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2012年01月06日

大神稲荷(鏡開き)

武士は鏡開きで運を開きました。(1月11日)


お供えしていた鏡餅を木槌で叩き割る「鏡開き」はもともと武士の風習でした。男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を女性は鏡台に供えた「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。しかし、武家社会では「切る」という言葉を嫌いこのとき刃物は使いませんでした。それで、叩いて割るのですが、おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼ぶようになりました。

割ったお餅はお汁粉や揚げ餅に


お正月の間供えられていた鏡餅は、かびが生えたりひびが入ったりして持て余しがちですが、それを有効に利用する合理的な行事が「鏡開き」です。できれば飾る段階でかび対策をしておくといいでしょう。上下の餅の重なる部分と底に清潔なはけやカット綿を使い焼酎を塗っておくとかなりかびを防ぐことができます。それでもかびてしまったらその部分は削り取って、ひびのところから折ったり、木槌で叩いて割り、細かくします。これをお汁粉や、お雑煮に入れて食べるのがもっともオーソドックスな形。あべかわや揚げ餅にしてもおいしくいただけます。


※ 大神稲荷神社 場所
  


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2012年01月04日

大神稲荷(七草)

七草(ななくさ)は、人日の節句(1月7日)の朝に、7種の野菜が入った粥を食べる風習のことです。



人日とは文字通り "人の日"という意味で、中国の前漢の時代に、元日は鶏、2日は狗(犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、7日は人の日としてそれぞれの占いをたて、8日に穀を占って新年の運勢をみていたことに由来します。さらに唐の時代には、人日の日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という7種類の若菜を入れた汁物を食べて、無病息災を願うようになりました。羹はあつもの、汁という意味です。また、官吏昇進を1月7日に決めたことから、その日の朝に七種菜羹を食べ、立身出世を願ったといいます。


この風習が日本へ伝来し、年のはじめに若菜を摘んで頂戴し自然界から新しい生命力をいただく「若草摘み」という日本古来の風習と結びついて「七草粥」となり、平安時代の宮中行事として七草粥を食べるようになります。
さらに、江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句のひとつに定められ、定着していきました。
また、7日といえば松の内(一般的には1月1日~1月7日)の最後の日にあたります。七草粥が定着した背景には、お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をする効用もあり、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願うようになりました。



春の七草
一般的に、七草粥の七草は「春の七草」をさします。
●芹(せり)
水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
●薺(なずな)
別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材でした。
●御形(ごぎょう)
別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある。
●繫縷(はこべら)
目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった。
●仏の座(ほとけのざ)
別称はタビラコ。タンポポに似ていて、食物繊維が豊富。
●菘(すずな)
蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
●蘿蔔(すずしろ)
大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の予防にもなる。




【 みるきー舞姫 公演 奉納舞2011 】
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2011年12月25日

年の瀬

年末の事を『年の瀬』とも言うが、此の言葉は中々趣きも含蓄もある言葉だと思う。



『瀬』と言うと百人一首の『瀬を速やみ‥』を直ぐに思い出すが、少しく心得のある人ならば、一字だけで取れる『むすめふさほせ』の『せ』だから更に馴染み深い筈である。
水しぶきを上げて流れて居る『急流』が『瀬』だ。年末には『岩にせかるる』訳ではないが、江戸時代などでは盆と暮れのこ回の『節季せっき』に『節季払い(せっきばらい)』と言って纏めて支払いをする習慣だったらしいから、庶民にとっては大変でもあり気ぜわしくもあった事であろう。


【 大神稲荷神社 舞殿(まいどの) 】

年末最後の日は大晦日であるが、勿論これは当て字で元来は『大三十日』。太陰暦では『一日ついたち(月立ち)』から月が出初めて『十五夜』で満月、『三十日』は晦くらい夜だ。一年の最後のミソカがオオミソカと言う訳であるが、も少し古い雅やかな言葉では『大月隠り(おおつごもり)』と言うのがある。
しかし、太陰暦では一年に約5日ずつ太陽暦とズレて来るので、何年かに一度『閏年(うるうどし)』ならぬ『閏月(うるうづき)』と言って、適宜同じ月をダブラせて調節した。所謂『太陰太陽暦』である。
この場合1月でダブらせたりすると『ヤレヤレ節季が一月延びた』と喜ぶ庶民も居ただろうが、『今日は一体去年なのか、それとも今年なのだろうか』と悩む歌人も出て来たりして、ヤヤコシクなる事もあるのは致し方ない。何しろ、二日、三日‥と数を読んで行く所から『カヨミ』→『暦こよみ)』の言葉が作られたと思われるから、太陽の出没で(昔は日没から日の出まで)一日を決め、月の満ち欠けで一月を定めた訳であるが、農業の関係で一年を、となると再び太陽のお世話にならざるを得なくなる。


