
2010年11月12日
公開 【みるきー舞姫】 動画
みるきー舞姫10月公演 『MOD竹取物語』動画
※MOD:Maihime Original Designed

2010年秋 MOD竹取物語
※竹林テクスチャーご提供 mizuki Morigi様、着物 Milky House
舞姫公演は10月17日(日)/ 31日(日)の2回開催されました。
また公演では2つの新しいことを取り入れました。
●字幕: HUDを門でお受取りいただければ字幕が画面左に出て物語の語りがみれました。
●徒歩: 隣接する五つの舞台を歩いて移動する公演となりました。







----------------------------------------------------------
11月 みるきー舞姫公演
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
※MOD:Maihime Original Designed

2010年秋 MOD竹取物語
※竹林テクスチャーご提供 mizuki Morigi様、着物 Milky House
舞姫公演は10月17日(日)/ 31日(日)の2回開催されました。
また公演では2つの新しいことを取り入れました。
●字幕: HUDを門でお受取りいただければ字幕が画面左に出て物語の語りがみれました。
●徒歩: 隣接する五つの舞台を歩いて移動する公演となりました。







----------------------------------------------------------
11月 みるきー舞姫公演
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )

2010年11月11日
公開 【みるきー舞姫】 動画
みるきー舞姫10月公演 『MOD竹取物語』動画
※MOD:Maihime Original Designed

2010年秋 MOD竹取物語
※竹林テクスチャーご提供 mizuki Morigi様、着物 Milky House
舞姫公演は10月17日(日)/ 31日(日)の2回開催されました。
また公演では2つの新しいことを取り入れました。
●字幕: HUDを門でお受取りいただければ字幕が画面左に出て物語の語りがみれました。
●徒歩: 隣接する五つの舞台を歩いて移動する公演となりました。







----------------------------------------------------------
11月 みるきー舞姫公演
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
※MOD:Maihime Original Designed

2010年秋 MOD竹取物語
※竹林テクスチャーご提供 mizuki Morigi様、着物 Milky House
舞姫公演は10月17日(日)/ 31日(日)の2回開催されました。
また公演では2つの新しいことを取り入れました。
●字幕: HUDを門でお受取りいただければ字幕が画面左に出て物語の語りがみれました。
●徒歩: 隣接する五つの舞台を歩いて移動する公演となりました。







----------------------------------------------------------
11月 みるきー舞姫公演
女 た ち の 変 遷( 江 戸 ~ 大 正 時 代 )
2010年11月09日
大正浪漫
大正ロマン(たいしょうロマン、しばしば「大正浪漫」とも表記される)とは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉である。なお「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされる。

ROMANSIM
19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受け、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮にかぶせて、このように呼ばれるようになった。
大正時代は、明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも、国内外が激動の時代であった。特に日本では明治維新を経て開国し、二度の戦勝(日清・日露)による好景気も得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
文明開化を経て封建主義や鎖国の影響も影を潜め、欧米から近代文化がどっと流入する。農村村落の風景は変わらないものの、明治の45年間をかけて、徐々に町や都市の基盤が形作られた時期である。録音や活動写真、そして印刷技術などの発達による新しいメディアの出現もあり、文化・情報の伝播がいっそう促進された時代でもある。「大正デモクラシー」、つまり民本主義が台頭(民衆と女性の地位向上)し、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。かつてはそれぞれ孤立していた地方農村にも、鉄道の発達や自動車の出現による人々の移動や物資の流通増加に伴い、このような都市の状況がいち早く伝わるようになった。( 大正ロマンwikiより )

MILKYHOUSE

ROMANSIM
19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受け、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮にかぶせて、このように呼ばれるようになった。
大正時代は、明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも、国内外が激動の時代であった。特に日本では明治維新を経て開国し、二度の戦勝(日清・日露)による好景気も得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。
文明開化を経て封建主義や鎖国の影響も影を潜め、欧米から近代文化がどっと流入する。農村村落の風景は変わらないものの、明治の45年間をかけて、徐々に町や都市の基盤が形作られた時期である。録音や活動写真、そして印刷技術などの発達による新しいメディアの出現もあり、文化・情報の伝播がいっそう促進された時代でもある。「大正デモクラシー」、つまり民本主義が台頭(民衆と女性の地位向上)し、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。かつてはそれぞれ孤立していた地方農村にも、鉄道の発達や自動車の出現による人々の移動や物資の流通増加に伴い、このような都市の状況がいち早く伝わるようになった。( 大正ロマンwikiより )

