
2011年08月18日
日本刀(3)

【みるきー舞姫公演 MOD女陰陽師 白蛇の間 画像】
室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀、脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。
南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。

江戸以降、刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。
武家文化の中心である江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、天草の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。
商業の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の商業力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。
刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。
【日本刀wikiより】

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