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2010年12月16日

大神 Ⅰ

今回は、趣向を変えてネイチャーアドベンチャーゲームについて綴ります。

日本で2006年4月に発売されたプレステーション2用パッケージゲームソフト【大神】(おおかみ)です。
企画・開発は、クローバースタジオ(現在は、存在していません)
このゲームソフト【大神】の世界観。独特な日本画風な描きこみをされた映像。
なによりも主役が白い狼なのです。
多方面より神ゲーと賞賛されているこの作品には、日本昔話の登場人物との出会いや別れ、窮地に立たされた人々(動物含)の「覚悟」がテーマとされており、日本人で良かったと思わせるような感動や驚きを与えてくれます。
感情移入しやすく、複数の物語の流れもよく、起承転結がはっきりしていてきっと、絵本をめくるような感覚で楽しめると思います。

【以下、大神wikiより】
タイトルの「大神」には主人公が「天照大神」であり「狼」であることと、「筆調べ」によって自然を操ることに世界を筆調べを実行するための「大きな紙」になぞらえて「大紙」と言う三つの意味がある。

- あらすじ -
100年前、英雄イザナギによって封印された怪物ヤマタノオロチ。その戦いの際に、イザナギをさまざまな神秘の力で手助けをした白狼・白野威(しらぬい)は、神木村にある神木の袂に像が作られ、村の守り神として祀られていた。

しかしそれから百年が経ち、オロチを封じていた宝剣「月呼」が何者かに引き抜かれ、オロチは復活する。だが、木精サクヤ姫の力で大神(狼)アマテラスも神木村にある白野威像に宿り復活。ヤマタノオロチを倒し、ナカツクニの安寧を取り戻すために、絵師のイッスンと共に旅に出る。

オープニングyoutube動画を貼っておきますので、興味をひかれた方はごらん下さい。

**** 大神オープニング動画****


お知らせ

万華鏡&みるきー舞姫合同公演のご案内
万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 







  


Posted by hidesun(英寸) at 22:05Comments(0)和ゲーム

2010年12月14日

大奥〜華の乱〜

大奥〜華の乱〜

主なキャスト
安子(綱吉側室、牧野成貞の娘):内山理名
徳川綱吉(第5代将軍):谷原章介
お伝(綱吉側室):小池栄子
常盤井の局(右衛門佐)(信子付上臈御年寄のちの大奥総取締):高岡早紀
柳沢吉保(綱吉側用人):北村一輝
大典侍(綱吉側室):中山忍
染子(吉保側室):貫地谷しほり
音羽(桂昌院付中臈)
桂昌院(家光側室、綱吉生母):江波杏子
信子(綱吉正室):藤原紀香
「見るは天国、入るは地獄。」

大奥の最盛期でもある元禄期を扱ったこともあり、前作「第一章」の時代(三代将軍徳川家光と春日局の時代)からあまり月日が流れていないのにもかかわらず、前々作以上に女性同士のドロドロした修羅場や駆け引きが随所にちりばめられ、好評を博した。
実在はしたものの、大奥に入ったという史料のない牧野安(安子は役名で、安が正しい)を主役に置き、側用人柳沢吉保が将軍綱吉を恨んで殺意を抱いていたとするなど、史実から離れたさまざまな脚色が行われた。また、当時の俗説(徳川綱吉の死から幾ばくも経たぬうちに正室信子も後を追うように死んだため、「実は信子は綱吉と無理心中を謀ったのではないか」という説、柳沢吉保の子・吉里が綱吉の落胤とする疑惑)の取り込みもなされている。
【大奥〜華の乱〜wiki】