MILKYHOUSE
2010年11月08日
文明開化
源氏物語14帖まで綴りましたが、一時休憩です。15帖以降は後程。
さて、時間を一気に進ませてみます。

ROMAN(大正浪漫)SIM
日本の開国-それは、世界史的にもめずらしい強烈な文化的ショックとしてとらえることができる。二百五十年にわたる鎖国のあと突如として、日本のまえには「世界」があらわれてきたのだ。それは、暗黒からいきなり白昼の光線のなかにとび出したようなものだった、といってもよい。日本にとって、「世界」は、まぶしかった。
「世界」からの使者として、「西洋人」がやってきた。かれらは、めずらしい風俗や、製品や、習慣を日本にもってきた。もちろん、桃山時代に日本人は、すでに「西洋人」を見たことがあった。そのころ、「西洋人」に教えられたいくつもの文物を、鎖国期間中ももちつづけ、日本的に洗練させたりもしてきた。たとえば-てんぷら、かるた。
しかし、「西洋人」がこんなに堂々と日本の首府の周辺にあらわれた、というのは、はじめての経験であった。しかも、かれらのもってきたすべてのものは、かつての日本人が知っていた南蛮の文物とはくらべものにならないほど精巧で、おどろくべき性能をもっていた。かつて織田信長は、南蛮渡来の鉄砲をいち早く採用し、それによって長篠の合戦に大勝利をおさめ、そこから天下統一への第一歩をふみ出したのであったが、いま、日本人のまえには、蒸気でうごく巨大な軍艦や、汽車や、電気や、その他もろもろの機械類があった。それは、桃山期における鉄砲があたえたショックの数十倍のショックであったというべきであろう。
日本人は、直観的に、そして無条件に、「西洋」のほうが日本よりすぐれている、という事実をみとめた。すくなくとも、その力において、日本は西洋にかなわない、という事実をみとめた。なすべきことはただひとつ。「西洋」のもっているものを、一刻も早く日本がもつことである。そのためには、大至急に「西洋」のすべてを学ばなければならない。
明治政府は、その発足と同時に、世界史に類例のない、閣僚の「半舷上陸」をおこなった。すなわち岩倉具視以下百人あまりの重要人物が、明治四年から二年間にわたって欧米視察の旅行に出かけたのである。三条実美らが日本にとどまる留守部隊だが、日本の政治の半分は、新政府発足とともに、日本をはなれてしまったのだ。「西洋」を、かけ足で日本にとりこむための大英断というべきであろう。
視察旅行の収穫は大きかった。「西洋」の途方もない偉大さがわかってきた。とにかく、「西洋」のもっているすべてのものを、とりこむべきだ、という方針が立てられ、政治組織も軍隊も経済組織も、おどろくべきスピードで、西洋式に切りかえられていった。欧化時代のはじまりである。
その欧化時代の極点をよきにつけあしきにつけ、象徴するのは、鹿鳴館であろう。鹿鳴館は明治十六年に完成した二階建の煉瓦の建物、その場所は、ちょうど現在の帝国ホテルから二百メートルほど田村町に寄ったところであった。

鹿鳴館は、日本の新上流社会と、欧米外交官などの利用する社交クラブであった。そしてそこに出入りする日本人は、その服装・作法など、ことごとく西洋に倣うのであった。つい十数年まえまでは、刀を差し、ちょんまげを結っていた明治の元勲が鹿鳴館では西洋式の礼服を身につけ、洋酒をすすり、ダンスをした。外国人と交際しなければならない、というので、外国語の会話練習もさかんになった。
鹿鳴館完成の翌年、すなわち明治十七年には、ヤンソンという人物がダンス教師となり、日本の貴顕淑女にダンスを教えた。有名な鹿鳴館の仮装舞踏会がおこなわれたのは明治二十年のことであった。
さて、時間を一気に進ませてみます。