【 大神稲荷神社 東側鳥居 】

私達が子供の項、昭和の初め辺りまでは、年末となると『餅の賃杵きちんつき屋』と言われる職人が、臼、杵その他の道具一式を持って各家庭を回って来て、門前なり庭先で餅をついて呉れた。家の者は総出で、それを丸めたり延ばしたりして、丸餅やノシ餅にしたものである。近頃では先ず見られない風景であろう。その上、現在では正月に一斉に年を取る事も無くなったので、益々『年の瀬』に対する気持ちは昔とは違ったものになって居ると思われる。

日本では未だに『あらたまの年』『新春』と言った感情も新年に捌けての色々な行事習慣も残って居る。そして、それらが不思議と前にも書いた西欧のクリスマス(正確には冬至)頃の古い行事習慣とも似ているのである。例えばムチとアメを持った怖いオジサンや鬼がプレゼントを遣る序でにシツケして回る事だの、来年の豊作を願ってする諸行事。気候の差で若干のズレはアッテも農民が春を待つ心には洋の東西で違いは無いのだ、と言う事では無かろうか。

sakaiSIM内 大神稲荷神社 場所

  


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2011年12月23日

クリスマス

クリスマスは、キリスト教徒の国では一般に「イエス・キリスト」の誕生をお祝いする日です。しかし12月25日に日本では、一般的にバレンタインデーやホワイトデーなどのような楽しいイベントの1つという意味合いが強いです。


日本のクリスマスは、一般にラブイベントの特色が強いため家族・恋人向けに、様々な催し物が行われます。そのため11月末頃から、街はクリスマスカラーと呼ばれる赤・緑・白などの色とりどりの装飾品で飾り始められ、テーマソングである「ジングル・ベル」の曲が流れて、デパートや百貨店には、サンタクロース・トナカイ・もみの木などのオブジェや高級な「クリスマスの贈り物」が並びます。色気が出てきた街の景色を見て、「もう12月なんだ」と感じる方も多いのではないでしょうか。



クリスマスは、フランシスコ・ザビエルとともに伝来してから450年の歴史があり、明治後期・日露戦争と第一次世界大戦の間にはキリスト教徒の行事という枠を超えて、既に日本文化となっていたようです。明治時代にクリスマスの商業宣伝が始まり、初期のプレゼントの定番は「歯磨粉」だったようです。日露戦争後、急速に人々の間でクリスマスが広がっていきました。それは、西洋化をすることで「国際社会の一員」を意識するために必要なことだったようです。この頃、サンタクロースをヒントに「子供福袋」が登場してきます。(大晦日の晩に枕元に福袋を置いていました。24日で無いところがポイントです。)しかし、この習慣は、次第に修正され、子供たちはクリスマスを「サンタが子供におもちゃをくれる日」いうように理解するようになりました。そして大正時代に入ると、雑誌の12月号には毎年クリスマスをイメージした絵柄が使用されていたようです。戦後の日本復興支援としてGHQは、クリスマスにサンタの格好をした人がキャンディを配ったり、パラシュートで空から舞い降りててくるなどのクリスマスイベントを開き人々に笑顔を与えました。この物資の乏しかった時代には「愛を贈る日」として広がっていきました。その後、日本の経済が上向きになってくると、クリスマスは商業化をし始めました。マイホームを購入した家庭では、現在のようなケーキにシャンパン、ご馳走と言った「ホームクリスマス」を行うようになっていきました。

  


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2011年12月21日

冬至



冬至(とうじ)は、二十四節気の第22。十一月中(旧暦11月内)。

現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろ。恒気法は節気を冬至からの経過日数で定義するが、基点となる冬至は定気と同じ定義である。定気と恒気で一致する唯一の節気である。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは冬至日(とうじび)と呼ぶ。



秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となる。
なお、1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の半月後頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の半月前頃である。
また、天文学的な冬至とは別に、日本では慣習的に「一年中で一番昼が短く夜が長い日」のことを冬至と呼ぶことがある。南半球では昼と夜の長さの関係が北半球と逆転するため、南半球が日本の慣習的な意味での冬至を迎える日は、本来の夏至である。



日本では、この日にゆず湯に入り、冬至がゆ(小豆がゆ)やカボチャを食べると風邪をひかないと言われている。
中国北方では餃子を、南方では湯圓(餡の入った団子をゆでたもの)を食べる習慣がある。 また、この日は家族団欒で過ごすという風習もある。
冬至(あるいは、冬至から翌日にかけて、冬至の直後、など)には、世界各地で冬至祭が祝われる。太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝う日である。クリスマスも起源は冬至祭(ユール)である。
【 冬至wiki 】  


