼いてもらう。また境内では甘酒や神酒が振るわれ、飲むと厄除けになるとされる。
初詣の対象は神社・寺院のいずれでもかまわないとされている。これは明治時代初期に神仏分離が行われる前は、神道と大乗仏教、ならびに祖霊信仰が一体化した神仏習合による信仰が一般化していたためである。つまり、初詣に限らず寺社への参詣に神道・仏教の区別は無いとされていたことの名残である。
初詣には、特に定められた規定は無い。一般的に、正月三が日に参拝するのを初詣といっているが、1月中に参拝すれば特に問題はないともいう。また、回数に関する規定も無い。多数の神社仏閣に参詣すれば色々なご利益があるという説もあり、その場合神社・仏閣を特に問わない。

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お帰りには「舞姫破魔矢」と「年酒」を。

大神稲荷