ROMAN(大正浪漫)SIM
日本の開国-それは、世界史的にもめずらしい強烈な文化的ショックとしてとらえることができる。二百五十年にわたる鎖国のあと突如として、日本のまえには「世界」があらわれてきたのだ。それは、暗黒からいきなり白昼の光線のなかにとび出したようなものだった、といってもよい。日本にとって、「世界」は、まぶしかった。
「世界」からの使者として、「西洋人」がやってきた。かれらは、めずらしい風俗や、製品や、習慣を日本にもってきた。もちろん、桃山時代に日本人は、すでに「西洋人」を見たことがあった。そのころ、「西洋人」に教えられたいくつもの文物を、鎖国期間中ももちつづけ、日本的に洗練させたりもしてきた。たとえば-てんぷら、かるた。
しかし、「西洋人」がこんなに堂々と日本の首府の周辺にあらわれた、というのは、はじめての経験であった。しかも、かれらのもってきたすべてのものは、かつての日本人が知っていた南蛮の文物とはくらべものにならないほど精巧で、おどろくべき性能をもっていた。かつて織田信長は、南蛮渡来の鉄砲をいち早く採用し、それによって長篠の合戦に大勝利をおさめ、そこから天下統一への第一歩をふみ出したのであったが、いま、日本人のまえには、蒸気でうごく巨大な軍艦や、汽車や、電気や、その他もろもろの機械類があった。それは、桃山期における鉄砲があたえたショックの数十倍のショックであったというべきであろう。
日本人は、直観的に、そして無条件に、「西洋」のほうが日本よりすぐれている、という事実をみとめた。すくなくとも、その力において、日本は西洋にかなわない、という事実をみとめた。なすべきことはただひとつ。「西洋」のもっているものを、一刻も早く日本がもつことである。そのためには、大至急に「西洋」のすべてを学ばなければならない。
明治政府は、その発足と同時に、世界史に類例のない、閣僚の「半舷上陸」をおこなった。すなわち岩倉具視以下百人あまりの重要人物が、明治四年から二年間にわたって欧米視察の旅行に出かけたのである。三条実美らが日本にとどまる留守部隊だが、日本の政治の半分は、新政府発足とともに、日本をはなれてしまったのだ。「西洋」を、かけ足で日本にとりこむための大英断というべきであろう。
視察旅行の収穫は大きかった。「西洋」の途方もない偉大さがわかってきた。とにかく、「西洋」のもっているすべてのものを、とりこむべきだ、という方針が立てられ、政治組織も軍隊も経済組織も、おどろくべきスピードで、西洋式に切りかえられていった。欧化時代のはじまりである。
その欧化時代の極点をよきにつけあしきにつけ、象徴するのは、鹿鳴館であろう。鹿鳴館は明治十六年に完成した二階建の煉瓦の建物、その場所は、ちょうど現在の帝国ホテルから二百メートルほど田村町に寄ったところであった。

鹿鳴館は、日本の新上流社会と、欧米外交官などの利用する社交クラブであった。そしてそこに出入りする日本人は、その服装・作法など、ことごとく西洋に倣うのであった。つい十数年まえまでは、刀を差し、ちょんまげを結っていた明治の元勲が鹿鳴館では西洋式の礼服を身につけ、洋酒をすすり、ダンスをした。外国人と交際しなければならない、というので、外国語の会話練習もさかんになった。
鹿鳴館完成の翌年、すなわち明治十七年には、ヤンソンという人物がダンス教師となり、日本の貴顕淑女にダンスを教えた。有名な鹿鳴館の仮装舞踏会がおこなわれたのは明治二十年のことであった。
2010年11月07日
澪標
第14帖 澪標(みおつくし) 源氏28歳10月から29歳冬の物語