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2011年12月20日

2012年は、辰年。
辰(たつ、しん)は十二支のひとつです。通常十二支の中で第5番目に数えられます。


辰年は、西暦年を12で割って8が余る年が辰の年となります。
辰の月は旧暦3月・辰の刻は午前8時を中心とする約2時間
辰の方は東南東よりやや南寄り(南東微北)の方角です。
五行は土気、陰陽は陽です。
「辰」は『漢書』律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされます。
後に、覚え易くするために神話上の動物である龍が割り当てられました。
【 辰wiki 】



辰年生れの性格 
勝気な性格。喜怒哀楽が激しいため ともするとうるさがられます。
以外に古風な所があり、人との信頼関係を大切にします。
身体はとても頑丈な人です。

MOD女陰陽師 【 火龍の間 】第二話より

< 2011年撮影動画 >  


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2011年12月02日

針供養

針供養とは針仕事を休んで古い針を寺院や神社に納めて供養することをいいます。



針供養(はりくよう)は、折れた縫い針を供養し、近くの神社に収める行事。主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われる 。2月8日、または12月8日に行われる。関東地方や東北地方の一部では両方という地域もあるが 、ほとんどはどちらか一方の日に行われる。関東地方では2月8日、関西地方や九州地方では12月8日が普通であったが、大阪天満宮では2月8日、加太の淡嶋神社でも2月8日、嵯峨の法輪寺 (京都市西京区)では12月8日と2月8日の双方に行われるなど、必ずしも地域によって日時が固定しているわけではない。



かつて、12月8日と2月8日は事八日と呼ばれ、2月8日を事始め、12月8日を事納めとして、この日から農耕を始め終る日とされていた。両日はつつしみをもって過ごす日とされ、この日は針仕事を休むべきとされていた 。そして折れた針を神社に納めたり、豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養し、裁縫の上達を祈った。また、かつては土の中に埋めたり 、針を刺した豆腐や蒟蒻を川や海に流して供養するということも行われた。この日は針に触れないようにするという風習もある。富山県や石川県では針歳暮とも呼ばれ、饅頭や餡餅を食べたり知人に贈ったりすることが行われた。
現在では家庭で針仕事を行うことが少なくなり、家庭行事としては廃れた。一方で、和裁・洋裁の分野においてはこの行事は未だ根付いており、和裁や洋裁の学校では現在も行われている 。
「 針供養wiki 」


  
タグ :供養12月


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2011年11月29日

師走

旧暦の12月を「師走(しわす)」と呼び、現在でも新暦の12月の別名としても用いられています。


御師(おんし、おし)が走る。これが「師走」の語源です。それではこの御師とはどのような人たちだったのでしょうか。
昔の人々は「一生に一度はお伊勢参り」というくらいに、伊勢神宮へ詣でることを憧れ、あの時代にあって年間500万人もの人々が伊勢参りをしたという記録さえ残っています。しかしそれをなし得たのも、人々を伊勢神宮へガイドする職業があったからです。それが「御師」です。


御師は日本最古(世界最古?)の旅行業といわれるように、ただ人々を聖地へ先導するだけではなく、宿泊の手配や食事、土産の買い付けなど、至れり尽くせりのサービスでガイドをしたそうです。そういう意味では純粋な信仰心から「一生に一度はお伊勢参り」というだけではなく、伊勢参りには当時の人々にとってのバケーション旅行の意味合いもあったようです。ただ御師の呼称が「御祈祷師」の略とされているように、彼らはお祓いや神事なども行うことから、今風にいえばスピリチュアル・ガイドという位置づけがふさわしいといえるでしょう。そして、そんな御師が1年で最も忙しいのが師走なのです。

新しい年を迎えると私たちは神社へ参り、そこで新しいお神札をいただき、それまで神棚に収めてあった古いお神札と入れ替えます。そもそもこの神社のお神札を各家庭に掲げたり、神棚に祀るという習慣も、実は伊勢神宮が始まりなのです。

少々、現実的なエピソードとなりますが、その昔伊勢神宮が財政難に陥ったとき、それを打開するために、伊勢神宮のお神札を「神宮大麻」として配ることにしました。それをやがて全国の神社でも同じように、自社のお神札を氏子崇敬者たちに配布するようになったのです。そのような経緯から、日本全国どこの神社の社務所へ行っても、そこの神社のお神札とともに、伊勢の「神宮大麻」は必ず手に入れることが出来るのです。だから、各家庭で複数のお神札を掲げたり、神棚に祀る場合でも、天照大神の依代である「神宮大麻」は必ずその中心に据えることが習わしなのです。



今では私たち自ら神社に出向いていただくお神札も、その昔は御師が年末の慌ただしい中、各家庭に「神宮大麻」を配布していたのです。そして、「師走」という暦の名称になるほどに、御師が各家庭に「神宮大麻」を配布することが、日本では当たり前のことだったのです。またこうしたことからも、昔の人々にとって伊勢神宮が憧れの聖地であると同時に、いかに身近なものであったかということも、お分かりいただけたのではないでしょうか。