万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内

「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬

↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:05Comments(0)大奥

2010年12月13日

徳川将軍家御台所


徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川将軍家の御台所について扱う。御台所とは大臣や将軍の妻に対して用いられる敬称で、江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。
御台所の立場
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、徳川幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)於江(於江与)を迎えた二代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、天皇家、宮家、公家(摂家)から迎えるのが慣例となっていた。十一代徳川家斉御台所・寔子と十三代徳川家定御台所・敬子は島津家出身であるが、両人とも輿入れに先立って近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に将軍家正室としての格式が求められたためになされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった二代秀忠御台所の於江が三代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは天皇家、宮家、公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされる。御台所は大奥の女主人であったにも関わらず、大抵の場合、実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。しかし、六代家宣の時代に改革がなされて、御年寄や側室の住居は「長局向」だけに留められた。更に側室の位置づけがあくまでも臣下とされるようになり、御台所は側室の産んだ子の嫡母の待遇を受けるようになるなど、御台所の扱いは大きく改善されていった。生母に対しても、将軍家内での順位は生母が最も低いため、御台所の権威を生母が揺るがす事はなかった。
夫たる将軍が亡くなった場合は落飾して西丸へと移り、将軍の菩提を弔い余生を過ごす事となっていた。それでも時代によっては、「大御台所」として多大な影響力を保持し続けた例もある。ちなみに正室によっては、立場上の問題や大奥入りしなかったために御台所と呼称されなかった者もいる。
大奥での生活
御台所の住まう場所は、大奥「御殿向き」の北西にある「松御殿」ないし「新御殿」と呼ばれる場所だった。居間に当たるのは「御上段」・「御下段」・「御休息」で、「御切形の間」が寝所に当たる。日常生活において、御台所が手を動かす事と言えば食事の時くらいで、その他の厠、爪切り、お召し替えなどでは全て女中たちが代わりに手を動かしてくれた。一回の食事のためにいつも十人前が用意され、その内二人前はお毒見役のための毒見用である。毒見を通過した御膳の内、御台所が実際に食べるのはわずかに二人前(どの料理にも二箸しか手をつけず、もう一人前がおかわりの分だった)であり、残りの六人前は食事当番の女中が食べた。お召し替えは一日に五回。入浴、朝食前の「お朝召し」、総触れ(毎朝行なわれる将軍への謁見)前の「総触れ召し」、「お昼召し」、「お夕方召し」、「お寝召し」とがあった。
【徳川将軍家御台所wiki】

万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内

日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという平安期からの説があります。
その師走の来週の日曜日21:40より【万華鏡みるきー舞姫 合同公演】が開催されます。


「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬

↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:05Comments(0)大奥

2010年12月12日

万華鏡&みるきー舞姫 合同公演



万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内

日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさからという平安期からの説があります。
その師走の来週の日曜日21:40より【万華鏡みるきー舞姫 合同公演】が開催されます。