藤壷の宮との不義の子「冷泉帝」が即位し、内大臣として復権。
明石の君の出産。愛人六条の御息所の死。
須磨でのまる2年と4か月のわびしい生活に終止符がうたれ、源氏や昔の左大臣家の人々に再び明るい春が訪れてきました。
源氏の弟宮(本当は実の子)「冷泉帝」が即位し、源氏も内大臣となります。
その喜びの中で、これまで出会った数々の女君たちのその後が語られます。
出産、死、そしてまた新たな恋・・・・・・。
------------------------------------------------------------
夢にあらわれた故桐壷院の姿を見た源氏は、早速追善供養のための法会(法華八講)を催します。これで名実共に政界における主導権を握ったことになります。
朱雀帝は、源氏の帰還に心やすらぎ、病も癒えるものの、長からぬ余命を心細く思い、退位を決断しますが、
それにつけても、今なお源氏へ思いを寄せる朧月夜尚侍をいとおしくもうらめしくも思うのでした。
翌年2月。東宮が元服し、冷泉帝となります。それを機に、朱雀帝は譲位し、源氏は内大臣となり、前左大臣も太政大臣に復帰して、かくて源氏方の人々が政界の主流にすわるようになります。
源氏は、これまでにかかわりを持った女君たちのために、二条院の東院造営を思い立ちます。
三月、明石の君に姫君が誕生しました。源氏は、やがては后となるべき姫のために乳母を選び明石へ送ります。
明石入道は、源氏の配慮をありがたく思い、源氏と別れて物思いに沈んでいた明石の君も、源氏の心配りに慰められていきます。
源氏は、姫の将来のことをほのめかしつつ、はじめて明石の君との一部始終を紫の上に打ち明けます。
さすがに心おだやかでない紫の上ですが、その嫉妬の姿に、源氏はかえって魅力を感じるのでした。
姫の五十日の祝いには、明石に立派な使いを送り、入道は感激し、明石の君の心も相通い合いますが、紫の上の心はやすらかではありません。
藤壷が、我が子冷泉帝の即位により、異例の女院となり、権中納言(もとの頭の中将)の娘が、冷泉帝に入内して弘機殿女御となります。
その秋、源氏は数々の願いがかなえられた願ほどきのために、住吉詣でをしました。
その地で、偶然に参詣に来合わせた明石の君は、源氏一行の栄えばえしい盛儀を目の当たりにして、あまりの身分差に、己が身の悲しみをおぼえ、そのまま逢わずに引き返してしまうのです。
源氏はこのことを供人から聞いて悲しみ、明石の君を都へ迎えようと文を届けますが、明石の君は決心がつかず、また物思いを重ねる日がつづいてしまいます。
六条御息所が伊勢から帰京しますが、間もなく病に臥し、驚いた源氏は見舞いに訪れます。
死の床で御息所は、源氏に娘の斎宮の行末を、後見として世話してほしいと頼みます。源氏はこれまでの御息所との関係の償いのためにも、斎宮のために力を尽くすことを誓います。
朱雀院は、かねてからこの娘にご執心でしたが、源氏は藤壷女院とも相談の上、斎宮を養女にした上で、冷泉帝に入内させることにします。
2010年11月06日
明石
第13帖 明石(あかし) 光源氏27歳3月から28歳8月の物語


政情激変。源氏須磨への退去。はじめて味わう挫折感。
この巻は、神霊力のなせる業が、物語を新たな局面へと導いていきます。
桐壷院の霊力と住吉の神。この2つの神霊が、源氏を明石の地へと導き、明石の姫君と結びつけ、都での凶事をひきおこして朱雀帝を動揺させ、ついには源氏免還へと展開させます。
この神懸かりのドロドロとした物語の中に、彩りを添えるように、「明石の君」という女性が、シンデレラ的要素をもって登場し、源氏と運命的な出会いをして結ばれます。
須磨の海岸で暴風雨が吹き荒れて以来ずっと嵐の日が続き、家も火事になるという不幸のドン底にいる光源氏でしたが、夢の中に桐壷院が現れ、須磨を離れるようお告げを残します。あくる朝、同じくお告げがあったという明石の入道がタイミングよく船で現れ、その船で光源氏は明石に引っ越しました。そのころ、都でも嵐の日が続き、朱雀帝は夢の中で桐壷院にニラみつけられます。それ以来、右大臣は急死、弘徽殿は病気、朱雀帝は目をわずらうといったように次々と不幸が右大臣ファミリーに襲いかかりました。朱雀帝は、これは光源氏をこよなく愛した桐壷院のタタリだと思い、光源氏に京都に戻るようメールを送ります。そのころ光源氏は、明石の入道のモクロミどおり明石の君と契りを交わす仲になっていました。明石の君は身分の差に恐縮しながらも、光源氏の子を宿していました。光源氏は、必ず迎えに来ることを明石の君に約束して京都に戻ります。