誕生石 - ターコイズ(トルコ石)、ジルコン、ラピスラズリ、ブルートパーズ
星座 - 射手座(12月21日頃まで)、山羊座(12月22日頃から)
誕生花 - 水仙、カトレア  


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2011年11月11日

えびす講

えびす講(えびすこう)は、おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼または民間行事


神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある。えびす祭やえべっさんとも言われる。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末社として祀っている社寺でもおこなわれる。
講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著である。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。
商業従事者や商業者団体がえびす講に合わせて安売りをおこなうこともあり、近年にはこの安売りイベント・商業祭というイベントとしてえびす講をおこなう地域もある。
えびす講の日には市が立ち、魚や根菜など青物が売られる。兵庫県西宮市の西宮神社では、えびす講に際して招福マグロが奉納されるのが恒例となっている。またたくさんの縁起物を飾った福笹あるいは熊手が販売される。この縁起物は神社から授与されるもので「吉兆」とも呼ばれる。
【えびす講wiki】



えびす講と酉の市

基本的には成立も違い、神社も違い、祭日も違うので関係なかろうと思います。
えびす(蛭子神)は西宮に寄り付いた客神とされ海の幸をもたらす漁業神でしたが、傀儡師などが神徳を宣伝した事から、
のちに市の神ともなり七福神にも取り入れられ、商売の神・福の神となっています。蛭子・戎の漢字は悪字なので、福の神として恵比寿・恵比須とも書きます。
関西では、年明けの初えびすを十日戎・えべっさんとし、非常に盛んです。
このとき、商売人は熊手を買いますが、これは福をかき寄せるという語呂から来た物で、酉の市との共通点というより、縁起物の起源に関わるのではないでしょうか。
講の本来の意味は、目的のための集まり(同村・知り合い)ということで、伊勢参りの伊勢講・富士を霊山とし参詣する富士講や、頼母子講・二十三夜講などの月待講・妙見講などさまざまな講がありました。頼母子講は別ですが、信仰・民俗に由来するものが多いです。
【 知恵袋より 】
  


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2011年11月10日

酉の市



酉の市(とりのいち)・酉の祭(とりのまち)・大酉祭(おおとりまつり)・お酉様(おとりさま)は、例年11月の酉の日に行われる「祭礼」。関東地方だけではなく名古屋市大須の稲園山七寺(長福寺)・大阪府大鳥大社など日本各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われている年中行事である。
鷲神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰される。
大鳥大社(大阪府堺市西区)または鷲宮神社(埼玉県久喜市)が鷲神社の本社とされる。鷲宮神社の祭神は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命である。日本武尊が東征の際、この神社で戦勝を祈願したとされる。古くからこの神社を中心に「酉の日精進」の信仰が広まり、12月の初酉の日には大酉祭が行われる。
江戸時代には、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑)にある大鷲神社(鷲大明神)が栄え、「本酉」と言われた。この花又鷲大明神を産土神とする近在住民の収穫祭が江戸酉の市の発端といわれている。現在の大鷲神社の祭神は日本武尊で、東征からの帰還の際、同地で戦勝を祝したとされる。江戸時代には、大鷲神社の本尊(本地)は鷲の背に乗った釈迦とされた。大鷲神社の酉の市は、15世紀初めの応永年間に始まるとされ、参詣人は、鶏を献納して開運を祈り、祭が終了した後浅草観音堂前(浅草寺)に献納した鶏を放った。
江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山長国寺(じゅざいさん・ちょうこくじ、法華宗本門流)境内の鷲大明神社(東京都台東区千束)で行われた酉の市である。「本酉」「大酉」と呼ばれた花又の酉の市に対して「新酉」と呼ばれた。当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩(みょうけんだいぼさつ。)とも呼ばれて、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。鷲大明神社は「鷲宮(わしのみや)」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。明治初年には神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに引き分けられた。現在の鷲神社の祭神は、天日鷲命と日本武尊。


「 菜 :わたせせいぞう画像より 」

酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされる。
神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われる。また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。
仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。1265年(文永2年)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、明星(金星)が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後1771年(明和8年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった。
実際は、花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が江戸酉の市の発端といわれる。鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれ当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み、社家は鶏卵さえ食べない。近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのである。このように鶏を神とも祀った社は、綾瀬川に面しているため水運による人、物の集合に好適であった。そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり、そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳されたが安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微する。
かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草長国寺に安置された鷲ノ巣の妙見菩薩へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至るのである。また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であった。時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、今では関東の多くの寺社で開催されるようになった。
このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのである。