「主催者よりのご挨拶」
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
-江戸吉原SIM代表 遊馬

↓ こちらが万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)となります。


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
※みるきー舞姫の演目詳細は、こちらをご覧ください。

※当日は、混雑が予想されます。早目のお越しをお待ち申し上げます。

場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


Posted by hidesun(英寸) at 21:47Comments(0)みるきー舞姫

2010年12月10日

簪(かんざし)二


日本におけるかんざしの始まりは、縄文時代ごろまで遡ることができる。その頃の古代日本では、1本の細い棒に呪力が宿ると信じられており、それを髪に挿すことで魔を払うことができると考えていたようである。またさらにそれを束ねた櫛の原型ともいえる出土品もある。
その後、奈良時代に入り中国から様々な文化とともに髪飾りも伝わってきた。当初は日本へ伝来したものの、その後垂髪が主流である平安期の国風様式に押されて廃れてしまう。そのためこのころ「かんざし」と呼べば髪飾り一般を指す名称で、飾り櫛や笄のこともさしていた。
安土桃山時代ごろ「垂髪(たれかみ)」と呼ばれる真直で長い髪から「日本髪(にほんがみ)」と呼ばれる様々な髪形へと髪型が変遷する際に、髪飾りとしては先ず簪が用いられた。江戸時代に入るとより幅広い用途で用いられるようになり、緊急時には防禦のために用いられたとも伝えられる。
江戸時代中期以降、髪形が複雑化・大型化するにつれて櫛や笄とともに女子の必需品となっていったが、宮中行事などを除いて男子の衣装風俗からは消えた。 ただしこの頃においても琉球王国では金属製の簪「ジーファー」を男女ともに着用しており、身分によって材質にも規定があった。
江戸時代末期に最大の隆盛を見せ、髪飾り専門の飾り職人が技術の粋を凝らした平打簪、玉簪、花簪、びらびら簪などさまざまな種類の簪がある。
近代では洋髪の流行とともにやや衰え、神前結婚での花嫁や芸者や芸妓などの女性が日本髪を結う場合に使用されるが、近年に入り簪の持つ優美な美しさを普段の洋装に加えようとする若い日本女性の間で再び脚光を浴びつつもある。
つまみ簪・花簪
特殊な簪としては、京都の舞妓や東京の半玉が身につけるつまみ簪(花簪)がある。 花は絹の羽二重や水引細工で作られた色鮮やかなもので、舞妓が付ける花簪は月ごとに決まっており、四季の移り変わりを表現し、その舞妓の芸歴・趣味を反映させる。 舞妓になって一年未満は花の一つ一つが小さく、簪の下に垂れ下がる「ぶら」が付いているが、二年目以降はぶらが取れる。年長になる程花が大振りのものになっていく傾向がある。 現在舞妓用の簪は、京都八坂神社近くの「金竹堂」等、数店が手がけている。
一月:「松竹梅」或いは「羽子板」「糸車」「寒菊」など。正月(京の花街は15日まで)は「稲穂と鳩」を舞妓は髷の右、芸妓は左につける。鶴亀などを添えることも。鳩の目を意中の人に書いてもらうと恋が成就すると伝えられている。
二月:「梅」(蝶や結び文を添えることも)や他に節分のおばけに付ける「くす玉」「かざぐるま」などもある。(他に水仙を挿すこともある)
三月:「菜の花」(蝶を添えることも) 他に「水仙」「桃」「牡丹」
四月:「桜」 他に「五郎蝶」
五月:「藤」 他に「あやめ」
六月:「柳(撫子の花が付いている)」 他に「紫陽花」
七月:「団扇」祇園祭の期間(の内の7月10日頃~24日)に付ける「お祭り」
八月:「ススキ」 他に「朝顔」
九月:「桔梗」 他に「萩」
十月:「菊」
十一月:「紅葉」 他に「いちょう」
十二月:「まねき」(歌舞伎役者などの名前を記す木の看板)(これに「餅花」の飾りが付いていることも)

万華鏡 & みるきー舞姫合同公演のご案内


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


Posted by hidesun(英寸) at 22:47Comments(0)和文化

2010年12月09日

簪(かんざし)一

簪(かんざし、「髪挿し」の転訛)は、女性が髪を結う時に使う日本の伝統的な装身具である。

日本人女性の髪を飾った髪飾りのこと。特に江戸時代後期には様々な種類のかんざしがつくられ、髪を飾った。
簪の原材料には漆を塗った木(つげ、桐、朴、桜など)、金や銀をめっきした金属(近代では強度の面などから真鍮製が一般的)、鼈甲(べっこう)、絹のような広範囲にわたる材料から、最近はプラスチック(プラスティックにも様々な種類がある)も用いられる。飾り部分にはサンゴ、瑪瑙(めのう)、翡翠(ひすい)、水晶なども用いられた。珍しいものとしては縁起を担いでか鶴の骨で製作したとされるものまである。江戸時代初期の簪は現存しているものが品質・材質共に貴重なものであるため、稀少価値のあるコレクターズ・アイテムともなっている。中でも、明治初期のベークライトでできた簪は極めて珍重されている骨董品である。
英語では英: hair slide, Hair stickと訳されるが、上述のように日本の伝統的装飾具であるため英: Kanzashiでも通用する。
装着法には多くの種類や様式が存在する。 例えば芸者がどのような簪をどのように着けるかで、「通(つう)」や「粋人(すいじん)」など精通した遊び客には彼女らの地位が判別できる。
とくに花柳界の女性の間では日本髪の結い方や簪を装着する位置は着装者の地位や立場に準じる。 舞妓は、先輩である芸妓と較べて下がりのついた華美な簪を着用するが、階級が上がるにつれ立場に応じた髪型や簪へと段階的に変わっていく。