政情激変。源氏須磨への退去。はじめて味わう挫折感。
この巻は、神霊力のなせる業が、物語を新たな局面へと導いていきます。
桐壷院の霊力と住吉の神。この2つの神霊が、源氏を明石の地へと導き、明石の姫君と結びつけ、都での凶事をひきおこして朱雀帝を動揺させ、ついには源氏免還へと展開させます。
この神懸かりのドロドロとした物語の中に、彩りを添えるように、「明石の君」という女性が、シンデレラ的要素をもって登場し、源氏と運命的な出会いをして結ばれます。
須磨の海岸で暴風雨が吹き荒れて以来ずっと嵐の日が続き、家も火事になるという不幸のドン底にいる光源氏でしたが、夢の中に桐壷院が現れ、須磨を離れるようお告げを残します。あくる朝、同じくお告げがあったという明石の入道がタイミングよく船で現れ、その船で光源氏は明石に引っ越しました。そのころ、都でも嵐の日が続き、朱雀帝は夢の中で桐壷院にニラみつけられます。それ以来、右大臣は急死、弘徽殿は病気、朱雀帝は目をわずらうといったように次々と不幸が右大臣ファミリーに襲いかかりました。朱雀帝は、これは光源氏をこよなく愛した桐壷院のタタリだと思い、光源氏に京都に戻るようメールを送ります。そのころ光源氏は、明石の入道のモクロミどおり明石の君と契りを交わす仲になっていました。明石の君は身分の差に恐縮しながらも、光源氏の子を宿していました。光源氏は、必ず迎えに来ることを明石の君に約束して京都に戻ります。
2010年11月05日
須磨
第12帖 須磨(すま) 光源氏26歳3月から27歳3月の物語


花散里との出会い。 小休止的な短い巻。
自ら招いたあやまちで、源氏はその一生でもっともわびしかった須磨での生活を始めることになりました。
右大臣の陰謀から逃れ、静かにすべてを時の流れにまかせよう・・・と、自分から進んで身を引く決心をしたのです。
しかし、須磨に行くということは、罪人として都を追放されたと受け取られても仕方ありません。
ここでも源氏は「明石の君」という女性をつくり、子供まで産ませています。
源氏26才から27才。事態はますます険悪となり、このまま京にいたのでは政界から完全に放逐されかねないと、自主的に須磨への退去を決意します。
それにつけても気がかりなのは、他にたよる人のない紫の上を、ひとり京に残して行かねばならないこと。
源氏は、左大臣家と花散里、朧月夜らに別れを告げ、わずかな供人をつれ、都を去ります。
磨の住居は、在原行平の伝説で名高いあたりで、腹心の人々の心つかいによる風流な構えで、よく整えられていました。
しかし、語り合う人とてなく、紫の上、藤壷の宮、朧月夜、左大臣家の人々、伊勢の六条御息所、花散里らと消息を交わすことによって、わずかに慰められていました。
京では、朧月夜内侍が参内を許され、朱雀帝の寵を受けていましたが、やはり源氏のことが忘れられません。
秋がきて、須磨のわび住まいはあわれもひとしおで、源氏は琴をひき、絵を描き、和歌を詠み、精進の日々をすごします。
都では、月日がたつにつれ、帝をはじめ人々が源氏を惜しみ懐かしく思い出しますが、弘徽殿大后の意向をはばかって都からの便りも途絶え、須磨の冬がやるせなく過ぎていきます。
一方、源氏の血続きでもある、明石入道が、源氏の噂を聞き、最愛の娘を源氏に奉りたいと願っています。
春になり、今は帝相になっているライバル「頭の中将」がある日はるばる都から源氏をなぐさめにきて、一日をすごします。
三月はじめの巳の日。源氏は、或る人のすすすめもあって、海辺で開運の祓えをさせていました。
海辺はうららかに一面凪いで、源氏は過去のこと将来のことなどを次々に思い出していました。
そのうち、不思議なことに、にわかに空がまっくらとなり、暴風雨となり、雷が鳴り、稲妻がひかり・・・生きた心地もなく、ほうほうの体で戻ります。
風雨は一晩中吹き荒れ、明け方源氏は、怪しい夢におびやかされます。何やら気味わるく、急にこの地を去りたいと思い始めます。
-------------------------------------------------------------
ますます窮地に追い込まれていく光源氏は、流罪を言い渡される前に自ら京都を離れ、須磨に都落ちすることにしました。そして、これまで散々契りを交わしてきた女性たちに次々と別れを告げていきます。紫の上は光源氏について行こうとしますが、光源氏は紫の上を気遣って同行を認めません。一方、朧月夜は朱雀帝に参内するようになりました。その後、須磨で侘しい生活を送る光源氏でしたが、隣町の明石の入道(あかしのにゅうどう)という仏門に入った元貴族が、自分の娘の明石の君(あかしのきみ)を光源氏に嫁がせようと画策します。最近ついてない光源氏は開運のお祓いをするために海岸に行きますが、そこでは雷まじりの暴風雨が吹き荒れます。こんなところにはもう住みたくないと思う光源氏でした。
2010年11月04日
花散里
第11帖 花散里(はなちるさと) 光源氏25歳夏の物語