熊手守りと縁起熊手 [編集]「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与され、福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。酉の市の縁起物は、江戸時代より熊手の他に「頭の芋(とうのいも)」(唐の芋)や粟でつくった「黄金餅(こがねもち)」があった。頭の芋は頭(かしら)になって出世する、芋は子芋を数多く付ける事から子宝に恵まれるとされ、黄金餅は金持ちになれるといわれた。しかし幕末頃から売られるようになった「切り山椒」が黄金餅に変わって市の縁起物となり現在にいたっている。本格的な寒さを迎えるこの時期、これを食べれば風邪を引かないといわれる。

縁起物の代表である熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれ、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められている。熊手は熊手商と買った(勝った)、まけた(負けた)と気っ風の良いやり取りを楽しんで買うものとされ、商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる(商品額をまけさせて、その差し引いた分を店側に「ご祝儀」として渡すことを「粋な買い方」とする人もおり、手締めはこの「ご祝儀」を店側が受け取った場合に行われる場合が多い。つまり、この方法でいくと結局は定額を支払っているわけだが、ご祝儀については明確に決まっているわけではなく、差し引き分以上の場合もあれば、小銭程度であったりと買い手側の意思に大きく依存されているようである)。熊手は年々大きくしてゆくものとされ、大小様々なものが売られている。
 【 酉の市wiki 】  


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2011年11月01日

七五三

七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力である。



男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁より)。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多い。地方によっては男の子の3歳を行わない所もある。現在では北海道を除いた全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。



旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土日・祝日に行なうことも多くなっている。北海道等、寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行なう場合が多い。3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。現代では行事に正装に準じた衣装(晴れ着)で臨み、洋服の場合もあるが和服の方が多い。少女(極稀に少年)は、この時に初めて化粧(厚化粧の場合が多い)をして貰う場合が多い。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。



七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝う。千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約15mm以内、長さ1m以内)、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されている。千歳飴は、鶴亀(つるかめ)や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされている。



千歳飴の製法には地方ごとに形状や色が異なる。
関東の千歳飴は水飴と砂糖を材料とし、鍋の中で140度程度の熱に達するまで煮詰めたのち鍋から取り出して平たく展ばして冷却する。硬化しはじめて柔らかい塊状にまとまった飴に均等に空気を混ぜるために飴の塊を棒に引っ掛け、引き伸ばしながら何層にも折り返す製白機と呼ばれる機械に掛ける。この工程により透明の飴に中に無数の空気の細い隙間が生じ乱反射して白く見えるようになり、千歳飴独特の舌触りの食感が生まれる。触ると火傷するほど熱を帯びた飴の塊を製白機から外し、手または機械で細長く伸ばし、平たい台の上で転がして均等な太さに成形し、適当な長さで切り口が欠けないように包丁を用いて叩くようにして切断する。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べる。  


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2011年10月30日

霜月まつり~千と千尋の神隠し

日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。


誕生石 - トパーズ
星座 - 蠍座(11月22日頃まで)、射手座(11月23日頃から)
誕生花 - 椿、クリスマスローズ

霜月まつり
日本の古き良き伝統行事を今に伝える地域・遠山郷。 この地域を代表するお祭りが「霜月祭り」です。 毎年12月に地域内の複数の神社で、神に捧げる舞や祈祷が夜通し催されます。 遠山郷には日本の伝統文化が息づいています。



赤石山地西麓を走る中央構造線に沿って連なる細長いV 字状の峡谷、ここが霜月まつりを伝えている遠山郷です。
遠山郷は西に伊那山脈、東に赤石山脈、それぞれの崩壊土壌によって農耕地が形成され、集落はそれらの斜面や河川の流域に点在しています。
こうした環境と生活の厳しさが、厚い信仰を育み素朴で優雅な霜月まつりを現在に伝える風土をつくりました。

遠山郷は古来、信濃国伊那郡江儀遠山の庄と言われ、歴史のなかで最初に顔を出すのは、文治二年(1186)に編まれた「吾妻鏡」においてです。南アルプスの山々に雪が白くかかる頃、祭り笛が谷を流れます。里人が待ちわびた年一回の神と人間の出会いの夜です。煮えたぎる神々の湯を浴びて、里人たちは身を清め、春まく種も稔り豊かに、平和で豊かな里であることを祈願するのです。


『千と千尋の神隠し』の原点、遠山霜月まつり


霜月祭りは「神様にお湯を差し上げる」祭りであるといわれます。あえて学問的に言うなら、「湯を浴びて穢れを祓い、清らかな魂を得て生まれ変わる」祭りです。 つまり全国の神々は、一年の垢を落としてリフレッシュしたいがために、手ぬぐい片手にはるばる遠山までやってくるわけです。 神々にとって霜月祭りの舞殿は、まさしく最高の銭湯です。・・・もっとも、湯上りの神様を待っているのは牛乳ではなく、ダイコンもしくは豆腐のカスですが。 千尋は、銭湯「油屋」での体験を経て、たくましく生まれ変わります。 彼女の活躍を見守ったわたしたちも、「良かった~」と感動で顔を上気させながら、スクリーンを後にします。映画館から出てきた直後は、見慣れたはずの町の風景が、なんだか新鮮に感じられます。銭湯・映画館・霜月祭り。どれもみな、一種の「生まれ清まり」の場なのかもしれません。