語源
漢語「簪」は中国で使用された髪留めを指す。簪という漢字の中にある牙に似たような字は、正しくは旡(サン)という字で、これは髪の毛の中にもぐりこむかんざしの形を描いた象形文字である。竹製の簪が多かったので、のち竹かんむりを加え、下に「曰」(人間の言動を表す記号)をそえて、簪(サン・かんざし)と書くようになったという。
男女ともに髪を伸ばす習慣のあった中国では、男性が地位・職種を表す冠を髪に留める為の重要な実用品でもあった。貴族は象牙、庶民は木製のものを使う。女性が用いた髪飾りは「簪」ではなく、「釵」(髪に挿す部分が二股に分かれた髪飾)「鈿」(金属を平たく延ばして切り出した細工物、前額などに挿した)と言った。また、「釵」の字も割に頻繁に女子の「かんざし」に当てられていたようだが、天保年間ごろには「釵」は殆んど駆逐されたものと思われる。
一方、和語「かんざし」はそもそも「髪挿し」に由来するとされ、上古の人々が神を招く際に頭に飾る草花が起源であったという。ただし、花を飾ったことから花を挿す=花挿し(かざし)が変化したものという説もある。『源氏物語』「紅葉の賀」で光源氏が白菊を冠に飾った場面で、当時の「かんざし」の様子が見ることが出来る。この習俗は現代でも葵祭の「葵のかざし」に残る。
「簪wikiより」

「MilkyHouse」
公演のご案内


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月08日

徳川と三つ葉葵


葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏とのつながりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。
はじめは、特別な紋ではなかったが徳川家が征夷大将軍となり徳川幕府を開くにあたり、次第に他家の三つ葉葵に限らず葵紋の使用がはばかられるようになり、松平家へは遠慮させ、伊奈家には禁止させているが、徳川家家臣である本多家や准家門の鳥取池田家のように一部葵紋の使用を許されることもあった。また、この制限によって、葵紋の形状に倣った紋を河骨紋と称して用いる一族や家が現れたと考えられている。このように徳川将軍家以下一門に制限されていたというが、江戸初期では御用商人の長持などの道具に描かれていたという。また、正式に制限されたのは、享保8年(1723年)のことである。
天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。
または「三つ葵(みつあおい)」という。外郭が、「丸(輪)」であるもののほかに、「隅切り角」(守山三つ葵・西条三つ葵など)のものや「五環」であるものもそういう。
徳川家、徳川御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)では、同じような「丸に三つ葉葵(まるにみつばあおい)」を用いる。いわゆる徳川葵(とくがわあおい)である。ただし、徳川葵は、「丸」と「茎」とする部分が一体であるものとして区別することがある。
御三家それぞれでは、葉の模様(芯)の数の違いなどがある。同じ将軍家のものでも徳川三代までが一枚あたり33本で徐々に減っていき慶喜の時には13本になっている。また、綱吉、吉宗は、「会津葵」のように、河骨の葉の図案に似た葉を用いている。ほかに葉の裏を使ったもの(丸に三つ裏葵)などの多くの変種がある。ただ、徳川一門である松平家は替紋の蔦紋や五三桐、唐団扇などを使用することがある。
由来には、本多家に由来する説と酒井家に由来する説、松平家の元々の家紋であるとする説、などがある。
『 三つ葉葵wiki 』

公演のご案内


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月07日

大奥-御鈴廊下

御鈴廊下「 将軍様のおな~り~ 」ですね。


MilkyHouse
大奥衣装 ”梅開早春” 

江戸城に大奥が作られたのは1607年(慶長12年)。2代目の将軍、秀忠の時代。そして、1618年(元和4年)1月1日、秀忠は「大奥法度」という法律を作って、表の世界と大奥を完全に分離させ、その体制は江戸城開城まで続いた。