花散里との出会い。 小休止的な短い巻。

まわりの人々が離れて行き、政治的にもどんどん窮地に追い込まれ、落ち込んでいた源氏は、ふと、かって一度関係があった、亡き桐壷院の女御の一人(麗景殿女御)の妹(花散里)のことを思い出します。
いつもの性格から、思い立ったらいてもたってもいられず、五月雨の晴れ間に会いにでかけました。
麗景殿女御や花散里と、昔話しに花を咲かせ、桐壷院を懐かしみ、心和むひとときをすごします。
光源氏は、朱雀帝の婚約者である朧月夜とのスキャンダルで政治的にピンチに追い込まれ、世の中がいやになってしまいます。そんな中、以前契りを交わしたことがある花散里(はなちるさと)という女性のことを思い出します。花散里は、故桐壺院の妻の一人であった麗景殿(れいけいでん)の妹で、今は姉妹でひっそりと暮らしています。この二人を訪ねようと梅雨の合間に外出した光源氏でしたが、その途中でこれまた一度だけ契りを交わしたことがある別の女性の家を見つけました。光源氏は、迷わずその女性を誘いに行きましたが、体よく断られてしまいます。さて、麗景殿邸に到着した光源氏は、麗景殿と花散里の二人と昔話に花を咲かせます。夜が更けると、先ほどのつれない女性とは違い、変わらずに光源氏を待っていてくれた花散里と、心和むひとときを部屋で過ごすのでした。
2010年11月03日
賢木
第10帖 賢木(さかき) 光源氏23歳秋-25歳夏の物語