尋は暗い通路を抜けて、神の世界へと迷い込みます。遠山郷の場合でも、村に入るためには必ずトンネルを抜けなければなりません。 照明がなく片側通行の狭いトンネルもあり、これらは昔ながらに「隧道」と呼んだほうがしっくりきます。こうした隧道たちが、「秘境遠山郷」の演出に一役買っていることは間違いないでしょう。

トンネルは、この世とあの世(=異界)をつなぐ通路。


トンネルのあちらとこちら、どちらがこの世でどちらのあの世かは、人それぞれ違うでしょう。 けれどトンネルがしばしば「産道」にも例えられることを考えれば、日本最大の山脈に抱かれた遠山郷は、母なる大地の「子宮」にあたります。だからこそ、「生まれ清まり」の霜月祭りがこんにちまで伝承されている、のかもしれませんね。

  


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2011年10月25日

秋の行事

神嘗祭

神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。五穀豊穣の感謝祭にあたるもので、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が執り行われる。


宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が執り行われる。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦9月17日に奉納していた。明治5年(1872年)の太陽暦改暦以降は新暦9月17日に実施するようになったが、これでは稲穂の生育が不十分な時期になってしまうため、明治12年(1879年)以降は月遅れで新暦10月17日に行われるようになった。
古来より、神嘗祭には皇室から神宮に幣帛使が派遣されていたが、応仁の乱以降は中断されることも多くなった。江戸時代に入り正保4年(1647年)に幣帛使の発遣が復活して以降、今日まで途切れることなく発遣が行われている。
明治4年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われるようになった。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治6年、祝祭日として神嘗祭の行われる日は国定の休暇日とされた。
昭和23年(1948年)からは、国民の祝日に関する法律の施行により、国定の休暇日ではなくなり、宮中三殿と神宮(伊勢神宮)で儀式を執り行っている。神宮へは、皇室から幣帛と、勅使(掌典)が遣わされ、奉幣の儀が奉仕される。
「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われている。「饗え」は食べ物でもてなすという意味の古語である。また、饗は新殻を意味する贄(にえ)の転じたものという説もある。



神宮では、神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。神宮の正月ともいわれる。20年に一度行なわれる神宮の式年遷宮は、実は大規模な神嘗祭だと言われている。式年遷宮後最初に行われる神嘗祭は、神宮では「大神嘗祭」とも呼ばれる。伊勢の民衆は、この祭りを「おおまつり」と呼び、奉祝の各種行事を行う。神宮の神職や伊勢の神領民はこの祭りが終わるまで新穀を口にしないといわれているが、実際に守られているかどうかは定かではない。

新嘗祭(にいなめさい)

日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。 その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。
一時中断されたが、元禄時代の東山天皇の在位中に復活した。1873年の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日に行われていた。
1873年から1947年までは祝祭日となっており、その後も勤労感謝の日として国民の祝日になっている。
新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。
現代では稀であるが、新嘗祭まで新米を口にしない風習も残っている。
【 神嘗祭・新嘗祭wikiより 】





堺(Japan Graffiti sakai SIM)大神稲荷神社 場所  


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2011年10月04日

亥の子

亥の子は、旧暦10月(亥の月)の亥の日に行われる年中行事。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面をついて回る、などがある。



歴史的には、古代中国で旧暦10月亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説や、古代における朝廷での事件からという伝承もある。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる。

【 亥の子餅 】
旧暦10月亥の日亥の刻に食べる。餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある。



旧暦10月の亥の日の夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たちが集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さも1kg~10kg程度と地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦10月10日に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる。 石を搗いた後は各家庭の庭先に石の形に半球の穴がのこり、大きいほど喜ばれた。またその風景が初冬の風物詩であったが、近年はコンクリートなどで舗装している場合がほとんどで、小さな畳を持ち運びその上で搗いたり、空中で搗く動作だけを行ったり、引き合うことでこすったりする地方もある。

  


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2011年10月01日

神無月

日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、現在では新暦10月の別名としても用いる。



醸成月(かみなんづき): 新穀で新酒を醸す月
神嘗月(かんなめづき): 新嘗(にいなめ)の準備をする月
神な月(かみなづき):「神の月」の意
雷無月(かみなしづき):雷のない月