江戸城本丸(現在は皇居東御苑の一部)は、「表」「中奥」「大奥」という3つの区画に分かれていた。幕府のお役所、つまり現代の省庁が集まる「霞ヶ関」に相当したのが「表」、「中奥」は今で言う首相官邸、将軍の執務室兼居間だった。御台所や側室、女中たちが住んでいたのが「大奥」。

 大奥だけは独立した建物で、「御鈴廊下」によって中奥とつながっていた。この廊下を通って大奥へ行くことができた男性は、もちろん将軍ただ一人。「御鈴廊下」という名前は、鈴のついた紐がその廊下に渡されていたことに由来する。将軍がこの廊下を通って大奥へ渡るとき、中奥側からその紐を引いて鈴を鳴らし、大奥に合図を送った。


公演のご案内


場所  江戸吉原SIM
日時  12月19日(日)
演目
・デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫)
21:40~22:00
・万華鏡 
22:00~23:00
・みるきー舞姫
23:00~24:00
場所 http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
  


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2010年12月06日

智泉院事件

江戸城大奥は、正徳四年(1714)絵島・生島事件で有名ですが。同じようなスキャンダルが他に三件あるんです。 谷中の延命院事件(八つぁん六年二月・谷中延命院)。下総中山の智泉院事件。それに、雑司が谷鼠山の感応寺事件です。 大奥は本来、表と奥が一体であったのですが元和四年(1618)春日局が大奥法度を定めて、男子禁制にしたのです。

【 MilkyHouse 大奥衣装 ”梅開早春” より】
(智泉院事件)
下総中山法華経寺の子院に智泉院が在ります。日蓮宗の住持日啓は子沢山の生臭坊主でしたが、その子供にお美代という美貌の持ち主が居たのです。智泉院の檀家に将軍家斉のお小姓中野清茂が居ました。清茂はお美代を養女として大奥に入れて、家斉に智泉院を将軍家の祈祷所にと、夜の寝物語にねだらせて見たら。鼻の下を長くした家斉は「ああ、よかろう」の二つ返事で承知したのです。
これからが事件の始まりです。将軍家の祈祷所となると、奥女中が江戸城から智泉院の参詣に通うようになった。通ううちに坊主の中には特別に有り難い祈祷をする破戒僧もいて、加持祈祷の名の下にお女中と通じ、大奥にも出入りして、奥女中を夢中にさせたのでした。あまりにも酷い状態になってきたので放ってもおけず、天保五年(1834)五月寺社奉行に新任した阿部伊勢守正弘に摘発を命じたのです。就任直後の正弘が智泉院に踏み込んで、日啓と坊主たちを召し捕って調べると、事件の重大さが判明してきた。阿部正弘は谷中延命院の場合と同じように大奥に関する罪状には手をつけず、日啓とその身内だけを女犯のかどで処断した。日啓は遠島、倅の日尚は日本橋に三日間晒された。智泉院持ちの八幡神社を取り潰して領地を没収し、噂の的であった雑司が谷の感応寺も取り壊して、領地を没収した。大奥に傷はなかったが、正弘の裁決に怖気づいた大奥の浮気の虫を封じる効果はあった。


●公演のご案内



場所江戸吉原SIM
●日時 12月19日) 
デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫) 21:40~22:00
万華鏡 22:00~23:00 
みるきー舞姫 23:00~24:00
●場所  
http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
●演目
デモンストレーションみるきー舞姫 21:40~22:00  花魁道中   
第一幕 万華鏡 22:00~23:00  『 将 軍 』
第二幕 みるきー舞姫 23:00~24:00  
  


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2010年12月05日

万華鏡&みるきー舞姫 合同製作発表会見(動画)

万華鏡&みるきー舞姫の合同製作発表会見の動画です。




場所江戸吉原SIM

主催者から
日舞の万華鏡、妖艶を独特な世界観で表現するみるきー舞姫、共に日本を強く意識させてくれます。
この日本を代表する2大演舞集団を同じ舞台で競演させたい、そんな動機で企画致しました。
今回は共通演目として江戸徳川の大奥をお願いしています。
更に別な演目もそれぞれ用意しているようなので当日楽しんでくださいね。
江戸吉原SIM代表 遊馬