父桐壷帝の死。藤壷の宮の出家。朧月夜との密会発覚。・・・源氏の冬の時代到来。
世の中変りて後・・・。桐壷帝が位を去って、朱雀帝の治世となりました。
位を退いた帝は、前にも増して藤壷中宮とつきっきりの日々を送り、源氏は藤壷と逢うてだてもなく、悶々とした日々を過ごしていました。いつもの人目を忍んでのお出掛けも、元気がありません。
一方、かねてから源氏の冷淡な態度を嘆いていた「六条御息所」は、一人娘が、伊勢神宮に奉仕する斎宮に決まったのを機に、自分も一緒に伊勢に下ろうかと思い悩んでいました。
4月、賀茂神社の葵祭りが行われ、源氏がその行列に加わるというので、懐妊中の葵の上は、女房たちにせがまれて見物にでかけます。
一方、御息所も、源氏の姿をひと目見ておこうと、人目を避けて網代車で出掛けました。
一条大路の雑踏の中で、おくれてやってきた葵の上の一行は、権勢をたのんで、他の車を強引に押しのけさせますが、その中に御息所の車があったのです。
衆人注目のなかでうけたこの辱めに、御息所は悔し涙にかきくれます。これが名高い「葵祭りの車争い」の場面です。
源氏は、後で事の顛末を知り、御息所に同情します。
御息所は、車争いの一件以来、物思いがつのり、一方、懐妊中の葵の上は、物の怪に悩まされて命をあやぶまれるほどになります。 その後源氏は、その物の怪が、御息所の生霊であることを知って、愕然とします。
やがて葵の上は、男児(夕霧)を出産しますが、御息所の物の怪が再びあらわれ、ついには、息を引き取ってしまいます。
やっと葵の上とも心もとけあいはじめていた源氏は、突然の妻の死を悲しむとともに、女の怨念のすさまじさに愕然たる思いとなり、一時は出家をさえ考えるほどでした。それでも亡骸を鳥辺野に送り、49日間のしめやかな喪に服します。
喪が明けて源氏は二条院に戻り、しばらく見ぬ間にすっかり成人した若紫の姿を見て驚きます。あの藤壷のおもかげをそのまま美しくひきついでいたのです。
まもなく源氏は、若紫と新枕をかわします。そしてその日から若紫は、「紫の上」と呼ばれるようになります。
-----------------------------------------------------------
生霊と化して光源氏と交際する女性達を次々とタタってしまう六条御息所は、娘の斉宮(さいぐう)とともに京都を離れて伊勢で暮らすことにしました。その前にまずは嵯峨野の野宮に滞在して身を清めます。光源氏はそんな六条御息所のもとを訪ねて出発を思いとどまるよう頼みますが、六条御息所の決心はかたく、伊勢に旅立ってしまいました。一方、宮中では桐壷院が亡くなり、朱雀帝の祖父である右大臣の権力が強まります。藤壷は、再三誘いに来る光源氏との仲が噂されて皇太子の出生の秘密がバレないよう出家してしまいます。また左大臣は嫌気をさして辞任します。そんな中で、光源氏は朧月夜と契りを交わし続けていましたが、ある日その密会現場を右大臣に見つかってしまします。朱雀帝の就任とともに皇太后となった弘徽殿は、このスキャンダルによって光源氏を失脚させる計画を錬ります。
2010年11月02日
葵
第9帖 葵(あおい) 光源氏22歳-23歳春の物語

MilkyHouse-SIM

朱雀帝の即位。愛人六条御息所と正妻葵の上との車争いのトラブル。葵の上の懐妊、出産そして急逝。若紫との結婚。
「葵祭り」での、「葵の上」と「六条御息所」の車争い
葵の上の、男児「夕霧」の出産と、急逝
源氏、若紫と新枕をかわし、「紫の上」の誕生

MilkyHouse-SIM
少し時が過ぎ、桐壺帝がミカドを引退して桐壷院(きりつぼいん)となり、光源氏の兄である皇太子が新たなミカドの朱雀帝(すざくてい)に、藤壺が産んだ子が皇太子になりました。さて、光源氏の子を妊娠した葵の上は、葵祭見物に出かけましたが、混んでて見物できる場所がありません。そこで沿道の車を強引に押しのけたのですが、その車にはお忍びで来ていた六条御息所が乗っていました。もちろん怒り心頭です。八月になると、夕顔を呪い殺したあのモノノケ女が出産間近の葵の上を襲います。このモノノケ女は光源氏の姿を見ると退散しましたが、その正体は六条御息所の生霊でした。葵の上は、夕霧(ゆうぎり)と後に名付けられる男の子をなんとか産みますが、力尽きて死んでしまいます。光源氏は、最近仲が良かった葵の上の死を悲しみ、左大臣の屋敷でヘコんでいましたが、やがて紫の上のことが気になり始めて自宅に戻りました。そして紫の上を正式に妻にして契りを交わすのでした。

MilkyHouse-SIM

朱雀帝の即位。愛人六条御息所と正妻葵の上との車争いのトラブル。葵の上の懐妊、出産そして急逝。若紫との結婚。
「葵祭り」での、「葵の上」と「六条御息所」の車争い
葵の上の、男児「夕霧」の出産と、急逝
源氏、若紫と新枕をかわし、「紫の上」の誕生