神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」とする事である。
また、出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めたと俗説とされる。
出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。
旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われる。その後、旧暦10月11日から17日まで出雲大社で会議が行われるとして、その間「神在祭」が行われる。旧暦10月18日には、各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われる。出雲大社の荒垣内には、神々の宿舎となる「十九社」がある。日御碕神社(出雲市大社町)・朝山神社(出雲市朝山町)・万九千神社(斐川町)・神原神社(雲南市)・佐太神社(松江市鹿島町)・売豆紀神社(松江市雑賀町)・神魂神社(松江市大庭町)・多賀神社(松江市朝酌町)でも神在祭にまつわる神事が行われる。出雲地方のほかに神在月とする地域が一ヶ所あり、諏訪大社の周辺となっている。これは伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。



出雲大社に神が集まるのは、一般には縁結びの相談のためとされている。そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習が、北九州では神が出雲に向かう日と帰ってくる日には未婚の男女がお籠りをする風習があった。
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある。出雲に祭神(さいじん)が出向いてしまっては、その地域を鎮護(ちんご)するものがいなくなるということから、「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになった。一般に留守神には恵比須神が宛てられ、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある。鹿島神宮の祭神は、地震を起こす原因と考えられた「地中に棲む大鯰(おおなまず)」を、押さえつける「要石」を鎮護するものであり、過去において神無月に起きた大地震の幾つかは、鹿島の神が出雲に出向いて留守だったために起きたと伝承されているものがある。



誕生石 - オパール、トルマリン
星座 - 天秤座(10月23日頃まで)、蠍座(10月24日頃から)
誕生花 - 菊、コスモス、ガーベラ、クルクマ




場所:Japan Graffiti sakai SIM   


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2011年09月22日

秋分

現在広まっている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったときで、9月23日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。西洋占星術では、秋分を天秤宮(てんびん座)の始まりとする。


日本ではこの日は国民の祝日の「秋分の日」となる。秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして閣議決定され、前年2月1日に暦要項として官報に告示される。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、彼岸の中日でもある。
春分と同様に、秋分では昼夜の長さがほぼ同じになる。『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。



秋分の日を中心とした一週間を「秋彼岸〔あきひがん〕」と言います。各家々では、家族そろってお墓参りに行ったり、祖先を供養する「法会〔ほうえ〕」が行われたりします。
元々農村部では、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を祝う自然信仰があり、山の神様である祖先の霊を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていました。しかし、仏教の浸透とともに秋分は「秋の彼岸」として祖先を供養する意味を持ち始めました。
明治時代に秋分の中日を「秋季皇霊祭〔しゅうきこうれいさい〕」と定め、宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着していきました。
1948年には、お寺参りの日・先祖供養の日など、宗教的慣例としてのまつりの日だけではなく、広い意味で「祖先を敬い、亡くなった人を忍ぶ日」として国民の祝日に制定されました。



秋分(春分)の3日前の日を「彼岸の入り」といい、3日後を「彼岸の明け」と言い、その7日間を彼岸と言います。秋分・春分はその中間に位置するため「彼岸の中日」と呼ばれています。
また「彼岸」とは元々仏教用語で「煩悩に満ちた世界から解脱した悟りの世界」を指します。これは、簡単に言えば「亡くなった先祖達の霊が住む世界」のことです。その祖先の霊を供養するために、私たちはお彼岸になると「お墓参り」へ行きます。
【 秋分wiki 他 】


【 祈り 第一幕 】2009年舞台動画  


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2011年09月14日

秋(あき)は、四季の1つであり夏の後、冬の前に位置する。



日本では夏の暑さがやわらぎ過ごしやすい季節。日中は暑いが、朝晩に肌寒さを覚えたり、吹いてくる風に爽やかさを感じたりする。夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。夏休みが終わって新学期が始まり、運動会や文化祭がある。稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾る。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が永く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる。夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書や夜なべにいそしんだりする。朝寒夜寒が段々とつのって、昼夜の温度差が大きくなり、野の草には露が置き、木々は紅葉してくる。色付いた葉が散りはじめると、重ね着が増え、暖房が入り、秋も終わりに近づく。



気候がよく過ごしやすいことから、秋祭りや運動会などの行事も多く開かれ、たいへん賑やかな季節でもある。「食欲の」「スポーツの」「読書の」「芸術の」など、さまざまな言葉が冠される。



秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、果実が生じる。これは夏ほど暑くない、好適な気温の季節であること、それに冬を迎えるために多年生の生物は冬を越す準備を、そうでないものは往々にして生活史の終結を迎えなければならないためである。空気は晩秋へ向かうほどに透明度を増し、斜陽が独自の陰影を作る。
「秋wikiより」

※ 秋になると一番思い出す曲 「ちいさい秋みつけた」かな?