●日時 12月19日) 
デモンストレーション 花魁道中(みるきー舞姫) 21:40~22:00
万華鏡 22:00~23:00 
みるきー舞姫 23:00~24:00
●場所  
http://slurl.com/secondlife/EDO%20Yoshiwara/69/195/21 
到着地点に大門がございます。21:30くらいに開門致します。
※お願い
会場の光源の量に限りがあります。舞台や舞する子達が暗くてみえなくなれないようフェースライトは必ずお切りください。また可能でしたら低レンダリングコストな服装、AOなし、でご来場頂ければ助かります。
●演目
デモンストレーションみるきー舞姫 21:40~22:00  花魁道中   
第一幕 万華鏡 22:00~23:00  『 将 軍 』
第二幕 みるきー舞姫 23:00~24:00  『江戸を生きた女達』
壱>二期生による前座
弐>江戸吉原花魁
参>徳川大奥



  


Posted by hidesun(英寸) at 22:44Comments(0)みるきー舞姫

2010年12月04日

Milky House Collection動画


2010年11月28日に開催された『 Milky House Collection "The times" 』
ブログでは、画像をお借りしていたMilkyHouseの着物
時代の流れを着物という伝統的な文化と共に、その移り変わりを見事に表現されています。


会場 :MK TOKYO-SIM
モデル : AGATA Models Agency

動画ではカットしすぎた為、映ってなかったですが、新作着物では、【月華美人】が気にいっています。

振袖内掛け ”月華美人”

MilkyHouse本店  


Posted by hidesun(英寸) at 22:35Comments(0)MilkyHouse

2010年12月02日

大奥-瀧山

瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 明治9年(1876年)1月14日)は江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪。


文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。その後、才覚が認められて将軍付御年寄に任じられた。14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立。家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した。13代将軍・家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去した。
10月24日(11月29日)に14代・家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。実成院はかなりの派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れる事なく騒いでいた。瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。
これまで慶応4年(1868年)の江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをしたと言われてきたがこれより前の慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった後、御年寄職を辞したとする説もある
江戸城開城後は自分に仕えていた局の生家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。明治9年(1876年)、72歳で没。  
タグ :瀧山大奥


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2010年12月01日

大奥-浄光院

浄光院
鷹司 信子(たかつかさ のぶこ、慶安4年(1651年) - 宝永6年2月7日(1709年3月17日))は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の正室。左大臣従一位鷹司教平の娘。母は冷泉為満女(鷹司家譜)。兄に関白鷹司房輔、妹に霊元天皇中宮鷹司房子(新上西門院)がいる。また、6代将軍徳川家宣の御台所近衛熙子とは再従姉妹の関係である。


寛文4年(1664年)、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉と結婚。延宝8年(1680年)、綱吉の将軍就任により江戸城大奥に入る。
綱吉生母・桂昌院とは不仲であったとされ、綱吉との夫婦仲についても、2人の間に子女は産まれなかったことなどから、不和であったとする説があるが詳細は不詳(ただし、歴代徳川幕府将軍で正室との間に子女を儲けた例の方が少ない点は留意する必要がある)。また、綱吉側室・於伝之方が世嗣・徳松生母として権勢をふるった事も快く思っていなかった。そのため、綱吉の寵愛を於伝之方から離すため、新上西門院を通じて宮中で最も学問に秀でているとの呼び声が高い典侍・常盤井を、御台所付上臈御年寄として大奥へ招聘。更に大奥女中総支配を命ぜられた常盤井改め右衛門佐が、大典侍や新典侍らを側室として京から呼び寄せ、公家派として於伝之方に対抗したとされる。
宝永6年(1709年)、夫・綱吉の死から一月も経たないうちに死去。享年59。墓所は東京都台東区の寛永寺。そのあまりに急な死に、実は綱吉は信子と御台所付御年寄・伊豆局の手によって殺害され、信子はその後自害したという俗説(『日光邯鄲枕』)も残っているが、信憑性に乏しい。  
タグ :浄光院大奥


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