MilkyHouse-SIM
少し時が過ぎ、桐壺帝がミカドを引退して桐壷院(きりつぼいん)となり、光源氏の兄である皇太子が新たなミカドの朱雀帝(すざくてい)に、藤壺が産んだ子が皇太子になりました。さて、光源氏の子を妊娠した葵の上は、葵祭見物に出かけましたが、混んでて見物できる場所がありません。そこで沿道の車を強引に押しのけたのですが、その車にはお忍びで来ていた六条御息所が乗っていました。もちろん怒り心頭です。八月になると、夕顔を呪い殺したあのモノノケ女が出産間近の葵の上を襲います。このモノノケ女は光源氏の姿を見ると退散しましたが、その正体は六条御息所の生霊でした。葵の上は、夕霧(ゆうぎり)と後に名付けられる男の子をなんとか産みますが、力尽きて死んでしまいます。光源氏は、最近仲が良かった葵の上の死を悲しみ、左大臣の屋敷でヘコんでいましたが、やがて紫の上のことが気になり始めて自宅に戻りました。そして紫の上を正式に妻にして契りを交わすのでした。
2010年11月01日
花宴
第8帖 花宴(はなのえん) 光源氏20歳春の物語

MilkyHouse-SIM

朱雀帝の妃に決まっていた「朧月夜」との密会。これがのちの源氏失脚の発端に。
源氏物語に登場する女性の中でも、人気の高い「朧月夜の君」が登場します。
二つの「花の宴」での源氏との出会いと再会。新しい時代の到来の予感、藤壷への思い、苛立ちが、この禁断の恋に火をつけ、これがのちの源氏失脚の発端になろうとは・・・。

桜の季節の宮廷のパーティーでも光源氏は詩を詠んでは舞を見せて、女性達をうっとりさせます。その夜、ほろ酔いの光源氏は恋する藤壷を求めて宮中をうろつきますが、セキュリティが強固なため、どうしても会うことができません。そんな中、偶然戸が開いていた弘徽殿に侵入すると、一人の女性が美しい鼻歌を歌いながら暗闇の中を歩いていました。この女性は、右大臣の娘で弘徽殿の妹の朧月夜(おぼろづきよ)という女性で、光源氏の兄である皇太子の婚約者です。光源氏は相手が誰とも知らずにその女性と無理やり契りを交わしてしまいます。そして、夜明けが近づくと、スキャンダル回避のため素性も聞かずに扇子だけ交換して急いでその場を離れました。ある日、右大臣家のパーティーに招待された光源氏は、扇子を交換した女性が朧月夜であることをつきとめます。

MilkyHouse-SIM

朱雀帝の妃に決まっていた「朧月夜」との密会。これがのちの源氏失脚の発端に。
源氏物語に登場する女性の中でも、人気の高い「朧月夜の君」が登場します。
二つの「花の宴」での源氏との出会いと再会。新しい時代の到来の予感、藤壷への思い、苛立ちが、この禁断の恋に火をつけ、これがのちの源氏失脚の発端になろうとは・・・。

桜の季節の宮廷のパーティーでも光源氏は詩を詠んでは舞を見せて、女性達をうっとりさせます。その夜、ほろ酔いの光源氏は恋する藤壷を求めて宮中をうろつきますが、セキュリティが強固なため、どうしても会うことができません。そんな中、偶然戸が開いていた弘徽殿に侵入すると、一人の女性が美しい鼻歌を歌いながら暗闇の中を歩いていました。この女性は、右大臣の娘で弘徽殿の妹の朧月夜(おぼろづきよ)という女性で、光源氏の兄である皇太子の婚約者です。光源氏は相手が誰とも知らずにその女性と無理やり契りを交わしてしまいます。そして、夜明けが近づくと、スキャンダル回避のため素性も聞かずに扇子だけ交換して急いでその場を離れました。ある日、右大臣家のパーティーに招待された光源氏は、扇子を交換した女性が朧月夜であることをつきとめます。