※ MOD竹取物語予告: みるきー舞姫秋公演動画(2010年)です。

  


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2011年09月10日

月見

月見(つきみ)とは、月、主に満月を眺めて楽しむこと


月見は、主に旧暦8月15日から16日の夜(八月十五夜)と、日本では旧暦9月13日から14日の夜(九月十三夜)にも行われる。そのため、月見に関する話題で単に「十五夜(じゅうごや)」「十三夜(じゅうさんや)」と言うと、これらの夜を意味する。
中国や日本では、単に月を愛でる慣習であれば古くからあり、日本では縄文時代頃からあると言われる。ただ、『竹取物語』には、月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があり、月見を忌む思想も同時にあったと推察される。


※ 大神稲荷神社画像

「 八月十五夜 」
この夜の月を「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」と呼ぶ。
「仲秋の名月」という表現もあるが、これだと「陰暦8月の月」を指し、十五夜の月に限定されなくなる。「仲秋」とは、秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分した場合、旧暦8月全体を指す。対して「中秋」とは「秋の中日」=陰暦8月15日のみを指す。
加えて、中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月(むげつ)」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と呼び、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を賞するものとされる。また、俳諧では8月14日~15日、16日~17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でる。



中国から仲秋の十五夜に月見の祭事が伝わると、平安時代頃から貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しむ)で歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。
現在では、月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めた(お月見料理)。この時期収穫されたばかりの里芋を供えることから、十五夜の月を特に芋名月(いもめいげつ)と言う地方もある。

「 九月十三夜 」
八月十五夜の月に対して「後(のち)の月」と呼ばれる。十三夜は日本独自の風習と言われている。ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月(まめめいげつ)または栗名月(くりめいげつ)と呼ばれる。

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった。(月見wikiより)

  


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2011年08月29日

長月(ながつき)

日本では、旧暦9月を長月(ながつき)と呼びます。


現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある。

英語での月名、Septemberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第7の」という意味の「septem」の語に由来しているのに不一致が生じているのは、紀元前153年に、それまで3月を年の始めとしていたのを1月を年の始めとすると改めたにもかかわらず、名称を変えなかった為であり、7月と8月にローマ皇帝の名が入ってずれたというのは俗説である。これは7月がガイウス・ユリウス・カエサルによって「Julius」に改める以前は「Quintilis」といい、これがラテン語で「第5の」という意味の「quintus」の語に由来していて、既にずれが発生していたことからもわかる。

【 異名 】
いろどりづき(色どり月)、いわいづき(祝月)、えいげつ(詠月)、きくさきづき(菊開月)、きくづき(菊月)、くれのあき(晩秋)、げんげつ(玄月)、けんじゅつづき(建戌月)、せいじょづき(青女月)、ちくすいづき(竹酔月)、ながつき(長月)、ねざめづき(寝覚月)、ばんしゅう(晩秋)、ぼしゅう(暮秋)、もみじづき(紅葉月)


【 桔梗画像 】

・誕生石 - サファイア
・星座 - 乙女座(9月22日頃まで)、天秤座(9月23日(秋分)頃から)
・誕生花 - リンドウ、芙蓉、桔梗
「 長月wikiより 」


【 みるきー舞姫 MOD女陰陽師公演 白蛇の間 動画 NEW 】


● 次回開催日  2011年9月11日(日)22:00  


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2011年08月12日

八朔

八月の和の行事・しきたり

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のこと。別名「たのみ」の節句ともいいます。

Milkyhouse kimono

「たのみ」には、秋の豊作を祈願する「田の実」と、よく「頼み」ごとをする相手に贈り物をして繋がりを強めておく、という二つの意味がこめられています。
もともと八朔は、農家が田の神に作頼みをする日でした。田畑に供えものをし、採り入れたばかりの稲などを主家や知人などに贈って祝い、豊かな実りを祈願してきました。
「頼み」の風習のほうは町中で流行するようになり、それぞれが贈り物を交わすことによって祝賀と調和を表すようになりました。一方、武家社会で「頼み」の節句という意味合いを併せ持つようになったのは鎌倉時代あたりからで、主従関係を強めるための「八朔の祝い」と称する贈答が盛んに行われるようになりました。
江戸時代に入ると、この日に徳川家康が初めて江戸城に入ったとされ八朔は重要な式日になりました。諸大名や直参旗本なども白帷子の盛装で登城し、将軍家へ祝詞を申し述べる行事が行われました。
また、江戸吉原では、八朔に遊女たちが白無垢の小袖を着て。客席に出たり、花魁道中を行ったりしました。

Milkyhouse kimono

京都祇園では、八朔には芸妓・舞妓らが盛装して、踊りや笛太鼓などの師匠、出入りの茶屋などへあいさつに回る古くからのしきたりがあります。


【 みるきー舞姫 2011年夏公演 告知動画 】

2011年8月21日(日)22:00開演 / 場所:ミルキーハウスSIM




  


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